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夢を見る沼

作者: Maverick
掲載日:2011/11/19

 腐った魚の腹のような、何とも重苦しい色をした沼――しかしやはりただの沼なのですが――の広がりがありました。

 その沼地の丁度真ん中、水面を覆う藻に引っかかって靴が片方だけ取り残されたように浮かんでいたのでした。




 その場所は開発著しい都市部からやや離れており、低所得者たちが割合多く住むいわば下町の片隅にありました。

 今でこそ綺麗に舗装され、整然と手入れの行き届いた公園となっておりますが、当時は草木がただぼうぼうと生い茂る植物園――もといちょっとした森のような様相を呈しておりました。

 とはいえ園の中では花が咲く植物もありましたし、それなりに(なら)された道を外れて酷く足場の悪い斜面や、ぬるりとした土の感触を靴裏に感じながらしっかり踏みしめて歩くのも味わいがありました。

 さほど広くはないのですが、なかなかどうして迷路のように入り組んでもおりまして、私のように思索に耽りながら歩く者には日が暮れかかる時分にはふと道がわからなくなる、なんてことも充分にあり得ます。

 ですので私が執筆に行き詰ってやむにやまれずその園を利用するときには、もっぱら立て札の方向に従うことにしていました。


 ああ。私のことですが、この界隈に住まう野心はあるが懐は素寒貧な輩や、或いはただ食いつなぐためだけに生きて日々泥のような体を泥のように寝台に沈める労働者の、そのどちらでもなくいわば足して二で割ったような者です。新聞や色物の類の雑誌に寄稿などして糧を得ている者です。


 ということで、この取り残されたかのような街の風情、生活の垢にまみれてくたびれきった色のようなものは、うらぶれたあの植物園の一隅にそのまま寓されたかのようでした。

 でも私は思うのです。

 その滲み出るような暗い鈍色は、たとえ外面をいかに取り繕うとも、または唯物論にひた走り物という物を買い集めたとしても、決して消えないものであると。

 今となってはこの植物園は無くなり、沼があった所は綺麗に舗装されておりますが、確かにここに在ったのです。

 まるで過去なぞ絵空事だったといわんばかりに整った景観の下で鈍色の闇は蠢き続けるのだと、そう考える私はあまりに御伽めいているでしょうか?

 話を戻しましょう。

 なにせ地区が地区ですし、植物園といってもほとんど雑木林のような有様でしたから、手入れもあまりなされておりませんでした。

 ゆえに園を囲む塀の一部が崩れかかり、知る人ぞ知る密かな抜け穴があったのです。

 子供たちなどはそこから忍び込んで秘密基地を作り上げましたし、入場料の持ち合わせがない者もある者も(ある者の方が多いようでしたが)それを利用してもおりました。

 かく言う私も侵入したことがありその沼も一度目にしたことがありましたが、どうやら方向感覚が怪しいらしく立て札のない所に出てしまうとうっかり迷いかねませんでした。

 ですからその僅かばかりの金を惜しまないことにしました。


 そうなのです。立て札通りに進めば見つけることのない場所でした。奥まった所にあるゆえに道を外れて少しばかり急な斜面を下らなければならないからです。

 何の変哲もないただの汚い沼でした。

 そんなものをわざわざ見たいと思うでしょうか?

 周囲は常に湿り気を帯びて岩や木肌にも苔が密生して蒸せるように濃く香り、沼はコールタールが湧き出ているかのような暗さでした。

 長い間眺めていると胸が悪くなる光景です。

 繊毛が人の髪に見える密生した藻が平べったくなって、水面にところどころこびり付いています。

 時が止まったかのような場所。

 普通、人は日々なにかしら忙しくしていて、己に関係のないことには素通りしてしまうものですし、一々かかずらわってもいられません。

 だからちんけな植物園の、さらに汚泥が凝ったようなものになど立ち止まって眺めているはずもなく、一瞥しただけでも充分に気味の悪い代物であることは間違いありません。

 しかしそれは己の中の時間が規則正しく流れているか、または流れていると思っている人の反応のようです。

 だって少し留まっていたとしても次の瞬間には、また別の用事を思い出して動き出すものでしょう?有用かそうでないかはさておき。

 先程にも記した通り、これは川のように流れることもないただじっと滞っている沼です。

 そしてその有様は、見る者にとってはどうやらそこはかとなき魅力を湛えているようなのです。




 生と同様に人が死に至る理由もまた様々ですが、その死への方法もやはり千差万別なのです。

 しかしこの沼に関する場合は少し例外だと言わざるを得ませんでした。








 あるいは誰かが寄り道か迷い込んだかして誤って斜面を滑り下り、この沼に落ちてしまったのかもしれません。

 ともかくきっかけさえあればよいのです。

 変な噂が立つようになりました。

 沼は一見不気味に恐ろしいが、勇気を出して踏み出せば妙に心地良い。ひたひたと肌に触れるそれは緩くひんやりとして、一瞬の身震いの後には皮膚がとろみのある沼の水に溶け出して馴染んでいくような不思議な感覚がする。

 見た目の醜悪さと比べたら俄かには信じられない話です。

 しかしちょうど昨今では何やら顔にわざわざ泥を塗ってマッサージするというものが流行っているそうですから、今にして思えばあながち的外れな感想ではないのかもしれません。

 私ですか?

 残念ながらそれを裏付ける機会は訪れませんでした。勇気が無かった、ということにしておきましょう。



 思いきって沼に踏み入れるというのも驚きですが、こののち日を置かずしてますます奇異な噂が流れ出したわけで、これを聞いたときは流石に話に尾ひれが付いたのだと思いました。

 そんな馬鹿なことがあるはずはない、だってただの沼なのですよ。

 しかしここに私に代わって貴重な体験をしてきた私の友人Iがいました。

 彼の体験をなるべく忠実に記すことにしましょう。





 Iは私と同じくこの界隈に住む駆け出しの企業家でした。今ではとっくに別の所に移り住んでおり、事業もそこそこ成功しているようで、そうなるともう殆ど交流はありません。

 当時は自分の活版印刷の会社を創ることに多大な野心と情熱とを注ぎ込んでいて、会う度に安酒を酌み交わしながらその夢を延々と語っていたものです。

 生来明るくて根気強い彼でしたが、当然上手くいかない時や、酷い場合は明日食うものにすら事欠く時もありました。似たり寄ったりの境遇の私に金の無心に来ることさえあったのです。

 いくら活力に溢れた者でも直に参ってしまいます。

 そんなわけで彼の疲れきってふらふらとした足が植物園に向かったのも無理からぬことではありました。



 もちろん彼もまた入場料など払わず塀の破れ目から忍び込みました。

 怒りやら苦しみやらでとにかくごちゃ混ぜになっていて、自分がどこへ向かっているのか、どこを歩いているのかも全くわかっていなかったそうです。

 日が落ちて木々が濃い闇を纏う頃になり、ぼちぼちいた人の影がいなくなっても、彼は半ば意地のような気持ちで歩き回っていました。

 家に帰れば金はない食いものもない。冷えた寝床と鬱屈とした空気、一滴も残っていない空瓶の残骸、そして日増しに膨れ上がる請求書の束……戻りたくなくなるのは当たり前です。


 だがあれよあれよと道が見えなくなるし、俄然足元もおぼつかなくなってきて躓いたり転ぶようになってきました。

 次第に起き上がるのが億劫になってきます。

 傷だらけにもなって全身が痛みます。

 闇に落ちた植物園は、たとえ囲いがあってそれほど広くないにしてもかなり不気味なものです。

 耳朶を穿つのは己の足音と息遣い。

 規則正しい虫の音は、もとより絶えることなく囁き渡るゆえに大気に溶け込んでしまい、違和感も消えたため特に意識しなくなるのです。

 風もふと息を潜めたかのように、Iの上着の内に熱を籠もらせます。

 疲れと運動による発汗は感覚を弛緩させ、思考は砕けてもはや正常な判断など出来やしません。

 上着を脱ぎ捨て、荒い息のまま木にもたれかかりながら、Iはそこでふと沼のことを思い出しました。

 このときには殆ど投げやりな気持ちしか残っていなかった彼は、眉間の皺が緩んで代わりに唇が醜く歪みだしたのも、道がわからないにも関わらずむしろ力を増して斜面を登りだしたのにも、何ら気にも留めずおかしいとも思いませんでした。

 上着を捨ててきてしまったことですし、もはや自分には何一つ残っていないと思えたのです。

 持ち物を捨てる、それは良い意味でも悪い意味でも己との決別に相違ありません。

 さて、気持ちも身体も軽くなって進み出したはいいものの、沼の場所はおろか今どこにいるのかもわかりません。

 しかしながら運命というものか、巡り合わせというべきか、はたまたただの偶然か、Iの足元は急な斜面となって、彼は何かに導かれるように慎重に下り始めました。

 そして木々の隙間から漏れる僅かな月明かりのもと、大地の穴のような黒々とした空間が現れたのです。



 Iはこの怖気立つ光景を長い間無表情に見つめていました。

 朧に降り注ぐ月光によって、ちらりと鈍く閃く様はまさに闇夜に瞬いた眼光の如しでした。鬱蒼とした草薮が沼の周りを囲み、木々が長い枝をしな垂れて水面へと手を広げます。

 そのときでした。俄かには信じがたいことが起き、感覚も思考も麻痺していた彼ですら驚愕したほどです。

 勘違いかと思えるぐらいほんの微かに、甘いような匂いを感じました。

 彼は目を瞠りました。

 微動だにせず墨色に佇む沼の上に、白くぼんやりしたものが漂い始めていたのです。

 惹かれるがままに近づき、沼の淵ぎりぎりで手を付いて四つん這いのような格好でそれを凝視します。

 葉巻の煙が横に広がっていくかのように、揺らめく薄い靄が少しずつ少しずつ水面を覆っていきました。そして彼は先ほど鼻腔に感じたものが気のせいではなかったことがわかったのです。

 なぜならこの靄こそ不思議な甘い匂いを発していたからです。

 ほとんど香りといってもいいほど馥郁とした匂いで、とても汚い沼から立ち上ったものだとは思えません。沼なら濡れた土や青臭い雑草、そして苔と泥の濃い臭気、もっと言えば腐って淀んだ水の臭いすらするものでしょう?

 確かに沼の周辺ではそれらの臭いが胸を突きます。

 それでもまるでか細い囁きにも似た香りは靄に乗って儚げにIの前を通り過ぎていくのです。



 いつしかIは頭から沼にのめりそうなくらい身を乗り出し、その不思議な香りを追っていました。

 そして手を入れてみて、ほんの僅かな逡巡の後にとうとう沼に踏み込んだのです。

 それまでの目的も、緩く静かな水面が実はどんな危険を孕んでいるのかも気づかないまま、全く忘我のようになって少しずつ沼の中心へと歩いていきます。

 疲れきって火照った体にそれは意外なほど優しく、足からふくらはぎへ、やがて腰まで浸かったのにも関わらず、別段気にすることもなくそれどころか心地良いとすら感じ始めていました。

 よく注視すれば靄は沼の中程が最も濃く、そこから岸辺へと淡く漂ってきていました。

 彼の足はそちらへと向かいます。

 その頃にはすでに足が付かなくなりつつありました。

 水が胸元まで迫ろうかという時に、それまでずっと沈黙していたようだった風が僅かながら水面を渡りました。

 Iの動きがはたと止まりました。一瞬ですが香りの誘いが途切れ、沼特有のあの濃い臭気が蘇りました。

 そして彼はいま初めて自分が沼に入り込んでおり、しかも中央の深みへと近づきつつあることに気づいたような感覚に陥りました。

 あと一、二歩で足は完全に浮きます。

 泥の混じる水なので重く、泳ぎ出せば疲れに負けて体の自由が利かなくなるでしょう。

 それまでひんやりとした心地良さを保っていたそれは急に冷えて底知れぬ闇へと引きずり込む不穏なものに変わるのです。

 死の予感がひたひたと忍び寄ってきていました。



 ところが彼が思ったのは全く別のことでした。

 ついこの前、馴染みの酒場ですっかり憔悴していたときにそこで働いている若い娘が憐れんでこっそり一杯だけ奢ってくれたのをこの期に及んでなぜか思い出したのです。

 そういえばあのときの礼をまだちゃんと返していなかったなあ、是非ともまたもう一度顔を拝んでおかねばならんなあ、なんてつらつら考えていると、今こうして泥水に浸かっていることが急に馬鹿らしくなってきて、彼は踵を返し始めました。

 すると先程まであれほど心地良さを感じていた水は急に重くなって、まるで彼の足を引っ張るかのようでした。

 彼は僅かに焦燥を覚えて急いで岸へと歩き出します。

 泥土はつま先がかかるととろりと溶け出してしまい、なかなか彼の体重を受け止めてくれません。

 崩れゆく足元を必死に探り、焦燥はそのまま彼の姿勢となって表れていました。顔が水に付きそうなほど前屈みになって足がなかなか動かないぶん腕を振り回しながら、ようやっと沼から脱したのです。

 疲れきって振り返ると、靄は岸辺を越えて彼の周りにも漂っていました。

 肩口の辺りに濃く纏わりついているような気がして、今となっては気味の悪さを感じこそすれ、もう良い匂いなどとは到底思えません。

 大きく身震いし、結局上着をなくしたまま濡れ鼠になって家に駆け戻ったのでした。






 身振り手振りを交えながら大きな声で語ってくれた友人の話をどこまで鵜呑みにしていいのかは少しばかり疑問が残ります。

 沼から漂ってきたという匂いや靄はもしかして沼の近くに咲いていた花からかもしれません。

 帰ろうと思ったらまるで沼が自分を引き留めようとしているかのように急に重くなったというのも、ちょうどそのときには疲労が限界に達していたからそう感じたとも言えます。

 ともかくIはその後すぐ酷い風邪を引きましたし、治ってからはあの夜のことが何ともそら恐ろしく思えて、私にだけ話すということを前置きしてから明かしてくれたのです。

 彼は何度も何度もなぜ自分があのように思ったのか、そして沼に入ろうなどと思ったのか全くわからないと首をひねり続けていました。

 私もそれには同感です。

 彼の性質を知る者としてそれは有り得ず、あの沼にいた彼はまるで別人か何かのようにすら思われるのです。








 いささか大げさにも聞こえたIの話はしかし似たような経験をした者もおりまして、その全てが本当とは断言できぬにしても、もはやただの沼であるとは言い難くなってきておりました。

 そして実際Iのように投げやりになって沼に辿り着き、そのまま帰ってこなかった者も少なからずいるようなのです。

 どこかの酒場に潜り込んでいれば一回くらいは小耳に挟むかもしれません。

 笑い飛ばしている者でも興味が湧けば腰を上げるというものです。



 いつしかうらぶれた植物園に訪れる者は増えてきた様子で、中には別の地区から来たであろう者たちまでが入場料を払うために並んでいることもありました。

 あろうことか沼の場所を張り番に尋ねる者までいます。

 この張り番は初老のせむし男でしたが、道順からは明らかに外れた所にあって本来なら立ち入り禁止にしても良いはずであって、しかも自殺者が出ているかもしれない不吉な沼なのに、いい金づると思ったのか堂々と場所を教え、関わるのは面倒と黙認していました。


 一方で地元の連中はここぞとばかりに塀の破れ目から忍び込み、いよいよまともに金を払うなんて馬鹿らしいという具合になっていました。

 とはいえやはり知る人ぞ知る秘密です。

 誰が考えついたものか、巧妙に木箱が積まれるようになり一寸見だけではそこに穴が開いていることなどわかりません。

 張り番の男が知ったらあの黄ばんだ肝斑(かんぱん)面が潰れたトマトのようになるに違いありません。鐚銭であっても儲け損なっているに変わりはありませんから。

 ところで私はきちんと金を払って入るわけでも、木箱をずらして裏から忍び込むわけでもありませんでした。珍しく少し忙しかったのと、どうにも気が進まなかったからです。

 疑心というか、みな騒ぎすぎなのではないかと少々不快でありました。もちろん下町の片隅の小さな植物園ですから四方八方から野次馬が押し寄せるでもなく、植物園は人で溢れているというものでもありません。

 ただ束の間うわさがよく耳に入るようになった、その程度です。そしてその程度だと思っていました。Iの話も全てを信じきっているわけではありませんでしたから、私にしてはたかが沼如きでという思いがあったのでしょう。

 だから久々にある酒場に寄って安酒を傾けていたときに、たとえ馴染みの男の言葉であっても僅かに眉をひそめることを禁じ得ませんでした。


「お前さん、例の沼は見たか?」


 彼はこの酒場の常連にして齢はとうに七十を過ぎているにも関わらず一日に三、四件も飲み歩き、残り少ない髪の一本からひん曲がった足先まで酒臭いという鯨飲の主でした。

 彼とはいわば酒の友という間柄です。

「おいおいそんな顔するな。いやあ、俺ぁどうも気になってよ。前に一度だけあの沼を見たことがあったんだが、もっと綺麗というか何というか、あれよかだいぶマシだったぞ。ありゃなんだ」

 いつものように昼間から酒浸りになり尿意をもよおしていたところ、たまたま植物園の裏手を通りがかったがために厄介になって、ついでにぶらぶらと歩き回っていたそうです。

 沼への道は今ほど急斜面ではなかったようで、でなければ酔いどれ爺が普通に歩けるはずもありませんが、とにかくあの沼に行き当たったとのことでした。

「この前ためしに行ったときゃ、まるで別の沼だと思ったね。道を間違えたのかと思った。でなきゃ俺の記憶違いかそれとも見間違いか……。いやあ俺ぁ記憶力には自信あんだ。そうそう間違えるこたぁねえ」

 年中酔っ払っているこの男の言葉ではいささか眉唾物に思えるのですが、確かに彼は酒は飲んでも呑まれるなを信条とする通り、いくら飲んでも素面に近い状態でいることができましたから、私もあえて反論はしなかったわけです。

 それでもこの話題には少々閉口しておりました。

「よしてくださいよ。ただの沼じゃあないですか。それに一年近く経てば沼の様子だって変わるものでしょう?単に土砂で濁っただけじゃないんですか?」

「そりゃそうだがよ。だがなんとなく気味が悪いというか妙なんだよな。だいたいあそこには他に沼とか池とかあんだろ。俺だって植物園なんて滅多に行かねえからわからんが、そんなに急に変わるもんじゃねえんじゃねえか?ほとんど変わってなかった気がすんだよ。考えてみりゃなんであの沼なんだろうな?それにあの匂いはどうだ」

 そんなことは知らないと突っ放そうとして、しかし私は口ごもりました。酔っ払いの言葉にも一理あると思ったからです。

 彼は一年前その沼は沼というより池に近く、ある程度透き通っていたと言い張るのです。水面の鈍色もそこに浮かぶ藻もなく、もちろん匂いなど何もありはしなかったということでした。

 匂いのことでしたら、最初に私が思いついたように沼の周囲に花でも咲いているのだと言って片付けられそうでしたが、生憎と花らしきものはなく、しかしその匂いは限りなく花の芳香だそうなのです。

 しかも沼を見つめる我々の許に届くほどなのですから、よほど数多の花の群れか或いは巨大な花があるはずなのです。



 まさか、あの沼から?



 それに本当にどうして、あの沼なのでしょう?









 ところがほどなくして事は急展開を迎えたのです。


 あの沼のちょうど中央で、紙で作ったと思えてしまうほど薄っぺらい人の手が、枝に似た指を宙に広げたまま突き出ていたそうです。

 Iの例もありますし、死んだ者がいるのではないかという憶測はそれまでにもありましたが、実際に目に見える形で示されたのは初めてでした。

 死んだ者がいるという覆せぬ事実は多かれ少なかれある種の緊張を生み、波紋をもたらすものです。

 冗談や冷やかし混じり、あるいは無邪気な好奇心やら退屈しのぎやら、いずれも軽い気持ちで臨んでいたはずが、沼にかかる薄もやそのままに、いつの間にか後ろめたさを覚えるようになったのです。

 そしてやはりあの沼は不吉だったのだという印象だけが残りました。

 流石に沼から手が生えていたなどという衝撃的な光景を前にして張り番も知らぬ顔を通せるわけがなく、警官などもやってきてしばらくは物々しい雰囲気になっておりました。

 沼の手は発見されてからほどなくして完全に沈んでしまったようで、いくら探せど見つかりませんでした。

 ただ沼の傍に靴が揃えて置かれてあり、そのことから自殺を図ったのだろうと推測されました。

 沼への道はロープで遮断され、立ち入り禁止の看板が立つようになりました。

 私は常々思うのですが、ああいう看板は大概は有効かもしれないが、ある特殊な人たちには逆効果になるのではないでしょうか。

 私はその措置について聞いたときには、むしろ沼への道を教えているようにすら思えました。

 もしかしたらあの裏道も塞がっているのかもしれないと思い通りかかってみましたが、相変わらず木箱で隠された先は大人が屈んで入り込める隙間がありました。

 ただ驚いたことにそこから白く細い紐が引かれていたのです。すぐに沼へと続いているのだとわかりました。


 そしてやはり奇妙なことになったのです。


 あらかたは忌避する一方で、どうしても沼への足跡(そくせき)は途絶えることがないようでした。沼の周辺では様々な落し物が見つかることが多くなった模様です。

 不審がって避ける人たちと、こっそりと向かう人たちとにどうやら分かれてきた風でした。


 私はやはり思うのです。塀の破れ目も縄目をも掻い潜り前へ、いいえ、後ろへ後ろへと進もうとする者がいて、それは決して後を絶たないのだと。

 与えられた命を捨てるという行為はいわば私たち人間に埋め込まれた性であるとも言えるのですから。


 もう一度、あの沼に行ってみることにしましょう。

 とにかく己の目で確かめないことには。

 どちらにせよただの沼に人が向かう、向かわせる何かがあるなんてことは尋常ではありません。もうすでに妙な噂が次々に立ち上っていて、どこまでが真なのやら。


 だってねえ、あのいい香りがして頭がぼうとなったと思ったら、ゆらゆら揺れる視界に虹のようなものを見た、なんてそんなこと信じられるでしょうか?








 ところが私の目論見は唐突に達した、いや達せられたのでした。

 それから数週間と経たぬうちにある知人がわざわざ我が家に飛び込んできて、いきなりがなり立てたのです。

「急いであの沼に行ってみろ!すごいことになってるぞ!」

 私はその知人と共に取る物も取りあえず植物園に向かいました。

 裏口へと向かうと二三人の者がなにやら興奮気味にしゃべり、木箱が横にずれたまま穴が丸見えになっていることも気づかぬようでした。彼らは私たちを見止めると一様に植物園を指して、とにかく見に行ってこいと促しました。

 私たちは屈んで潜り抜けました。

 蜘蛛の糸のような紐が道しるべとなっていざないます。

 どこまでも延び続けて果てがないかのように思え、それを追って上り下りします。

 運動が苦手なせいもあって息も絶え絶えとなった頃に地面は急な斜面となって、紐はそれを越えて木々の間へと消えていました。いくぶん慎重に下って、とうとう草薮と枝葉を払い除けて前へと進み出ます。


 私自身が夢を見ているのかと思いました。


 そしてその疑念は長く尾を引いて消えてくれません。

 見たものが信じられなかったのです。


 生物の息吹が感じられなかった黒い沼地に、嬉々として辺りを睥睨する者、現れるはずのなかったものがそこに事実としてありました。

 汚泥が産んだ奇跡の光景に違いありませんでした。


 沼の底から真っ直ぐに立ち上がった茎、その細さに不釣合いなほど巨大な頭を抱えた花でした。

 天を向き外側に湾曲した五枚の花弁は肉厚で天鵝絨(ビロード)のような光沢、薄らと産毛を生やしておるようです。大きく膨らんで十分な水気に艶を帯び、自らの重さに傾いでいるように見えました。

 花の大きさは優に人の頭部を超えております。五枚の間から青い小さな花びらが(がく)の役割を担って咲いており、金の雄しべが二本、腕を伸ばすかのように立っていました。

 花の色は何と申せばよいものか見当もつきません。花の中央は放射状に白く、それに混ざり合って花弁を彩るは噴き出た強烈な緋。沈鬱した紫がその花の輪郭をなぞります。

 そして花全体に黄金の飛沫が散りばめられておりました。鮮やかであると同時に目を眩ませる毒々しさがあります。

 そしてこの匂い。

 私はくらくらし、次にぼうと呆けて立ちすくんでおりました。胸焼けでも起こしそうなほど甘く強烈な芳香が、仄かな靄となって沼を渡り私の許へとやってきていました。


 私と知人の他にも数人ほどがいました。

 皆一様にぽかんとした口ととろんとした目で私も例に洩れず間抜けな顔をさらしております。

 つと私は肩を叩かれて我に返りました。

 私は思い出したのです。

 Iの言っていた匂いと、それに引き寄せられるように沼に入り込んだ彼のことを。

 周囲を見渡してみましたが他に花らしきものはありません。紛れもなく沼から咲き出でたこの巨大な花から生じたものでしょう。


 私たちは長居をせずに立ち去りました。到底信じられぬ光景に、未だ幻覚の中にいるようでした。







 その後、沼から咲いた花はすぐに白日の下にさらされることになり一時期は大変な騒ぎとなりました。

 世にも不思議で美しい花、誰も見たことのない新種です。

 ロープの規制も立ち入り禁止の札もうっちゃられ、連日のように人混みでごった返しておりました。


 しかしすぐにその花は危険だということになりました。


 まず匂いが強烈でした。ただ濃いというだけでなく明らかに身体に影響、()いては心理的にさえ作用するようでした。


 この匂いについてもっと調べようと植物学者や専門家らが小船に乗って近づこうと試みたものの、小船の底が何かに引っかかり危うくにっちもさっちもいかなくなりかけました。

 この花の根がまるで絡まりあった髪の毛の如く沼全体に広がり、巧妙な蜘蛛の糸さながら何層にも重なっていたのです。

 その根は花と同じく赤くて、なるほど陽光を透かして水面を眺めると濁った汚泥から薄ら滲む血のようでした。

 取り除こうにも巨大な毛玉と化したそれを解くのは容易なはずがなく、おまけにひっきりなしに妖艶な香りが鼻腔を包んで専門家ですらおかしくなってきそうな塩梅でした。

 マスクをして作業しようにも、今度はマスクをはがして嗅ぎたくなってくる始末。

 陰鬱な沼に長期間いるともなると段々と気が滅入るようで、やがて調査はうやむやのまま立ち消えとなってしまいました。

 再び規制も始まったこともあって人足がやや収まってきた後も、今度はなんとか一儲けできないものかと考える輩がやってきたそうですがやはりあまりよろしくない噂が続き、人々の関心も他に移ったとあって徐々に沼の存在は忘れ去られていきました。



 人々の耳目を集めたことで植物園の整備が進み、裏手のあの塀の破れ目も補修されて猫くらいしか侵入できなくなりました。

 ほどなくしてあの沼は不吉だし美観も損なうとのことで埋められてしまいました。

 その頃にはそんな沼があったことも定かではなくなるくらい記憶が薄れ、時代の流れと共に植物園自体も消えて、もっと有用性があり親しみやすい綺麗なプロムナードができたわけです。


 全くの余談となりますが、私もこの沼についてのコラムや小説を書いて一時は実入りが良くなり、小さいものですがパーティに出たりそれに合う洒落た服をあつらえたり、また初めて奢るといったこともしました。前の所より幾分広く清潔な部屋を借りることもできました。

 ですがすぐに人々の関心も話題も変わっていって、私の本も売れなくなりました。まあ売れたといってもいつもより良いというだけのことで、ほんの少しだけ小金持ち気分を味わった程度ですがね。

 そんなことはどうでもいいことです。

 人の一生なんていうのはそんなことの繰り返しなのですから。






 今、私はなかば過去を片隅にでも残しておくように、公園となった沼の跡を眺めつつ意識の中で掘りおこしています。

 正直、沼の跡なんて全くわかりません。

 当時の面影などあるはずもなく、公園の木の何本かは植物園から移してきたことくらいです。

 規則正しく敷き詰められた石畳もほとんど平坦な道も何も伝えはせず、もちろん何の匂いもしません。

 道端に植えられた薄桃色の花は実に可愛らしく小奇麗に整えられて楚々と並んでいます。






 花を見ていたらぼんやりと思い出しました。

 思えばあの花に光合成を行なうための葉は一枚も見受けられませんでした。

 複雑に絡み合った巨大な根も気を引くための非常な創意工夫も、獲物を捕らえる目的をもって待ちかまえる花であったことに間違いないのでしょうね。









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