さよなら、終電 ――止まった風
終電のない夜は、風も吹かない。
――カタカタカタ。
深夜のオフィスに、キーボードの音だけが響いていた。
壁の時計はすでに午前一時半。
最終電車の時間など、とうに過ぎている。
営業部のデスクに突っ伏したまま、藤川悠は静かに息を吐いた。
疲労で腕が震え、マウスを動かす手がもう言うことを聞かない。
モニターに並ぶのは、取引先とのメール、予算資料、そして進まない社内調整。
画面の向こうの誰かを、今日も納得させるために。
(……もう少し。もう一件だけ送ったら、帰ろう)
そう呟いて何度目だろう。
気づけば終電を逃し、ビルの警備員が巡回を始めている。
窓の外では、夜の雨がネオンを滲ませていた。
送信ボタンを押した瞬間、視界がふっと遠のいた。
「――あ」
胸の奥で何かが途切れた感覚。
椅子が倒れ、紙が舞う。
その音を、悠は最後まで聞けなかった。
***
静寂。
風も止まり、時間さえも溶けたような白の世界。
目を開けると、そこは白い空間だった。
何もない。風も音もない。
ただ、気づけば、その人はそこにいた。
銀糸の髪が、光の中でゆるやかに揺れている。
その姿を見ただけで、どこか胸の奥が温かくなった。
「……ここは?」
問うと、女性は微笑んだ。
声は、風鈴の音のように柔らかい。
「あなたは、風の流れを感じる暇もなかった人――」
その言葉に、悠の胸が静かに痛んだ。
「……そうでしたね。毎日仕事に追われて、
気づけば風を感じる余裕も、笑う時間もなくなっていた。」
「……俺、死んだのか」
「ええ。でも、あなたの魂はまだ固く結ばれたままです。
“休みたい”と“まだ終われない”のあいだで、ほどけずにいる。」
彼女は一歩、近づいた。
その瞳の中には、深い海のような青があった。
「――ならば、もう一度、生きてみませんか?」
「生きる?」
「ええ。風が流れ、潮の歌う世界で。
あなたに、祝福を授けましょう。」
彼女が指を鳴らすと、悠の身体に柔らかな潮風が吹き抜けた。
「これは《海風の加護》。
海を荒らさず、穏やかに保つ風の祝福です。
あなたの穏やかさに、世界も応えるでしょう。」
潮風が肌を撫でるたびに、胸の奥まで温かくなる。
「この加護の内には、潮風の“記憶”と“手”が宿っています。
潮は多くを見て、忘れません。
あなたが触れたものの過去を、波がそっと教えてくれるでしょう。」
彼女は瞬時に、指先に淡い光を集めた。
まるで透明な水が、手のひらで形を成すように。
「そして潮は、あなたを支えるでしょう。
困難に沈みそうなとき、見えぬ波があなたを抱き上げます。」
潮の香りがした。
どこかで、カモメの鳴き声が聞こえた気がする。
女神は微笑んだ。
「これは“力”です。
けれど、誰かを傷つけるためのものではありません。
あなた自身と、あなたが触れた穏やかな日々を“守る力”
――それが《海風の加護》なのです。」
その笑みは、まるで海が微笑んだようだった。
悠はゆっくりと目を閉じる。
どこまでも澄んだ風が頬を撫で、
重く張りつめていたものが、少しずつほどけていく。
――いい風だ。
そのひと言を、口の中で小さく呟いた。
「それが、あなたの最初の言葉。
ようこそ、“アーシェル・ブルー”へ。」
女神の声が潮に溶け、光が満ちた。
そして、悠の視界は――青に包まれた。




