婚約破棄された侯爵令嬢と、婚約破棄した駄目王子に見えているものは、どうやら同じではないらしい
婚約破棄された侯爵令嬢と、婚約破棄した駄目王子に見えているものは、どうやら同じではないらしい
王太子アルフレッドが婚約破棄を宣言したとき、彼には大広間のすべてが輝いて見えていた。天井から下がる十二基のシャンデリア、磨き上げられた大理石、壁際に並ぶ貴族たち、そして自分の腕にしがみつく男爵令嬢リリアの金髪まで、これから始まる新しい人生を祝福しているようだった。正面に立つ侯爵令嬢エレノアだけが、美しい恋物語に落とされた染みのように見えた。
「エレノア・ハーグリーヴス。君との婚約を、本日をもって破棄する!」
同じ瞬間、エレノアにも大広間はよく見えていた。ただし彼女が数えたのはシャンデリアではなく、閉じられた三つの扉と、その前に立つ近衛兵の人数だった。リリアの金髪ではなく、その首を飾る王家所有の首飾りと、アルフレッドの上着からのぞく未決裁の公文書を見ていた。
「承知いたしました。理由を伺ってもよろしいでしょうか」
アルフレッドには、エレノアが震えているように見えた。彼女が扇を両手で持っているのは、自分に捨てられた衝撃に耐えるためだと思ったのである。
実際には、エレノアの手は怒りでわなわなと震えていた。扇の骨をへし折りそうになるのを必死でこらえ、骨に刻まれた目盛りへ爪を食い込ませながら、壇上から記録官席までの距離を測っていたのだ。この馬鹿の横っ面を扇で引っぱたいてしまいたい衝動を、外交補佐官としての理性だけでギリギリ繋ぎ止めていた。
「君はリリアを嫉妬から虐げ、彼女のドレスを破り、階段から突き落とした。未来の王妃にふさわしくない、冷酷な女だ」
アルフレッドの耳には、貴族たちのざわめきが自分への賛同に聞こえた。若き王太子が悪女を退け、真実の愛を選ぶ歴史的な場面に、皆が息をのんでいるのだと思った。だから彼は胸を張り、リリアの細い腰を抱く腕へ力を込めた。
エレノアの耳にも、同じざわめきが届いていた。けれど彼女には、「証拠はあるのか」「王妃が不在の夜会で宣言するとは」「ハーグリーヴス侯爵は知っているのか」という言葉が、一つずつ明瞭に聞き取れた。記録官が新しい紙を取り出し、外務卿が額を押さえ、財務卿が「巻き込まれたくない」とばかりにそっと壁際へ下がったことも見逃さなかった。
その壁際では、今夜の主賓である隣国の第二王子セドリックが、あまりの茶番に目を丸くして突っ立っていた。アルフレッドには彼が恐縮しているように見えたが、エレノアには、セドリックが「嘘だろ、あいつ本気で言ってるのか?」と呆れ果てて額に手を当てたのが見えた。
「殿下、その三件につきまして、調査記録を提出してもよろしいでしょうか」
アルフレッドには、それが見苦しい言い訳に見えた。追い詰められた女ほど書類に頼ると、リリアが教えてくれたからである。彼は鼻で笑い、広間中へ聞こえるように片手を振った。
「必要ない。被害者であるリリアの証言こそが、何よりの証拠だ」
エレノアには、王太子が自分で退路の橋を豪快に燃やした瞬間が見えた。怒りを通り越して乾いた笑いが込み上げそうになるのを奥歯で噛み殺し、彼女は侍女から三冊の記録簿を受け取ると、最も薄い一冊だけを記録官へ手渡した。
「一件目、ドレスが破れたとされる時刻、私は王妃陛下と隣国の大使夫妻をお迎えしておりました。二件目、階段から落ちたとされる時刻、リリア様は庭園で菓子を召し上がっています。三件目、私が彼女を侮辱したという手紙は、王立印刷所で使われる活字で作成されており、筆跡というものが存在いたしません」
アルフレッドには、三冊の記録簿が小細工に見えた。王太子である自分が命じれば、証言も記録も後からどうにでもなると考えていたからだ。ところが父王には、同じ三冊が王家を焼き尽くす大火事の火種に見えたらしく、玉座からガタッと立ち上がったまま顔を蒼白にしていた。
「アルフレッド。その首飾りを、なぜ男爵令嬢が身につけている」
父王の怒声に、アルフレッドはようやくリリアの首元を見た。そこにあるのは、王妃が外国訪問の際にだけ使う、王家伝来の青い宝石だった。リリアから「殿下のお母様にお借りしました」と聞いていたので、深く考えずにいた。
「母上が、リリアを気に入った証しです」
その間抜けな答えに、エレノアは胸の奥で「はあ?」と叫んだ。十年間、王妃の補佐としてどれほど気を使ってあの宝飾品を管理してきたか。エレノアには、リリアの指が首飾りの留め金へ伸びたのが見えた。宝石を守ろうとしたのではなく、外して逃げる準備だ。セドリック王子もそれに気づいたらしく、騒ぎの拡大を防ぐため、給仕へ目配せして熱いスープのワゴンを急いで引かせた。
「王妃は三日前から離宮で療養中だ。宝物庫の鍵は、私が持っている!」
国王の怒号が響いた瞬間、近衛兵が一斉に剣の柄へ手をかけた。リリアは青ざめて床へへたり込み、アルフレッドだけが「父上、なぜ話をそらすのです」とまだ寝言を言っていた。エレノアは冷え切った目でその光景を見届け、心の中で「二度とその顔を見せるな」と吐き捨てた。
その後の調べで、リリアが王太子の署名を偽造して宝物庫から宝石を持ち出していたこと、そしてアルフレッドが彼女への貢ぎ物のために、北部の治水工事予算をごっそり舞踏会費へ流用していたことが暴かれた。
「一時的に借りただけだ」と言い訳したアルフレッドだったが、川は王太子の色恋が終わるまで洪水を待ってはくれなかった。決壊した堤防の泥水が、彼の地位を容赦なく押し流した。
一週間後、正式な婚約解消が決まった。アルフレッドは廃嫡され、北部の泥まみれの治水現場で会計補佐としてこき使われることになった。リリアは盗んだ宝石を返還し、王立工房でただ働きの日々となった。
――そして、その日の夜。
一人きりになったハーグリーヴス侯爵家の自室で、エレノアは着ていた重いドレスを引き裂くように脱ぎ捨て、ベッドに突っ伏して大声で泣いた。
悲しかったからではない。悔しかったのだ。
十年間だ。自分の十代のすべてを注ぎ込み、王妃になるために遊びも恋も睡眠も削って、領地の台帳を繰り、外国語を叩き込み、王太子の散らかした書類を裏で片づけ続けてきた。
「あんな頭のおめでたい阿呆のために! 私の十年間を! よくもドブに捨ててくれたわね!」
枕を何度も拳で殴りつけ、声を枯らして罵詈雑言を叫んだ。すっきりするどころか、怒りで喉がカラカラになり、涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだった。翌朝、鏡の前に立ったエレノアの目は赤く腫れ上がり、とても社交界で見せる「冷徹で完璧な令嬢」の姿ではなかった。
冷たい水で何度も顔を洗い、いつもアルフレッドが「苦い」と文句を言っていた濃い紅茶を淹れ、丸パンに杏のジャムをこれでもかと厚く塗って乱暴に噛みしめた。
そこへ、隣国のセドリック王子から手紙が届いた。
北部の川に橋を架け、両国で交易を結ぶ共同事業についての意見を求めたい、とあった。末尾には、こう書き添えられていた。
『あの夜会で、あなたが扇を握りしめて今にもアルフレッドの首を絞めそうな顔をしていたのを見て、この方なら本気で国を動かす仕事ができると確信しました。おいしい焼き菓子を用意します。思いきり悪口を言いながら食べましょう』
「……失礼な男」
エレノアは鼻をすすり、しかし思わず吹き出してしまった。
隣国との国境で会ったセドリックは、絵に描いたような王子様などではまるでなかった。
真鍮の望遠鏡を肩から斜めがけにし、袖をまくり上げて、泥だらけの設計図とにらめっこしていた。エレノアが挨拶すると、彼は片眼鏡をずり上げ、開口一番に言った。
「やあ。ひどい目に遭いましたね。あんな大馬鹿野郎の相手を十年も続けられたんだから、あなたには大抵の苦難に耐える胃袋があるはずだ」
「殿下、初対面の令嬢にかける言葉としては最低点ですわ」
「おや、怒られましたか。では詫びのしるしに」
そう言って差し出された焼き菓子は、移動中に押しつぶされたのか、端っこが粉々に割れていた。エレノアが眉をひそめると、セドリックは悪びれもせず笑った。
「格好つけて綺麗に渡そうとしたんですが、馬車が揺れましてね。でも味は本物です。大きい方をどうぞ」
「……結構です。割れた方をいただきます。粉がこぼれてドレスが汚れますから」
「ああ、それなら心配いりません。ここから先はドレスで歩くような場所じゃない」
その言葉通り、現場は地獄のようなぬかるみだった。
セドリックは容赦なくエレノアを泥だらけの川岸へ連れ出し、川幅や地盤の強度について議論を吹っかけてきた。エレノアも負けじと、北部の気候や増水期のデータを突きつけて言い返した。
ある雨の日、エレノアの薄い革靴が泥に深く沈み、すっぽ抜けて抜けなくなった。
「っ……!」
みっともなくバランスを崩し、尻餅をつきそうになったエレノアの腕を、セドリックが慌てて引っ張り上げた。勢い余って二人は泥水の中へもつれ合い、エレノアのスカートも、セドリックの上着も茶色い泥で台無しになった。
「な、何をしているのですか殿下!」
「泥に埋まったあなたを助けようとしたんですよ! 感謝されるかと思ったら怒られるとは!」
「誰がこんな靴で来させたと思っているのです! あらかじめ長靴を用意しろと仰ればよかったでしょう!」
「あなたが『淑女の身だしなみとして長靴など履けません』と突っぱねると思ったから遠慮したんじゃないですか!」
「現場にそんな馬鹿な見栄を持ち込むわけがないでしょうが!」
降りしきる雨の中、泥だらけの二人は大声を張り上げて怒鳴り合った。王族の体面も、令嬢の矜持もどこへやら、ただの喧嘩だった。
けれど、セドリックの鼻の頭に泥がついているのを見た瞬間、エレノアの胸の奥から何かが弾けた。
「……ふっ、くくっ」
「何がおかしいんです」
「殿下のお顔、まるで泥遊びに失敗した犬のようですわ」
「あなただって人のことは言えませんよ。見事な泥化粧だ」
二人は雨の中で、腹を抱えて大笑いした。十年間の張り詰めた糸が、泥水と一緒に一気に洗い流されていくような気がした。
次の視察の日、セドリックは同行する全員分――そしてエレノアの分も含め、頑丈な防水の長靴をどさりと広場に積み上げた。
「全員履くように。特にハーグリーヴス卿、文句は受け付けません」
「言われなくても履きますわよ!」
エレノアは長靴を乱暴に履き、留め具をぎゅうと締めた。セドリックはその横で、川辺の屋台で買った熱々の焼き栗を「熱っ、熱っ」と言いながら剥き、半分焦げた実をエレノアの手のひらへ放り込んできた。
「ほら、食って力をつけなさい。今日は上流まで歩きますよ」
「熱いです! ……でも、甘くておいしいですわ」
口いっぱいに栗を頬張りながら、エレノアは笑った。
半年後、川の中央で橋がつながった。
完成式典のあと、夕暮れの橋の上に二人きりで残されたとき、セドリックは珍しくそわそわとして落ち着きがなかった。
「あの、エレノア」
「何でしょう、殿下。また設計図に計算ミスでも?」
「違います! ……いや、そうじゃなくて」
セドリックは懐から一枚の紙を取り出した。婚姻契約書だった。
「王妃になっても外交の仕事を続けられる権利、個人資産を守る権利、年に二回の一人旅、それから……私が馬鹿をやらかしたときには、今日のように遠慮なく罵倒していい権利を書きました」
エレノアは思わず吹き出した。
「最後の一文、ずいぶん具体的ですこと」
「あなたに手加減されると、私がアルフレッドの二の舞いになりそうで怖いんです」
そう言ってセドリックは契約書を引っ込め、今度は小さな箱を出そうとして、手が滑って地面に落とした。
「あ」
「まあ……」
コロコロと転がった小箱を、セドリックが慌てて長靴で踏みそうになりながら拾い上げた。開いた蓋の隙間から見えた指輪は、夕日に照らされて小さく光っていた。セドリックは耳まで真っ赤にして、膝をつくのも忘れて叫ぶように言った。
「かっこ悪くて申し訳ない! でも、言わせてください。……私は、あなたと遠くの未来を見たい。でもそれ以上に、泥だらけになって怒ったり、焼き栗を美味そうに食ったりする、今日のあなたを隣で見ていたいんです。私の妻になってくれませんか!」
エレノアは呆気にとられ、それから、じわりと視界が滲んだ。
夜会で婚約を破棄されたときには一滴も出なかった涙が、泥のついた橋の上で、ぽろぽろと零れ落ちた。
「……まったく、不器用な方」
「えっ、泣くほど嫌でしたか!?」
「違います、嬉しくて泣いているんです! 人の顔をちゃんと見なさい!」
エレノアは涙を拭いもせず、差し出された指輪をひったくるように奪い、自分の薬指にぎゅっと押し込んだ。
「お受けします。ただし、私が道を間違えそうになったら、あなたも遠慮なく怒鳴り返してくださいませ」
「約束します。泥だらけになっても、何度でも」
一年後の婚礼の大広間。
アルフレッドが婚約破棄を叫んだあの壇上には、二人で架けた橋を渡って運ばれた麦の穂と、色とりどりの野の花が、少し不格好なほど山盛りに飾られていた。
かつての駄目王子は、女の金髪と細い腰しか見えない間抜けなレンズで世界を見ていた。
セドリックは遠くを見る望遠鏡も、全体を見る広角の目も持っている。
けれど、誓いの口づけを交わすその瞬間、彼がすべての道具を放り出して見ていたのは、花嫁衣装の裾を少し踏んづけて焦っている、人間臭くて愛おしいエレノアの赤らんだ顔だけだった。




