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アーシェル・ブルー  作者: ニート主夫
第1章

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第1話 潮風の匂いと、青い空 ――初めての風

波の音がする。


 耳の奥で、穏やかな潮の調べが揺れていた。


 ゆっくりとまぶたを開けると、そこにはまぶしいほどの青が広がっていた。


 空と海が溶け合い、果てのない色の世界。


「……風だ」


 頬を撫でた潮風が、やさしく髪をくすぐる。


 潮の匂い、遠くで鳴くカモメ、波打ち際を洗う泡の音――


 そのどれもが、胸の奥に沁みこんでいく。


 藤川悠は、砂浜の上でゆっくりと身を起こした。


 服は見慣れない仕立てのシャツに変わり、指先には細い金属の指輪が光っている。


 その内側には、小さな波の紋が刻まれていた。


(……ここが、アーシェル・ブルーか)


 頭の奥に、女神の声が微かに残っている気がした。


「穏やかな風を」――そう言って微笑んだ彼女の姿が、潮の香りとともに蘇る。


 潮風を吸いこむ。胸の奥に、柔らかな熱が広がった。


 ――風が、体の中に入ってくるみたいだ。


(……これが、“生きている”ってことなのか)


 思わず笑みがこぼれた。こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。


 風が背中を押した。


 遠くには桟橋と、白と青の家が並ぶ港町が見える。


 港の方からは子供の笑い声と、誰かが口ずさむ歌。


 帆船のマストが立ち並び、白い帆が潮風を受けてふくらんでいた。


 ――ひゅう、と風が鳴る。


 耳を澄ますと、その音はまるで囁きのようだった。


 “行ってごらん”とでも言うように。


「……そうか、導いてくれているのか」


 潮風が、またひとすじ頬をなでた。


 懐かしい記憶を思い出させるように、“止まっていた風”が静かに動き出していく。


 悠は、波打ち際に打ち寄せられた小さな貝殻を拾い上げた。


 掌で包むと、ほのかに温かく、かすかな震えが伝わった。


 風と潮が、その中に記憶を残しているような――そんな感覚がした。


「……ありがとう」


 呟いた声は、風に溶けていく。


 海の彼方で、誰かが優しく笑った気がした。


 悠は立ち上がり、港町へ歩き出す。




 潮の香りが、少しずつ濃くなっていく。


 悠は、砂浜の先に見える小さな町を目指して歩いていた。


 空には白い雲が流れ、潮風が頬を撫でるたびに、


 心の奥にこびりついた疲れが少しずつ剝がれ落ちていくようだった。


「……海の匂いだ」


 思わず呟く。


 それは、前の世界では感じたことのない“生きている風”の香りだった。


 砂浜から続く小さな坂道。


 潮風が背を押すように吹き坂を登りきると、白と青の町並みが広がっていた。


 港の片隅では魚を捌く音、潮に混じる干物の匂い。


 風に乗って、塩と煙の香りが鼻をくすぐる。


 軒先に吊るされた貝殻が風を受けて鳴り、


 子どもたちの笑い声が潮の音に混じる。


 穏やかで、どこか懐かしい港町の光景だった。


 だが――悠の胸には、少しの不安が残っていた。


 どこにいるのか、何をすればいいのか。


 そして何より、言葉が通じるのかどうか。


 そんな不安を抱えたまま波止場を歩いていると、背後から声がした。


「おい、兄ちゃん! そんな顔して立ってると、風が泣いちまうぞ!」


 振り返ると、白い髭をたくわえた老漁師が立っていた。


 浅黒い肌に刻まれた皺、そしてどこか温かい潮の匂いをまとっている。


「……すみません。ここは……どこでしょうか?」


 自分の言葉が自然に口から出た瞬間、悠は息をのんだ。


 ――通じている。


 老漁師は首をかしげ、笑いながら答えた。


「どこって、フェリスの港町に決まってるじゃねぇか」


 その響きに、胸の奥が波のように揺れた。


(どうして……? 俺の言葉が通じている?)


 その時、頬を撫でた潮風がふっと光を帯びたように感じた。


 風が耳の奥で囁く。


 ――“風は、意味を運ぶ”


(……《海風(ブリーズ)()加護(ギフト)》。これが……)


 言葉の壁を越えて、互いの想いを伝える。


 女神の祝福が、彼の声と風をつないでいた。


「フェリス……いい名前ですね」


「はは、そうか? 海の女神が名付けたって話だ。風の通り道にできた町さ」


 老人は笑い、手招きした。


「腹が減ってるだろ。こんな時はスープとパンに限る。うちにおいで」




 小さな家に入ると、炉の上で白い湯気が立っていた。


 鍋の中では魚とハーブのスープが煮え、香ばしい匂いが部屋中に広がっている。


 木の皿には、炭火で焼いた白身魚と黒パン、海草のピクルスが添えられていた。


「たいしたものじゃねぇが、海のもんは新鮮だ。ほら、遠慮するな」


「……いただきます」


 スープをひと口。


 やわらかな塩気とハーブの香りが舌に広がり、


 胃の底にじんわりと温かさが染みた。


 焼き魚は皮が香ばしく、黒パンのほのかな苦みがそれを引き立てる。


「うまい……」


「だろう? 海の恵みだ。食えば、風の加護がつく」


 老人――サリヴァンは、にかっと笑った。


「風の加護?」


「ああ。この町は“風呼岬(かぜこみさき)”の守りを昔から受けてる。嵐が来ても、風が道を変えてくれるんだ」


 その言葉を聞いたとき、悠の腕輪が淡く光った。


 海風のような魔力の気配が、静かに指先を撫でていく。


(……風が、導いてくれているのか)


 その夜、悠はサリヴァンの厚意で客間に泊めてもらうことになった。


 窓の外では、潮騒がやさしく続いている。


 小さな寝台に横たわりながら、悠は思った。


(……この世界で、初めての温もり)


 その思いとともに、まぶたがゆっくりと閉じていった。


 夜風が、静かに部屋を通り抜ける。


 ――それは、異世界で迎える最初の夜だった。





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