第6話 海と風、風貝のささやき
《シーウィンド号》はどこへ向かうでもなく、ただ風の流れに身を任せていた。
帆はゆるやかに膨らみ、波は穏やかに船底を撫でている。
空は高く、雲は薄く、風は気まぐれに歌っていた。
甲板の上、ノアが寝転がって空を見上げる。
「なんか……風に乗ってるだけで、遠くに来た気分ですね」
サリヴァンが舵を握りながら笑う。
「それで十分さ。旅ってのは、気分が先に動くもんだ」
悠は甲板の端に腰を下ろし、昼寝の体勢。
リィアは船首に立ち、風の流れに耳を澄ませていた。
風は、誰にも急かされることなく、ただ静かに吹いていた。
ノアが身を起こし、小さな布包みを開いてみんなに声をかける。
「今日は、風に合わせてちょっと甘めにしてみたんです」
悠がちらりと見る。
「また何か仕込んだのか?」
「干し果実と香草の蜜漬け。あと、風の粉を少しだけ……」
淡い金色の粒が、陽の光にきらりと光る。
「風の祭りの夜にだけ咲く草花の花粉なんです。精霊がくれました。香りが広がると、風がちょっとだけ、はしゃぐらしくて」
サリヴァンがひとつ手に取り、何も言わずにかじる。
ボフッ。
パンが、口の中で小さく爆ぜた。
香草の粉が舞い、干し果実が跳ね、サリヴァンがむせる。
「……っ、ノアァ……!」
「えっ、爆発しました!? ほんのちょっとだけのはずで……!」
サリヴァンは咳き込みながらも、残りをじっと見つめた。
「……口の中で風が踊ったぞ……」
悠が笑いをこらえながら舵を握る。
「それ、褒めてるの?」
「……たぶん、な」
リィアがパンの香りに鼻を寄せて、そっと微笑む。
「風が、くすぐってる。ちょっと嬉し――」
ポフッ。
パンの表面がふくらみ、香草の粉がふわりと舞い上がった。
リィアは一瞬きょとんとした顔で、鼻先を押さえる。
「……くすぐりすぎ、ね」
風が帆を撫で、甲板に甘い香りが広がっていく。
午後の陽射しは少し傾き、甲板に長い影を落としていた。
――ふいに、風がピタリと止んだ。
リィアがまぶたを上げる。
「……あれ?」
帆が重たげに沈み、海面が静けさでざわ…と揺れた。
たった数秒のことだったが、全員が息を飲むには十分だった。
ノアが不安そうに空を見上げる。
「風、寝ちゃいました?」
悠は風見を見て首を傾げた。
「こんな急に止まることもあるのか?」
そのとき。
ぽつん、とサリヴァンの釣り竿が揺れた。
「お?」
巻き上げると、糸の先には――小さな白い貝殻がひとつ。
透明な糸のような光をまとい、かすかに震えている。
「……なんだこれ」
リィアが目を見開いた。
「“風貝”よ。海底で眠る風の欠片。
風が止まったのは……これが目を覚ましたから」
貝殻は、風に触れたくて震えているようだった。
リィアがそっと手を当てると、貝が淡く光り――次の瞬間、柔らかな風がぱぁっと帆を押し上げた。
ノアが驚きに声を上げる。
「帰ってきた!」
サリヴァンは貝殻を眺めつつ苦笑する。
「魚じゃなくて、風を釣ったか……」
リィアは静かに微笑む。
「風も、たまに海に迷うのよ。起こしてくれてありがとう」
風は帆を撫で、甲板に甘い香りを広げながら、いつもの気まぐれな歌を取り戻した。
悠は舵を軽く握りながら、さっき光った“風貝”の余韻をぼんやり感じていた。
サリヴァンは釣り竿を持ち直しつつ、
「……次はちゃんと魚で頼む」
と、海に向かってつぶやく。
ノアは厨房で生地をこねながら、貝の光を思い出しつつつぶやいた。
「……風の粉、控えめにしよ……」
リィアは船首で目を閉じ、風から届く微かな歌を聴いていた。
さっき拾った風の“欠片”が、まだ彼女の指先で眠るように温かかった。
やがて夕陽は海面を染め、夜が訪れる。
星が灯り、風は静かに帆を揺らし、《シーウィンド号》は波間をすべって進む。
ノアは甲板に寝転がり、星を数え始める。
「……あれ、昨日より多い気がします」
リィアが隣に座り、風の歌を口ずさむ。
「星も風も、眠る前に数を増やすのよ」
夜が深まり、甲板は静けさに包まれた。
サリヴァンは釣り竿を片付け、寝台に身を投げた。
悠は一度だけ海を見渡し、静かに部屋へ引き上げる。
ノアは厨房を片付け、焼きたての香りを残したまま、小さな寝台に丸くなった。
リィアは「おやすみ」と囁き、帆へ視線を送ってから、自室の灯りを落とす。
静かな寝息が広がっていく。
風は優しく船を包み込み、旅人たちの眠りを見守っていた。
「……おやすみなさい」
その声は、波と風に溶けて、夜の海へと広がっていった。




