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アーシェル・ブルー  作者: ニート主夫
プロローグ

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1/50

さよなら、終電 ――止まった風

           

 終電のない夜は、風も吹かない。


 ――カタカタカタ。


 深夜のオフィスに、キーボードの音だけが響いていた。


 壁の時計はすでに午前一時半。


 最終電車の時間など、とうに過ぎている。


 営業部のデスクに突っ伏したまま、藤川悠(ふじかわゆう)は静かに息を吐いた。

 疲労で腕が震え、マウスを動かす手がもう言うことを聞かない。


 モニターに並ぶのは、取引先とのメール、予算資料、そして進まない社内調整。

 画面の向こうの誰かを、今日も納得させるために。


(……もう少し。もう一件だけ送ったら、帰ろう)


 そう呟いて何度目だろう。

 気づけば終電を逃し、ビルの警備員が巡回を始めている。

 窓の外では、夜の雨がネオンを滲ませていた。

 送信ボタンを押した瞬間、視界がふっと遠のいた。


「――あ」


 胸の奥で何かが途切れた感覚。

 椅子が倒れ、紙が舞う。

 その音を、悠は最後まで聞けなかった。


 ***


 静寂。


 風も止まり、時間さえも溶けたような白の世界。


 目を開けると、そこは白い空間だった。


 何もない。風も音もない。


 ただ、気づけば、その人はそこにいた。


 銀糸の髪が、光の中でゆるやかに揺れている。

 その姿を見ただけで、どこか胸の奥が温かくなった。


「……ここは?」


 問うと、女性は微笑んだ。

 声は、風鈴の音のように柔らかい。

「あなたは、風の流れを感じる暇もなかった人――」


 その言葉に、悠の胸が静かに痛んだ。

「……そうでしたね。毎日仕事に追われて、

 気づけば風を感じる余裕も、笑う時間もなくなっていた。」

「……俺、死んだのか」


「ええ。でも、あなたの魂はまだ固く結ばれたままです。

 “休みたい”と“まだ終われない”のあいだで、ほどけずにいる。」


 彼女は一歩、近づいた。

 その瞳の中には、深い海のような青があった。

「――ならば、もう一度、生きてみませんか?」


「生きる?」


「ええ。風が流れ、潮の歌う世界で。

 あなたに、祝福を授けましょう。」


 彼女が指を鳴らすと、悠の身体に柔らかな潮風が吹き抜けた。

「これは《海風(ブリーズ)()加護(ギフト)》。

 海を荒らさず、穏やかに保つ風の祝福です。

 あなたの穏やかさに、世界も応えるでしょう。」


 潮風が肌を撫でるたびに、胸の奥まで温かくなる。


「この加護の内には、潮風(タイド)の“記憶(メモリー)”と“(ハンド)”が宿っています。

 潮は多くを見て、忘れません。

 あなたが触れたものの過去を、波がそっと教えてくれるでしょう。」


 彼女は瞬時に、指先に淡い光を集めた。

 まるで透明な水が、手のひらで形を成すように。

「そして潮は、あなたを支えるでしょう。

 困難に沈みそうなとき、見えぬ波があなたを抱き上げます。」


 潮の香りがした。


 どこかで、カモメの鳴き声が聞こえた気がする。


 女神は微笑んだ。

「これは“力”です。

 けれど、誰かを傷つけるためのものではありません。

 あなた自身と、あなたが触れた穏やかな日々を“守る力”

 ――それが《海風(ブリーズ)()加護(ギフト)》なのです。」


 その笑みは、まるで海が微笑んだようだった。


 悠はゆっくりと目を閉じる。

 どこまでも澄んだ風が頬を撫で、

 重く張りつめていたものが、少しずつほどけていく。


 ――いい風だ。


 そのひと言を、口の中で小さく呟いた。


「それが、あなたの最初の言葉。

 ようこそ、“アーシェル・ブルー”へ。」


 女神の声が潮に溶け、光が満ちた。

 そして、悠の視界は――青に包まれた。




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