第10話「雨のあとで」
雨は、朝から降り続いていた。
石畳の路地に、雨粒が静かに跳ねる。街の喧騒は薄れ、世界がひとつ深呼吸しているような午後だった。
フェリシアは、窓辺の椅子に座り、手元の本を閉じた。
カップの紅茶は半分以上冷めている。けれど、それを口にする気にもなれなかった。
庭先の小道が、ふと気配を変えた。
誰かが、立っている。
傘もささず、濡れた軍服のまま、ひとりの男が門の前に立っていた。
フェリシアは、息をのんだ。
――彼だった。
ソール。もう、呼ぶこともないはずの名前。もう、来ることのないはずの人。
戸を開けると、雨の匂いが押し寄せてきた。
彼女は屋根の下まで歩み寄り、それ以上、足を踏み出さなかった。
「……何か、御用でしょうか?」
声は静かだった。驚きも、怒りも、責めもなかった。
ただ、淡く、どこか眠る前の祈りのように、彼女はそう言った。
ソールは答えなかった。濡れた軍帽を手に下げたまま、ただ彼女を見ていた。
まるで、言葉のすべてを失った者のように。
「ここには、もう何もありません。あなたの服も、書類も、思い出も」
「それでも、君はまだ……この庭に花を植えている」
「……庭に咲くのは、花です。名前はもう、ありません」
フェリシアは一歩だけ前へ出て、濡れた彼の髪にそっと手を伸ばした。
細い指が、額にかかった雨粒を拭った。触れるか、触れないか。そんな一瞬。
その仕草は、あまりに自然で、そして、あまりに痛ましかった。
ソールは、目を伏せた。
「……ただ、君の顔が、見たかった」
「私はもう、誰の妻でもありませんよ」
「それでも――そうであっても」
言葉は続かなかった。
風が、冷たく吹いた。
フェリシアは黙って戸口まで戻り、振り返らずにこう言った。
「お風邪を召されませんように」
そして、静かに扉を閉めた。
その音は、鐘のように、ソールの胸の奥深くに響いた。
彼はその場から動けずにいた。
降りしきる雨の中で、ただ――彼女の香りだけが、かすかに残っていた。