第六章 掘り出しものと午後のひかり
山間のセルディア村にも、初夏の風が吹きはじめていた。強い陽射しに照らされた畑には、夏野菜の苗が元気よく葉を広げ、虫たちの羽音が小さく響いている。
レティシアは朝から草を抜き、土を掘り返していた。スコップの先が固い何かに当たり、鈍い音が響く。「……また石」彼女は額の汗を拭いながら、小さくため息をついた。
「掘ったな。なかなかの大物だな」
声に振り返ると、畑の端にアベルが立っていた。濃い栗色の髪が風に揺れ、灰色の瞳に陽光がきらめく。広い肩幅と引き締まった体つき、日に焼けた肌が、日々の労働で鍛えられた男のたくましさを物語っていた。
「手伝おうか? これは一人で掘るには骨が折れそうだ」
「ありがとうございます、でも……」
断ろうとしたその時、アベルは脇の道から入ってきて、まっすぐに歩み寄ってスコップを手にした。
「村長代理が貸してくれた畑だろ? ちゃんと育ててくれてるって、喜んでたよ」
「……責任重大ですね」
「無理しなくていいさ。土に触れてると、腹が減って、飯がうまくなる。それで十分さ」
石を取り除いたあと、レティシアは畝の脇に腰を下ろし、肩の力を抜いた。アベルも隣に腰を下ろし、手についた泥を軽く払っている。
「アベルさんって、どうしてそんなに親切なんですか?」
「どうしてかな。放っておけないだけかもしれない。君が真面目に頑張ってるの、見てるとつい手を貸したくなるんだ」
その言葉に、レティシアは少しだけ頬を緩めた。
ふと視線が合い、アベルが目をそらす。その頬がわずかに赤くなっていた。
村に来てから数ヶ月、レティシアは心の奥にある棘のような記憶と向き合っていた。王都の冷たい廊下、誰も寄り添わなかった食卓、家族からの便りの絶えた沈黙──それらと比べるまでもなく、今は土の香りと小鳥のさえずりが、心を静かに満たしていた。
ふと、アベルの横顔を見つめる。この人と一緒にいる未来を、つい──そう考えた瞬間、レティシアは俯いてしまった。
そのときだった。
「なあ、ちょっと来てくれないか。見せたい景色があるんだ」
アベルに手を引かれて連れて行かれたのは、村を見下ろす小高い丘の上だった。
夕陽が山の端に沈もうとしていて、畑も家々も、すべてが金色に染まっていた。風に揺れる草木がささやき、小さな花々が淡く輝いている。
その景色のなかで、アベルはゆっくりとレティシアの前に立った。
「俺と──一生一緒にいてくれないか」
言葉は、穏やかで、でもしっかりとした芯があった。
レティシアは目を見開き、すぐには言葉が出なかった。
「君が来てくれてから、この村が少しずつ明るくなった。俺はこの目で見たんだ、君が誰よりも真っ直ぐに生きてるってことを。誰かの策略で歪められた君の姿じゃなく、本当の君を──それを守りたいと思った。……これからの人生、君と一緒に、穏やかに生きていきたい」
レティシアの胸に、温かな光が差し込んだ。思いもよらない言葉に心が震え、こみ上げる想いが喉を塞ぐ。王都での冷たい日々、疑いの眼差し、孤独な夜──それらすべてが遠く霞んでいく。自分の存在が肯定された気がして、身分も家柄も何もかも考える間もなく、気づけば心が先に答えていた。涙が浮かびそうになるのを堪えながら、レティシアはゆっくりと頷いた。
「……はい」
その返事は、金色の空に吸い込まれていくようだった。
レティシアと並んで歩く帰り道、アベルがふと立ち止まって言った。
「ひとつ、話しておきたいことがある」
彼は懐から古びた手紙を取り出す。
「……実はな、俺の生まれについて書かれていた手紙があって……最初は信じられなかったが──最近になって証人が現れて、その内容が正式に認められた」
アベルは一度言葉を切って、レティシアをまっすぐ見つめた。
「俺は、ノイシュタット公爵家の落胤なんだ」
レティシアは驚きに目を見開いた。
ノイシュタット──西部を治める五大貴族のひとつに数えられ、代々王家の信任も厚い名門。その名を知らぬ者はいない。王太子妃教育を受けていた彼女にとっても、格式や家系、領地の広さに至るまで教本に載るほどの存在だった。
「君に想いを伝える勇気が持てたのは、この事実を知ったからだ。もう、誰に遠慮することなく、君と並んで歩いていける」
アベルは空を見上げて、柔らかく微笑んだ。「でもな、俺はここが気に入ってる。この村で、君と一緒に生きていきたい」
レティシアもまた、そっと笑みをこぼした。
目の前に広がる丘の草花が、夕陽を浴びて柔らかく光っている。そのあたたかさが、心の奥深くに沁み込んでいくようだった。
胸の奥で長い間凍っていたものが、静かに溶けていくのを感じながら、レティシアはそっと言葉を紡いだ。
「……わたしも、そう思ってたんです」
西の空が茜色に染まり、草花の影が長く伸びていた。土の匂いと葉擦れの音が穏やかに包むなかで、レティシアとアベルはそっと肩を寄せ合った。