第一章 断罪と追放、そして畑の匂いに出会う
定番ふんわりスローライフ幸せざまぁです!
全7章+エピローグの予定。
シャンデリアの光がまばゆい舞踏会の会場。その中央で王太子リオネル・クロイツが声高に叫んだ。
「レティシア・アルフォード、君との婚約をここに破棄する!」
騒然とする令嬢たちの輪の中、レティシアは一人、紅茶を静かにすすっていた。
彼女はアルフォード侯爵家の令嬢にして、次期王太子妃として長らく育てられてきた。王家とは代々姻戚関係を持つ由緒ある家柄であり、リオネルとの婚約も、政治的にも極めて安定したものと見なされていた。貴族たちは当然のように「王太子妃レティシア」を前提にふるまい、舞踏会もそのお披露目の意味を持っていたのだ。
その姿は、まるで花嫁を模した祝福の精霊のようだった。白地に藤の花をあしらったシルクドレスは控えめながらも洗練され、肩から胸元にかけて流れるようなレースが施されている。銀髪はゆるく三つ編みにされ、首元で淡い紫のリボンがひと結び。すみれ色の瞳は静かに揺れ、細く整った指先がカップを持ち上げていた。
「……まあ」
と、彼女は小さく息を吐き、カップを置いた。
「それは突然ですこと。お祝いのケーキは、もう注文してありますのに」
隣に立つエミリアと呼ばれる少女が、涙をぽろぽろと流す。
「レティシア様が、私を突き落としたんです……」
「またその話?」
レティシアは首を傾けた。
「あれは貴女が階段の裾を踏んだだけでしてよ。周囲の方もご覧になっていたはず」
「黙れ!」
リオネルが叫ぶ。怒りと戸惑い、そしてどこかに微かな焦りを滲ませながら──
「君のような冷酷な令嬢を、王妃に迎えるわけにはいかない」
これまでのリオネルの振る舞いから予想していたこと──少しも動揺などしなかった。
「……では、これで私、自由というわけですわね」
とだけ告げ、背筋を伸ばし、くるりと踵を返した。
ドレスの裾が静かに揺れ、銀の髪がふわりと宙を舞う。
その瞳にはもう涙も怒りもなく、ただ確かな決意だけが宿っていた。
──リオネルは何も言わなかった。
だが、彼が一度下した決定が覆ることは決してない。どんなに理不尽でも。それを誰よりも理解していたからこそ、レティシアは振り返らなかった。
それが、社交界における彼女の最後の姿となった。
翌朝、実家のアルフォード侯爵家では、父が短く言い放った。
「おまえのせいでアルフォード家の名が地に堕ちた」
母は、「どうしてもっと上手に立ち回れなかったの」と小さくつぶやき、目を逸らした。兄は冷たい目で書類を読みながら、「王太子にああまで言われていては、どの貴族も娶ることなどできない。無駄な教育だった」と吐き捨てた。
名門アルフォード家において、これほどの不名誉を晒した者は前例がない。たとえ明確な咎がなかったとしても、そうなってしまった以上、追放は免れない。
「十日やる。出て行け…荷物は必要最低限のものだけ許す」
レティシアは一礼し、承諾した。
そして、出立の日──
レティシアは淡い紫の旅行鞄を持って屋敷を出た。送りに出る家族はいなかった。
その鞄には着替えと裁縫道具、そして祖母が遺してくれた小さな翡翠のペンダントがひとつだけ。
後を追うように、小柄な侍女がひとり立っていた。名はミーナ。幼い頃からレティシアに仕えてきた忠実な侍女である。
「お嬢様が行かれるなら、わたしもご一緒します。どこであっても、わたしの務めは変わりません」
レティシアはほんのわずかに目を潤ませながらも、頷いた。
「ありがとう、ミーナ。あなたと一緒なら、きっと大丈夫ですわ。……これで、ほんとうに自由ですのね……」
そうつぶやいた声に、どこか浮いてしまったような寂しさが混じった。
レティシアは王城で暮らした年月の多くを、完璧であることを求められながら過ごしてきた。豪奢な部屋、丁寧な礼儀作法、着飾るドレス、美しい言葉遣い、完璧なふるまい──けれど心に残るものはなかった。
微笑むたびに誰かの顔色を読み、誰かの意向に合わせる毎日。
彼女はいつしか、何を好きかも、何が嬉しいかも、わからなくなっていた。
「空っぽ──でしたわね」
と、誰にともなく、馬車の中でつぶやいた。
数日をかけて、雨に濡れながらたどり着いたのは、王都から五日馬車を走らせ、さらに山道を半日ほど進んだ先にある、王国西端の山間部に位置する小さな自治村──セルディア村だった。
石畳は途中で尽き、ぬかるんだ土の道が続いていた。両脇には小川が流れ、ところどころに水車小屋や丸太小屋の納屋が見える。山の斜面には段々畑が広がり、雨に濡れた若葉がつやつやと輝いている。軒先には干し草と籠、裏庭には鶏や山羊の姿もあった。空には春の霞がかかり、山桜がところどころで白く咲いていた。
空気はひんやりと冷たく、けれどどこか甘く、木々と土と薪の香りが入り混じっていた。王都の香水や香木とは違う、素朴で、まるで記憶の底をくすぐるような匂いだった。
セルディア村──正式には“セルディア自治農村区”という。王都の西方、山々に囲まれた自然豊かな土地で、主な産業は畑作と果樹栽培。地図に名前すら載っていないが、質の良い果物やハーブの供給地として、一部の商人たちの間では知られている。領主すらおらず、少ない村人たちで貧しくも健やかに暮らしていた。
村の外れにある空き家を、古い知人の伝手で借りる。その知人とは、王都で仕えていた庭師の甥──村長の老爺オルドである。かつてレティシアが庭師と一緒に花壇の手入れを手伝っていた頃から、オルドも何度か屋敷を訪れており、その頃の礼儀正しい少女の印象が忘れられなかったという。
「都を離れた方がいい。お嬢さん、あんたは悪くない。けど、この国の上層は、自分らの都合で真実を曲げるんじゃ」
そう言って、彼は村の小屋を貸し与え、最低限の食糧と鍬の使い方を教えてくれた。王都を離れ、身を隠すように生きるには、この山奥の集落セルディアは最適だった。
表立って『追放』という扱いではなかったが、王族から婚約破棄され、貴族社会で悪評が広まったレティシアにとっては、王都に残ること自体が“罪”のようなものだった。アルフォート家の自領でも、レティシアは目立ちすぎるのだ。噂話と好奇の目から遠ざかるようにして、この村に身を寄せることになったのである。
「ほう、都会のお嬢さんか。畑仕事なんて、できるんかいの」
そう笑ったのは近所のじいさま。レティシアは帽子を深くかぶり、笑顔で答えた。
「できますわ。庭師に、土は正直って教わりましたの」