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|あまてぼり

作者: 美味礎 杏佳

「あまてぼり——地方における儀礼の民俗構造と供養性の変遷」

文学部文化人類学専攻

年月

筆者:

指導教員:


序文 (はじめに)

------------------


本稿は、△県××市旧◇◇村に伝承されるとされる舞踊儀礼「あまてぼり」をめぐる調査記録である。

ただし本研究の成立は、学術的興味に基づいた純粋なフィールドワークではない。

発端は、ある故人が残した未完成の卒業論文の断片にあった。


「存在しない」と書き記されながら、なぜか記録されている。

その不可解な文言に触れた瞬間、私は現地へ赴くことを決めた。


以下に示すのは、そこで体験した事実と、記録者としての私自身の動揺である。


「あまてぼり」とは何であったのか——

本稿をここに記す。



目次

----


- 第一景 先輩

- 第二景 資料

- 第三景 不可解

- 第四景 村

- 第五景 金縛り

- 第六景 寺とお坊さん

- 第七景 あまてぼり

- 第八景 記す者

本文

====



第一景 先輩

------------------


大学三年の六月。

就活を意識する学生たちが慌ただしく行き交う季節だった。サマーインターンの募集が始まり、学内では合同説明会や個別の企業説明会が続々と開催されている。大学会館のロビーには、スーツに身を包んだ学生や、わざわざ足を運んできた社会人のOB・OGたちが溢れていた。


ロビーの片隅、紙コップのコーヒーを手にして腰掛けていたスーツ姿の男性に、俺は目を留めた。見覚えのある顔だった。

同じサークルにいた先輩だ。社会人らしい落ち着きと、少しの疲労を帯びたその姿に、時間の隔たりを感じつつ声をかけた。



「先輩」


「お、〇〇じゃん。就職、順調?」


「いやあ……今は卒論のほうがきつくて。未だ題材すら決まってなくて」


「マジ? ああー……卒論なら、既存の研究を深掘りするのが一番だぞ」


「えぇ、じゃあ先輩の卒論くださいよ」


「俺もそれやったから、もう深掘りできないんだよ」


「……それは困りますね」



先輩はケラケラ笑いながら、コーヒーを一口。だが、次の瞬間ふと神妙な顔になった。



「……そういや、俺の死んだ友達、書きかけの卒論があったわ」


「亡くなった?」


「そそ。急性心不全。疎遠になってから知ったんだけどな」


「その人のデータ、まだ残ってるんですか?」



思いもよらない話に、俺は身を乗り出した。



「昔さ、金なくて友達と有料クラウドを折半してたんだよ。容量50ギガで月500円くらいの。そこに下書きが残っててさ。同期外してないから、今も全部見れるはず」



ポケットからスマホを取り出し、スワイプしていく先輩。画面の中に、今も同期中と表示されるフォルダが光っていた。



「これ、あげるわ」



数秒後、airdropで資料が俺のスマホへと届く。



「先輩は中身、知ってるんですか?」


「いや。不謹慎だろ? だから触ってすらない」


「え? 不謹慎だと思うもの俺に渡したんですか?」


「いや、興味あるからね」



再び笑う先輩。どこか距離を置いたその笑みは、好奇心と揶揄(からか)いが混ざった色をしていた。


その夜。

自宅に戻った俺は、受け取ったデータをパソコンに移し、静かにフォルダを開いた。

そこには——故人が残した、途絶えた研究の断片が眠っていた。



第二景 資料

------------------


先輩から受け取ったファイルは、驚くほど整っていた。

未完成とはいえ、文章そのものはほぼ完成形に近い。段落も整い、言い回しもこなれている。今すぐにでも提出できそうな体裁だった。

だが、決定的に欠けていたものがあった。


——調査の証拠だ。


本文には「映像・音声記録」「聞き取り調査」といった記述がある。だが、それを裏づけるデータは見当たらなかった。

不審に思い、先輩に確認のメッセージを送ってみたが、返ってきたのは簡潔な答えだけだった。


〈追加のデータはないよ。もともとAirDropで送れたくらいだから、容量なんて知れてる〉


つまり、これがすべて。


俺は半信半疑のまま、文面に目を落とした。そこにはタイトルページがあった。


―――


卒業論文

題目:地方集落に伝承される日照り乞い舞踊儀礼「あまてぼり」の成立と展開に関する一考察

提出先:〇〇大学 文学部 文化人類学専攻

学籍番号:20XX-5678

氏名:首藤すどう ○○

提出日:空欄


―――


要旨には、調査結果と考察が淡々と記されていた。


昭和二十年代の豪雨と凶作を背景に成立したとされる舞踊儀礼「あまてぼり」。

四拍子を基調とした舞い、両掌を掲げる「天地返し」と呼ばれる所作。

「空が海となり、天から魚と肉が降った」という伝承。

そして、いまはほとんど知られぬまま、限られた氏子と高齢者にだけ継承される現状。


——戦後の新儀礼。地域アイデンティティの核。


ページをめくるごとに、調査地の地形や歴史、舞踊の詳細な手順、住民の語りなどが整然と並んでいた。驚くほど論文らしい精度。


だが、読み進めるうちに、違和感が胸をかすめる。

第六章に辿り着いたとき、その違和感は確信に変わった。


そこには、他の章とはまるで調子の違う言葉が刻まれていた。


―――


「あまてぼりは、私の想像によって構成した虚構である。

本稿に記した伝承・儀礼・語りの一切は、実在しない。

読者を欺き、存在しない伝統を記録として残そうとしたことを、ここに深くお詫び申し上げる。」(抜粋)


―――



第三景 不可解

------------------


夜更けの部屋に、キーボードを叩く音だけが響いていた。

しかし、そのリズムはすぐに途絶えた。


——あまてぼりは、私の想像によって構成した虚構である。


スクリーンの文字は、まるでこちらを試すように光っている。

第一章から第五章までは、緻密で、確かに存在したかのような記述だった。

地名、舞の所作、住民の語り。ありふれた地方儀礼の報告書にしか見えなかった。


だが、第六章に入った瞬間、文体がねじれた。



「伝承・儀礼・語りの一切は、実在しない」


「あたかも存在したかのように記述した」



画面を睨みながら、俺は乾いた唾を飲み込む。

これは自白か。告白か。それとも――。


さらに文を追う。



「どうか、この章を以て、本稿全体を虚偽と理解されたい。」



息が詰まった。

記録が、創作だと信じて欲しい?

そんな馬鹿な。


ページの末尾。



「参考文献:——無し」



思わずパソコンを閉じかけて、俺は躊躇ためらった。

虚構だと宣言しながら、ここに存在する論文。

そして、その著者はもうい。


椅子の背にもたれながら、俺は暗い天井を見上げた。

もし、これが本当に虚構なら——なぜ首藤すどうという青年は、そんな文章を残したのか。

もし、これが事実なら——なぜ「存在しない」と書き加えねばならなかったのか。


答えはどこにもない。

ただ一つわかるのは、論文の中の「あまてぼり」が、俺の胸に重く沈殿して離れなくなったということだけだった。


やがて俺は決めていた。

——夏休みを使い、実際にその村へ行ってみよう。


答えを見つけるために。



第四景 村

------------------


夏休みのある日、俺は論文に記されていた地名を頼りに列車を乗り継いだ。

車窓の外に広がるのは、見渡すかぎりの田畑。真夏の陽射しに稲が光り、遠くの山は緑の濃淡を重ねている。

論文の舞台となった小さな集落——そこが目的地だった。


駅から歩いて数分。道沿いにある小さな役場を訪ねてみた。

中には女性がひとり、書類を片付けていた。



「あの……この地区の『あまてぼり』について調べたいんですが、村長さんにお話を伺えませんか?」



彼女は目を丸くしたあと、にこりと笑った。



「村長でしたら、今は神社の境内けいだいで祭りの準備をしていますよ。明日には宵祭よいまつりなんです」



教えられた道をたどると、集落の中心にある神社へと出た。

境内はすでに賑やかだった。鉄骨むき出しの屋台が組み上げられ、色とりどりの布がひるがえる。

筋骨たくましい男たちが段ボールを運び、頭には揃いの手拭いを巻いている。

俺はそのひとりに声をかけた。



「あの、村長さんを探しているんですが」


「村長なら、そこにいるよ」



指さされた先に、恰幅のよい中年の男性がいた。

声をかけると、村長は祭りの合間の休憩とばかりに足を止め、俺の話を聞いてくれた。



「あまてぼりか。昔の飢饉のときに、当時の神主が始めた祈祷術だと言われてるよ。雨雲を海に変え、空から魚や肉が降ってきて村を救った、って伝わっている」


「魚に……肉が?」


「そう。詳しくは神主に聞くといい。あの人が古い記録を持っているから」



ただし——と村長は笑った。



「そっちを手伝う代わりに、こっちを手伝ってくれよ」



数時間、屋台の設営を手伝い汗を流したあと、村長は俺をやしろへ案内してくれた。

社の中では、準備を終えた男たちが酒を酌み交わし、女たちが笑い声をあげていた。

その輪の奥、穏やかな目をした神主が座していた。



「こちら、あまてぼりについて調べたい学生さんだ」



村長が紹介すると、神主は頷き、俺を奥の間へと招いた。



畳敷きの部屋で、神主は一冊の古びた記録を広げた。

そこには、飢饉の頃の出来事が細かに書きつけられていた。

日付、天候、死者の数と死因。


けれど、ある一点に俺は違和感を覚えた。

——ある日を境に、死者の記録がぴたりと止まっていたのだ。

そして数週間を経て、はじめて「あまてぼり」が始まったと記されている。



「……つまり、魚や肉が降ったのが先で、あまてぼりは後、ってことですか?」



俺の問いに、神主はゆっくりと頷いた。



「魚が降る現象なら、現代ではある程度解明されている。沿岸部で竜巻に巻き上げられた魚が、この辺りまで飛ばされることもある」


「じゃあ……肉は?」


「さあな。鳥が巻き込まれたのかもしれん」



神主は肩をすくめて笑った。

けれど俺の目には、古記録にほぼ毎日のように「魚と肉の雨飛うひ」が記されていることが焼きついていた。

飛ぶ鳥落とす偶然にしてはあまりに多すぎる。


外はすでに暮れていた。

帰ろうとする俺に、神主はこう提案した。



「明日は祭りで、あまてぼりの儀が行われる。社に泊まって、明日も村を見ていくといい」



古い布団を用意され、俺はその夜、社に泊まることになった。



第五景 金縛り

------------------


その夜、神社の奥の間に布団を敷いてもらった俺は、ひとり暗闇に包まれていた。

外では虫の声が途切れることなく続き、耳にまとわりつく。

けれど眠気は訪れない。天井は闇に溶け、目を凝らしても何も見えない。


時間の感覚がぼやけはじめた頃だった。


——パシッ。


物差しで机を弾いたような、乾いた音。

最初は外の音かと思った。だがすぐに、廊下からだと気づいた。


——パシッ。パシッ。


間をおいて繰り返されるその音に、心臓が跳ねる。

神主が何かしているのだろうか。そう思い込もうとした矢先。


ガラス戸が、ゆっくりと動き始めていた。


……音もなく。


……あり得ないほど鈍い速度で。


一ミリ、二ミリと、闇の中で確実に開いていく。



『……誰か、いますか』


そう声を出そうとした。だが、喉から音が出ない。

代わりに身体を動かそうとしたが——動かない。


全身が重石に押さえつけられたように沈み込み、瞼さえ思うように動かせなかった。

金縛りだ、と理解した瞬間、恐怖が遅れて押し寄せた。


戸が、完全に開いた。


向こう側は闇。誰もいない——そう思った、その時。


戸の端から、白い“顔”が覗いた。


女の顔だった。

異様に大きく見開かれた目。

長い髪が湿ったように揺れ、蒼白な肌が闇に浮かび上がる。


目が合った。

逸らせない。逸らしてはいけない。

だが瞼を閉じることすらできない。


女の唇が開いた。



「……なんで」



低く、湿った声。



「……なんで」



繰り返す。



「……なんで」



疑問とも恨み言ともつかぬ響きが、じわじわと心臓を締めつける。


やがて、女は戸口から全身を現した。

白装束に包まれた姿。

ひたひたと畳を踏みしめ、俺の枕元へ近づいてくる。


視点を動かせないまま、ただ見つめることしかできない。

彼女は俺の頭の横をすり抜け、視界の外へ消えた。


そこから先は、地獄だった。

見えない。けれど、確かに“いる”。

視界の外に、誰かが立ち続けている——そう感じながら、俺は一睡もできぬまま夜を過ごした。


やがて、気づけば朝だった。

昨夜開いていた戸は、いつの間にか閉じている。

夢だったのか、それとも。


廊下に人影が差した。

神主だった。



「よく眠れたかね?」



俺は——昨夜のことを口にする勇気など、どこにもなかった。



第六景 寺とお坊さん

------------------


社を出てからも、昨夜の出来事が頭を離れなかった。


——白い顔。


——動けない身体。



「……偶然の、悪夢だよな?」



そう自分に言い聞かせても、恐怖は拭えなかった。


気を紛らわすように、俺は昼間のうちに村を歩いて写真を撮って回った。

村の全体像が欲しくなった俺は、神社の裏手から山道を登ると、わだちの残る古い道が石畳へと変わり、やがて寺へと続いていた。


寺の境内はひっそりとしていた。

石畳の上に蝉の声が降り注ぎ、陽炎がゆらめく。並んだ墓石の前に、ひとりの女性が腰を下ろしていた。

白い煙が線香から立ち昇り、風に溶けて消えていく。


俺は声をかけるべきか迷った。だが、その背中に漂う孤独がどうしても気になり、つい口を開いてしまった。



「こんにちは」



女性が振り返った。

一瞬、大きく目を見開き、まるで幽霊でも見たような表情をした。

だがすぐに表情を和らげ、微笑もうとした。



「……あら? どこから来たの?」


「神社から山を登ってきたんです。……すみません、邪魔しました」


「違う違う。そうじゃなくて……村の外の人でしょう? 都会から?」


「あ、ええ。東京からです」


「東京ね……」



女性は小さく呟き、墓石に目を戻した。

その口元は笑っているのに、声には重さが滲んでいた。



「都会はいいわね。何でもある。欲しいものは大体そろうでしょう」


「はは……でも、こういう自然はないですよ。ここの方が羨ましいくらいです」



会話はすぐに途切れ、蝉の声が間を埋めた。

気まずさに耐えかねて、俺はつい踏み込んでしまった。



「……どなたか、お亡くなりに?」



女性は黙ったまま数秒、煙の向こうの墓石を見つめていた。

やがて、かすれた声で言った。



「……息子がね。亡くなったのよ」


「息子さん……」


「ええ。まだ若くてね。貴方くらいの歳。夏休みに東京から帰省してきて……すぐに倒れたの。心臓発作って、お医者さんは言ったわ」



言葉の端々に、諦めと後悔が滲んでいた。

俺は喉の奥に重たい石を詰め込まれたような気持ちで立ち尽くした。



「……三年になるわ」


「……」


「うちにはお墓も仏間もなくてね。息子には『私が死んだら永代供養に入れてね』って笑って話していたの。……でも、先に逝ってしまった」



女性は力なく笑い、膝の上に手を重ねた。



「ほんま、不幸もんよ」



俺は言葉を失い、ただ頭を下げるしかなかった。

すると彼女は立ち上がり、線香とライターを袋に詰めた。



「……貴方も気をつけなさい。若くても、いつ死ぬかなんてわからないんだから」



軽口のように言い残し、女性は墓地の奥へと消えていった。


残された煙だけが、ゆらゆらと揺れ、青空に溶けて消えた。



墓に刻まれた文字を見ると、俺の胸がざわついた。


——首藤家。


あの卒論の名前が脳裏に蘇る。



彼女と別れ、寺の正面へ回ったときだった。


正面には太い石段が下へと伸びていて、そこからは村全体を一望できた。

写真を撮影すると、目的は消えた。


不安を振り払うように寺を離れようとしたが、来た道に戻るのがどうしても気が重かった。

見上げれば木々の枝が風に揺れ、木漏れ日が土の上にまだら模様を描いている。

蝉の声だけが騒がしく、あたりに人影はなかった。


「……帰ろう」


自分にそう言い聞かせ、正規の道であろう石畳を下り始めた。

だが道中に、どうにも“見られている”ような感覚がまとわりついていた。

見渡すたび、そこには誰もいない。けれど気配は確かにあった。


額に汗が滲み、足取りが自然と早まったそのとき——



「あんた、変なんついちょるよ」



低い声が背後からかかった。振り返ると、白い装束に黒い羽織を纏った老人僧が立っていた。



「え、な、何か付いてますか?」



慌てて腕や足を払う俺に、僧は首を振った。



「違う。霊や」



息を呑んだ。



「まあ、こんな爺さんに急に言われても信じられんやろうが……こっち来い。金は取らん」



導かれるまま、来た道を戻り、寺の本堂に上がる。

煌びやかな仏壇の前で正座を促され、僧は静かに読経を始めた。

低く響く声が堂内を満たし、三十分ほどが過ぎた。


読経を終えた僧は振り返り、俺を見据えた。



「……あんた、この辺の子やないな。何しに来た」


「『あまてぼり』っていう祭りの舞を調べに」


「あまてぼり……あぁ、だからや」


「だから?」


「嫌なもんに興味持つと、憑かれるもんや」



言葉の棘が胸に刺さった。



「でも、あまてぼりのおかげで飢饉を乗り越えられたって……」


「そんなもん、神様やない。めでたくもない」



僧は立ち上がり、再び俺を手招いた。

寺の裏、鬱蒼とした木々の陰。苔むした大きな石段が現れた。



「これがな、飢饉で死んだ者たちの墓や」


「……亡くなられた、んですよね?」


「亡くなられた? ちゃう。殺されたんや」



耳を疑った。



「飢饉で口減らしに、多くが殺された。

 ……遺体は雨に晒され、腐っていった」


蝉の声が一瞬途絶えた。


「それを、人々は“空から降ってきた肉”やと思い込み、口にしたんや」



足元の土が急に重くなったように感じた。



「……食人、ですか」


「そうや。きしょい話やろ」



僧の目は真剣だった。



「現世という修行場で不本意に死んだもんは、悟りを開けん。成仏できず、この世に留まり続ける」


線香の煙が濃く漂った。


「声をあげても誰にも届かん。姿を見せても、誰にも気づかれん。

せやから、音を立て、夢に出て、金縛りで縛りつける。——助けてくれるかもしれん者に“おるぞ“と訴えるんや」



全身の血が冷えた。

昨夜の女の声が、頭の奥で蘇る。



「それでも助からんと悟った霊はな、同じ不幸を共有させようとする。人を死に追いやり、自分らと並ばせようとするんや。……それが呪いや」


「……俺も、死んでいたかもしれないってことですか」


「せやな。この村に、首藤っちゅう家のせがれがいてな。昔あんたと同じように東京から戻ってきて、あまてぼりを調べたい言うてた。……けど、話した時には憑きものが多すぎての。どうにもならんかった」


「首藤……」



俺は息を呑んだ。論文の著者。

あの母親の言っていた息子。

すべてが線でつながった。


僧は深く墓に合掌しながら言った。



「あまてぼりを調べるなら、同情や美談にしてはならん。嘘や噂話として語れ。それでようやく、霊を遠ざけられる」



論文の「虚構」と記された一節の意味を、ようやく理解した。

——首藤は、呪いを避けるために敢えて“嘘”として書き残したのだ。


夕暮れの空に、提灯の灯りがぽつぽつとともり始めていた。

祭りのざわめきが、遠くから届く。



「……でも、不思議ですね」

俺は呟いた。



「あれほどの死があったのに、今は祭りになっているなんて」


「せやな。悲しむより、祭りに変えたほうがマシやったんやろう」



僧は、墓石の列を見渡しながら静かに言葉を継いだ。



「……ここにな、何百人も眠っとる」


「何百人も……」


「子供も、大人もや。飢えて泣き叫んでな。“死なんで”“死なんで”と。……その声を聞きながら、親も兄も、泣く泣く手をかけたんや」



言葉は淡々としているのに、耳の奥で軋むように響いた。

俺は胸の奥を掻き毟られるような気持ちで立ち尽くしていた。



「わしら坊主の先代はな……それに耐えかねて、この墓地を作った。飢饉の被害に遭った者らをまとめて埋め、せめて土に還してやろうとな」



僧はゆっくりと石段に手を置いた。苔むした冷たい感触が、俺の手にも伝わる気がした。



「……何百も墓穴を掘るうちに、道具は壊れてしもうた。最後は、みんな手で掘ったんや」



僧は俺の目を見て、短く笑った。



「わからんか? “それが数手掘り《あまてぼり》や”」



俺の背筋に電流が走った。


あまを掘る祈祷”ではない。“数多あまたの墓を手掘りする”——それが本当の意味だった。


僧は続けた。



「先代は、泣く子供らに誤魔化すために、両手を空に掲げたんや。ほんまは土に塗れた手や。それを祈りの所作に誤魔化した。そうやって子供らを安心させた。……だから今の祭りの舞にも残っとるんや」



俺は言葉を失った。

境内で見た両掌を掲げる「天地返し」の動きが、頭の中で違う意味に変わった。



僧は空を見上げた。山の端に提灯の赤が揺れ始めている。



「悲しむより、祭りにしてしまったほうが、人は耐えられるんや。そうして何十年も経つうちに、ほんまに“祈りの舞”になってしもうた」



遠くから太鼓の音が届いた。


ドン……ドン……。


夜の闇が震え、村人たちのざわめきが高まっていく。



「行きなさい。……見届けるとええ」



僧はそう言って背を向け、再び墓前に膝をついた。

線香の煙が、闇に白く溶けていった。


俺は振り返り、提灯の灯りが集まる神社の方へ歩き出した。


心臓はまだ速く打っていた。


しかし同時に――どうしても見なければならないと感じていた。


——“あまてぼり”の舞を。



第七景 あまてぼり

------------------


夕闇が山の端に沈むころ、神社の境内は人で埋まっていた。

吊るされた無数の提灯が赤々と揺れ、夜空を照らし出す。

太鼓の試し打ちが響くたび、観客のざわめきが一瞬止まり、再び膨らんでいった。


俺は寺から下り、境内の片隅に立ってその光景を見つめていた。

昼間の村人たちとは別人のように、彼らの顔には熱が宿っている。

これから始まる儀式を待ちわびるように、誰もが息を潜めていた。


やがて、太鼓が大きく一打。


境内の中央に、白装束の男女が現れた。

笛の音が細く伸び、やがて拍に乗せて舞が始まる。

四拍子のリズムに合わせ、足を踏み、手のひらを打ち合わせる。



「……これが、あまてぼり」



俺は論文の記述を思い出した。


——序の舞。二音階の歌。四拍の手拍と足踏み。


——そして、本の舞。


舞人たちは同時に両掌を掲げ、闇夜に向けてかざした。

天地を返すような動作。

提灯の火に照らされ、掌が赤く染まる。


その瞬間、ざわめきが境内を覆った。

風が吹き抜け、木々がざわりと鳴った。

ただの風——そう思いたかった。


だが俺の耳に、どこからともなく囁き声が重なった。



「……なんで」


「……死なんで」



昨夜、金縛りの中で聞いた女の声。

俺の背筋が凍りつく。


舞は続いている。

鈴の音が三度鳴り、舞人たちはぴたりと動きを止めた。

数秒の沈黙。

その静寂の中に、確かに——何百という呻き声が混ざっていた。


俺は堪らず、境内を後にした。

振り返れば、村人たちの歓声が夜空に響いていた。

まるで祭りに酔いしれているように。


けれど俺には、それが弔いの声にしか聞こえなかった。



第八景 記す者

------------------


祭りの喧噪を背に、俺はひとり山道を登った。

涼しい夜風が汗を冷やし、遠くで鳴る太鼓の余韻だけがついてくる。

提灯の赤はやがて見えなくなり、闇の中に虫の声だけが残った。


村を見下ろせる高台に腰を下ろし、ノートPCを開いた。

画面の白い光が、夜気の中で頼りなく浮かぶ。


——首藤。


——「あまてぼりは虚構である」と記した男。


だがそれは、嘘ではなかった。

虚構と書くことが、唯一の真実を守る術だった。

同情を寄せれば呪いに触れる。

記録を事実とすれば、霊を呼び込む。


彼は“虚構”と偽りながら、実際にはすべてを伝えようとしていたのだ。


俺はキーボードに指を置いた。

「存在しない」とされた伝承。

しかし、確かに人が死に、祈りが舞となり、祭りへと受け継がれた。

それを記すことは、俺にしかできない。


だが同時に、あの僧の言葉が耳をよぎる。


——調べる者には憑く。

——同じ不幸を共有させようとする。


背後の闇から、気配を感じた気がして振り返った。

……誰もいない。

それでも、見えない何かがそっと覗き込んでいるような感覚が、背中に貼り付いて離れなかった。


俺は深く息を吐き、画面に向き直った。

震える指で、最初の一文を打ち込む。



「あまてぼりは、存在した」



キーを叩く音が夜に響いた。


けれど次の瞬間、俺は打ち直した。



「あまてぼりは、確かに存在しない」


まるで、首藤の書き出しをなぞるように。



光る画面に、その文字が浮かぶ。

どちらが正しいかは、もはや私では決められない。

虚構か、事実か。


——それを裁くのは、読む者だ。


太鼓の音が遠くで再び響いた。

俺は指を止めずに、ただ打ち続けた。


存在しないと記しながら——確かにあったものを。




【注釈1】

本稿はフィクションであり、実在する人物・団体・地名とは一切関係ありません。

また、本文に記されたいかなる伝承・証言に基づく調査・接触・訪問はお控えください。



【注釈2】

本文に記された地域に対し、現地への訪問、関係者への問い合わせ等の行為は、

重大な支障をきたす恐れがあるため、絶対に行わないでください。



【注釈3】

本草稿は〇〇大学文化人類学ゼミに提出されたものではありません。

関係機関の要請により、原文の一部は修正・編集されております。

筆者の消息および執筆経緯に関するご質問にはお答えできません。



【注釈4】

本文の内容について、実在する団体・宗教・行政等との関連性を推測・拡散する行為は、

著しく当事者の名誉を損なう可能性があり、場合によっては法的措置の対象となります。



【注釈5】

本稿はフィクションです。

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