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アーシェル・ブルー  作者: ニート主夫
第5章

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第4話 波間のゆりかごと、パンが焼ける朝

星風の島が水平線の彼方へ溶け、空と海の色が区別できないほど美しい蒼一色になった頃。

海風(ブリーズ)()加護(ギフト)》を持つ悠たちの船は、驚くほど穏やかな海に揺られていた。


「……ふぅ」

ノアが甲板に大の字になって、空に向かって大きく息を吐き出した。


その顔には、もう焦りも迷いもない。あるのはただ、心地よい疲労感と安心感だけだ。


操舵輪を握っていたサリヴァンが、髭を揺らして苦笑する。

「おいおい、まだ島が見えなくなったばかりだぞ。気が抜けるのが早すぎんか」


「いいじゃないですかぁ。だって、見てよこの空。青すぎるくらい青いよ」

ノアの言う通りだった。試練の荒波が嘘のように、今の海はまるで溶かした宝石のように穏やかだ。


リィアが手すりに寄りかかり、潮風に長い髪をなびかせながら瞳を細めている。

「風から甘い匂いがするわ。……なんだか、お昼寝したくなっちゃう」

その言葉に、悠は帆のロープを結びながら、こくりと頷いた。


(平和だ……)

心の中でそう呟く。


襲い来る影も、心を試す幻影もない。ただ、波が船腹を優しく叩くリズムだけがある。


その時――。


“ぐぅぅ〜〜〜、きゅるるる……”


静寂な海に、何とも情けない音が響き渡った。

全員の視線が、一点に集中する。


ノアが顔を真っ赤にして、慌ててお腹を押さえた。

「ち、違うんだ! これは、その……試練を越えた魂の叫びというか!」


「ほう? 魂の叫びとは、随分と食いしん坊な音がするもんじゃな」

サリヴァンがからかうと、リィアが“ふふっ”と口元を押さえて笑った。


悠もまた、こみ上げる笑いを堪えきれず、肩を震わせて空を見上げる。

平和だ。そして、何より温かい。


「よし!」サリヴァンが袖をまくり上げた。「魂が叫んでるなら仕方あるまい。わしがとびきりの獲物を釣ってやろう。今日は“試練お疲れ様会”といくか!」


「賛成! 私、スープ作る!」リィアが手を挙げる。


悠は、ふわりと風を指先に集めた。


女神は言った。“加護を使いすぎてはならない”と。

けれど悠は思った。戦うためではなく、仲間を温めるためなら、風もきっと喜ぶはずだと。


(俺は……火の番をしよう。最高の風加減で)


     * * *


日が暮れ始め、空が紫から藍色へと変わる頃。


甲板には、幸せな香りが満ちていた。


サリヴァンが釣り上げたのは、鱗が七色に輝く“ニジマス・タイ”。


リィアが旅の途中で集めた香草と保存野菜を合わせ、コトコトと煮込んだ特製のクリームシチューだ。


鍋の下で燃える火は、悠が操る微かな風によって、強すぎず弱すぎず、絶妙な加減を保っている。


時折、悠が風でいい匂いをノアの鼻先へわざと運ぶと、ノアがお腹をさすりながら恨めしそうにこちらを見る。そんなやり取りさえも楽しかった。


「さあ、できたわよ!」

リィアの声と共に、四人は車座になって湯気の立つ器を囲んだ。


「いただきます!」

ノアがスプーンいっぱいに具材をすくい、口へと運ぶ。

その瞬間、彼の表情がとろりと緩んだ。

「……おいしい……っ!」


「うむ、魚の脂が溶け出して、最高の味じゃな」

サリヴァンも目を細め、隠し持っていた果実酒をちびりと舐める。


リィアは嬉しそうに微笑み、夜空を見上げた。

「星の歌もいいけど、今は波の音が最高のおかずね」


悠も一口、スープを口に含んだ。

温かい。


身体の芯まで染み渡るような優しさ。


言葉はなくとも、この温もりだけで十分だった。


心の底からそう思った。


     * * *


食後、満腹になった一行は、誰からともなく甲板にごろりと横になった。

島の祝福が守っているのか、夜風は全く冷たくない。

頭上には満天の星。揺れる船はまるで巨大なゆりかごだ。


「次は……どんな島かな……」

ノアが呟き、返事を待たずに寝息を立て始めた。

“すー、すー”という規則正しいリズムが、波の音に重なる。


「ふぁ……私も、もう……」

リィアもまた、長いまつ毛を伏せて夢の中へ。


サリヴァンは腕組みをしたまま、満足げな寝顔でいびきをかいている。


悠は最後に一人、夜空を見上げた。

もう、焦りも恐怖もない。

彼はそっと目を閉じ、仲間の寝息という優しい“音”に包まれて、深い眠りについた。


船は黄金の星屑を散らすように、静かな海をゆっくりと進んでいく。

明日また吹く風を、楽しみに待つように。


* * *


波の音が穏やかな目覚まし時計となり、悠はゆっくりと目を開けた。


甲板に出ると、朝日が水平線を黄金色に染めている。


そして、船の一角から何やら楽しげな声と、不思議な羽音が聞こえてきた。


「こらこら、シロ。まだつついちゃダメだってば。これは発酵させてるんだから」

“ピィ!”

声の主はノアだ。彼は袖をまくり上げ、白い粉にまみれながらボウルと格闘していた。


その傍らには、樽の上にちょこんと座る一羽の白いカモメ――通称「シロ」の姿があった。


このシロは、島を出る時になぜかついてきてしまったカモメだ。ノアのことが気に入ったのか(あるいはノアがおやつをくれると見抜いたのか)、こうして彼の作業を監督するのが日課になりつつある。


「おはよう、悠さん!」

悠の姿に気づいたノアが、頬に白い粉をつけたまま笑顔を向けた。


「昨日のシチューも最高だったけど、やっぱり朝は焼きたてのパンが食べたいなって思って。シロも手伝ってくれてるんだよ。……まあ、つまみ食いを狙ってるだけかもしれないけど」


“ピィ?”

シロが「失礼な」とでも言うように首を傾げ、翼をパタパタとさせた。その拍子に舞い上がった小麦粉がノアの鼻先にかかり、ノアが“くしゅん!”とくしゃみをする。


その様子がおかしくて、悠は音もなく微笑んだ。


しかし、ノアは少し困った顔で生地を見つめる。

「でも、やっぱり海の上だと膨らみが悪いなぁ。温度が足りないのかな……」


ボウルの中の生地は、まだ眠たげに縮こまったままだ。


美味しいパンには、適切な温かさと、生地を休ませる優しい時間が必要だ。


悠はノアの隣に歩み寄ると、そっと手をかざした。

(温かい風よ、もう少しだけ力を貸してくれ)


海風(ブリーズ)()加護(ギフト)》を意識する。戦うための突風ではなく、春の日差しのような、柔らかく温かい微風を。


悠の指先から生まれた温かな空気が、ふわりとボウルを包み込んだ。


「わぁ……! すごい、悠さん! 生地が呼吸してるみたいだ!」

ノアが目を輝かせる。


温もりに誘われるように、生地はぷっくりと膨らみ、甘いイーストの香りを漂わせ始めた。


シロもその変化に気づいたのか、樽の上で“クルッピィ!”と興奮気味にステップを踏んでいる。


「よし、これならいける! ありがとう悠さん。シロ、焼き上がるまでもうちょっと我慢だぞ?」

ノアは器用に生地を丸めると、即席の窯へと入れていく。


シロは待ちきれない様子で、窯の前をウロウロと行進し始めた。その姿はまるで、パンの番人のようだ。


     * * *


やがて、香ばしい匂いが甲板いっぱいに広がった。

その匂いに釣られて、サリヴァンとリィアも欠伸をしながら起きてくる。


「む……これはたまらん匂いじゃな」


「んー、幸せな香り……」


「焼けたよー! 特製“星風パン”の完成だ!」

ノアが窯を開けると、黄金色に焼き上がったパンが顔を覗かせた。外はカリッと、中はふんわり。

湯気を立てるそれをバスケットに盛ると、まずは一番の功労者(?)へ。


「はい、シロ。手伝ってくれてありがとな」

ノアがちぎったパンのかけらを差し出すと、シロは嬉しそうに“ピィピィ!”と鳴き、パクっとくわえて空高く舞い上がった。


マストの上で戦利品を味わう相棒を見上げ、ノアは満足げに笑う。

「さあ、みんなも食べて! 悠さんの風のおかげで、今までで一番ふっくらに焼けたんだ」


サリヴァンが豪快にかじりつき、リィアが「美味しい!」と声を上げる。


悠も一つ手に取り、口へと運んだ。


温かくて、素朴で、優しい味。


ノアの一生懸命さと、シロの賑やかさと、この船の温もりが詰まった味だ。

「次はジャムも作りたいな。ねえシロ、次は果物を探すの手伝ってよ?」


マストの上から“ピィ”と返事が聞こえた気がした。


青い空、白い雲、そして焼きたてのパンの香り。


悠はコーヒーを片手に、賑やかな仲間と一羽の新しい家族を眺めながら、穏やかな朝の光に目を細めた。

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