第11話「白紙」
手元の封筒を、何度も見返していた。
白い便箋。未使用の紙。誰にも宛てられていない宛名欄。
ソールはそれを、自室の机の上にずっと置いたままにしていた。
机の引き出しには、署名済みの離婚届がある。
それは、もう受理された書類で、いまさら見返しても意味はない。けれど、目にするたび、何かが――胸の奥で軋んだ。
彼は将軍だった。
人を動かし、城を守り、戦局を変え、国を救った。
だが、ひとりの女を、守ることができなかった。
否。
正確に言うならば――守ろうと、しなかった。
その代償を、ようやく受け取る番が来ただけなのだ。
執務の合間に、兵たちの声を聞いた。
「離婚なさったそうですね」
「さぞお寂しいでしょう」
「それでも、また新しい方が……」
くだらない、と、思った。
誰も知らない。
フェリシアが何も言わず、責めもせず、ただ静かに微笑んで、去っていったことを。
あのときの背中が、どれほど美しく、どれほど遠かったかを。
彼女は泣かなかった。
泣けば、すべてが壊れてしまうと知っていたのだ。
――そんな人を、たったひとりの伴侶として得ていながら、
自分は何をしていたのだろう。
夜の帳が下りてくる。
ソールは窓を開けた。風が、冷たい。
彼女の屋敷には、もう灯りはついていないはずだ。
あの花の庭に、誰かが足を踏み入れることもない。
だが――それでも。
この手紙だけは、書かねばならない。
書き始めては破り、また白紙を前に沈黙する。
名将と呼ばれる指が、いまやたった一通の手紙に怯えている。
「……なぜ、こんなに難しい?」
言葉が見つからない。
謝罪でも、愛の言葉でも、どれも薄っぺらく感じられる。
だが、何も言わずにいることは、彼女と同じにはなれない。
あの気高さに、肩を並べることはできない。
それでも――それでも、と彼は思う。
一行だけでもいい。
彼女に読ませるためでなく、自分のために。
彼はようやく、ペンを取った。
たどたどしい文字で、ゆっくりと、慎重に――
「これは、ただの便りです。
あなたが読まなくても、構いません。
けれどもし、読んでくれるなら――
そのとき、私は初めて、あなたと向き合えるのかもしれません。」
それは、たった数行の、未完成の手紙だった。
けれど、それは彼の人生で初めて綴られた、“私信”だった。