表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/14

第10話「雨のあとで」

雨は、朝から降り続いていた。

石畳の路地に、雨粒が静かに跳ねる。街の喧騒は薄れ、世界がひとつ深呼吸しているような午後だった。


フェリシアは、窓辺の椅子に座り、手元の本を閉じた。

カップの紅茶は半分以上冷めている。けれど、それを口にする気にもなれなかった。


庭先の小道が、ふと気配を変えた。

誰かが、立っている。


傘もささず、濡れた軍服のまま、ひとりの男が門の前に立っていた。


フェリシアは、息をのんだ。

――彼だった。

ソール。もう、呼ぶこともないはずの名前。もう、来ることのないはずの人。


戸を開けると、雨の匂いが押し寄せてきた。

彼女は屋根の下まで歩み寄り、それ以上、足を踏み出さなかった。


「……何か、御用でしょうか?」


声は静かだった。驚きも、怒りも、責めもなかった。

ただ、淡く、どこか眠る前の祈りのように、彼女はそう言った。


ソールは答えなかった。濡れた軍帽を手に下げたまま、ただ彼女を見ていた。

まるで、言葉のすべてを失った者のように。


「ここには、もう何もありません。あなたの服も、書類も、思い出も」


「それでも、君はまだ……この庭に花を植えている」


「……庭に咲くのは、花です。名前はもう、ありません」


フェリシアは一歩だけ前へ出て、濡れた彼の髪にそっと手を伸ばした。

細い指が、額にかかった雨粒を拭った。触れるか、触れないか。そんな一瞬。


その仕草は、あまりに自然で、そして、あまりに痛ましかった。


ソールは、目を伏せた。


「……ただ、君の顔が、見たかった」


「私はもう、誰の妻でもありませんよ」


「それでも――そうであっても」


言葉は続かなかった。


風が、冷たく吹いた。

フェリシアは黙って戸口まで戻り、振り返らずにこう言った。


「お風邪を召されませんように」


そして、静かに扉を閉めた。


その音は、鐘のように、ソールの胸の奥深くに響いた。


彼はその場から動けずにいた。

降りしきる雨の中で、ただ――彼女の香りだけが、かすかに残っていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ