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アーシェル・ブルー  作者: ニート主夫
第4章

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第7話 風貝の航路

誰もが深い眠りについた真夜中、リィアは微かな風の変化に目覚めた。

 彼女はそっと自室を出て、船首へと向かう。夜の海は鏡のように静かで、星の光を映していた。手に持った《風貝ふうかい》は微かに温かく、彼女の手の中で小さく脈打っている。


「……あなたは、何を覚えているの?」


 リィアが風貝に囁いたその時、背後から静かな足音が近づいた。悠だった。


「目が覚めたの?」


 悠の声は、夜の海のように落ち着いていた。


「僕も、少し……」


 悠はリィアの隣に立ち、二人で無言のまま海を眺める。

 リィアが風貝を悠に渡すと、彼の《潮風タイド記憶メモリー》が反応したのか、貝は淡い青色の光を放ち始めた。


 その光は、船首の甲板に、まるで地図の線のように細く、曲がりくねった光の線を描き出す。

 それは、見えない航路を示しているようだった。


 ふたりはしばらく黙って、光の航路を見つめていた。

 リィアはそっと胸元から、透きとおった《風の海図》を取り出す。


 風貝の光が海図の表面に吸い込まれるように流れ込んだ。

 青い線は海図の中でゆっくりと形を変え、ひとつの航路を描き出す。


 やがて光は一点で止まり、そこに小さな印が浮かび上がった。

 それは地図には載っていない場所――風の流れが選んだ、寄港地。


「行ってみる?」


 悠が静かに問う。

 リィアは海図を見つめたまま、少しだけ微笑んだ。


「風が、そこへ行きたがってる気がする」


 航路はもう、次の朝へ向かって動き始めていた。


 朝の光が甲板を照らし、帆がゆるやかに膨らんでいた。

 ノアは厨房から顔を出し、焼きたてのパンの香りが風に乗って広がる。

 サリヴァンは釣り糸を垂らしながら、空を見上げていた。

 悠は舵のそばに腰を下ろし、湯気の立つカップを手にしていた。


「……今日の風は、少し落ち着いてるな」


 彼はコーヒーをひと口飲み、帆の動きを目で追う。


 朝食の準備が整った頃を見計らって、みんなを集めた。

 ノアがパンを配りながら首をかしげる。


「なんだか、ちょっと改まってますね?」


 サリヴァンはパンをかじりながら、無言で頷いた。

 リィアは胸元から《風の海図》を取り出し、甲板に広げる。


「昨夜、風貝が反応して……この航路が浮かび上がったの」


 海図の上には、淡い青の線がまだかすかに残っていた。

 それは、地図には載っていない、風貝の記憶が示した道。


 ノアが目を丸くする。


「これ……どこに続いてるんですか?」


 悠が答える。


「分からない。風が、それを思い出させたのかもしれない」


 サリヴァンは海図を覗き込む。


「地図にない寄港地、か。……面白そうじゃねぇか」


 ノアが笑う。


「冒険っぽいですね!」


 風が選んだ道なら、それもまた旅の一部。

 《シーウィンド号》はゆっくりと帆を張り直し、見えない航路へと舵を切った。


 船はゆるやかに進んでいた。


 ***


 《風の海図》に浮かんだ航路をなぞるように、帆は自然とその方角を選んでいた。


 風が、ふと途切れる。

 帆がしゅるりと萎み、空気が一瞬、耳の奥で沈黙した。


 悠は舵の前に立ち、風の抜けた空を見上げる。


「……止まったな」


 リィアが船首に立ち、呟く。


「風が、何かを避けてるような……そんな感じ」


 ノアは厨房の窓から顔を出し、眉を寄せる。


 サリヴァンは釣り糸を巻き取りながら言った。


「風が止まると、魚も黙る。……妙な気配だ」


 その時、ふわりと香りが届いた。

 潮の匂いに混じって、乾いた草のような、懐かしい香り。


 リィアが目を細める。


「……《風乾草ふうかんそう》。海辺の崖にしか生えない草よ」


 悠が頷く。


「つまり、陸が近い」


 誰も言葉を継がず、ただその香りの向こうにある“何か”を感じ取ろうとしていた。


 空はわずかに翳り、雲が流れ、帆がばさりと音を立てる。

 風はまだ戻らない。けれど――


 水平線の向こうに、かすかな影が浮かび上がっていた。

 それは、地図には載っていない寄港地。


 誰かが息を呑む。


 風が戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 最初は帆の端がふわりと揺れ、次に甲板の影がゆっくりと動き始めた。

 シロがひと声、短く鳴く。


 悠が舵を握り直し、帆の角度を調整する。


「……風が、道を思い出したみたいだ」


 リィアは船首に立ち、水平線の向こうを見つめる。

 そこには、確かな輪郭が浮かび上がっていた。


 《シーウィンド号》はゆるやかに寄港地へと滑り込んでいく。

 海は浅く、波は穏やかで、風はまるで案内人のように帆を導いていた。


 やがて、岸辺がはっきりと見えた。

 崖の上には風乾草が群れて揺れている。

 その根元には、小さな石造りの桟橋と、木造の小屋がぽつんと並んでいた。


 小屋の扉は閉じられ、窓には薄い布がかかっている。

 けれど、誰かがついさっきまでそこにいたような、そんな温もりが残っていた。


 リィアがそっと呟く。


「……誰かが、ここにいるのかもしれない」


 悠が頷く。


「風貝が覚えていたのは、場所じゃなくて、気配だったのかもしれない」


 船が桟橋に近づくと、風が一度だけ強く吹き、帆を膨らませた。

 それは、まるで「ようこそ」と言っているような、柔らかな歓迎の風だった。


 ノアが甲板に並べたパン籠を抱え直しながら言う。


「じゃあ、まずは挨拶ですね。風に、そして……誰かに」


 サリヴァンは船縁に腰を下ろし、海を見下ろした。


「魚も、ここなら話してくれるかもな」


 リィアは風貝を胸元に戻し、そっと桟橋へ視線を送る。

 風は静かに吹いていた。


 それは、記憶の岸辺にたどり着いた旅人たちを、優しく迎える風だった。

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