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アーシェル・ブルー  作者: ニート主夫
第1章

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第5話 追い風に、帆を上げて ――自由の風

 港町フェリスに、再び穏やかな日々が戻っていた。


 海は静かに光り、波の音が町の呼吸を刻む。


 魚の群れは戻り、朝市には笑顔があふれている。


 悠は《シーウィンド号》の甲板に立っていた。

 長く眠っていた船は、今では新しい木の香りと風の匂いをまとっている。

 板の継ぎ目は締まり、帆は白く張り、船体の影が水面に揺れていた。


 木槌の音が軽く響く。

 音の主は――パン職人見習いのノアだった。

 粉の跡が残る袖をまくり、額に汗を浮かべながら釘を打っている。

「ここ、あと一枚で終わりです!」

「助かるよ、ノア。ずいぶん手際が良くなったな」

「毎朝パン生地を捏ねてるおかげです。力だけはありますから」

 冗談めかして笑うノアに、悠も微笑んだ。

 木槌の音が波に溶け、どこか心地よいリズムを刻んでいた。


 この数日、ノアは仕事の合間を縫って毎日のように港へ来ていた。

 修理を手伝ううちに、二人の間には言葉より穏やかな空気が流れていた。


 最後の板が打たれると、悠はそっと掌を当てた。


 潮の気配が微かに揺らぐ。


 彼の指先から、透明な光が波のように木の繊維を走り抜けた。

 《潮風(タイド)()(ハンド)》――風と潮が癒す力を、静かに船体へと染みこんでいく。

 打ち込んだ釘が微かに光り、乾いた木が生き物のように呼吸をはじめた。

 風が帆を撫で、ロープが柔らかく鳴る。


 長い時間をかけて修理してきた《シーウィンド号》が、ようやく息を吹き返したのだ。

 悠は胸の奥に、静かな満足を覚えた。


 そのとき、サリヴァンと古株の漁師たちがやって来た。

 日焼けした顔に刻まれた皺が、穏やかに緩む。

「見事に直したなぁ……こんな姿、何年ぶりだろう」

「《シーウィンド号》はフェリスの誇りだったんだ。だが、もう誰も乗れなくてな」


 サリヴァンが帽子を取り、風に目を細めながら穏やかに言った。

「悠、お前さんがこの港を癒してくれたと思ってるんだ。

 この船は、直したお前のもんだ。風の行くまま、好きなように走らせてやってくれ」


「えっ……いいんですか?」


「ああ。港を癒した風が、お前に宿ってる。なら、この船も喜ぶだろうよ」


 悠は言葉を失い、静かに頭を下げた。

「ありがとうございます。必ず、《シーウィンド号》を潮風に連れていきます」


 漁師たちは笑い、背を叩いて去っていった。


 ノアが悠の背中を見つめて、少し寂しそうに呟いた。

「……本当に、海に出るんですか?」


 悠は頷き、穏やかに答えた。

「うん。行き先は決めてないけど、風が教えてくれる気がしてね」


「風が?」


「この世界に来てから、ずっと導かれている気がするんだ。

 潮の香りも、風の声も……どこか“行け”って言ってるようで」


 ノアはしばらく黙っていたが、やがて微笑んだ。

「きっといい旅になりますよ。祖父も言ってました、“海は正直な友だ”って」


「いい言葉だな」


 翌日、準備を整えた悠は、静かに桟橋へ向かった。

 港には町の人々が集まり、修理を終えた船を見送ろうとしていた。

 子どもたちは波打ち際で手を振り、漁師たちは陽に焼けた顔で頷く。

「悠、風邪に気をつけな!」

「また戻ってこいよ!」

 その声に、悠は手を振って応えた。

 ロープが外れ、船体がゆっくりと揺れ動く。

 帆が風を受け、静かな音を立てた。

 潮が満ち、港の水面に光が走る。


 《シーウィンド号》が滑るように沖へ出た。


 舵を握る悠の頬を、追い風が撫でていく。


 甲板の上で、携行用の小さなポットを取り出し、ゆっくりとコーヒーを淹れた。

 湯気の香りが風に溶け、海の香りと混じり合う。


 ノアが岸辺から手を振っているのが見えた。

 悠はカップを掲げ、静かに笑う。


 夕陽が海を朱に染める。

 風が帆を膨らませ、船体を押し出す。


 そのとき――風の中に、微かな声が混じった。

『……それが、あなたの旅です』


 やわらかな声。あの日、悠をこの世界へ導いた女神の声だった。

 悠は目を細め、そっと呟く。


「……いい風だな」


 追い風が、白い帆を大きくはためかせた。

 港の町が遠ざかり、空と海の境がひとつに溶ける。


 《シーウィンド号》は、自由という名の風に乗って走り出す。

 ――過去から解き放たれた悠の、新しい旅が始まった。



 


第一章完結

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