第4話 癒しの潮風、吹く ――祈りの風
港町フェリスに来て、十日ほどが過ぎた。
朝の潮風は少し冷たく、空の青もどこか深くなっている。
けれど港の空気には、張りつめたような重さがあった。
「このところ、魚がまるで獲れねぇ……」
朝市の一角で、漁師たちの低い声が交わされていた。
もうしばらく、漁の網が空を切っているらしい。
潮の香りの中に、不安の匂いが混じっていた。
悠は港の端にある桟橋へと向かった。
そこには――《シーウィンド号》が静かに停泊している。
15人ほどが乗り組める中型帆船。
かつてはフェリスの漁師団が誇りにしていた船だったが、
今は傷んだまま、長く岸に繋がれたままだ。
その甲板にひとり立ち、悠は割れた板を外して磨いていた。
潮に焼けた木を削り、油を塗り直し、帆の端を縫い合わせる。
指先をそっとかざすと、潮の香りがふわりと揺れた。
《潮風の手》――海の力を借りて、物に触れずに細工を施す。
空気と水の粒がゆるやかに集まり、板の隙間に沿って滑る。
ひび割れた木肌がゆっくりと締まり、古い釘が風の膜に守られて輝きを取り戻していく。
誰に頼まれたわけでもない。ただ、少しずつ“この船が笑う顔”を見てみたくなったのだ。
海風が髪を揺らしたとき、背後から声がした。
「ずいぶん根気のいる仕事をしてますね」
顔を上げると、朝市で見かけるパン職人見習いのノアが立っていた。
腕まくりした白衣に粉の跡を残し、陽光を背に微笑んでいる。
「これ、誰も使ってないんです。もったいなくて」
「シーウィンド号ですよね。昔、うちの祖父が乗ってた船なんです」
「えっ、そうなんですか?」
「はい。祖父がよく話してました。
夜の港で“潮風を呼ぶ歌”が聞こえると、翌朝には必ず穏やかな海になるんだって。
――港が眠るとき、どこからか風を連れてくる人が現れる。そんな古い言い伝えがあるそうです」
「潮風を連れてくる人……」
「子どものころは信じてたんですけどね。
でも、不思議なんです。あなたがこの町に来てから、
潮の香りが、少しだけやさしくなった気がして」
ノアはそう言って微笑んだ。
焼きたてのパンのように、温かく、素朴な笑み。
悠は少し照れながら、手にした木片を撫でた。
「きっと、この船も……また海に出たがってるんでしょうね」
「ええ。祖父もよく言ってました。“風を忘れた船ほど、寂しいものはない”って」
その言葉の直後、港の方からざわめきが広がった。
「今日も……ダメだ!」
漁師たちの声が響く。
網は軽く、魚影は見えない。
波が冷たく濁り、海鳥さえも遠巻きに輪を描いていた。
その光景に、悠の胸が静かに痛んだ。
――この港の笑顔を支えてきた海が、泣いている。
ノアが不安そうに呟いた。
「……どうしようもないんでしょうか」
「わからない。でも……少し、試してみます」
悠は桟橋を降り、波打ち際に立った。
波が足元を濡らし、冷たさが心地よい。
両の手を胸の前に重ね、静かに目を閉じる。
――風よ、海よ。どうか、もう一度この町に穏やかな息吹を。
祈りの瞬間、空気がふっと変わった。
潮の流れがゆるやかに渦を描き、悠の掌から淡い光がこぼれる。
海辺に透明な風が生まれ、波とともに沖へと広がっていった。
《海風の加護》が、そっと応えたのだ。
しばらくして――港の向こうから、歓声が上がった。
「おい、見ろ! 群れだ!」
「魚が戻ってきたぞ!」
青銀の光が海中を走る。
風が潮を変え、眠っていた海が目を覚ます。
漁師たちは慌ただしく網を投げ、子どもたちは波打ち際で跳ね回った。
ノアは目を見張ったまま、悠を見つめた。
「……今の、まさか悠さんが?」
「さぁ。ただ、少し風に祈っただけです」
悠は微笑んだ。
潮風が頬を撫で、その背を押すように抜けていく。
ノアはその風に目を細めながら、そっと呟いた。
「やっぱり……潮風を連れてくる人、いたんだ」
港に笑い声が満ちる。
《シーウィンド号》の帆が穏やかに揺れた。
その帆に触れた潮風は、確かに“癒しの潮風”だった。




