第4話 波間のゆりかごと、パンが焼ける朝
星風の島が水平線の彼方へ溶け、空と海の色が区別できないほど美しい蒼一色になった頃。
《海風の加護》を持つ悠たちの船は、驚くほど穏やかな海に揺られていた。
「……ふぅ」
ノアが甲板に大の字になって、空に向かって大きく息を吐き出した。
その顔には、もう焦りも迷いもない。あるのはただ、心地よい疲労感と安心感だけだ。
操舵輪を握っていたサリヴァンが、髭を揺らして苦笑する。
「おいおい、まだ島が見えなくなったばかりだぞ。気が抜けるのが早すぎんか」
「いいじゃないですかぁ。だって、見てよこの空。青すぎるくらい青いよ」
ノアの言う通りだった。試練の荒波が嘘のように、今の海はまるで溶かした宝石のように穏やかだ。
リィアが手すりに寄りかかり、潮風に長い髪をなびかせながら瞳を細めている。
「風から甘い匂いがするわ。……なんだか、お昼寝したくなっちゃう」
その言葉に、悠は帆のロープを結びながら、こくりと頷いた。
(平和だ……)
心の中でそう呟く。
襲い来る影も、心を試す幻影もない。ただ、波が船腹を優しく叩くリズムだけがある。
その時――。
“ぐぅぅ〜〜〜、きゅるるる……”
静寂な海に、何とも情けない音が響き渡った。
全員の視線が、一点に集中する。
ノアが顔を真っ赤にして、慌ててお腹を押さえた。
「ち、違うんだ! これは、その……試練を越えた魂の叫びというか!」
「ほう? 魂の叫びとは、随分と食いしん坊な音がするもんじゃな」
サリヴァンがからかうと、リィアが“ふふっ”と口元を押さえて笑った。
悠もまた、こみ上げる笑いを堪えきれず、肩を震わせて空を見上げる。
平和だ。そして、何より温かい。
「よし!」サリヴァンが袖をまくり上げた。「魂が叫んでるなら仕方あるまい。わしがとびきりの獲物を釣ってやろう。今日は“試練お疲れ様会”といくか!」
「賛成! 私、スープ作る!」リィアが手を挙げる。
悠は、ふわりと風を指先に集めた。
女神は言った。“加護を使いすぎてはならない”と。
けれど悠は思った。戦うためではなく、仲間を温めるためなら、風もきっと喜ぶはずだと。
(俺は……火の番をしよう。最高の風加減で)
* * *
日が暮れ始め、空が紫から藍色へと変わる頃。
甲板には、幸せな香りが満ちていた。
サリヴァンが釣り上げたのは、鱗が七色に輝く“ニジマス・タイ”。
リィアが旅の途中で集めた香草と保存野菜を合わせ、コトコトと煮込んだ特製のクリームシチューだ。
鍋の下で燃える火は、悠が操る微かな風によって、強すぎず弱すぎず、絶妙な加減を保っている。
時折、悠が風でいい匂いをノアの鼻先へわざと運ぶと、ノアがお腹をさすりながら恨めしそうにこちらを見る。そんなやり取りさえも楽しかった。
「さあ、できたわよ!」
リィアの声と共に、四人は車座になって湯気の立つ器を囲んだ。
「いただきます!」
ノアがスプーンいっぱいに具材をすくい、口へと運ぶ。
その瞬間、彼の表情がとろりと緩んだ。
「……おいしい……っ!」
「うむ、魚の脂が溶け出して、最高の味じゃな」
サリヴァンも目を細め、隠し持っていた果実酒をちびりと舐める。
リィアは嬉しそうに微笑み、夜空を見上げた。
「星の歌もいいけど、今は波の音が最高のおかずね」
悠も一口、スープを口に含んだ。
温かい。
身体の芯まで染み渡るような優しさ。
言葉はなくとも、この温もりだけで十分だった。
心の底からそう思った。
* * *
食後、満腹になった一行は、誰からともなく甲板にごろりと横になった。
島の祝福が守っているのか、夜風は全く冷たくない。
頭上には満天の星。揺れる船はまるで巨大なゆりかごだ。
「次は……どんな島かな……」
ノアが呟き、返事を待たずに寝息を立て始めた。
“すー、すー”という規則正しいリズムが、波の音に重なる。
「ふぁ……私も、もう……」
リィアもまた、長いまつ毛を伏せて夢の中へ。
サリヴァンは腕組みをしたまま、満足げな寝顔でいびきをかいている。
悠は最後に一人、夜空を見上げた。
もう、焦りも恐怖もない。
彼はそっと目を閉じ、仲間の寝息という優しい“音”に包まれて、深い眠りについた。
船は黄金の星屑を散らすように、静かな海をゆっくりと進んでいく。
明日また吹く風を、楽しみに待つように。
* * *
波の音が穏やかな目覚まし時計となり、悠はゆっくりと目を開けた。
甲板に出ると、朝日が水平線を黄金色に染めている。
そして、船の一角から何やら楽しげな声と、不思議な羽音が聞こえてきた。
「こらこら、シロ。まだつついちゃダメだってば。これは発酵させてるんだから」
“ピィ!”
声の主はノアだ。彼は袖をまくり上げ、白い粉にまみれながらボウルと格闘していた。
その傍らには、樽の上にちょこんと座る一羽の白いカモメ――通称「シロ」の姿があった。
このシロは、島を出る時になぜかついてきてしまったカモメだ。ノアのことが気に入ったのか(あるいはノアがおやつをくれると見抜いたのか)、こうして彼の作業を監督するのが日課になりつつある。
「おはよう、悠さん!」
悠の姿に気づいたノアが、頬に白い粉をつけたまま笑顔を向けた。
「昨日のシチューも最高だったけど、やっぱり朝は焼きたてのパンが食べたいなって思って。シロも手伝ってくれてるんだよ。……まあ、つまみ食いを狙ってるだけかもしれないけど」
“ピィ?”
シロが「失礼な」とでも言うように首を傾げ、翼をパタパタとさせた。その拍子に舞い上がった小麦粉がノアの鼻先にかかり、ノアが“くしゅん!”とくしゃみをする。
その様子がおかしくて、悠は音もなく微笑んだ。
しかし、ノアは少し困った顔で生地を見つめる。
「でも、やっぱり海の上だと膨らみが悪いなぁ。温度が足りないのかな……」
ボウルの中の生地は、まだ眠たげに縮こまったままだ。
美味しいパンには、適切な温かさと、生地を休ませる優しい時間が必要だ。
悠はノアの隣に歩み寄ると、そっと手をかざした。
(温かい風よ、もう少しだけ力を貸してくれ)
《海風の加護》を意識する。戦うための突風ではなく、春の日差しのような、柔らかく温かい微風を。
悠の指先から生まれた温かな空気が、ふわりとボウルを包み込んだ。
「わぁ……! すごい、悠さん! 生地が呼吸してるみたいだ!」
ノアが目を輝かせる。
温もりに誘われるように、生地はぷっくりと膨らみ、甘いイーストの香りを漂わせ始めた。
シロもその変化に気づいたのか、樽の上で“クルッピィ!”と興奮気味にステップを踏んでいる。
「よし、これならいける! ありがとう悠さん。シロ、焼き上がるまでもうちょっと我慢だぞ?」
ノアは器用に生地を丸めると、即席の窯へと入れていく。
シロは待ちきれない様子で、窯の前をウロウロと行進し始めた。その姿はまるで、パンの番人のようだ。
* * *
やがて、香ばしい匂いが甲板いっぱいに広がった。
その匂いに釣られて、サリヴァンとリィアも欠伸をしながら起きてくる。
「む……これはたまらん匂いじゃな」
「んー、幸せな香り……」
「焼けたよー! 特製“星風パン”の完成だ!」
ノアが窯を開けると、黄金色に焼き上がったパンが顔を覗かせた。外はカリッと、中はふんわり。
湯気を立てるそれをバスケットに盛ると、まずは一番の功労者(?)へ。
「はい、シロ。手伝ってくれてありがとな」
ノアがちぎったパンのかけらを差し出すと、シロは嬉しそうに“ピィピィ!”と鳴き、パクっとくわえて空高く舞い上がった。
マストの上で戦利品を味わう相棒を見上げ、ノアは満足げに笑う。
「さあ、みんなも食べて! 悠さんの風のおかげで、今までで一番ふっくらに焼けたんだ」
サリヴァンが豪快にかじりつき、リィアが「美味しい!」と声を上げる。
悠も一つ手に取り、口へと運んだ。
温かくて、素朴で、優しい味。
ノアの一生懸命さと、シロの賑やかさと、この船の温もりが詰まった味だ。
「次はジャムも作りたいな。ねえシロ、次は果物を探すの手伝ってよ?」
マストの上から“ピィ”と返事が聞こえた気がした。
青い空、白い雲、そして焼きたてのパンの香り。
悠はコーヒーを片手に、賑やかな仲間と一羽の新しい家族を眺めながら、穏やかな朝の光に目を細めた。




