第4話 後編 ー歌を忘れた塔ー
夜の《潮の庵》は、まるで海そのものが眠ったように静まり返っていた。
窓を開け放ったまま、悠は木枠に腰をかけ、遠くに浮かぶ月を見上げている。
部屋ではノアとサリヴァンがもう寝息を立て、灯りだけがゆらゆらと揺れていた。
潮の香りが途切れた。
その瞬間、悠の手がわずかに疼く。
「……風が、止まった?」
外を見やると、港の中央に立つ風晶塔の頂が、淡い青白い光を一瞬だけ放った。
まるで、誰かが助けを求めているような、そんな脈動。
――風が呼んでいる。
悠はそっと窓を閉め、外套を羽織った。
階下に降りる途中、廊下の先でリィアが待っていた。
「感じた?、悠。」
「……ああ。風が、何かを伝えようとしてる。」
二人は夜の通りに出た。
潮の音はかすかに聞こえるが、風はどこにも吹いていない。
まるで、カルナス全体が息を潜めているようだった。
途中、港の方角から慌ただしく走る影が見えた。
技術士の制服を着た青年が塔の方を指差し、
「風晶塔が――共鳴してる!封鎖だ、急げ!」
と叫ぶ。
だが悠はその声を背に、リィアと共に塔へ向かう。
塔の基部に辿り着くと、青白い光が石壁の隙間から漏れ出していた。
悠とリィラに、風の声が断片的に聞こえてくる。
《……風は歌うもの……でも、誰も聞いてくれなくなった……》
まるで“誰か”が言葉にならない思いを風に託している。
悠は目を閉じ、心を澄ませる。
リィアも静かに耳を傾けた。
「これは……祈り。でも、同時に嘆き。――忘れられた人の声。」
奥の小部屋。封印陣の中心に、光の糸に絡め取られた“青衣の影”。
光の糸が髪や衣を薄らと照らす、彼女の表情は穏やかで、それでいて痛ましいほど静かだった。
「……あなたが、“風の歌”の主……?」とリィアが呟く。
悠はそっと塔の結晶に触れた。
《潮風の記憶》
風が震え、声が響く。
《わたしはカルナスの風守り。
人々の航路を守るため、この塔とひとつになった。
けれど――誰ももう、風に祈らなくなった。
だから、歌は消えたの。》
涙が頬を伝うように、塔の光がわずかに揺らめいた。
悠は静かに手を重ねる。
「だったら、俺たちがもう一度歌わせよう。
風は、まだ生きてる。」
リィアが頷き、瞳を閉じる。
彼女の身体が淡く光り、精霊語が紡がれていく。
「ラ=フィーネ・ヴァ=ウィンド……風は眠り、風は生まれ……」
悠も祈りのように呟いた。
《海風の加護》が手の中で輝き、塔の結晶へと流れ込む。
その瞬間――塔全体が光に包まれた。
風が奔流となって夜空へ溢れ出し、カルナス中を駆け抜ける。
波が、屋根が、船の帆が震え、港のランプがいっせいに揺れた。
そして、風の中に微かな声が響く。
《ありがとう……わたしの歌を、聴いてくれて。》
悠は目を開け、風の中で微笑んだ。
リィアの髪が風に舞い、月光の下でまるで潮花のようにきらめいた。
「……風の子守歌みたい。」
リィアの囁きが、夜に溶けていく。
朝の海は、鏡のように穏やかだった。港の表面に浮かぶ光が揺れ、
風晶塔の頂は穏やかに光り、鳥たちが舞っている。
人々は「昨夜のあれは何だったんだ」と口々に語り合いながらも、
風をもう一度信じたように空を見上げていた。
昨夜の騒動の名残が少しだけ残っていた。
修復された封印陣の跡、塔の基部に置かれた花束。
それは誰の手によるものか分からないが、リィアがそっとその花に視線を落とす。
「ちゃんと、見送られてるのね」
「きっと、カルナスの風がまた歌ってくれるさ」
青い光が、まるで返事をするように瞬いた。
桟橋の上、悠は新しい航海用のロープを手に取った。
しっかりとした麻の感触が、どこか懐かしい。
「……風の歌、取り戻せたね。」
肩越しに言うと、リィアが振り向いて微笑んだ。
「ええ。風晶塔も安定してる。……彼女も、ようやく眠れたんだと思う。」
潮の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、悠は港の方を見渡す。
そこではノアが、パン屋の親方と笑顔で握手をしていた。
手には包み紙にくるまれた焼き立てのパン。湯気とともに、小麦と潮の香りが漂ってくる。
「これ、旅の途中で食べてくださいって。焼き加減も昨日よりうまくできたんです」
ノアが誇らしげに笑うと、リィアがふっと笑みを返した。
「あなたのパンは、風の味がするわ」
「……それ、褒め言葉ですよね?」
リィアの茶目っ気に、皆が小さく笑った。
一方、桟橋の端ではサリヴァンが漁師たちと網をたたんでいた。
「よぉ、悠! 出港の準備はできてるか?」
「うん。風も機嫌がいい。今日はいい航海になりそうだよ」
「だったら、俺ももう少し頑張ってみるか。……風任せにな。」
サリヴァンが笑い、悠も拳を軽く合わせるように頷いた。
港を出る定期船の甲板では、水夫たちが帆を上げていた。
白い帆が潮風を孕み、ゆっくりと膨らむ。
悠は自分たちの船《シーウィンド号》に足をかけ、甲板の感触を確かめた。
「やっぱり、海の上が落ち着くな」
「あなたって、陸より海が似合うもの」
リィアが言うと、悠は照れくさそうに笑った。
ノアが荷を積み込みながら尋ねる。
「次は、どこの港へ行くんです?」
悠は少しだけ風に耳を傾け、遠くを指差した。
「風が言ってる。“東の岬を越えた先に、新しい歌が待ってる”ってな」
「また、風任せですね」
「そう。けど、それが俺たちの旅の流儀だろ?」
サリヴァンが笑い、舵輪のそばに腰を下ろした。
――潮風が頬を撫でる。
悠は深呼吸をして、掌を重ね風を集めた。
《海風の加護》、風が船の帆へと流れ込む。
「いこう、みんな。」
リィアが小さく頷く。ノアとサリヴァンが帆を支え、船体が波間を滑り出した。
港の鐘が鳴る。
カルナスの風が、まるで見送りの歌を奏でるように吹き抜けた。
振り返った悠の瞳には、遠ざかる塔の光が映っていた。
「またな、カルナス。」
――そして、船は新たな風を受け、ゆっくりと東の海へと向かっていった。
潮の音が重なり、帆が鳴り、風が微かに笑う。
その音はまるで、“海の詩”のはじまりを告げているかのようだった。




