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アーシェル・ブルー  作者: ニート主夫
第1章

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第2話 風を宿す船《シーウィンド号》 ――共鳴の風

 波の音が、夢の底から呼び戻すように聞こえていた。


 ……それはまるで、遠い誰かの記憶が呼吸しているようだった。


 まぶたを開けると、木の梁の隙間から柔らかな光が差し込む。

 潮の香りに混じって、遠くで焼きたてのパンの香ばしい匂いがした。


(……フェリスの町の朝、か)


 体を起こすと、板張りの床の冷たさが心地よい。


 玄関の方からは、戸口を開ける音とともに、低い声が響いた。

「お、起きたか。よく眠れたか?」

 サリヴァンが笑って立っていた。

 手には小さな革袋がぶら下がっている。


「昨日は助かりました」


「礼なんていらんさ。――そうだ、これを持っていきな!」


 サリヴァンは小さな革袋を差し出した。

 袋を開けると、中には数枚の銅貨が入っていた。


「市場を見て回るといい。

 ここ港の風は、食いもんの匂いでできてるからな」


 にやりと笑いながら、彼は港へと向かっていった。


 悠はしばらく袋の銅貨を見つめる。


 光を受けて鈍く光るその金属が、妙に現実味を帯びて見えた。

 通りに出ると、朝市のざわめきが潮風に乗って押し寄せてくる。


 魚の匂い、焼きたてのパンの香り、

 野菜を並べる音、子どもたちの笑い声。


(働かない朝って、こんなに優しいんだな……)


 歩いていると、ひときわ香ばしい香りが漂ってきた。

 露店の棚に置かれた、茶色く乾いた実。

 皺だらけの老婆が木杓子でそれをかき混ぜている。


「それは何ですか?」


「“アーラの実”だよ。煮ると苦くて、目が覚めるんだ」


 その言葉に、悠は思わず顔を上げた。


(……コーヒー豆に、似てる)


「少し分けてもらえますか?」


「変わった兄ちゃんだねえ。いいさ、そのくらい」


 銅貨を二枚手渡すと、老婆は笑った。

「ありがとう。風の加護がある人は、どこか違うねぇ」


 その言葉が自然に心に入ってくる。

 《海風(ブリーズ)()加護(ギフト)》が、また静かに働いている。

 言葉が風に溶けて、理解に変わる感覚だった。


 市場を歩き疲れた足を、潮風がやさしく冷やしてくれる。


 手の中の“アーラの実”の香りが、懐かしい記憶をくすぐった。


 サリヴァンの家に戻り、軒先に腰を下ろす。


 風が柔らかく頬を撫でていく。


 そのとき、軒先に積んであった魚の木箱が、

 潮風にあおられてぐらりと揺れた。

 近くにいた小さな子が驚いて立ちすくむ。


「危ない!」


 悠が反射的に手を伸ばす。


 ――その瞬間、風が動いた。


 潮のきらめきが空気に溶け指先から広がり、

 見えない《潮風タイド()(ハンド)》が箱を押し戻す。


 海水が光を帯びて、箱の欠けた角を包み、

 まるで呼吸をするように、形を直していった。


 木箱は静かに元の場所へ戻り、子どもが安心したように笑った。


 悠は息を呑んだ。


(……今のは、《潮風(タイド)()(ハンド)》?)

 《海風(ブリーズ)()加護(ギフト)》の中に眠る力――

 “風が届かない場所にも届き、海水が形を直す”力。

 “助けたい”という想いに、風と潮が応えたのだ。


 サリヴァンの手伝いをしに港へ向かうと、

 港の片隅で、朽ちかけた船がひとつ、波に揺れていた。


 帆は破れ、舷には海藻がこびりついている。


 だが、なぜかその姿から目を離せなかった。


「サリヴァンさん、あの船は?」


「あれか。《シーウィンド号》ってんだ。風を宿す船だよ。


 昔は港町の誇りだったが、十年前に動かなくなっちまってな……」


「風を……宿す?」


「そうだ。乗る者の心が澄んでりゃ、船は風と話す。

 だが今は、眠っちまったらしい」


 その瞬間、潮風がふっと吹いた。


 《シーウィンド号》の帆の切れ端が、かすかに揺れる。


 まるで、呼吸をするように。


 悠はゆっくりと歩み寄り、船の舷に手を触れた。

 木の表面は温かく、指先がしっとりと濡れるような感触。


 その瞬間――世界が、揺れた。


 視界に、波の色が流れ込んでくる。

 ざわめく甲板。風をはらんだ白い帆。

 笑い声、歌声、舵を握る手。


 そして――突如襲った黒い嵐の影。


 風が悲鳴をあげ、帆が裂ける。

 海が牙をむき、船を呑みこもうとしていた。


 船体を抱くように吹いた最後の風――


 その名を、「シーウィンド」と呼んだ。


 はっとして手を離すと、《潮風(タイド)の《・》記憶(メモリー)》は静かに消えた。

 息が荒く、手のひらはほんのり温かい。

(今の……もう一つの《潮風(タイド)()記憶(メモリー)》……?)

 海が見てきた“過去”の記憶を風が運んできた。


 それが、悠の中に流れ込んできたのだ。


 潮風が頬を撫でる。


 その風は、まるで“見つけてくれてありがとう”と囁いているようだった。

 悠は小さく笑った。


「……君も、まだ生きているんだな」


 港の空に、夕陽が沈む。

 潮の香りの向こうで、風がまた、やさしく吹いた。

 その風が、まだ見ぬ明日へと――悠を誘っていた。



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