第1話 カルナス編・前編
甲板の上で、悠はコーヒーを飲み干し、
カップを少し掲げて、海に向かって言った。
「肉、食いてぇ!」
リィラが隣で目を瞬かせる。
「おはようの代わりがそれ?」
「たまには、朝から焼き肉でもいい」
「じゃあ探そうか。カルナスの“肉”」
ふたりは同時に笑って、甲板を降りた。
桟橋を下りると、カルナスの風が迎えてくれた。
潮の匂いに混じって、香辛料の甘い香りが鼻をくすぐる。
通りの石畳は朝の光を反射して白く輝き、
行き交う人々の服もどこか色鮮やかだった。
「魚より、匂いが濃いね」
リィラが笑う。
悠は頷きながら辺りを見渡した。
「この香り……スパイスだな。肉の予感しかしない」
港の中央に立つ**風晶塔**が、蒼い光を脈打たせていた。
頂に浮かぶ風石が唸りを上げ、街全体に穏やかな風を巡らせている。
その風の向こうで、鉄板の焼ける音がした。
通りを抜けると、香辛料の香りがいっそう濃くなった。
鉄板の上で厚い肉が焼け、油が弾けるたびに、
周囲の風までも旨そうな匂いに染まっていく。
悠は立ち止まり、声をあげた。
「……これだ」
屋台の奥で、ひときわ大きな体の男が肉を返していた。
褐色の腕に白い布を巻き、額には赤いバンダナ。
顔には笑いじわ、そして煙の向こうに光る白い歯。
「おう、旅の兄ちゃん! 腹、鳴ってんな?」
「鳴ってる。朝から肉が食いたくて」
「そいつぁ上等だ! カルナスの朝はスパイスで始めるのが通だぜ!」
鉄板に新たな肉が置かれる。
ジュッ、と立ちのぼる煙。
甘く、辛く、少し焦げた香辛料の匂いが、潮風に混ざって広がる。
リィラがくすりと笑った。
「いい匂い……でも、ちょっと強そうね」
「辛くても、風が吹きゃ旨みが残るさ」
男が片目をつぶり、皿を差し出す。
「ほらよ、“風焼き肉”。カルナス名物だ」
悠は一切れつまみ、熱そうに息を吹きかけてからかじった。
噛んだ瞬間、肉汁とスパイスの香りが広がり、
舌の上で波のように混ざり合う。
「……うまい!」
「だろ? 風と火の加減がすべてよ!」
男が豪快に笑い、鉄べらをくるりと回した。
ガロスは得意げに鼻を鳴らした。
「この港じゃ“風精”が煙の流れを整えてくれる。
焦げすぎず、香りだけを残す。――こいつがいなきゃ、この味は出ねぇ」
「俺は十年、風と喧嘩してやっと友になった。
半年や一年で覚えられねぇさ」
悠はもう一口かじりながら、潮風に乗ってくる香りを感じた。
ほんのり甘く、焼けた脂と風の匂いが混ざっている。
この港の空気そのものが、味になっていた。
「……こういう旅なら、悪くないな」
「ふふ、次は何を食べる?」
「まずはもう一皿だ」
悠が笑い、ガロスがまた火をあげる。
カルナスの朝が、炎と風の音で満ちていった。
――昼前。潮風が少し強くなってきた。
港の桟橋には、積み荷を運ぶ声とロープの軋む音が混じっている。
異国の言葉も飛び交う、ざわめきの街。
悠は手をかざして海を見渡した。
「ノアたち、ここに寄るって言ってたんだよな」
「“風路便”を使うって言ってた。フェリスからカルナスへは週に一度」
リィラが港の掲示板を指さした。
古びた板に刻まれた航路表が、風でぱたぱたと鳴っている。
《フェリス発・風路便《ルミナ号》本日午後入港予定》
昼が近づくにつれ、港の風が変わった。
潮の匂いの奥に、焼きたてのパンのような香ばしさが混ざる。
海の向こうに白い帆が見えた。
「来たな……」
悠が目を細める。
陽光の中、金の線のようにルミナ号の帆が輝いていた。
風路便の名にふさわしく、風を味方にして進む姿だ。
港の係員たちが縄を持って走る。
掛け声とともに、船体が桟橋に寄せられ、乗客たちが次々と下船していく。
その中で、ひとりの若者が大切そうに紙袋を抱えていた。
リィラが小さく息をのむ。
「……パンの匂い」
リィラが小さく呟いたとき、悠がその姿を見つけて目を見開いた。
「ノア!」
声に気づいたノアが顔を上げる。
潮風の中で、少年のような笑顔が広がった。
「悠さん!」
走り寄ったノアの腕には、フェリスのパンが抱えられている。
その香りが、港のスパイスと混ざって懐かしく揺れた。
「本当に来たのか」
「ええ。……どうしても、また海を見たくて」
ノアが少し照れたように笑う。
その後ろから、落ち着いた声がした。
「こいつを止めるつもりだったんだがな。気づいたら、俺も船に乗ってた」
悠が笑みを浮かべる。
「……サリヴァン」
サリヴァンは軽く手を上げた。
「よう。久しぶりだな、悠」
潮とスパイスの匂いが混ざり合い、どこか懐かしい空気になる。
悠が隣の少女に目を向けた。
「紹介する。リィラ。今は一緒に旅をしてる仲間だ」
「はじめまして」
リィラが柔らかく微笑むと、ノアとサリヴァンも少し緊張したように会釈した。
「こちらこそ。……悠さんの旅の仲間、ですか」
ノアの声には、ほんの少しの羨望が混ざっていた。
悠は笑った。
「まあ、縁ってやつだな。風が運んでくれる」
桟橋の鈴が鳴った。
潮風が笑うように吹き抜けていく。




