第四章:夏の雨、宗蓬院家の秘密
ザアァァァ――……
風籟島に雨が降った。日差しがないのは嬉しいが、ジメジメするのはいただけない。
(雲行き、悪かったしなぁ)
中つ国。明華学園一年一組の教室。
夏休み二日前とだけあって、日頃からまだ受験とは縁が遠い一年生は気が緩み、授業態度が悪い。しかも今日は半日授業だった上に、一学期の授業が全部終わったとなれば、騒がしさはもう爆発状態。
「本っ当にうるさいよね。バカ男子共は」
麻奈が聖良の席の近くに来て、組んだ腕を机上に乗せて座り込む。
そう言っていた麻奈も、授業中はよく寝ているので安眠妨害されるのが嫌なのだろう。
「仕方ないんじゃない? 私だってすんごく楽しみだし」
「あんな風に全面的に出すのがバカなの!」
二人は騒ぐという領域を越えて、暴れる男子達をちらりと見やった。確かにバカっぽく見えるが、部活の大会の話や、夏休みの予定を披露する話を聞くと、実に楽しそうだ。
「こっちもさ、楽しみだね! 合同合宿!」
明華学園では毎年、東京にある兄弟校の煌燐学園と夏休みにここ風籟島で合同合宿をするのが慣習。今年合同合宿を行うのは剣道部、弓道部、拳法部の三つ。もちろん、剣道部所属の聖良や麻奈は参加することになっている。
「佐伯先輩に聞いたんだけど、今年はアタリ年らしいよ!」
「あたりどし?」
「そ。なんかカッコイイ人が多いらしいよ?特に運動部総部長って変な役職の、えっと何て言ったかな」
「……宗蓬院、晟夜」
この前、敏希が七緒の好きな人として名前を出したことがあるのを思い出し、そっと口にする。同時にその時の敏希の悲しげな顔が浮かび、胸の奥が棘のついた手で鷲掴みされたように痛んだ。
「そうそう! なぁんだ。聖良も知ってるんじゃん」
まさか寮で敏希から聞いた、なんて到底言えなかった。
「去年バスケ部が来て、佐伯先輩の友達に煌燐学園の人にアド聞いた人がいるんだって。で、その煌燐の人曰く、すっごくカッコイイんだって!」
急に麻奈が早口になり、目を輝かせてはしゃぎだす。
「うちの学園なら、原瀬先輩といい勝負……っ!?」
急に教室の気温が下がった気がした。それだけじゃない。あんなにうるささが爆発状態だった皆が凍りついたように一斉に口を閉じ、妙な緊張感と沈黙が漂う。
「え? 先生来た?」
「ち、違うよ。あっち……」
麻奈は他の人に見えないように、体の影に隠しながら教室のドア付近を指差す。そしてこの沈黙の理由が痛いほどわかった。
「原瀬先輩!」
ドアの縁に腕を組んで寄りかかっている。
(え、でも何で?)
生徒会役員選挙はまだだし、聖良のクラスには弓道部員はいない。クールな敏希のことだから、用も無しに来ることはないだろう。この中で接点を持つと言えば、おそらく、自分だけ。
(一応、行った方がいいよね)
用があれば呼べばいいのに、と思ったが敏希がそんなことをする人じゃないし、このクラスの人も敏希に声をかけるといったら、とんでもないことだろう。
聖良は立ち上がって、無理と十分承知していても目立たぬように敏希に歩み寄る。言うまでもなく、矢の雨をくらったように視線が痛かった。
「あのー……」
「新堂。合同合宿が始まる前に対面式があるのは知ってるよな」
「はい……」
いきなり本題を切り出したことから、自分に用があったのは間違ってはいなかった。
対面式と言うのは明華学園と煌燐学園の顔合わせ、と言ったところで合同合宿の開会式も兼ねている。
「式の最後の方で、両校の各部活の部長がステージ上で握手するんだが……」
段々、こちらの話も雲行きがあやしくなってきたのは、気のせいだろうか。
「新堂。部長代理として出てほしい、との七緒からの連絡だ」
「……」
――え、今、何て言った?
――部長代理? 出るって何に?
考えていることを一回真っ白にし、敏希の言ったことを理解する。そして、血の気がひいていった。
「えっ、えーーっ!? 私がですかっ!?」
「剣道部に新堂という名字はお前しかいないだろう」
「そうじゃなくて、部長と副部長は!?」
「中城は祖父が危篤で本島に帰るから合宿には参加しなくなった。守屋も短期留学で参加しない」
やる気あんのか、うちのツートップは、と初めて先輩を心底恨んだ。
「三年生は元々参加しないし、中城も守屋も代理は誰がいいかと訊いたらお前の名が出た」
推薦なら大会で使ってください、といない先輩に向かって言った。
「でも、そんな大役……」
「心配することはない。ステージ上ったら向こうの部長と握手するだけだ」
握手するだけ、と言っても聖良にとって“だけ”ではない。
「それに七緒も会長としてステージにいる」
七緒もいる。それだけでとても安心した。
「七緒先輩も合宿に? あ、でも三年生だから……」
「生徒会は出る。参加する部活に所属してない仁史も航も出る」
「え?」
「七緒が夜に話す」
この場では言えないことだろうか。それとも単に話が長くなるからだろうか。どのみち重大な理由があるに違いない。
「おーい。帰りのホームルーム始め……ひぃっ!?」
教室に入ってきた担任は、先生のくせに敏希を見た途端に飛び上がって驚いていた。それほどこの人に威圧感はあったっけか。いや、あった。自分は慣れてしまってるだけで。
「は、はら、せ。うちの生徒に何か?」
「用なら済みました」
と言って、身を翻して自分の教室に帰っていった。その途端にクラスの沈黙は解け、元通り、またはそれ以上。ホームルーム終了後、聖良が敏希との関係について質問攻めにあったのは、言うまでもない。
部活を終えて、聖良は闇と雨の中、寮に帰る。
――ザアァァァ……
「随分降るなぁ……」
傘を閉じ、スポーツバッグについた水をタオルで拭うと、一時的な我が家になっている寮に入る。一階は寮と言う雰囲気はなく、普通のどこにでもあるリビング。先輩達は部屋があってもここに集まって話してることが多い。
「ただいま……て、どーしたんですか!? 西園寺先輩!」
まず目に飛び込んだ光景は、仁史がイスに座って――まぁ、そこまではいいのだが、上半身をテーブルにうつ伏せて、死んだような状態になっている。さすがの聖良も驚かずにはいられず、スポーツバッグを置いて近寄る。
「だ、大丈夫ですか!? 具合悪いんですか!?」
「はははは……だーいじょーぶーだぁよ……」
明らかに大丈夫ではない。仁史が身を任せているテーブルには、お金に関する資料が散乱しており、仁史が何か書く必要のある資料には、ミミズがのたくっている、というより暴れているような文字が並んでいた。そういえば、仁史は昨日も予算案があーだこーだ言っていた。仕事に終われて徹夜したのだろう。
(そんな冷静に解釈してる場合じゃない!)
「先輩! ちょっと本当に大丈夫ですか!?」
聖良は仁史の肩を掴んで揺らす。無理して起こすつもりはないのだが、仁史の目が完全にどこかにいってしまっている。一回現実に戻さないと。
「お祖母ちゃんが手ぇ振ってるー」
「ちょ! 現実に戻ってください! 川を渡らないでください!」
聖良はなおも揺らすが、仁史の目はどこかにいったまま。しかもなぜか口角が上がり始めた。本格的にヤバい。
「せぇんぱぁい!」
「……なんだ、航もいないのに、やけに騒がしい」
敏希がスポーツバッグを肩から下げ、ビニール袋を持って帰宅した。聖良はやっと助かった、と思った。
「原瀬先輩! 西園寺先輩が変なんです!」
「またか。これは重症だな」
敏希が冷静なのか、こういう状況になれているのか、落ち着いて持っていたビニール袋から、ふがしの袋を取り出す。
「お前の好きな楽丸のふがし」
仁史は俊敏に反応し、ガタンと上半身を起こし、敏希が持っているふがしを確認すると目がきらきらと輝く。
「わーーい! 駄菓子ーーっ!」
一瞬で立ち上がって、小動物みたいにふがしに飛び付く。仁史は満面の笑みで袋を開け、ふがしを取り出すと、極上の満足げな笑顔をしながら食べ始めた。一方、魂が抜けかけてた仁史を見た時よりも驚き目が点になる聖良。
「……今の、西園寺先輩ですよね」
「あぁ。仁史は駄菓子食べると別人だからな」
「あ。敏希ー」
仁史はふがしを食べながら、どこからかビンを取り出す。
「科学室から炭酸水素ナトリウム、パクってきたからカルメ焼き作ってー」
「パクった!?」
「あー。確か丁度ザラメあったな」
「パクったことには突っ込まないんですかっ!?」
これも敏希が冷静なのか――仁史から白い粉の入ったビンを受け取るとキッチンに行った。
「敏希、カルメ焼き作るのすごく上手いんだ」
「へ、へぇ。意外ですね」
仁史は鼻歌を歌って二本目を食べ始める。無邪気な笑顔が可愛らしい。
「楽丸のふがしは美味しいんだよ。新堂も食べなよ!」
仁史はもう一本ふがしを取り出して、聖良にわたす。あまりにも仁史が幸せそうなので、一口食べてみる。甘過ぎず、多分いくら食べても飽きない甘さで絶品物だった。
「たーだいまー。お、仁史。また食ってんのか?」
「ん」
生返事だけして、三本目を食べ始める。聖良も同じものを食べて、その気持ちが分かった気がした。
「お。楽丸のやつじゃん。俺も一本――っ!?」
聖良が最後の一口を食べようとした時、一気に重いものが押しかかるような重圧を感じた。寒気までしてきたので、それがする方を恐る恐る向いてみると、仁史が先程の笑顔と打って変わって、それはそれは怖い刺すような目付きで航を睨み付けている。
(こっ、こわっ!)
自分が特に何をしたわけでもないのだが、命の危機を感じて敏希がいるキッチンにこそこそと逃げる。
「あの、あれも西園寺先輩、ですよね……?」
「だから言ったろう。別人だと」
いつもの冷ややかな顔で地味におたまのザラメを溶かしているところを見ると、ちょっと可笑しかった。そして聞こえる、仁史と航の声。
「僕のお菓子を奪うなんて、いい度胸だなぁ?」
「お前のじゃないだろ!? また敏希が仕方なく買ってきたんだろ!」
「皆のものは僕のもの、僕のものは僕のもの!」
聖良はとても先輩がやるような喧嘩には思えないな、と思いながらキッチンから言い争いを眺めた。
――ザアァァァ……
言い争いが十分うるさかったが、本来かき消されるほど小さな雨音がまるで自らを主張したように耳に入った。キッチンにある小さな窓ガラスを見やると、雨粒がガラスに当たっては、緩やかに下へ流れていく。
「天気予報は晴れだと言ってたんだがな」
敏希が溶かしたおたまの上でザラメに重曹を入れて、箸で膨らませた。
「でも、雨は嫌いじゃないですよ」
敏希が出来上がったカルメ焼きを皿に積み重ねる横で、聖良が言った。
「雨が降った後は空気が綺麗になりますから、それだけで景色も綺麗に見えるし、なんか、清々しくなるというか……」
「珍しいな。そういう奴」
聖良が振り返ると、敏希と目があった。その顔は暖かに笑っていた。
それだけで、くすぐったくなるほど嬉しい。
――ガチャッ
「七緒が帰ってきたな」
帰ってきたと言っても、何かがないような違和感を感じた。
「いっつもお前はな――っ!?」
口論も止まったので、聖良はキッチンを出て、リビングに行く。二人の喧嘩はぴたりと止まっていて、七緒が雨に濡れて傘をささなかったのか、びっしょりになって佇んでいる。
「……うるさい」
仁史がお菓子を盗られる時に見せた表情より、明らかに怖かった。クーラーはドライにしているので、寒いとまではいかないはずなのに、七緒の帰宅と同時に寒くてたまらなくなった。
「た、巽さーん。炎を操る貴方様が冷気を発するのはよくないと思いますがー?」
「あーあ。知らないよ……いだっ!」
「いでっ!」
七緒は新聞紙を丸めたもので航と仁史まで殴ると、ソファーにばたりと倒れ込んだ。いつもの明るい雰囲気がなく、心配した聖良が歩み寄って、仁史の時と同じように声をかける。
「どうかなさったんですか?」
「ううん。ちょっとの寝不足と多大な疲労。あと、ごめんね。剣道部代表代わってもらって」
七緒は反動をつけて起き上がる。
「いえ……て、考えてみれば七緒先輩、一応剣道部に籍置いてるじゃないですか!」
「私も考えたんだけどね。会長と兼任はダメだって言われた」
んー、と伸びをして背もたれに寄りかかる。
「七緒。宗蓬院家の話をしてやらないと」
「眠いけど、うん。その話だけしておかないと、ね」
敏希が作ったカルメ焼きをいくつも乗せた皿を持ってきて、テーブルに乗せる。
「こんな時期に本当に宗蓬院本家が来て良かったな」
仁史も航も状況を察してか、テーブルを囲んで五人で座る。
「先輩達は三年生なのに、どうして合宿に参加するんですか? 原瀬先輩は昼に話してくれなかったんですけど……」
「うん。まず宗蓬院家の話をするよ」
七緒は背もたれに寄りかかる体勢から、前かがみ気味になる体勢になる。
「宗蓬院家って言うのは、唯一高天原と深い関係のある一族。ここが高天原なら宗蓬院家は中つ国で生きる高天原の人々の五帝にあたる存在。特に当主は黄帝に相当する」
始めの自分ならこんなことは素直に飲み込めなかったが、今はすんなり話が入っていく。
「でも、特に宗蓬院家って何をするんですか?」
「わかると思うけど、高天原と中つ国を比べれば、そりゃ中つ国の方が便利で物が溢れてる。だから、たまにいるんだ。仕事を放って高天原に戻らなくなる奴が。そうすると高天原から連絡が来るから、そういう奴を分家共々で探して強制送還したり、それなりの処置をする」
「じゃあ高天原ではあまり関係ないんじゃ?」
「宗蓬院家は分家も含めて皆高天原の人。高天原の八国全土と中つ国――日本なら日本の方が狭い。つまり、中つ国で宗蓬院家の人に連絡を入れれば伝達が速いから、すぐに伝わる。その人達が高天原で周りの人に連絡すれば、またすぐに全土に伝わる。だから、今起きてる事が手軽に全土に伝わるから、どこかでまた異常が起きれば、すぐにこちらに情報が入る」
「じゃあ、いち早く色んな情報が入ってくるんですね」
七緒は仁史が取ろうとした大きめのカルメ焼きを取って食べた。仁史の顔は悲し気な顔をした。
「やばい。究極に眠い。下準備は色々あるわ……とりあえず、詳しく聞いたことはないけど、晟夜様もその双子の妹の暁も高天原でそれなりの権力を持ってる人だから、今回のことを報告して損はないよ」
七緒はソファーに座ったまま目を閉じたが、寝ちゃいけないと首を横に振った。
(この合宿にこんな深い意味があっただなんて……)
その他の人には、互いに力を高めあい、友好を深める合宿でしかないだろう。でも、自分達にはそれ以上の意味がある。これが、中つ国に住む人と高天原に住む人の差違か。
「明日には止むといいんだけど」
七緒リビングの大きな窓を眺めた。
「雨、嫌いなんだよね。いいこと、起こりそうもなくて」
七緒の何気無い一言が、言い過ぎかもしれないが、聖良に七緒との違いを感じさせた。
――この雨が、これから来る嵐と乱の前兆だなんて、思いもよらなかった。