第3話 前編 ―風の止む港ー
《潮の庵》の前には、橙の光が滲み始めていた。
潮と炭の香りが風に乗って流れ、通りのあちこちで屋台が火を灯している。
「おーい、悠さん!」
手を振って駆けてくるノアの声に、悠は軽く手を上げて応えた。
「働きたくないチーム、どこ行ってたのよ」
リィアが腕を組みながら睨むように言う。
悠は苦笑して頭をかいた。
「いやぁ、ちょっと港の空気でも吸いに……って思ったら、
いつのまにか荷運びしてた」
「結局、働いたんじゃないの」
「風がそう言ってたからな」
サリヴァンが笑いながら肩を叩く。
「まぁ、初日から全員まともに寝床に戻ってきたんだ。上出来だろ」
ノアが頷く。
悠はそんな三人の顔を見渡して、ふっと目を細めた。
──それぞれが、風の導きのままに動いている。
それが、この異世界の生き方なのだと感じながら。
「じゃあ、今夜は報告会ってことで、一杯やるか」
「賛成!」とノアが笑い、リィアも肩をすくめてため息をつく。
「……どうせ止めても行くんでしょ。はいはい、行きましょ」
笑い声と潮風が、灯のともる通りへ流れていった。
宿の裏手にある屋台街は、夜になると灯の川になる。
焼いた魚や肉と香辛料の香り
酒の匂いが入り混じり、潮風に溶けて流れていく。
「じゃ、改めて――カルナスに乾杯!」
サリヴァンの声に、四つの杯が軽くぶつかった。
ノアが嬉しそうに語る。
「パン屋の人、すごくいい人で。明日は仕込み、手伝わせてもらえるって」
「俺も明日から漁に出る。潮の流れは読めるが、網はまだまだだな」
サリヴァンが笑い、悠は杯を傾けた。
「順調そうで何より。ちょっと誇らしいよ」
「何が誇らしいのよ」
リィアが呆れたように言った。
その時、隣の屋台から、低い声が漏れ聞こえてきた。
「……まただ。昨夜も沖のほうに光が見えたらしい」
「この時期にか? 風石の共鳴かと思ったが、あんな色は見たことねぇ」
「おまけに、港の外れで潮の音が消えた夜もあったってよ」
4人は、自然と視線を交わした。
「風が、少し……ざわついてる?」
リィアが呟く。
悠は小さく頷き、杯の中の灯を見つめた。
「まぁ、嵐の前には、風も冗談を言うのかも?」
「その冗談、笑えるといいけど」
リィアの言葉に、悠は軽く肩をすくめた。
夜が深まり。潮の音が遠くで寄せては返し、
屋台の明かりがひとつ、またひとつ消えていった。
――翌朝。
港町カルナスは早くから動き出していた。
空は晴れ渡り、海面は淡い金に染まり、魚の匂いが朝の空気に混ざる。
ノアはパン屋の裏庭で、生地をこねながら鼻歌を歌っていた。
「フェリスより風が乾いてるな。焼き方も変えないと」
サリヴァンは港の桟橋で、漁師たちと網を引き上げながら声を上げる。
「おう、引け! 風が味方してくれてるぞ!」
どちらも、潮の中で新しい一日を始めていた。
一方、悠とリィアは港の通りを歩いていた。
「買い出し、ってことにしておこうか」
「どうせ風任せの散歩でしょ」
「いや、ちゃんと働いてるって。」
リィアが笑いをこらえた。
港の外れに出ると、風石エンジンを積んだ船が一隻
修理のために停泊していた。
周囲には見慣れぬ紋章が刻まれた木箱が並び
作業員たちが顔をしかめている。
「昨日の噂、あれと関係あるのかしら」
「風が止む夜があるって言ってたな」
悠は波打ち際に立ち、潮の匂いを吸い込んだ。
ほんのわずかに、空気の流れが乱れている気がした。
「……この港、風の息が詰まってる」
「風の……息?」
「ほら、潮の音が一瞬、途切れる。
まるで誰かが海の口を塞いでるみたいだ」
リィアは静かに頷いた。
「潮の香りが、昨日と違う」
「まぁ、すぐに分かるさ。風は隠し事が苦手だから」
潮の香りとともに、遠くで鐘の音が響いた。
悠とリィアは、港通りを抜け、町の中央にそびえる塔を見上げた。
白い石を積み上げて造られたその塔は、
カルナスの象徴――風晶塔。
昼は海風を導き、夜は灯台のように輝く“風の心臓”と呼ばれている。
だが今、その心臓は沈黙していた。
塔の頂に据えられた巨大な風晶は、かすかに色を失い、
いつもなら蒼い光が揺らめくが、まるで息を止めたように消えている。
「……これが、“風の止む夜”の原因かもね」
リィアが呟く。
悠は足元に吹く潮風を感じながら、目を細めた。
「風晶塔は、港全体の風を整えてる。
けど今は……風の流れが塔の外で淀んでる」
《潮風の手》を広げると、見えない潮の流れが掌に触れる。
そこには、“鼓動”がなかった。
リィアは小さく身を乗り出した。
「鼓動がない、って?」
「うん。風は、生き物みたいなものだろ。
呼吸をして、流れて、歌う。だけど今は――黙ってる」
塔の根元には、見張りの兵と技術士らしき人物たちが集まっていた。
彼らの顔には焦りの色がある。
「風晶が共鳴しない?」「代替の石を用意しろ」「いや、反応自体が――」
断片的な声が、潮風に乗って聞こえてくる。
悠とリィアは顔を見合わせた。
「面白くなってきたわね」
「いや、穏やかに終わってくれた方が助かるんだけどな……」
悠が肩をすくめた時、頭上を白い影が横切った。
「ピィ!」
シロが塔の周りを旋回し、風の流れを確かめるように羽ばたく。
その羽音が、不思議なほど静かな空気に響いた。
「シロも気づいてるな」
「何か、封じられてる……そんな感じがする?」
リィアの声に、悠は小さく頷いた。
「風晶塔が眠ってるなら、誰かが“風の歌”を奪ったのかもしれない」
潮の香りが、どこか遠くへと引いていく。
風の囁きさえも、今はまだ――沈黙していた。




