第四章 遠く離れて
──セルディア村に来て、もうひと月が過ぎようとしていた。
王都から五日馬車を走らせ、さらに山道を半日ほど進んだ先にある、王国西端の山間部に位置する小さな自治村──セルディア村。到着した日には雨が降っていたけれど、今ではすっかりこの土地にも慣れてきた。
朝の空気は澄んでいて、ほんのり湿った土の匂いが鼻をくすぐる。焚き火の名残の煙がゆるやかに漂い、どこからか牛の鳴き声が聞こえた。風に揺れるハーブの香りが微かに混じり、胸の奥まで清らかな冷気が流れ込むような心地よさがあった。
軒先には干し草と籠、裏庭では鶏が鳴き、段々畑では若葉が陽に輝いている。
「今日も、石を掘り当てましたのよ」
レティシアは笑って小さな手のひらを見せた。そこには土にまみれた丸い石がひとつ、ころりと乗っていた。
「……こいつはまた見事なサイズだな」
畑の隣で鍬を振るっていた青年が、土付きの手でそれを覗き込み、アベルは声をあげた。濃い栗色の髪が流れ、灰色の瞳が鋭くも穏やかに光っている。日焼けした肌に、野良仕事で鍛えられた逞しい腕と肩。この畑は村長オルドの許可を得てレティシアに貸し与えられ、結局、管理はそのオルドから任されたアベルが一手に引き受けている。
「毎日一個ずつ、貯めていけばいつか石垣が作れそうですわ」
「そのうち石屋でも始められるかもな」
ふたりは顔を見合わせ、くすくすと笑った。
「春大根、順調だな。水の具合もちょうどいい」
「ええ、おかげさまで」
「いや、ちゃんと世話してるのはあんただ。芽ってのは、手をかけたぶんだけ、ちゃんと応えてくれるもんだ」
レティシアはふっと目を伏せて微笑んだ。風がふたりの間をすり抜け、芽吹いたばかりの若葉を揺らしていく。
王城では、こんなふうに誰かと笑い合った記憶がほとんどない。いや、あってもそれは作られた笑顔、役割を果たすための言葉だった。
リオネル──かつての婚約者である王子との会話は、冷たく管理された関係だった。あちらも政略に従っただけ、こちらも名家の娘として求められるままに振る舞っただけ。
──それで、いいのだと。
けれどその思いは、村の雑貨屋が持ってきた小さな新聞記事で揺らいだ。
『王太子リオネル殿下、隣国サラントの第一王女とご成婚へ』
思わず手を止め、写真を撫でた指先に力がこもる。金のティアラを戴いた王女と並ぶリオネルの姿は、冷たく、どこか遠くの世界のもののようだった。
──その数日前。王都から届けられた公文書が一通、セルディアの村役場に届いていた。
『レティシア・アルフォード嬢、貴族籍より除籍』
村長のオルドは無言でその書状を差し出した。手にしたとき、胸の奥が少しだけ痛んだ。わかっていた。それでも、文字で突きつけられると、なにかが静かに終わる音がした。
新聞を静かに畳みながら、レティシアはぽつりとつぶやいた。
「……平民とは結婚できないのですね」
自嘲とも寂しさともつかないその声に、アベルが顔を上げる。
「何かあったのか?」
「いえ──」
静かに目を伏せるレティシア。その横顔に、アベルは何も言わず、ただ黙ってそばにいた。
けれど──
「でも、今の暮らしは……とても好きですのよ」
そう言って、レティシアは土をすくって畝に撒き直す。陽の光にきらめく土の粒が、まるで宝石のように見えた。
「朝になれば鳥が鳴いて、土のにおいがして、顔を合わせれば誰かが笑ってくれる。……こんなにも、あたたかい世界があるなんて、王城では知らなかった」
その言葉は、ひとり言のようで、けれどアベルにも向けられていた。
レティシアはちらりとアベルの横顔を見やった。まっすぐに芽を見つめるそのまなざしに、胸の奥がかすかに揺れる。もう二度と、誰かと結婚することなど考えられないと思っていたはずなのに──
染まる頬を隠すように、レティシアはそっと口を開いた。
「……さ、そろそろお昼にいたしましょうか」
「お、じゃあ俺、鍬片づけてくる」
ふたりは並んで立ち上がる。その歩幅がいつの間にか揃っていたことに気づかなかった。
陽射しは強まり、夏の気配を含んだ風が、レティシアの頬をやさしく撫でていった。