エピローグ 緑の谷にて
春の光が、谷を優しく包み込んでいた。山の斜面には若草が萌え、花々が控えめに顔をのぞかせる。セルディア村の畑では、今日も朝から人々の声と土の匂いがあふれていた。レティシアが来てから、一年が経った。
レティシアは膨らんだお腹を抱えながら、畑の端に咲く白い野花をそっと摘んでいた。すっかり日焼けした手が、以前の彼女とは別人のようだったが、どこか凛とした美しさを帯びていた。
「この香り……、いいわね。ハーブティに混ぜたら、みんなきっと喜ぶわ」
草かごに花を収めながら、レティシアは微笑む。その視線の先には、鍬を振るうアベルの姿がある。貴族らしい風格をまとうようになっても、彼は変わらず泥にまみれて働いていた。
納屋の影では、ミーナとオルド翁がこそこそと話していた。
「……ねえオルド様、やっぱり、あの方は最初から只者じゃなかったのでしょう?」
「ふむ、そうじゃな。ただの旅人にしちゃあな。文を読むときの目も……何かを思い出しとるようじゃったわい」
「私、ずっと不思議だったんですの。なのに黙って……ふふ、驚きましたわ」
「本人が言い出すまでは、周りがとやかく言うもんじゃない。それに、レティシア様が幸せそうなら、それでええ」
「ええ、ほんとに。今のレティシア様、毎日がとても楽しそうで……ああ、よかった……」
「それにしても結婚前に子を成すとは驚きじゃが。これでレティシア様は王家にも盗られずに済む。意外と策士じゃな」
ふたりのひそひそ声に、気づいていないふりをしながらアベルは軽く肩をすくめた。
昼下がり、川べりに出たふたり。小さな木のベンチに並んで腰を下ろすと、レティシアは花かごを傍らに置き、そっと空を見上げた。
「アベル」
「うん?」
「……なんでもないわ。ただ、風が気持ちよくて」
彼女の瞳が、かすかに潤んでいるのをアベルは見逃さなかった。
「ねえ、私、本当にここに来てよかったのかしら。……ううん、そう思ってるのに、なんだか夢みたいで」
「何を言うんだよ。ここで君が笑ってる。それが全部さ」
アベルは静かにレティシアの手を取る。
「君と出会って、僕の人生が変わった。どんな過去があろうと、君がここにいてくれてよかった。……ありがとう」
レティシアは少しだけ肩を震わせ、やがてアベルに微笑み返す。
山風に揺れる野花が、まるでふたりを祝福するように咲いていた。
(もう私は、空っぽじゃない)
木漏れ日の中、ふたりはそっと寄り添い、穏やかな時間を分かち合った。
遠く王都では、まだ人々が喧騒にまみれて生きている。だが、ここ緑の谷では、小さな幸福が確かに根を張り、花を咲かせていた。
そしてその花は、かつて“冷酷令嬢”と呼ばれた一人の少女が選び取った、まぎれもない未来そのものだった。