第三章 芽吹きの始まり
「これは……人参の種ですの?」
レティシアは袋の中を覗き込み、細かな種をそっと掌に広げた。
「いや、それは春大根だ。人参は発芽が難しくてな、初心者向けじゃない。まずは育てやすいもんから始めた方がいい」
アベルはそう言いながら、笑って鍬を肩にかけた。
畑は少しずつ形を成してきていた。石を取り除き、土を耕し、少しだけ整えられた畝が初々しく並んでいる。レティシアはエプロンを直しながら、ひとつ息をついた。
「畝を整えるのって、意外と難しいんですのね。土が思ったよりも、いうことを聞いてくれませんわ」
「そりゃあ、土ってやつは頑固でね。けどな、頑固なやつほど、いっぺん打ち解けたら、ぐっと懐を見せるもんだ」
アベルのその言葉に、レティシアは少し笑って頷いた。
「まるで、人みたいですわね」
「そう、まるで人さ。……君も、きっとそんなとこあるんじゃないか?」
「えっ?」
「いや、なんでもない。冗談」
アベルは照れくさそうに帽子を被り直した。
レティシアはぽかんと目を丸くしたあと、ほんのりと頬を染めてぷいと視線をそらした。その仕草がなんとも愛らしく、アベルは思わず目を細める。
「……そういうことを急に言われると、困ってしまいますわ」
小さな声でそう呟きながらも、彼女の唇は微かにほころんでいた。春の陽に照らされて、その横顔は花のようにやわらかだった。
ミーナは何かに気づいたように目を丸くし、
「わ、わたし、昼食の準備がありましたわね!」
と、わざとらしく明るい声を残して、その場をそそくさと離れた。
(お嬢様があんな表情をするなんて)
本来、未婚の淑女が男性と二人きりになるのはご法度である。だがミーナにとっては、そんな堅苦しい作法よりも、レティシアがこれまで見せたことのない穏やかな表情を浮かべていることのほうが、何より嬉しかった。
アベルが紳士であることを信じて二人きりにしたものの、ミーナの目には自然と涙が浮かび、その嬉し涙をそっと袖で拭った。
作業を進めるアベルの、ふとした所作がレティシアの目に留まる。土に手を入れて種をまくときの丁寧さ。石をどかすときの手早さ。彼は無骨に見えて、作業はとても繊細だった。
アベルは数年前に旅人としてこの村に現れ、やがて定住するようになった。当初は周囲になじめずにいたようだが、今ではオルガからも信頼される、村の中心的な存在となっている。若い男の数が少ないこの村では、彼の存在はとりわけ貴重であり、多くの人から頼りにされている。
「アベルさんって、やさしい方なのですね」
「やさしいっていうか……まあ、人が困ってたら、手を貸すのが普通だと思ってるだけだよ」
その言葉は、どこまでも真っ直ぐで、押しつけがましさのないもので。
レティシアはそのとき、ほんの少しだけ胸があたたかくなるのを感じた。
──王城では、誰かが手を差し伸べるとき、必ず何かの代償があった。
でもこの村では、こんなにも自然に、誰かが誰かを助けている。
「……そういえば、種まきって、どんな風にするのがよろしいのかしら?」
「こうだよ。まず、指でちょっと筋を作って……こうして、ぽん、ぽんって」
アベルはレティシアの手を取り、そっと導いた。その指先がふれた瞬間、レティシアの頬に淡く紅が差した。
「……な、なるほど。そうやって、まくのですのね」
「そ。力入れすぎると深くなりすぎるし、浅すぎると風で飛ぶ。ちょうどいいとこ、探さないといけない」
アベルは彼女の横顔を見た。真剣なまなざしで土に向かうレティシアの姿が、新鮮に感じられた。
(あれが噂の『王都の悪役令嬢』? ぜんぜん、そんな風には見えないな)
春の風がふわりと吹き、畑の土が少しだけ乾いた香りを運んだ。
ふと、レティシアは顔を上げ、空を見上げた。王城にいた頃、こんな風に風の匂いを意識したことなど一度もなかった。薔薇の香水や磨き上げられた石の床の冷たさ、無機質な窓の向こうに広がる整った庭園。すべてが整いすぎていて、息が詰まるようだった。
リオネルとの会話もまた、冷たく研ぎ澄まされた刃物のようだった。必要最小限の言葉、義務としての笑顔──そこに心はなかった。
母からの手紙は、追放された日を境にぷつりと途絶えた。ミーナ以外の侍女たちも皆、もういない。王都にいた頃、レティシアの周囲には確かに多くの人がいたはずなのに、あれほどの孤独を感じた日々はなかった。
けれど今は、たった一人と土をならべて座っているだけで、心がふっとあたたかくなる。
それが何よりも贅沢で、幸せなことに思えた。
二人はならんでしゃがみこみ、無言で種をまき続けた。だが、その沈黙は、不思議と心地よいものだった。