第5話 釣れない午後と光る瓶、導きの鍵
午後の日差しが海面を宝石のようにきらめかせ、船の上には、贅沢な退屈が漂っていた。
「う〜ん……釣れない」
ノアが船べりから垂らした釣り糸を恨めしそうに見つめる。隣ではシロが首を長くして海面を覗き込み、「まだか」と無言の圧をかけていた。
「そんなに焦るもんじゃない。釣りってのは、魚との根気比べ、あるいは海との対話じゃよ」
サリヴァンがタバコをふかしながら(中身はただのハッカ草だが)、もっともらしい顔で言う。
「そうは言ってもさぁ……。あ、また逃げられた!」
ノアが竿を上げると、針には海藻が引っかかっているだけだった。
悠はその様子を眺めながら、穏やかな風の流れを感じていた。
平和だ。けれど――風の味がほんの少し変わった気がする。甘い花の香りから、冷たく、それでいて懐かしい匂いへ。
(何かが、流れてきている……?)
その瞬間、シロが鋭く鳴き声を上げ、翼を広げて海面の一点を指し示した。
「どうしたんだ、シロ? 魚か?」
ノアが身を乗り出す。
「……ん? あれ、なんだろう。魚じゃない。なんか光ってる?」
悠も駆け寄る。波間に浮かんでいたのは、青白い光を放つガラス瓶だった。太陽の反射ではない。瓶そのものが内側から仄かに発光している。
「おいおい、妙なもんが流れてきたな」
サリヴァンが操舵輪を固定してやって来る。「ただのゴミじゃなさそうだが」
ノアが網を構えるが、瓶は絶妙に届かない位置に揺れている。
悠は一歩前に出て、右手を海へ向けた。
(丁重にお招きしよう)
《潮風の手》を使い、優しい風が瓶を包み込む。ふわりと宙へ持ち上がり、まるで見えない手に運ばれるように、瓶は悠の手のひらへと収まった。
「ナイスキャッチ、悠さん!」
瓶は水晶のように透明度が高く、硬く塞がれたコルク栓には古い封蝋が施されていた。中には一枚の紙切れと銀色の鍵。
「綺麗な瓶……。それに、なんだか悲しい音がするわ」
リィアが触れ、不思議そうに呟く。
「音がするのか?」
「ええ。耳には聞こえないけど……心が震えるような、誰かを探している音」
瓶を開けると、掠れた囁きが風のように溢れ出した。
『……求む……』
『……灯台の……火を……』
精霊の声だ、とリィアが息を呑む。
瓶から出てきたのは古びた羊皮紙の断片と、装飾の施された銀の鍵。羊皮紙には海上に立つ一本の塔が描かれ、その頂から光が放たれていた。
ノアが鍵を摘み上げると、先端がコンパスの針のように回転し、北東の空を指し示した。
「意思を持つ魔道具か」
サリヴァンが目を丸くする。
「……助けを求めてるなら、無視はできないよ」
悠の言葉にノアも頷き、リィアが鍵を撫でると、鍵は嬉しそうに明滅した。
「アウル=グレイヴから変更だ! 目指すは北東、謎の“光る塔”じゃ!」
サリヴァンが操舵輪を回し、船は新たな波を切って進み始めた。
数時間後。
穏やかだった海に、不穏な波が立ち始める。
「あれ、後ろ! 何か来る!」
ノアの声に振り返ると、赤黒い帆を張った船が猛スピードで迫っていた。船首には鉄の牙のような衝角。
「赤鮫団の船じゃな」
サリヴァンが舌打ちする。
「この辺りを縄張りにしているトレジャーハンター崩れじゃよ。鼻が利く連中だ。おそらくワシらが拾ったその“鍵”の魔力を嗅ぎつけたんだろう」
拡声魔導具を通じて声が響く。
「おーい! そこの貧相なボロ船! “導きの鍵”を渡せ! オレ様はキャプテン・バルゴだ!」
豪快に笑いながら叫ぶバルゴの背後で、部下が慌てて「船長、唾が飛んでますってば!」とツッコむ。
バルゴは「おっと悪い!」と口元を拭きながらも、まったく反省していない。
「ボロ船とは失礼な。愛着あるヴィンテージと言え!」
サリヴァンが言い返すが、届かない。
「戦う?」
リィアが不安げに問う。
「いや、……逃げ切ろう」
悠の決断に、サリヴァンが操舵輪を握り直す。
追跡劇が始まった。
鉤縄が次々と飛来するが、悠は《潮風の手》で風の盾を作り、軌道を逸らす。だが防御だけでは限界がある。
「悠、風向きが変わる!」
リィアが指さす先には、白波が一本の道のように伸びていた。海の高速道路――局地的な海流と風の通り道。
「サリヴァンさん! あの白波へ!」
「風が足りん!」
「俺が押します!」
悠は《海風の加護》に祈り、指輪の紋が魔力を解き放つ。爆発的な突風が帆を限界まで膨らませ、船はソリのように加速し、白波の道へ飛び込んだ。
「な、なんだあの加速は!? 待て、逃がすなーッ!」
バルゴの叫びは遠ざかり、バルゴ船は置き去りにされた。
一時間後。
バルゴ船の姿は消え、悠は甲板に膝をつき荒い息を整える。
「悠さん、大丈夫!?」
ノアが水筒を差し出す。
「ありがとう、ノア。……へいき、ちょっと疲れただけ」
「やったわね、私たち!」
リィアが笑い、サリヴァンも親指を立てる。
「ピィ!」
シロが悠の頭に止まり、誇らしげにつついた。
仲間たちの安堵した顔。スリル満点の追走劇だったが、不思議と怖くはなかった。
「さて、邪魔者は撒いたが……」
サリヴァンが顎で前方を示す。
そこには、不気味なほど濃い霧が立ち込めていた。銀の鍵は、その奥を真っ直ぐに指し示している。
「どうやら、ここからが本当の冒険らしいな」
悠は立ち上がり、霧の向こうを見据えた。
風が、また少し匂いを変えた気がした。




