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アーシェル・ブルー  作者: ニート主夫
第5章

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第7話 旅立ちの歌

アイリスが奏でる祝祭のワルツが終わると、塔の頂に再び静寂が訪れた。

 だがそれは、先ほどまでの張り詰めた沈黙ではない。満ち足りた安らぎを含んだ、穏やかな静けさだった。


 回転する巨大なレンズが放つ青白い光が、一定のリズムで夜の海を撫でていく。

 その光景は、まるで海そのものが呼吸をしているようだった。


「ふふ……久しぶりに誰かに聴いていただけて、鍵盤たちも喜んでいるようです」

 椅子から立ち上がったアイリスが、ふわりとスカートを揺らして微笑む。

 その表情は、初めて出会ったときの無機質な人形ではなく、どこか血の通った少女のように柔らかかった。


「素敵な曲だったよ。霧が晴れた景色と相まって、鳥肌が立った」

 悠の素直な感想に、アイリスは頬をわずかに染める。


「よろしければ、下の階へいらしてください。ささやかですが、お茶の用意がございます」


「お、ホント? 喉渇いてたんだよな!」

 ノアが一番に反応し、悠の肩の上でシロも「ピィ!」と短く鳴いた。


 一行はアイリスに導かれ、展望室の下にある居住スペースへ降りていく。

 そこはかつての灯台守が暮らしていた部屋で、古びてはいるが手入れが行き届いていた。暖炉には魔法の残り火が、パチパチと温かい音を立てている。


 アイリスが棚から取り出したのは、乾燥させたラベンダーと青い花弁だった。

「この塔の裏庭で育てている“月光草”とラベンダーのブレンドティーです。疲れを癒やす効果があります」


 注がれた液体は透き通った琥珀色で、カップから立ち上る湯気とともに、甘くやさしい香りが部屋を包んだ。


「いただくわね……うん、美味しい」

 リィアがカップを両手で包み、ほうっと息を吐く。その肩の力がゆっくりと抜けていく。


「ああ、こいつはいい。冷えた体に沁みるわい」

 サリヴァンもソファに身を沈め、満足げに目を閉じた。


 テーブルの上には、ノアが船から持ち出した干し肉とパンが並べられる。

 塩気の効いた肉と香り高いお茶は奇妙な取り合わせだが、冒険者にとっては最高の組み合わせだった。


 シロはノアから千切ってもらったパンの欠片を啄み、満足そうに飲み込むと、暖炉近くの椅子の背もたれで羽を丸めて「休息モード」に入った。


 悠はその小さな背中を眺めながら、窓の外に流れる灯台の光を見つめた。


「ねえ、アイリスさん」

 ノアが干し肉を噛みながら尋ねる。

「ずっと一人で、寂しくなかったの?」


 アイリスはポットを持つ手を止め、少し遠くを見る目をした。

「寂しさという感情を、私が正しく理解できているかは分かりません。ただ……嵐の夜、波の音だけが響くとき、自分のネジが巻かれる音さえ怖く感じることがありました」


 彼女は一人ひとりの顔を見渡し、微笑んだ。

「ですが、今は違います。私のハートは、皆様の温かな魔力で満たされていますから」


「……そっか」

 ノアは照れくさそうに鼻をこすった。


 悠がふと顔を上げる。

「そういえばアイリス、さっきの“歌う水晶”だけど……もう僕がいなくても光り続けるの?」


「はい。悠様の魔力を種火に、海風を自動的に光へ変換するサイクルが確立しました。もう私がつきっきりで注ぐ必要はありません」

 誇らしげに言った後、アイリスはハッと口を押さえた。


「ということは……」

 リィアがカップを置き、真っ直ぐに見つめる。

「あなたはもう、塔の部品じゃない。動けるのね?」


 アイリスの瞳孔が小さく収縮した。

「理論上は、そうです。ですが私は――守人ですから」


「守る灯りは、もう自分で歌ってるぞ」

 サリヴァンが紫煙をくゆらせながら笑う。

「優秀なオートマタが、ただ埃を被って座ってるのは惜しいだろう?」


「外の世界、見てみたくない?」

 悠が身を乗り出す。

「僕たちの船、ちょっと手狭だけど――音楽のある航海はきっと楽しい」


「私が……船に? 海を渡るのですか?」

「嫌か?」

「いいえ。そんなはずがありません!」


 声が弾んだ。

「私はずっと、あの水平線の向こうに何があるのか、この光がどこまで届いているのかを知りたかった」


 胸の奥で歯車が高鳴るような音がした。

 アイリスは裾を摘み、優雅に、しかし少し震える膝で一礼する。


「お願いします。私を旅へ連れて行ってください。皆様の航路を、この光で照らしたいのです」


「決まりだな」

 ノアがテーブルを叩く。驚いたシロが羽毛の中から顔を出して「ピィ!?」と鳴いた。

 皆が笑い、アイリスもまた、くしゃりと笑った。


「今夜はもう遅い。出発は夜明けと共にしよう」

 サリヴァンの言葉に、アイリスは嬉しそうに頷く。

「はい! 客室を整えてまいりますね。楽譜と、予備のオイルと……」


 忙しく動き回る姿を見送りながら、悠は残ったお茶を口に含んだ。


 夜が明ける。

 水平線の彼方から朝日が昇り、霧の晴れた海が宝石のような群青に染まる。


「よく寝た! 揺れないベッドって最高だな!」

 ノアが塔の出口で伸びをすると、シロが「ピィ!」と空へ飛び立った。


「忘れ物はないか、嬢ちゃん」

 サリヴァンがロープを解きながら声をかける。


「はい。……あ、いいえ。ひとつだけ」

 アイリスは大きなトランクを手に、塔を見上げた。


 苔むした石壁、天を突くレンズ。

 かつての彼女のすべて。


 額をそっと石に当て、静かに告げる。

「行ってまいります。この灯りが照らす海を、見てきますね」


 それは、亡き主人への挨拶であり、塔そのものへの別れでもあった。

 彼女は涙と朝日を瞳に宿し、振り返った。


「お待たせしました!」

「よし、乗船だ。足元に気をつけて」


 悠の手に導かれ、アイリスは甲板へと足を踏み出す。

 波が揺れ、船が応える。


「……揺れますね。これが、海の上」

「酔わないか? アイリスでも船酔いするのか分からないけど」

「平衡感覚センサーを航海モードに調整しました。問題ありません。……心地よいです」


「そりゃ頼もしい。じゃあ、出航といこう」

 サリヴァンの号令とともに帆が風を孕み、船体が前へ押し出された。


 アイリスは手すりに駆け寄り、遠ざかる塔を見つめる。

 霧に閉ざされた孤独の塔は、いまや青空の下で輝く美しい道標となっていた。


「綺麗……外から見ると、こんなに立派だったのですね」

「これからは、帰る場所としてあそこで光ってるよ」

 ノアが笑い、ポケットのパンを差し出す。

「はい、門出の祝い。食べられる?」


「ありがとうございます。有機物の摂取は非効率ですが……味覚センサーは機能しています」

 アイリスはパンを頬張り、小首を傾げる。

「……おいしい。不思議と力が湧いてくる味がします」


 上空ではシロがマストの頂に止まり、得意げに羽繕いをしていた。


「行こう。新しい風が吹いている」

 悠の声に、船首が波を割る。

 白い飛沫が弧を描き、暁の灯台の光が彼らの背を見送った。


 ――それが、アイリスの最初の航海だった。


孤独な灯台を守り続けてきた自動人形アイリスは、嵐の夜に漂着した旅人たちと出会い、“誰かのため”に音を奏でる。

彼らの魔力で灯が蘇ったとき、アイリスは“守る部品”ではなく、“旅する仲間”として生まれ変わる。

夜明けの海へ踏み出す少女と、仲間たちの新たな航海の物語。

――ひとつの心が灯る音の祝祭。


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