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名前を呼ばないで

作者: 時輪めぐる
掲載日:2026/03/31

 六月の雨は静かに、時に激しく降り続く。

 外灯に照らされた雨粒は、暗い空から止めどなく落ちて、アパートの窓ガラスを叩いた。

 時計が午後十一時五十九分から、午前零時に変わり、僕の深夜営業が始まる。

 台所の流し台をよじ登り手元灯を点けると、

 仕事場が闇に浮かんだ。

 先ずは、冷蔵庫の扉に貼られたメモの確認だ。

【洗濯物を畳んでください】

 袖下と袖下、脇と脇を合わせると綺麗に畳めるのだったな。

【ミオのズボンの裾が解れています】

 遊具にでも引っ掛けたか。怪我はしなかったのか心配だ。

【調味料の補充お願いします】

 砂糖と塩の収納場所は変わっていない。

【私の靴を磨いてください】

 汚れ落としをして、クリームで磨こう。

 後回しにしがちな、ちょっとした家事。だが、シングルマザーのアミが、全てをこなせば、確実に睡眠時間を削られるだろう。

 だから、僕が彼女のために深夜営業している。



 密かに深夜営業していた僕が、アミに気付かれたのは、半年ほど前。

 僕が流し台に残った数枚の皿を洗っていたときのこと。

「ひっ、ゴキッ……」

 夜中に水を飲みに来たアミはシンクの中に、泡だらけの僕を見つけて声を上げた。

「……驚かせて、すみません。私は、夜の間にそっとお手伝いをする者です。」

 アミは、言葉を咀嚼するように沈黙する。

「……疲れているのかしら」

 水を飲むと、頭の後ろを掻きながら、そのまま子供達の眠る寝室に戻って行った。


 次の朝、流し台に置いたはずの汚れた皿が洗い上がっているのを見て、アミは首を傾げる。

「私、寝ぼけて洗った?」


 昼間、冷蔵庫と壁の隙間に隠れている僕は、連絡手段が要るなと考え、冷蔵庫の扉にメモを貼り付けた。

【アミさん、家事のお手伝いをします。して欲しい事を書いて貼ってくださいね。  お手伝い小人より】

 空色のメモに、緑インクのボールペンでメッセージを書いた。

 アミはこの組み合わせが好きだ。

「……本当に居たんだ」

 当初は、戸惑ったアミだったが、外部からの侵入の形跡もなく、図らずも一度目撃したので、『お手伝い小人』の存在を信じた。

「神様が仕事と子育てに追われる私の為に、遣わしてくれた妖精さんなのかな」

「当たらずといえども遠からず」僕は胸の中で呟く。

 少し天然なのが幸いし、僕達はいい感じに共存していた。



【明日、保育園は『お弁当の日』です。ミオとユウのお弁当の仕込みお願いします。】

 丁寧に書かれた几帳面な字。

 ミオは六歳の男の子、ユウは三歳の女の子。二人を遺して、父親が亡くなったのは昨年の暮れのこと。

 肩を震わせて泣いていたアミが、子供達を抱き締め「何とかなる」と呟いた声が耳に残る。

 幸せになって欲しい。微力だけど、僕の出来る限りで君を支えるから。


 深夜営業の始まる前、僕は時々、寝室の襖を細く開け、聞き耳を立てる。安らかな子供達の寝息に安心して仕事に入る。

 最近、ミオは寝入って眠りが深くなる頃、突然、目を覚まし、叫ぶように泣いた。

 ユウもすぐに目を覚まし、泣き声が重なる。

 アミは、ギュッと二人の子供を抱き、背中を優しく擦る。


 今夜もミオは騒ぎ出す。いつもと違って、布団から飛び起きると、台所に向かって走った。暗く冷たい廊下に小さな足音。

「ミオ!」

 アミは、泣いているユウを抱き上げる。

 ミオは、流し台の手元灯だけ点いた暗い台所の入り口で、静かに立ち尽くしていた。心許ないパジャマの後姿。

「にぃに」

 ユウは、しゃぶっていた親指を口から離す。

 六月とはいえ、雨の深夜は少し肌寒く、アミは、ミオの肩に自分のカーディガンをそっと掛けた。

「ミオ?」

 目線の先、手元灯の光の中に、使い古しの歯ブラシを持った真っ黒な小人がいる。

「……あれは、小人さんだよ。ママも初めて見た時は、びっくりしたけど」

 何かは分からないが、受け入れている存在。

 アミはミオの肩にそっと手を置く。

 ユウはアミの首元に顔を寄せた。


 ポタリ、ポタリ。


 蛇口から水滴が落ちる。

 窓ガラスを打つ雨音と重なった。


 幼い頭を巡らせていたミオがポツリと呟く。

「あれは、……パパ?」

「えっ?」

「だって、パパの匂い」

 ミオは鼻をクンとする。

「ここが熱い」

 小さな手で胸を押え、呼び掛けた。

「パパ?」

 アミに抱かれたユウも、眠たげな眼を擦りながら舌足らずに呟く。

「……パァパ?」

 お弁当の仕込みを終え、蛇口周りを磨いていた僕は、使い古しの歯ブラシを取り落とす。


 カラン!


 シンクに歯ブラシが落ちる音が響いた。



 半年前、交通事故で僕は死んだ。

『何故死んだ!』

 我が身が呪わしい。

 僕は、家族の為に、もっと何か出来たのではないか。後悔が後から後から湧き上がる。アミのこれからを思うと、自分だけあの世へ「はい、さよなら」なんて無理だ。どうにもならない状況に歯噛みした。

 そんな時、アレと出遭った。

 半透明の影は僕の未練を嘲笑い、一つの賭けを持ちかけた。

 勝てば、黒い小人として、ずっと家族の傍にいられる。負ければ、魂を奪われる。

『名を呼ばれたら負けだ』

 僕は、賭けに乗り、人間だった時とは似ても似つかない風貌になった。すなわち、漆黒の髪と黒い肌を、同じく黒い装束に包む、身長15cmの真っ黒な小人。

 絶対に僕とは分からないだろう。そう思っていた。



 まだ妖精の要素を残す幼子には分かるのか、僕の風貌がどんなに変わっても。

 どうすれば。緊張で体が硬直する。

 知らん顔をしろ。

 この場を乗り切れば――。

 僕は涙をこらえ、歯を食いしばった。

 幼い我が子の呼び掛けに応えたい。

 でも応えてしまったら、もう二度と。


 アミの目が僕を捉えて離れない。

 二人の子供達が「パパ」と呼ぶ真っ黒な小人。混乱が滲む瞳で、ゆっくりと近付いて来る。

「……どうして、……全部知っていたの?」

 空色のメモと緑インクの組み合わせ。洗濯物の畳み方。子供達の好きなお弁当のおかず。

 小さく呟く声が震える。

「……何故、私を助けてくれるの?」

 一歩近づく。

 懐かしい夫の匂い。

 タンスに顔を埋め嗅いだスーツの残り香。

 何度も空間を匂うアミ。

 僕は眼を逸らしたい。耳を塞ぎたい。逃げ出してしまいたい。けれども、家族の視線が僕を釘付けにする。

 雨音は声を潜め、重苦しい静寂が湿気のように暗い台所に満ちた。

 アミの呼吸が乱れる。

「そんな事ってある? だって、あなたは」

 双眸に涙がせり上がる。

「ううん、でも」

 小さく首を振り、自分に納得させるように呟いた。

「……あなた、なのね?」

 ゆっくりと近付くアミの目から涙が零れる。

 アミは、抱いていたユウを床に降ろすと、目線を合わせるように膝をついた。

 再び雨音が、失った僕の鼓動のように激しくなる。

 やめてくれ。このまま影でいさせてくれ。

 黒い小人として、傍にいたい。

 アミが短く息を吸った。

 僕は力なく首を振る。

 唇が僕の名の形に動いた。

「ジュンペイさん、なのね?」

 僕の名を呼ぶときの、優しいイントネーション。

 懐かしくて胸が一杯になる。

 応えたい。抱きしめたい。「ただいま」と言いたい。

 だけど。

 身体が音もなく闇の粒に解け始める。

 爪先から、足へ。足から、腹へ。解けた闇の粒は、何処かに還っていく。


「えっ?」

 驚いたアミが手を伸ばす。指先が、消えかかりの肩を掠めた。

 身体の消失は止まらない。

 消えゆく僕の姿を必死に追いかける六つの目。

 子供達がアミにしがみ付く。

 愛しい家族と、これが本当のお別れだ。

 僕は言葉を振り絞る。

「……忘れて、……幸せになっ……」

 泣き顔で呆然と子供達を抱き締めているアミは、静かに頷いたように見えた。


 グンッ!


 僕の意識は何かに強く引き摺られる。

『私の勝ちだな』

 嘲るような声が雨音に溶けた。

 やがて、暗い台所は静けさを取り戻す。

 窓の外に雨は降り続いていた。




 了


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