第3話 港町フェリス ――癒しの風
港町フェリスに来て、一週間。
波の音が、ゆるやかに胸の奥を撫でていく。
まぶたを開けると、木の梁の隙間から差し込む光が、淡くゆれていた。
潮の香りに混じって、パンを焼く香ばしい匂いがする。
それはまるで、風が人々の営みを運んでくるようだった。
(……この町の朝は、風が優しい)
起き上がり、窓を開ける。
潮風が、ふわりと頬を撫でた。
(もしかして……この風、生きてるのかもしれないな)
外に出ると、サリヴァンが魚の樽を転がしているところだった。
「おう、もう起きたか。朝の潮風に叩き起こされたか?」
「ええ。風が気持ちよくて、つい早起きしました」
「はは、ここじゃそれが一番の目覚ましだ。
潮風が冷たけりゃ雨、ぬるけりゃ凪の前触れ。
風の匂いを読めりゃ、一人前の船乗りってもんさ」
「なるほど……港の人は、風で生きてるんですね」
「おう。風と潮の機嫌が良けりゃ、今日も良い漁になる」
軽く手を振って、サリヴァンは港の方へ歩いていった。
潮風がその背を押すように吹き抜ける。
悠の頬にも、その流れがそっと触れた気がした。
戸口に戻り、初めて行った朝市で手に入れた“アーラの実”を思い出す。
(たしか、煮ると苦くて目が覚めるって言ってたな)
小鍋に水を張り、実を入れて火にかける。
ほのかに焦げたような香ばしい香りが漂い、
潮の香りと混ざり合って、家の前の通りまで流れていった。
そのとき、通りから水をはじく音と、衣擦れの気配がした。
洗濯籠を抱えた女性が通りかかる。
「おはようございます。ちょっと前からお隣にいらした方ですよね?」
「あ、はい。悠といいます」
「私はリゼ。魚屋の手伝いをしてるの。……その香り、もしかしてアーラ?」
「ええ。試しに煮てみたんです。少し苦いけど、懐かしい匂いで」
「ふふ、それ、船乗りたちが夜明けに飲む“苦いおまじない”よ。
嵐の前でも目が覚めるって言われてるの」
「なるほど……確かにそんな感じです」
リゼは笑い、潮風に乗る香りを少し嗅いで目を細めた。
「面白い香りね。海の塩気と混ざると、ちょっと甘くなる」
「風のせいかもしれません。この町の風、なんだか優しくて」
「フェリスの風はね、人の心を映すって言われてるの。
優しい人がいれば、風も優しくなるのよ」
そう言って、リゼは洗濯籠を持ち直した。
「それじゃ、干し場に行くわ。またね、悠さん」
潮風がリゼのスカーフを揺らし、陽光がその笑顔を照らした。
彼女を見送ったあと、悠は少し家の前を掃除することにした。
昨日の潮風で濡れた板を拭き、落ちていた貝殻を拾い集める。
そのうち、港の方から子どもたちの声が聞こえてきた。
手作りの帆船を競わせて遊んでいるらしい。
「風を捕まえろー!」
その声に、潮風が呼応するようにふっと吹く。
舟の布帆がふくらみ、ひとつが見事に前へ進んだ。
子どもたちは歓声を上げる。
――そのとき、悠の胸に微かな温もりが生まれた。
風が、自分の心に応えたような気がした。
昼下がり。
港の通りを歩くと、多くの人が声をかけてくれた。
「おう、風の兄ちゃん! 今日もいい潮だな!」
「リゼから聞いたぞ。アーラを煮るんだって? 今度飲ませてくれよ!」
笑い声が潮風に乗って広がっていく。
悠は照れくさそうに笑いながらも、胸の奥が温かくなるのを感じた。
――異世界に来て、初めて「誰かに受け入れられた」気がした。
港の風が頬を撫でる。
来たばかりの頃はまだ「知らない風」だったそれが、
今はもう、“知っている風”になりつつあった。
潮の香りと人の声が混ざり合う午後。
風が、笑い声をそっと撫でていく。
その中で吹く風は、確かに――“癒しの風”だった。




