29話
リキの容体は良くなかった。肺や肝臓を撃ち抜かれ、呼吸も絶え絶えで、いつ亡くなってもおかしくなかった。ここまでの重傷となるともはや治癒魔法は効かなかった。
フコウは激昂した。
「カクを討つ! 出撃させよ!」
フコウはチョウシに何度も詰め寄った。
「なりません。ここの戦いの要は、燕軍を足止めし、時間を稼ぐことです。これはあなた様が立てた作戦ではありませんか」
チョウシは何度も同じことを言って止めた。フコウは歯噛みし、手に持っていた指揮棒を折り、投げ捨てた。
フコウにとってリキは単なる家臣ではなかった。リキはフケンがクーデターにより前王を滅ぼし、新たな王となった時から仕えている最古参の将軍である。
リキはフケンの右腕であり、その後の多くの戦で活躍した興国の英雄であった。高齢のため軍務を退いた後も、幼きフコウの家庭教師として仕えてきたのだ。
リキはフコウにとって、軍略、歴史、帝王学の師匠であるだけでなく、人生そのものの師でもあり、尊敬の対象であった。
フコウが今回の戦に出るにあたり、父フケンはリキに軍務復帰を懇願し、フコウの副将として任命したのだ。
リキの戦いは老いても鋭かった。燕の女将軍を翻弄し、あと一歩のところまで追い詰めた。フコウはリキが戦うところを、話で聞くだけで直接見たことはなかった。それだけで感動したのだ。
だが、カクの魔道具は容赦なく、無慈悲にもリキの体を撃ち抜いた。その光景を見て、フコウは愕然とし、崩れ落ちた。
なんとか助けようと、王宮御付きの治癒魔法団を惜しみなく投入した。だが彼らは、リキの容体に首を振るばかりであった。フコウは目の前が真っ暗になった。そしてカクへの復讐心を燃やすのであった。
秦軍と燕軍はそれ以降、単なる鍔迫り合いとなり、両軍の睨み合いが続いた。
ボヨウスイはチョウシの防壁を見て、無理攻めは犠牲が大きく、できないと感じた。
だがそれはチョウシも同じである。ボヨウスイ、カク両軍を相手にして、野戦で勝てる見込みみはなかった。
ここでの膠着が続くのであれば、もう少し北部に兵を送ってもよいとボヨウスイは考えた。そしてヨウチョウ軍一万を北部に向けて出撃させた。
もちろんそれはヒョウの指示に反している。だがボヨウスイは、戦場に出たからには判断は前線の将軍が下すべきだと常日頃から考えている。ヒョウに断りなく、北部に増援を送ったのだ。
カクは、ボヨウスイが軍を北部に送ったのを見ても何も言わなかった。本当はカク自身が北部に向かい、モクランと相対したかったが、さすがに立場上、鄴を離れることはできなかった。
ハクエンの容体は回復していた。十分に水を飲ませ、休ませていた。カクは、いつまでもハクエンに無理はさせられないと感じている。モクランとは関係なく、ハクエンはカクにとって大事な女性なのだ。いつか正式に妻に迎え、軍からは退いてもらおうと考えている。
鄴の守将シュンは、トクがボヨウスイから受けた策を聞き、目を見開いた。全く想像することができない発想であった。
「かしこまりました。この策は時間がかかりますが、必ず成功させてみせます」
シュンの言葉にトクは拝礼した。トクはそのまま、シュンの補佐として鄴城内に留まることになった。
一方の燕北部。
モクラン軍はソンキンの懸命な指揮により、すべての砦を抜いていた。ついに常山に到達した。
モクランは、常山を望める小高い山に本陣を置いた。モクランは千人将以上の将校全員を幕舎の前に集めた。ケイはモクランの直属部隊として、特別に参加した。
「これより、軍を細かく分ける」
将校たちはどよめいた。
「常山を攻め落とすのではないのですか?」
ソンキンが、皆の考えを代弁するかのように口を開いた。
「この戦の目的は、燕北部を短期間で疲弊させることだ。常山を落とすことではない」
モクランは言う。
「この本陣には、常山への睨みとして一万を置く。残りは千人単位で散開する」
千人将たちは単独で動くということだ。皆、モクランの次の言葉を待った。
「目的は、田畑を焼き払うことだ。そして町や倉に蓄えられた糧食を奪う。持ち運べないものは焼き払え」
モクランの指示に、場は騒然とした。掠奪をせよというのだ。掠奪は戦につきものとはいえ、ここまではっきりと指示として出されるのは、秦軍にとって初めてのことであった。なぜなら王であるフケンは、徳をもって治めることを第一としてきたからだ。
「それは……モクラン様のお考えですか?」
誰かが恐る恐る尋ねた。モクランが答えるまで、間があった。
「……そうだ。わたしの考えだ…」
その答えに、誰もが黙り込んだ。誰もが、モクランがそのようなことを考えるわけがないと思っていた。
ケイも同様であった。これはモクランの考えではなく、おそらくオウモウから出たものなのだと。だが、それを国の指示だとすれば、フケンの名声に傷がつく。だからこそ、モクランはその傷を自らかぶるため、自分の考えだと述べたのだ。
モクランを見ると、わずかに震えており、組んだ手に力が入り、耐えているようだった。
――これは後々、禍根を残すな……
ケイはそう思った。焦土作戦は有効である。だがそれは短期的な成功に過ぎず、これからその土地を治めようとする者のすることではなかった。歴史上でも、そのようなことをした国が長く続いた例はない。
だがケイは、それを指摘する立場にはなかった。
秦の未来に、暗い影が覆いかぶさってきた――ケイはそう感じていた。




