10話
カクは、ゴランが討たれ丘が陥落するのを、信じられない表情で見ていた。先ほどまで戦い、追い詰めたはずのモクランが、一気に丘を駆け上がり、ゴランの首を刎ねてしまったのだ。モクランの底力に驚愕し、なぜ降伏など勧めず討たなかったのかと悔やんだ。
「いや……そうではない……」
カクは、なぜ討たなかったのかに気づき、顔を赤らめる。
あの太陽の女神のような出で立ち――冷静を装いながらも、モクランを手に入れたいと思ったのだ。
丘の上が燕の旗からシンの旗へと変わる。その光景は、燕軍全体の士気を大きく下げた。そして秦軍は、早くも丘の上から逆落としに攻め下りてくる。勢いよく駆け降りてくる足音が聞こえてくる。
「まずい……」
カクは焦った。
秦軍は燕軍の横腹を突き、大きく侵食してくる。それは衝撃となって燕の陣を揺らした。
このままでは崩壊する。だが、退却を命じては壊滅的な打撃を受けるだろう。カクは前に出た。
「怯むな! 我はまだ健在なり!」
カクが檄を飛ばし前に進むと、燕軍はわずかに持ち直した。だが、陣は大きく乱れており、崩壊するのは時間の問題だった。
カクは、燕軍と秦軍が入り乱れている場所に魔法を放つ。モクランが先ほど使ったものよりも大きな水壁が立ち上がる。
「おい!待ってくれ!」
壁の向こうには、逃げ切れない味方が多くいた。取り残された兵たちが突き殺されていく。カクは歯軋りし耐えた。すべてを救うことはできないのだ。
燕軍は退却を始める。カクは全身汗だくになっていた。
水壁に向かって秦軍が突撃を繰り返す。そう長くは持たない。だが、少しでも時間を稼げればよい。
モクランは丘の上にいた。精魂尽き、動くことができなかった。カクが放った水壁を、呆然と見ていた。
「なんて奴だ……あれほどの魔法を使うとは……」
モクランは冷や汗をかく。
あの時、カクが降伏など勧めず剣を振り下ろしていれば、確実に死んでいた。万全の状態なら勝てたであろうか。
モクランは首を振る。魔法の腕でも、カクの方が上だと認めざるを得なかった。
やがてカクは力尽き、魔道具兵たちに抱えられて退却していった。
モクランはソンキンに追撃の指示を送る。だが、カクの水壁の突破に時間がかかりすぎ、燕軍に追いつくことはできなかった。
燕軍は洛陽近郊まで退却した。洛陽には四十万人と称する臨時徴兵に応じた軍がいたが、モクランが放った物見の報告では、実際は二十万人だった。
大軍ではあるが、寄せ集めだ。それ自体は問題ではない。だが、カクがあれほどの強敵だと分かった今、このまま攻撃するのは危険であった。
モクランは、洛陽まであと二日という距離に陣を張る。
そしてジュンカンとケイを呼んだ。
「此度の働き、ご苦労であった」
モクランは二人を労う。
ケイはモクランを間近で見て、その美貌に息が詰まった。
ジュンカンも顔立ちは整っているが、粗野な性格だ。そのジュンカンですら、モクランの前では緊張し、顔を直視することができなかった。
「おい……モクラン様の顔を、じろじろ見るな……」
ジュンカンは小声でケイを叱責する。はっとして、ケイは顔を伏せた。
ジュンカンは痛みに耐えきれず、胸を押さえて呼吸を荒くしていた。
「どうやら傷が痛むようだな。用件を早々に伝えよう。ジュンカン、お前を千人将に任じる。そして少年よ。お前は百人将だ」
千人将までは将軍が直接取り立てることができる。それ以上は、フケンとオウモウの協議で決められる仕組みだった。
ジュンカンは畏まり、頭を下げる。ケイも同様にした。
「少年よ……名は?」
ケイは顔を上げ、名を答える。
目が合うと、モクランはかすかに微笑んだ。
伍長を飛ばしての百人将任命だ。ケイは信じられない思いであった。
ジュンカンとケイがモクランの軍営を出ると、入れ替わるようにソンキンがやって来る。
ケイの顔に緊張が走った。ソンキンは父を裏切った仇敵である。
「どうした?」
「いえ、なんでもありません」
ソンキンはケイなど眼中にない様子だった。まさか、自分が裏切り殺した者の子が、ここにいるとは思ってもいないのだろう。
シンには、タクゲンのほかに代の公子が奴隷に落ち、兵になっていることを知る者はいなかった。
モクランはソンキンに、これからどうするべきかを問う。
「カクは強敵です。オウモウ殿に増援を依頼するべきかと……」
モクランは頷き、オウモウに使者を送った。
「カク様……よくぞご無事で……」
洛陽郊外に陣を構えるハクエンが出迎えた。
彼女は、燕の東にある半島にあった小国の皇女であった。
魔法と軍略に長け、剣を振るっても将軍クラスに引けを取らない。
燕がその小国を滅ぼしたとき、ハクエンは数百の兵を率いて戦い、エン軍を大いに苦しめた。
カクはハクエンを捕らえ、妾とした。
殺されると思っていたハクエンは、カクに優しくされ、大人しく従った。
ハクエンは、モクランとは逆の意味で美しかった。まるで月のように澄んだ肌と瞳の持ち主であった。
「お前を帯同していれば、負けることはなかったかもしれない……」
ゴランは予想以上に役立たずであった。戦局の変化に鈍感で後れを取り、最後はモクランに討たれてしまった。
叔父ヒョウの推挙で副将としたが、所詮、ヒョウに軍才はない。自分に近しい子飼いを引き立てただけであった。
ヒョウは宰相であり、政治や権力争いに長けているだけでなく、自ら軍を率いる将軍でもある。
だが、その戦功のほとんどはカクが立てたものであった。
カクは冷静沈着な人物と見られている。だが、その印象に反して好色であった。
かつて王の妾に手を出してしまったこともある。本来なら死罪であったが、ヒョウの取り成しで事なきを得た。
それ以来、カクはヒョウに頭が上がらない。 功績の多くがヒョウのものとされても、我慢するしかなかった。
ヒョウはカクの不満を鎮めるため、美女を与えてきた。
カクは妻帯こそしていないが、洛陽のヒョウの屋敷に何人もの女を囲っていた。
だが、ハクエンを手に入れてからは、ヒョウの屋敷に通うことも少なくなっていた。
夜。
カクの軍営で、二人はまぐわった。ハクエンは、カクがどこを触れられると感じるのか、すべてを知っている。
腰のあたりを指で押すことをカクは好んだ。その刺激でより膨張するのだ。
カクは丁寧にハクエンの豊かな胸から全身をなぞる。カクもまた、ハクエンのことを熟知している。
だが、この夜はどこか集中できなかった。
「……モクラン……」
カクが果てる時、思わず出た呟きに、ハクエンは無言で微笑む。
その笑みが、すべてを知る女の余裕なのか、嫉妬を隠したものなのか、カクには分からなかった。




