名前を呼ばないで
六月の雨は静かに、時に激しく降り続く。
外灯に照らされた雨粒は、暗い空から止めどなく落ちて、アパートの窓ガラスを叩いた。
時計が午後十一時五十九分から、午前零時に変わり、僕の深夜営業が始まる。
台所の流し台をよじ登り手元灯を点けると、
仕事場が闇に浮かんだ。
先ずは、冷蔵庫の扉に貼られたメモの確認だ。
【洗濯物を畳んでください】
袖下と袖下、脇と脇を合わせると綺麗に畳めるのだったな。
【ミオのズボンの裾が解れています】
遊具にでも引っ掛けたか。怪我はしなかったのか心配だ。
【調味料の補充お願いします】
砂糖と塩の収納場所は変わっていない。
【私の靴を磨いてください】
汚れ落としをして、クリームで磨こう。
後回しにしがちな、ちょっとした家事。だが、シングルマザーのアミが、全てをこなせば、確実に睡眠時間を削られるだろう。
だから、僕が彼女のために深夜営業している。
密かに深夜営業していた僕が、アミに気付かれたのは、半年ほど前。
僕が流し台に残った数枚の皿を洗っていたときのこと。
「ひっ、ゴキッ……」
夜中に水を飲みに来たアミはシンクの中に、泡だらけの僕を見つけて声を上げた。
「……驚かせて、すみません。私は、夜の間にそっとお手伝いをする者です。」
アミは、言葉を咀嚼するように沈黙する。
「……疲れているのかしら」
水を飲むと、頭の後ろを掻きながら、そのまま子供達の眠る寝室に戻って行った。
次の朝、流し台に置いたはずの汚れた皿が洗い上がっているのを見て、アミは首を傾げる。
「私、寝ぼけて洗った?」
昼間、冷蔵庫と壁の隙間に隠れている僕は、連絡手段が要るなと考え、冷蔵庫の扉にメモを貼り付けた。
【アミさん、家事のお手伝いをします。して欲しい事を書いて貼ってくださいね。 お手伝い小人より】
空色のメモに、緑インクのボールペンでメッセージを書いた。
アミはこの組み合わせが好きだ。
「……本当に居たんだ」
当初は、戸惑ったアミだったが、外部からの侵入の形跡もなく、図らずも一度目撃したので、『お手伝い小人』の存在を信じた。
「神様が仕事と子育てに追われる私の為に、遣わしてくれた妖精さんなのかな」
「当たらずといえども遠からず」僕は胸の中で呟く。
少し天然なのが幸いし、僕達はいい感じに共存していた。
【明日、保育園は『お弁当の日』です。ミオとユウのお弁当の仕込みお願いします。】
丁寧に書かれた几帳面な字。
ミオは六歳の男の子、ユウは三歳の女の子。二人を遺して、父親が亡くなったのは昨年の暮れのこと。
肩を震わせて泣いていたアミが、子供達を抱き締め「何とかなる」と呟いた声が耳に残る。
幸せになって欲しい。微力だけど、僕の出来る限りで君を支えるから。
深夜営業の始まる前、僕は時々、寝室の襖を細く開け、聞き耳を立てる。安らかな子供達の寝息に安心して仕事に入る。
最近、ミオは寝入って眠りが深くなる頃、突然、目を覚まし、叫ぶように泣いた。
ユウもすぐに目を覚まし、泣き声が重なる。
アミは、ギュッと二人の子供を抱き、背中を優しく擦る。
今夜もミオは騒ぎ出す。いつもと違って、布団から飛び起きると、台所に向かって走った。暗く冷たい廊下に小さな足音。
「ミオ!」
アミは、泣いているユウを抱き上げる。
ミオは、流し台の手元灯だけ点いた暗い台所の入り口で、静かに立ち尽くしていた。心許ないパジャマの後姿。
「にぃに」
ユウは、しゃぶっていた親指を口から離す。
六月とはいえ、雨の深夜は少し肌寒く、アミは、ミオの肩に自分のカーディガンをそっと掛けた。
「ミオ?」
目線の先、手元灯の光の中に、使い古しの歯ブラシを持った真っ黒な小人がいる。
「……あれは、小人さんだよ。ママも初めて見た時は、びっくりしたけど」
何かは分からないが、受け入れている存在。
アミはミオの肩にそっと手を置く。
ユウはアミの首元に顔を寄せた。
ポタリ、ポタリ。
蛇口から水滴が落ちる。
窓ガラスを打つ雨音と重なった。
幼い頭を巡らせていたミオがポツリと呟く。
「あれは、……パパ?」
「えっ?」
「だって、パパの匂い」
ミオは鼻をクンとする。
「ここが熱い」
小さな手で胸を押え、呼び掛けた。
「パパ?」
アミに抱かれたユウも、眠たげな眼を擦りながら舌足らずに呟く。
「……パァパ?」
お弁当の仕込みを終え、蛇口周りを磨いていた僕は、使い古しの歯ブラシを取り落とす。
カラン!
シンクに歯ブラシが落ちる音が響いた。
半年前、交通事故で僕は死んだ。
『何故死んだ!』
我が身が呪わしい。
僕は、家族の為に、もっと何か出来たのではないか。後悔が後から後から湧き上がる。アミのこれからを思うと、自分だけあの世へ「はい、さよなら」なんて無理だ。どうにもならない状況に歯噛みした。
そんな時、アレと出遭った。
半透明の影は僕の未練を嘲笑い、一つの賭けを持ちかけた。
勝てば、黒い小人として、ずっと家族の傍にいられる。負ければ、魂を奪われる。
『名を呼ばれたら負けだ』
僕は、賭けに乗り、人間だった時とは似ても似つかない風貌になった。すなわち、漆黒の髪と黒い肌を、同じく黒い装束に包む、身長15cmの真っ黒な小人。
絶対に僕とは分からないだろう。そう思っていた。
まだ妖精の要素を残す幼子には分かるのか、僕の風貌がどんなに変わっても。
どうすれば。緊張で体が硬直する。
知らん顔をしろ。
この場を乗り切れば――。
僕は涙をこらえ、歯を食いしばった。
幼い我が子の呼び掛けに応えたい。
でも応えてしまったら、もう二度と。
アミの目が僕を捉えて離れない。
二人の子供達が「パパ」と呼ぶ真っ黒な小人。混乱が滲む瞳で、ゆっくりと近付いて来る。
「……どうして、……全部知っていたの?」
空色のメモと緑インクの組み合わせ。洗濯物の畳み方。子供達の好きなお弁当のおかず。
小さく呟く声が震える。
「……何故、私を助けてくれるの?」
一歩近づく。
懐かしい夫の匂い。
タンスに顔を埋め嗅いだスーツの残り香。
何度も空間を匂うアミ。
僕は眼を逸らしたい。耳を塞ぎたい。逃げ出してしまいたい。けれども、家族の視線が僕を釘付けにする。
雨音は声を潜め、重苦しい静寂が湿気のように暗い台所に満ちた。
アミの呼吸が乱れる。
「そんな事ってある? だって、あなたは」
双眸に涙がせり上がる。
「ううん、でも」
小さく首を振り、自分に納得させるように呟いた。
「……あなた、なのね?」
ゆっくりと近付くアミの目から涙が零れる。
アミは、抱いていたユウを床に降ろすと、目線を合わせるように膝をついた。
再び雨音が、失った僕の鼓動のように激しくなる。
やめてくれ。このまま影でいさせてくれ。
黒い小人として、傍にいたい。
アミが短く息を吸った。
僕は力なく首を振る。
唇が僕の名の形に動いた。
「ジュンペイさん、なのね?」
僕の名を呼ぶときの、優しいイントネーション。
懐かしくて胸が一杯になる。
応えたい。抱きしめたい。「ただいま」と言いたい。
だけど。
身体が音もなく闇の粒に解け始める。
爪先から、足へ。足から、腹へ。解けた闇の粒は、何処かに還っていく。
「えっ?」
驚いたアミが手を伸ばす。指先が、消えかかりの肩を掠めた。
身体の消失は止まらない。
消えゆく僕の姿を必死に追いかける六つの目。
子供達がアミにしがみ付く。
愛しい家族と、これが本当のお別れだ。
僕は言葉を振り絞る。
「……忘れて、……幸せになっ……」
泣き顔で呆然と子供達を抱き締めているアミは、静かに頷いたように見えた。
グンッ!
僕の意識は何かに強く引き摺られる。
『私の勝ちだな』
嘲るような声が雨音に溶けた。
やがて、暗い台所は静けさを取り戻す。
窓の外に雨は降り続いていた。
了




