41話
秋。燕の北部には、刈り取る麦がなかった。
燕は備蓄していた穀物を解放したが、まったく足りなかった。洛陽に送られる年貢も減っている。燕全体で穀物の価格が跳ね上がり、民はまるで飢饉が来たかのように飢え始めた。
そんな折、ボヨウスイは王に自らの大将軍就任を上奏した。
秦ではトウキョウが大将軍となり、鄴で大敗北があったにもかかわらず、すでに息を吹き返してきているという。
「今は民が飢え、国家存亡の危機です。大将軍を立てることで、秦に対抗しましょう」
ボヨウスイの上奏に、王は押し切られそうになった。
だがヒョウが口を挟む。
「今は軍ではない。いかに内政で燕を支えるかだ」
ヒョウの言い分は正しかった。
王はボヨウスイの大将軍就任に考えが傾きかけたが、ヒョウの言葉に従い、その上奏を退けた。
ヒョウは胸を撫で下ろす。
ボヨウスイが大将軍となれば、自身は宰相と並ぶ立場となり、命令を下すことができなくなるからだ。
だがヒョウは、減税や免税といった政策は取らなかった。
国庫を満たすため、逆に増税を行ったのである。さらに、自身に近い商人たちを優遇し、見返りとして裏金を得ていた。
「増税禿げ頭」
いつしか燕の民は、もとは秦の焦土作戦によって起きた飢饉を、ヒョウの増税のせいだと思うようになっていた。
「愚かな者のすることは分からない……」
ボヨウスイは大きくため息をつき、自身の領地であるヨウシュウへ引き上げた。
そして私財を投げ打ち、東晋の商人から米を買い上げ、領民に配った。それでも足りず、漁業を推進し、自らも軍を出して魚を取り、飢えをしのいだ。
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秦の首都長安。
オウモウの屋敷に、妖艶な女が現れた。
女はオウモウの耳元で囁くように誘惑してくる。
「やめろ、ジセン。わしにはそのような趣味はない……」
女は姿を変え、ジセンに戻った。
「よく見抜かれましたな。最近お疲れのようでしたので、癒して差し上げようかと」
「ジセン……女には化けるな。お前の男臭い匂いは消えておらんぞ……」
オウモウは、心底嫌そうな顔で言った。
「これはこれは。匂いまで気が回りませんでした。次からは香をたっぷり焚きますかな」
「戯言はもうよい……して、何用だ」
オウモウは確かに疲れていた。歳のせいか、自分のことを「わし」と呼ぶようにもなっている。
だが、ジセンの報告に目の色が変わった。
燕が、東晋への洛陽割譲を正式に拒否したという。
オウモウは、すぐにフケンのもとへ向かった。
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フケンは一時の病から回復し、国務に復帰していた。
戦死したフコウに代わり、次男のフトウを皇太子としている。
オウモウの報告を聞き、フケンは主だった将軍たちを長安に招集した。
「余は、自ら軍を率い、洛陽を攻め取る」
冒頭の発言に、一堂は唖然とした。
「なりませぬ!御身に何かあれば、この国は――」
オウモウが強く諫めるが、フケンは手を挙げて制した。
フケンは代を滅ぼして以来、戦に出ていない。
皇太子フコウに戦の経験を積ませるため、自ら退いていたのだ。
だがフコウは、リキの仇討ちに囚われ戦死した。
――所詮は、匹夫の勇であったか。
フトウは聡明だが、おとなしい。治世では良き王になるだろうが、乱世では心許ない。
――余の代で、天下を統一するしかない。
「これは余の意思である。トウキョウよ、洛陽攻めの軍を編成せよ」
その決意に、一堂は従った。
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ケイが太原に帰還して以来、ジュンカンはそっけなかった。
戻ってきたケイの傍に、サクがいたからだ。
ケイは幕舎を訪ねたかったが、ジュンカンはエイゲツとの特訓に明け暮れており、その余裕はなかった。
魔法を承継し、それを使いこなすための修練だという。
それに、エイゲツと顔を合わせるのは気が進まなかった。
ケイはジュンカンに負けまいと、モクランのもとで訓練を重ねた。
百人隊を再編し、副官は引き続きサクが務める。
隊を二分し、本気でぶつけ合う訓練を行った後、ケイは火の矢の魔法を鍛えた。
「腕を上げたな……」
モクランは近づいて言った。
ケイの火の矢は、一時間に五回まで放てるようになり、威力も増していた。
「まもなく出陣する。明日からは休息し、戦に備えよ」
頷くケイ。
しばらく見つめ合い、モクランは微笑んで自身の幕舎へ戻っていった。
――モクランは、俺の正体に気づいているのかもしれない……。
その夜、ケイはジュンカンの幕舎を訪れた。
ジュンカンも特訓を終えたばかりだった。
「魔法を承継したんだね……」
「ああ……」
会話は続かない。
「拗ねるなよ」
「拗ねてなどいない」
沈黙。
ケイは転生前、結婚生活の末期を思い出していた。会話が減り、やがて何も話さなくなった日々。
――あの時、どうすればよかったのか。
だが今は、まだ冷え切ってはいない。
ケイは意を決し、ジュンカンの横に座り、太ももに手を置いた。
「なんで、勝手に行ったの?」
答えず、口付ける。
ジュンカンは一瞬戸惑い、やがて手を伸ばして応えた。
ケイはジュンカンを押し倒す。
その夜は、これまでよりも情熱的だった。




