35話
鄴の街は、祭りのような騒ぎであった。
夏の戦いで鄴に侵攻してきた秦を徹底的に打ち破ったからだ。
チョウシを破ったボヨウスイは、燕の英雄として祭り上げられていた。
「すごい騒ぎだな……」
ケイとサクは、鄴の街をきょろきょろと辺りを見渡しながら歩いた。
鄴は太原よりも、はるかに大きな街であった。
「決して、秦から来たと悟られてはいけません」
ケイはサクの言葉にうなづいた。
やがて大きな広場に出る。燕軍が行進しており、それを見て群衆は歓声を上げた。
「ボヨウスイ将軍! ボヨウスイ将軍!」
ケイは歓声の先、行軍の中央で台座の上に立っている男を見た。
「あれが、ボヨウスイか……」
周囲の者たちとは、明らかに雰囲気が違っていた。
ケイが直接知る将軍は、モクランやソンキンである。
モクランは秦の中で絶大な人気があるが、それは戦功よりも美貌によるところが大きい。
ソンキンは、はっきり言って小物感が漂っている。
「あいつを倒さないといけないのか……」
ケイの呟きに、サクは慌ててケイの口を塞いだ。
「いったい何を言っているのですか。聞かれたら捕らえられてしまいます……」
ケイは、改めてボヨウスイを見た。
行軍が近づいてくる。目が合った。
それは一瞬であったが、ケイは電撃に撃たれたような感覚に陥った。
「ケイ殿……どうなさいましたか」
サクの声に、ケイは我に返った。
慕容垂。
史実では前燕を見限り、前秦の苻堅に仕えることになる人物だ。
だが最後は前秦すらも裏切り、後燕を建国する。
そして後燕は、拓跋珪が建てた北魏に立ち塞がる強敵であった。
果たして、この世界でも同様のことが起きるのか。
すでにケイの知る史実とは違っている。
だが、ボヨウスイと目が合った瞬間に受けた感覚は、
将来の強敵であることを予感させるものであった。
ケイは、鄴の宿に部屋を取った。
サクとは別部屋にしたかったが、祭りの影響で空き部屋はほとんどなかった。
「わたしは、同室でも構いません……」
サクは何でもないことのように言ったが、顔は赤かった。
百人隊は寝食を共にすると言っても、女性とは夜は離れて過ごしていたのだ。
ケイも、正直言って恥ずかしかった。
「……これは……」
部屋は狭く、寝床が一つあるだけであった。
安宿であり仕方がないが、ケイもサクも顔を見合わせ、共に赤くなった。
夜、二人は背を向けて横になった。
「ケイ殿……まだ起きていますか?」
サクが小声で呟く。
「うん……起きているよ……」
ケイが答えた。
心臓が高鳴り、とても眠れる状況ではなかった。
サクも同じなのであろう。
サクを、これまで女性として見ていなかった。
だが、あの日――エイゲツに捕らえられた日。
あの時のサクの泣き顔と、綺麗な素肌を見た時、急に意識するようになってしまった。
「サク……軍にいない時は、ケイと呼んでほしい」
ケイの言葉に、サクの鼓動は激しくなった。
ケイはモクラン様のお気に入りで、何故か特別視されている。
あの日も、将軍が自ら百人隊長を救出に来ることなど、あり得ないのだ。
だからサクも、ケイに対しては敬意を払ってきた。
「ケイ……」
サクは勇気を出して、ケイの名前を口にした。
急に距離が縮まった気がした。
「うん……ありがとう……」
ケイの言葉に、サクは何故か安心した。
サクは体をケイの方に向け、その肩に触れた。
だが、ケイの寝息が聞こえ、それ以上のことは出来なかった。
サクは微笑み、目を閉じた。
翌日、二人は鄴にいるというタクゲンの奥方を探すため、街を歩いた。
タクゲンの生前から、奥方は鄴の商人と不倫をしていたという。
「なぜ、その商人を探すのですか?」
サクは尋ねた。ケイが、いかなる目的で鄴に来たのか知らなかった。サクは、寂しくてケイを追ってきただけなのだ。
「サク……敬語になっているよ」
ケイは答える代わりに、そう言った。
鄴には、たくさんの店があった。
その商人がどのような商売をしているのか、ケイは全く知らなかった。
ケイは、商業が発展するのはもっと後の時代、
少なくとも唐の頃だと思っていた。
だが、鄴の街はケイの想像を超えて発展しており、
街の区画は、さながら商店街のようであった。
「あ……」
商店街を歩き、区画を何度か曲がったところで、ケイは立ち止まった。
「どうしたの?」
サクが声をかけ、視線の先を見ると、顔を赤くした。
そこは色街であった。
二人は来た道を足早に戻った。
――もし、商人が色街の店主だったら、レイは……
ケイは、レイが色街に売られたことを想像し、絶望的な気分になった。
一日中歩き回り、鄴の商店街にどこにどのような店があるのか、大体把握した。
あの色街を除いては。
時折、立ち寄った店で聞き込みをしようとした。
だが、最近再婚した商人がいるかと聞くと、
「なぜそんなことを知りたいのだ」と返され、言葉に詰まってしまった。
ケイの体は、まだ少年である。
そのようなことを聞くのは、不思議に思われてもおかしくなかった。
「買わないなら、出ていってくれ」
ケイは慌てて、あまり物も値段も見ずに、髪飾りを指差して「これを買う」と言ってしまった。
「ああ、いいね。お嬢さんにお似合いだよ」
店主にそう言われて、ケイは初めて自分が何を買ったのかに気づいた。
髪飾りを、そのままサクに渡そうとする。
「馬鹿だね。何やってるんだい。髪につけてあげるんだ」
店主に言われ、ケイはサクの髪につけてやった。
赤い薔薇の花をあしらった髪飾りは、サクの長い黒髪によく似合っていた。
「ありがとう……ケイ……」
サクは恥ずかしそうに礼を言った。
ケイは、その甘酸っぱいやり取りを頭の中では冷静に懐かしく感じた反面、この若い体は鼓動が高鳴り、手にうっすらと汗をかいていた。




