第8話 潮風の手紙 ― 風の行方
サヴァナの港を出て、6日。
静かな日々だった。海も、風も、驚くほど穏やかで。
《シーウィンド号》の帆が、白く柔らかに膨らんでいる。
雲の切れ間からこぼれる陽の光が、海面に銀の道を描いていた。
悠は舵輪のそばで、木製のマグを手にしていた。
アーラの実を焙じて淹れた、苦みのある香り。
潮の香りと混ざると、少しだけ故郷を思い出す。
「またそのコーヒー?」
リィアが甲板の手すりに腰を下ろし、風に髪を揺らした。
「苦いのに、よく飲むよね」
「うん。でも、不思議と落ち着くんだ」
悠は笑い、マグを掲げてみせた。
「風が穏やかな日は、こういう味がちょうどいい」
サヴァナでは長く滞在した。というより、滞在せざるを得なかった。
船の修繕や物資の補充に、何より資金が必要だったのだ。
悠はトーヴァの屋台、リィアはマーレを手伝っていた。
夕暮れの潮風の中で、二人は旅の続きを夢見ていた。
──そして今、再び風に乗っている。
舳先の向こうに、柔らかい水平線がのびていた。
「ねえ、悠。あれ……あの影、なんか見覚えある!」
マストの上からリィアが身を乗り出す。
薄水色の髪が風に踊り、指先が遠くの海面を示した。
悠が目を細めると、波の合間に小さな船影が漂っていた。
船体の側面に、鳥の紋章――翼を広げた《スワロー号》。
「……トトの船じゃないか?」
悠が呟いた瞬間、リィアは甲板から身を翻した。
「やっぱり! 行ってくる!」
「おい、慌てるなって……もう飛び込んでるな」
悠は苦笑しながら舵を握り、風の流れを読んだ。
《潮風の手》――
海を撫でるように伸びる風の腕が、優しく《スワロー号》を寄せる。
帆は破れていない。ただ、風を失って流されていたらしい。
数分後、リィアの声が弾んだ。
「悠! 中で寝てるだけみたい!」
「寝てる……?」
《スワロー号》が《シーウィンド号》の舷側に寄せられる。
中には、潮に濡れた金髪の青年――トト・ルーフがすやすやと眠っていた。
悠は苦笑しながら船縁を跨ぎ、肩をゆすった。
「おーい、トト。起きろ、郵便士さん」
「ん……あ、悠さん? おはようございます!」
トトは何食わぬ顔で伸びをし、にかっと笑った。
「ちょっと寄り道してたら、風が変わっちゃって……えへへ」
「それを“寄り道”って言うの? もう、トトったら!」
リィアが頬を膨らませ、けれど嬉しそうに笑った。
「また漂ってたのね、あなた」
「はは、久しぶりだねリィアさん。潮の加減が気まぐれでさ」
悠は二人の様子を見て、穏やかに微笑んだ。
「まあ、無事でよかったよ。」
トトは濡れた鞄を抱え直し、銀の腕輪を光らせながら言った。
「あ、ちょうどよかった! お届け物、二通あります!
港町フェリスより、ノアさんとサリヴァンさんからです!」
「二人から……?」
悠の瞳が少し和らぐ。
リィアはきょとんと首を傾げた。
「その人たちって?」
「俺が最初にいた港町の仲間だよ。
ノアはパン職人見習いで、サリヴァンは漁師。――優しい連中だ」
悠は封を切る手を、少しだけ震わせた。
手紙には、こう書かれていた。
『悠さんへ。
あの日、悠さんが船を修理している姿を見て、
“風に生きる”っていうことを、少しだけ分かった気がします。
僕はパン屋を辞めて、旅に出ることにしました。
祖父が語ってくれた“風を呼ぶ歌”の続きを、
海の向こうで探してみたいんです。
パンを焼くことも、風に帆を任せることも、
どこか似ている気がして――だから、もう一度、
あなたに焼きたてのパンを届けたいと思います。
風の向こうで、また会えるその日まで。
ノア』
続いて、サリヴァンの字。
『悠へ。
まったく、ノアを放っとけるわけがないからな。
あいつの旅のついでに、俺も潮の匂いを嗅ぎに行く。
年寄りの旅なんざ風任せだが、
港でまた一緒に酒でも飲もう。
サリヴァン』
悠は読み終えると、しばらく海を見ていた。
陽射しが波間に反射し、光がちらちらと瞬いている。
「……、変わってないな」
声には懐かしさと、少しの嬉しさが滲んでいた。
「その人たち、悠の仲間?」
リィアが尋ねると、悠はうなずいた。
「うん。フェリスの港で出会った友達だ。
風がなかったら、きっと出会えなかった人たち」
「ふうん……。どんな人なんだろ。会ってみたいな」
リィアの目がきらりと輝いた。
「笑顔の似合う人たちだよ」
トトは船縁に腰かけ、風を受けながら笑った。
「ノアとサリヴァンは、今、カルナスって港に向かってるらしいです。
ボクも途中まで行くつもりだったけど……風が気まぐれで」
「じゃあ、俺たちもカルナスへ行こう」
悠は帆の角度を少し変えた。
風が新しい方向から吹き込み、船体が静かにきしむ。
「風がつないでくれるなら、きっとまた会えるよ」
日が傾き始め、海面が金色に染まっていく。
「また会おう。風の便りで。」
「はい、次はちゃんと港で!」
トトと再会を約束して
《シーウィンド号》はゆっくりと進路を南にとった。
──そして夕暮れ。
遠くに見えてきた港町が、カルナス港だった。
三日月形の湾に、白い家々の屋根。
潮風に混じって、スパイスの香りが漂う。
波止場では笛の音が響き、人々の笑い声が風に乗っていた。
「いい匂い……お腹すいてきた」
リィアが鼻をひくつかせる。
悠はマグの底を軽く叩き、微笑んだ。
「ようこそ、カルナス港へ。
さて──風の先で、待ってるかもしれないな」
風は、新しい歌を運んでくるようだ。
それが、次の旅のはじまりだった。
第2章完結
次回からノアとサリヴァンも出るかもなので
ここでしめます。




