エピローグ(アベル視点) この手で耕した土に、君は咲いた
おまけです。
春の陽が差す畑の向こう、ロッキングチェアで眠るレティシアの腹は、ふっくらと膨らんでいた。
ああ、もう君は僕から逃げることはできないだろう、と思った。
君がこの村に来たときのことは、よく覚えてる。
雨に濡れた旅装、傷ついた眼差し、けれど気高い背筋。
僕はそのとき、心の底で笑みを浮かべてしまった。
──落ちてきた。
ようやく、僕の世界に君が。
僕は王都で生まれた。母は侍女だったらしい。物心ついたときから父はいなかった。
忌々しそうに、僕がいなかったら優雅な生活が続けられたのに、と顔を上げるだけで叩かれた。
それでも荒々しい男たちの靴を磨き、言葉を覚え、本を盗み読んで……生き延びるすべだけは学んだ。
腐っていたよ、心も、生き方も。でもそれが僕を生かした。
実の父が貴族だとうすうす気付いても、どうでも良かった。
セルディア村に来たのは、放浪の先に選んだ結果だ。
王都の空気が腐っているなら、土の匂いに埋もれた方がまだマシだと思った。
──そこで君に会った。
最初は信じられなかった。あの“冷酷令嬢”が、泥にまみれて笑っている。
小さな石を宝物のように見せて、畑に芽吹いた大根に目を細める。
土で指が汚れるたびに、少し照れたように笑って、でも誇らしげで。
日差しの下で銀の髪がきらめき、すみれ色の瞳がまっすぐに苗を見つめていた。
その姿が、あまりにも綺麗だった。
決して華やかさではない。
気品があるのに、どこまでも素直で。
王城で飾り立てられていたはずなのに、君はどこにも染まっていなかった。
何も知らないふりでも、何もわかっていないわけでもない。
ただ、損得よりも正しさを選び、冷笑よりも信頼を信じ、
ひとつずつ土を耕すように、丁寧に、まっすぐに生きていた。
そんな人間がこの世界にいるなんて、知らなかった。
君は、どこにも属していない。だからこそ、どこまでも美しかった。
僕は確信した。──君は、王都に返しちゃいけない。
王太子が何を悔やもうが、知ったことじゃない。
君はもう貴族籍を抜かれて、戻る場所も肩書きもない。
けれどそのぶん、僕と同じになった。
世界に取りこぼされた者同士だ。だから、手を取り合える。
……いや、そんな綺麗事じゃない。
本音を言えば、君がこの村で誰かに優しく笑いかけるたび、胸が焼けた。
君がひとりでどこかへ出かけるたび、不安でたまらなかった。
だから、君に届く情報は、少しずつ制限した。
──王太子の結婚報道だけを、あえて君に見せたのは、僕だ。
ミーナと仲良くなったのも、最初は策略だった。
君がこの村で心を許す相手を観察するため、近づいた。
けれど君が、ミーナの手を取り、素直に笑った瞬間、すべてが馬鹿らしくなった。
君は、そうやって誰の心にも染みこんでいく。
僕の心にも──深く、どうしようもないほどに。
君が「もう戻れない」と気づくように、そっと仕掛けた。
酷いだろう? でも、それでも君が僕の隣にいた。
そして今日、君は僕の子を、腹に抱いている。
……こんなにも満たされる日が来るなんて、あの頃の僕は想像もしなかったよ。
横に座り、寝息を立てる君の手に、そっと自分の指を絡める。
君が目を覚まして、いつもの笑顔を見せたら、僕はまた穏やかに微笑むだろう。
「君に出会って、僕は生まれ変わったよ」と。
──僕は、君のために生きていく。
もう二度と、手放すものか。
まさかの世継ぎざまぁにしてみましたがどうでしたか。
さわやか束縛系アベルの愛を一身に受けて幸せになってね!