魔女の弟子 〜村を焼かれた少年とダークエルフの少女は、嘆きの森にて巣立ちを迎える〜
俺は夜の森を走っていた。
心臓がドクドクと激しく鼓動を増し、まるでそのまま胸の中から溢れ出そうだ。
「はぁっ…はぁっ」
苦しい。息苦しい。けど、止まれない。止まったらだめなのだと直感が告げている。
突然運動を強いられた筋肉は、錆びついて機械を力任せに動かしたのように悲鳴をあげる。まるで自分の意志に反して止まれ、止まれと叫ぶように。
そもそも俺は運動なんてぜんぜん得意じゃない。
しかも、ここはどこだ。
東京にこんな深い森なんてあるわけない。そもそも俺はこんなところに来た覚えなんてない。
けれど、今はそんなことを嘆いている暇はないらしい。
「まだ追ってきてる…」
後ろから追ってくるいくつもの人影。
あれは確実に俺を狙っている……ような気がする。遠目に灯りがゆらめいて、少なくとも今も俺を迷うことなく追ってきている。
「いたぞ!」
「気をつけろ!悪魔かもしれんぞ」
はあ? 悪魔ってなんのことを言ってるんだ。
「矢を放て!逃すな!」
ちょっと待てよ!さすがに物騒すぎるだろ!
俺はさらに速度を上げて走森を駆け抜けていく。
「あー、もう死ぬ。もう一年分は走った! もう無理!」
息苦しくて犬のように空気を貪った。衣服は汗でぐっしょり。服も何処かで引っ掛けたのかほつれていて、俺は気が滅入った。
「ホントに…はぁ、しつこい…」
追いかけてくる火から逃げるように前に進んでいると、
──ぐしゃ
と、突然何かがやわらかなものが潰れるような音がした。
「え…?」
寒気が襲ってくる。
俺は立ち止まった。立ち止まってしまった。
そして、それを見てしまった。真っ赤に染まった、サッカーボールくらいの大きさのもの。けれど、ボールと言うには楕円形で形が歪つに見える。
暗闇でよく見えないけれど、どこか見慣れたもののような気がした。
気がするじゃない。
理性が認めようとしないが、あれは普段からよく見てるものだ。
むせ返るような血の匂いが自分の鼻腔に広がっていくのを感じる
寒気が身体駆け巡る。
俺の目には死の気配がゆっくりと広がってゆくの見えた。暗闇に目が慣れてきて俺は今度こそ、思い知らされる。
そう、それは人の首だった。
「──っ」
あげたはずの声は悲鳴にすらならず、ただ口を開けて呆然とそれを見ていた。
──くちゃ
何かを咀嚼するような音がする。黒い影が覆いかぶさるように。
「……何してるんだ。……やめろ」
──くちゃ、くちゃ、くちゃ
喰ってるのだ。
その黒い犬は気づいてこちらを向いた。
巨大な黒い体躯。漆黒の体。赤い瞳が輝いている。大きな犬のような姿。その獣のような何かが一歩足を踏み出した。
俺どこか現実離れようなした感覚でそれを見ていた。一歩一歩近づいてくる。闇のように。真っ黒で、目だけが赤い。黒い獣。そこから感じるのは死の匂いしかない。
危ない。逃げなきゃだめだ。
けど、金縛りにあったかのように体は動かない。そのうち口を開けた黒い犬の牙がそっと触れて──
「そこまでだ」
男の声で、俺の遠くなって行く意識は引き戻された。
鈍い音がして、黒い犬は木に叩きつけられる。
「危なかったな。もう大丈夫だ、少年」
少年? 誰のことだ。こいつは何を言ってるんだ…?
「瘴気は?」
「大丈夫です。もう邪悪な気配は消えたみたい」
男性の隣にいる女性が松明を掲げる。そうして見えたのは、少し長い耳に褐色の肌の女性。それは架空の世界にしかいない亜人族そのものだ。
男性は火に照らされると、俺の姿もあらわになる。
「ん? おい、お前、ヒューマン族か? 少なくとも村の人間じゃないな。誰だ?」
誰だと言うのはむしろ俺が言いたい。
彼は人間のように見えるが、西洋風の鎧を身につけ、剣を帯びている。その姿は、さながらゲームの世界の剣士のような姿をしていた。
「仕留めたか。しかし一人犠牲者が出た。そっちは子供か?子供が森に一人でいるなんて、見張りは何をやっていた。」
がさがさと枝を揺らす音がして、後ろからさらに弓を持った数人が現れる。
姿を現した亜人は女性と同じ容姿だった。
そして、俺はその姿の亜人をよく知っている。
「ダークエルフ…!」
俺の放ったその叫びにそのダークエルフたちは一斉に、鋭い視線を俺に向けた。
***
数日前、俺は村の近くで拾われた。
部外者が森に深く踏み入ることはダークエルフにとっては禁忌である。
一時は「幽閉する」だの「悪魔が化けている」とまで意見が出たが、ひとまずは監視という条件付きで俺は客人として受け入れられることとなった。
俺を助けたのはこの人族の戦士と、村で巫術師の地位にあるダークエルフの夫婦だった。いろいろと紆余曲折はあったが、以下省略。
俺は家族としてひきとられ、今は村で生活している。
ダークエルフの村で人間が受け入れられるのは極めて例外的だったが、先に彼ら夫婦がこの村に受け入れられてきたことで、人間を受け入れる下地があったのだろう。
俺は魔物に襲われた後遺症で記憶喪失になった。正確には「そういうことにしていた」。
俺にはちゃんと…かどうかはともかく記憶がある。
それもこの世界とは異なる異質な記憶だ。
ただし、自分の名前、住んでる町、親しい人間など自分と密接に関わるようなことは思い出せない。わかっているのは、今の自分と記憶の中のいる自分は明確に違うことだけだ。
今の俺の見た目は十二、三歳くらいの少年だが、実際の年齢はもっと上だ。
俺の住んでいた世界ではダークエルフという存在は架空の存在であり、魔法という神秘は、科学技術によって神秘のベールを切り裂かれ、虚構の中にしか存在しなかった。
実際、こんなことを伝えても不審がられるだけだろうからな。
ある日突然、異世界から来たみたいな話を語りだす奴がいたら、俺ならスルーするか病院に連れていくよ。
そんなわけで、他人に疑われるのは辛いので、俺はこのことは秘密にすることに決めていた。
そもそも、ただでさえ森を警戒してる人族、それも若過ぎる子供。それもぼっちで、しかもそれが記憶喪失?
警戒しない方がどうかしている。どう考えても怪しすぎる。
ところで。
ここまで来たら流石に認めないといけないらしい。
ああ、認めよう。ここは異世界だ。
ただ、最初からハードモードなのはちょっと勘弁してほしかった。
***
広大な森の奥には、森妖精の住まう里がある。
里に住む黒い森妖精は、森を守る守人だ。その禁を犯したものは、森の中から永遠に出ることはできない。
彼らは何百年の寿命を持つ巨大な樹木たちと共に育ち、共に生き続けている。人の一生の何倍も生きる彼らは決して、裏切りは忘れない。
決して森の禁を破るなかれ。
……って感じでダークエルフたちは森に入る人たちを脅してるらしいよ。
おかげでこの森の奥には人間が寄りつかない。
俺はといえば無事に監視から解放され、かなり自由に歩けるようになった。
広大な森の奥では、何百年の寿命を持つと思われる巨大な樹木たちが遥か高くまで伸びている。
見渡す限りの一面の緑は圧倒的だ。
「いやー、凄いな。これぞまさに大自然。こんな光景を見たのは初めてだ」
「少しは自分の記憶を取り戻したのかい?」
俺の呟きに心配した様子を見せるのは、義理の父親である剣士の青年だ。
自分の身長が変わったせいか彼がかなり長身に見える。
「あ、ああ…断片的には思い出すんだけど、どうしても細かいところは思い出せない。もっと石造りの建物がたくさんあって、人もいっぱいいたよ」
俺は余計なことを言わないように言葉を選ぶ。
少なくとも俺には森に住む知識も、サバイバルの知識もない。しかし、この近くに住んでいたとするとそれは不自然だ。そこで人の多い都会付近に住んでいた風を装うことにした。
「なるほどな。クロウは読み書きもできるし知識もそれなりに豊富だ。もともと都市にでもに住んでいたのかもしれないね」
どうやら納得してくれたようだ。
ちなみにクロウってのは名前すら忘れた俺に、義理の両親がつけてくれた名だ。黒髪にちなんでつけたらしい。
「でも都会育ちなら納得ね。最近は体力ついてきたけど、最初は私についてくるだけでもかなり息が上がってたしね」
横合いから口を挟んでくるのはレン、俺の義理の姉で、何かと俺を外に連れ出そうとする。
「レンが体力お化けなだけだろ」
エルフ族というのは基本的に華奢だが、毎日毎日森を駆け回っていれば、筋力だってつくのだろう。
少なくとも今のレンは俺よりもずっと健康的な身体つきをしていた。
「お化けってなによ。鍛えてるって言って欲しいね」
「お前はいつも毎日元気がありあまってるな…」
得意気に胸を張るレンを見ながら、俺は思わずため息をつく。
ダークエルフは自然を必要以上に汚染しないよう配慮している。
自給自足でまかなっている部分も多いが、当然それだけで暮らしているわけではない。他のエルフの集落や人間とも取引を行っていて、近くの人間の村とも交易している。
自らの身は自らで守るというのが彼らの信条で、それゆえ、戦いや狩りの訓練は欠かせず、幼い頃から子供も鍛えるのも大人の仕事の一つだった。
それにこの世界の脅威は、俺のいた世界とは違い、もっと切実で密接なものだ。通常の動物よりよほど大型で凶暴な魔獣が存在しており、それが牙を剥くことある。
「さあクロウ、のんびりしてないで私たちは早く狩りに行くよ」
「俺、血の匂い苦手なんだけど」
「働かざるものを食うべからずっていうじゃない? あなたも村の一員なんだからちゃんと働きなさい」
「俺は狩猟とかは苦手なので、レンに任せたい。どっちかというと術式を教えてもらいたいんだよな。俺はおそらくそっちの方が役に立てると思うよ。罠を仕掛けたりとかさ」
「そういえば、クロウは長老の一人に魔術を教えてもらってたな。魔術に興味があるのか?」
養父の問いかけに俺は頷く。
「うん。いくつか便利の使えそうなものもあるし、弄れるなら少し試してみたい」
「わかったよ。話は後で通しておこう」
義父の反応に俺は満足そうに頷いた。
ダークエルフたちは、俺が文字の読み書きができるのは意外だったようで、せっかく読めるならと監視中は長老の家で世話になりそこにある書籍を読んでいた。
監視とはなんだったのか。
まあ、俺も尋問された時に恥ずかしながら思いっきりビビったし、その様子を見て早い段階で人畜無害なのはわかったらしい。
そして俺は魔力的な素質も特に高くないらしい。
見事なまでの一般人だそうだ。
マジかよ。
とはいえ、この世界に来てから一番興味があったのは魔術を構成する魔導術式だ。
その中でも今一番興味があるのは共通魔導術式と呼ばれるものだ。
これは通称生活魔術と呼ばれて、基本的な術式を発動する単純な仕組みを使って、火を起こしたりするなど生活に役に立つような小規模な魔術である。
魔力で発動する文明の利器といったところだろう。
魔術の利用には発動体となる結晶が必要で、発動体には複数の魔術回路が含まれている。魔術回路とは基礎となる魔術回路を結晶内に刻印することで術式を構成する。
こいつの利点では、魔力があれば誰が使っても同じ効果を発揮することだ。
ブラックボックスになってる部分も多いが、魔術回路を組み合わせることで術式を構成してるようだ。
「そういえば長老の家には、他にも人族から購入した品物はいくつかあったはずだな」
「あんな怪しげな呪いに頼らなくても、私たちは精霊の声を聞けるのに」
エルフ族は精霊術式を使用するので基本的には必要がない。ないのだが、エルフ族の中にもこの仕組みに興味を持ったものがいて人族から入手している。
「ああ、レン。精霊の声は人間族には聞くのは難しい。素質を持ったものもいるがそう多くないのさ」
「父様はその分、剣の腕が優れてるじゃない?」
「ははは、子供の頃からずっとやって来たからな」
「なら、クロウももっと鍛えるべきね」
「勘弁してくれ…」
「つべこべ言わずについてくる。練習しないならうまくなるものもうまくならないよ」
レンは俺の腕を強く引っ張る。一見華奢な体つきをしてるわりには力はかなり強い。
「わかったわかった。だからそんなに慌てないでくれ」
俺は降参とばかりに大人しく引きづられる。
「レンもすっかり姉らしくなって」
隣を歩いていた父親が俺たちの様子を見ながら笑っていた。
「まあクロウが来てくれたおかげでレンは元気になったような気はするよ」
「ちょっと、父様! 私が面倒見てあげてるんだからね」
「はいはい、わかってるよ」
養父は不満そうなレンの頭を笑いながら撫でる。
レンは人とダークエルフのハーフだった。いわゆるハーフエルフだ。この村では迫害されているわけではないが、子供の間では異質さはどうしても障壁になるケースはあった。
しかし、俺という弟ができてからはレンは俺と対等でかつ遠慮なく接する存在ができたことで、それなりに活発になっていったようだ。
俺を守るのが姉の仕事だと思っているようで張り切っているのは微笑ましい。微笑ましいが、隠キャにサバイバルとか無理ゲーである。
最近は父親からも剣を習うのも力が入り、かなり上達している。武術の強さは子供たちの間の評価に直結し、それで周囲の子供達にも受け入れられてきたようだ。
今くらいの年齢なら強ければ一目置かれるだろう。この調子で、周囲とも仲良くなってくれ。そして、
「もうちょっと弟離れしてくれると助かるんだが」
思わず、俺は考えを言葉に出してしまった。
「アンタ、なんか言った?」
「いや、何も」
レンの冷たい声に、抵抗を諦めて肩をすくめた。
俺があまり強く出ないこともあって、すっかりレンに主導権を握られている。ただ、俺としては世話になるだけの身なので、少しでも恩返しできるなら十分だった。
本当の家族ではないけど、彼らは自分を受け入れてくれていて、自分も少しは役に立っている。そのことが俺にとってはどうしようもなく嬉しくて、心地よいものだった。
こんな生活がずっと続けば良い。
あの日が訪れるまでは、そう思っていた。
***
煌々と燃え盛る炎が視界一面を覆いつくし、森が赤く染められていく。
勢いを増す炎が巻き上げる灰と煙が空に昇っていき、暗くなりかけた夕暮れの空を不吉な赤灰色に染め上げていく。
木々が炎に飲まれて爆ぜ、引き裂かれた悲鳴のように大気を震わせる。それは森そのものが苦痛を訴えるようだ。
村に立ち並ぶ木造の家屋は今や見る影もなく押し潰され、そこに生きた人たちの痕跡や思い出と共に、その姿を失い、焼け崩れていく。
「はぁ…はぁ…なんなんだよ。どうしてこんなことに」
俺は自らが村や家族に貢献できていたと思っていた。
しかし今、彼はただ焼け落ちる村を後に逃げ惑うことしかできなかった。
襲撃が起きたのは、ある日の夕暮れ時。
何の前触れもなく突然に起こった。どこからともなく出現した火竜がその口を大きく開き、そこから灼熱の炎を吐き、集まっていた村人たちと森ごと薙ぎ払った。
火竜の力は圧倒的で、その強靭な尾を振るうと木を薙ぎ倒し、なすすべもなく何人もの村人が家屋の倒壊に巻き込まれた。
ダークエルフが住んでいた森の村は完全に破壊され、静謐な雰囲気に包まれた穏やかな森の村は、たった一瞬で戦争に巻き込まれたかのように変わり果てた。
「あれは…?」
逃げる先に人影が見える。火の粉が舞い散る村の奥で、少女が一人立っているのが見えた。レンだ。
レンはこの数年ですっかり剣士の佇まいとなった。
年齢に見合わない大きな両手剣を握りしめ、炎に怯むことなく前へ進んでいく。
レンは生まれながらに魔力保有量が高く、身体強化の術式を得意としていた。父親から剣を習っていくうちに腕を上げて、魔獣の討伐では肩を並べて戦っていたほどだ。
レンの目の前に立つのは赤銅色の火竜だ。
大型の爬虫類のような姿をしながら、四肢には肉食獣のような強靭な爪が備わっている。
その体は岩のような硬質な鱗に覆われ、背中から広がる翼や長い尾はその存在感を一層大きく見せていた。
火竜の口からは、炎の息吹の残滓が揺らめいてる。
この森の惨状を引き起こした元凶は間違いなくヤツだろう。
存在感が違いすぎる。
あれは俺と同じ生物のカテゴリに入ってるとはどうしても思えない。
周囲に他の生存者はいない。
今、生き残ってるのはおそらくここにいる二人だけだろう。
「よくも、村の皆を…!」
レンは火竜に立ち向かっていった。
彼女は魔力を込めた剣で火竜に立ち向かうが、彼女の剣の渾身の一振りを、火竜は硬化した岩のような皮膚でなんなく跳ね返していた。
圧倒的じゃないか。
レンは自身の身体を強化させ、十分勢いをつけた上で剣を振るっている。ところどころ出血してる。自分自身が壊れるほどの速度で斬撃を放っても、竜の皮膚は貫けない。
絶望的な力の差がそこにはあった。
「皆を返してよ!」
彼女は叫びながら剣を振るっていたが、そのすべては火竜の頑健な鱗にはじき返される。
まるで巨大な岩を相手にしてるようだ。
周囲が炎が生み出す熱風が全身を包み込み、皮膚を焦がすほどに熱かった。汗がすぐさま蒸発するほどの高温で、まるで燃える炎の中にいるかのようだ。
そして風が運ぶのは熱だけではなく、焦げた木々、肉や毛の匂いが鼻腔を刺してくる。
それが気持ち悪くて、ちょっと吐きそうだ。
しかし、情けないことにレンが立ち向かう姿を見ても、俺の足は震えて動こうとはしない。
くそっ。動けよ。
まるで高所恐怖症になったかのように、前に出るのを俺の体は拒んでいる。
「……はぁ、はぁ…」
レンは荒い呼吸を繰り返しながらも、自らを鼓舞する。
剣を構えて立つその姿は、義理の父親の姿を思い起こさせる。
でもその肩が微かに震えているのを俺は見逃さなかった。
あの馬鹿。
そもそもなんで真正面からいってるんだよ。
気丈に振舞っているように見えても、そもそも火竜に一人で立ち向かうなど、普通の人間が正気でできるようなことではない。
怒りで頭に血が昇ってるだけで、冷静な判断なんてできてないだろうなあれは。
なら、助けないと。
そう思った時、自然に足が前に進んだ。
「レン!」
そうして俺は一直線にレンの元へ駆けていった。
一度走り出せばもう止まらない。言いようのない焦燥感が募り、その焦燥感が燃料になって俺の足は加速する。
何度もつまずきながらも、一心にレンの元へと向かった。
「……クロウ? 生きてたの!?」
レンは近づくこっちの様子に気づいて、一瞬驚いたように顔を見せる。
待って、俺はとっくに死んでたことになってたの?
レンの注意が火竜から逸れたその瞬間、火竜がひときわ大きく吠え、その声によってレンの周囲に魔法陣が展開される。
「うぐっ…」
形成された魔法陣がレンの身体に触れると、彼女の身体は縫い止められたかのように動きを止め、彼女が突如、呼吸を荒げ左胸の当たりを抑えて苦しみ出す。
そして火竜は突然割り込んだ俺の姿を見て、大きく息を吸い込んだ。その目には野生の輝きと、冷徹さ交差している。
ああ、だめだ。あの動作は、多分やばい。
俺は直感で感じ取った。
火竜の口から、炎の力が渦巻き始めたのだ。レンは呪いに縛られ、動けない。
次の攻撃を防ぐのは、今、俺だけの役割だった。
「レンっ……!」
俺はレンに手を伸ばし、彼女を庇うように抱きしめ、急いで横へ跳躍する。その一瞬後、火竜の吐いた熱線が激しい光とともに自分たちの脇を通り過ぎる。
危なかった。なんとか直撃は免れたが、その炎の熱さは俺を捉えていた。
まるで半身が焼かれたかのようなに熱く、体の痛みが一気に襲ってきた。
──ぶんっ
続けて火竜は巨大な尾を振り、俺の体はその衝撃でレンごとサッカーボールのように弾き飛ばされる。
「ぐはっ…」
浮遊感の後、俺の体が地面に叩きつけられ、そのまま、斜面を転がり落ちる。
俺にはレンを離さないようにするだけで精一杯だった。
もう痛すぎて何も考えられないし、さっきから左腕の感覚がない。
衝撃で頭もガンガンする。
視界が狭まり、意識が朦朧とする中、火竜の咆哮が空に響き渡り、そして羽ばたく音が聞こえた。
「また、何も出来ないのか」
俺の朦朧とした意識の中で、走馬灯のように記憶が浮かび上がり、記憶と今の状況が重なっていく。
倒れた女性の目の前にいて何かを叫んでいる自分の記憶が、その時何故か鮮明に思い出されていく。
──どうして自分は間に合わなかったのか
──どうして自分はもっと早く気づかなかったのか
──助けないと。まだ間に合う。
──ああ、血が、止まらない。
混濁した記憶と自分の抱いた血塗れの少女が重なりあう。
俺はなんとか立ち上がろうとするが、体はもうぴくりとも動かなかった。
俺はここで死ぬのかな。
ああ、でももしもこの世界に神様がいるのなら、俺の命を引き換えにしてもいいから、せめてこいつだけは助けてやってほしい。
頼むよ。
何もできなかった俺が、生き残るよりずっと良い。
出血と熱と痛みで、俺の意識もだんだんと遠のいていく。
空に響くひときわ大きな火竜の咆哮。それを聞いたのを最後に俺の意識はうっすらと薄れていった。
***
意識を取り戻すと、俺の身体は毛布の中で穏やかな熱を感じていた。
肌には心地よくやわらかな感触が伝わって来る。
気づいたら部屋のベッドの上にいた。明るい橙色に照らされている。外の様子を見ると時刻は夜だろう。
時折吹く風の音が耳に届いていた。
窓から入ってくる少し冷たい夜風が頬を撫でるのを感じると、俺は温かな毛布に身を寄せた。
「ようやく目が覚めたようだね」
声をかけてくる女性は、気づいたように俺の顔を覗き込んでくる。
その肌は明かりに照らされて白く浮かび上がり、森の木々の香りがほのかに彼女から立ち上っていた。
エルフを思わせるその容貌と闇色のローブ、彼女まるでお伽話の魔女のようだった。
「ここは…?」
「あんたの村から一番近い人族の村さ。あんたは半日くらいは眠ってたんだよ」
俺は身体を起こす。
包帯が巻かれて視界が半分になっていて違和感がある。
俺の脳裏には血で赤く染まったレンの姿が、血の匂いと共に思い浮かんだ。
「…もう一人!もう一人いなかったか!?」
身体を起こし慌てふためく俺に、女性は落ち着いた声音で諭すように告げる。
「もう一人の嬢ちゃんも一応無事だよ。治療した後、別の場所で眠らせている。しばらく目を覚ますことはないだろうね。今のところ命に別状はない。連絡を飛ばしたので、後で知り合いの治療師が来る予定さ」
「そうか…レンが無事なら、それでいいんだ」
俺はほっとして大きく息を吐いた。
なんとか二人とも奇跡的に生き残ったらしい。
「よくはないよ。左腕と左目、私の術では治療しきれなかった。悪かったね」
片腕と片目を失ったのは正直に言ってショックだった。
でも、治療のおかげなのか、今のところ痛みはない。
普通ならもう死んでいる。
これ以上の幸運を望むのは、流石にバチが当たるだろう。
ただ体が回復するのに力を使い果たしたのか、それとも血が足りないのか体の方はぐったりしていた。
「いや…命があっただけでも感謝してる。すまない。ありがとう」
「しかし、私もこの辺りの調査に来たんだが、まさかこんなことになってたとはね」
「調査…?」
「ここ数ヶ月前からこの辺り一帯の森の異変が続いてね。わざわざ調査のために出てきたわけさ。あんたの村にも手伝ってもらおうと思ったんだがね…」
彼女は俺の村へ向かっていたということを打ち明けた。
「森の火事と竜が飛び去るのを見て、村の者と様子を見に行った。生存者を探したが、他には誰も…残念だがね」
「そうか…」
やはり他には誰も助からなかったのだ。
わかってはいてもやはり、どうにもならない感情が湧いてくる。
「あんた、これからどうするんだい?」
窓の外、遠目に森の様子を眺めながら、彼女は問いかけてくる。
「わからない」
俺は力なく首を降る。
「行く宛は?」
「…ない。自分はもともと孤児だしな」
「そう。そういえばダークエルフの村にいる人族ってのも珍しいから、何か事情があるのかい?」
「単に記憶を無くして森を彷徨ってたところを拾ってくれたんだ。拾ってくれたのがダークエルフと人族の夫婦だったんだよ。だから受け入れられたんだと思う」
俺の心の中には、村人たちの顔が浮かんでいた。
別の種族である自分を受け入れてくれた村の人たち。怪しまれ、疎まれることがなかったわけでないが、少なくとも両親が大切にしてくれたことを俺はよくわかってた。
村人も警戒はすれど、彼らに拒絶するような気配はなかったことは俺には十分わかっていた。
しかし、その温情に応える機会はこなかった。
俺たちだけが生き残ってしまったのだ。
「どうして、俺には何の力もないのだろうな」
自虐混じりの声が思わず漏れた。
彼女はそれを聞いてため息をつき、そしてポツリと言い放つ。
「力がないと嘆くお前は今まで何をしてきたんだい?」
「……っ」
俺の身体は、その言葉に雷に打たれたように震えた。
レンと父親は俺に剣を教えようとしてくれていた。
乗り気じゃなかったのは俺だ。
俺がレンのように力があれば。
いや、それでも竜になんて勝てるわけはない。
俺の心の中でさまざまな言い訳が飛び交った。
でもその全て自分の中で打ち消されていく。
俺にも、もっと何か出来ることが本当はあったんじゃないのか、と。
俺が何もしていなかったのは事実だった。
ただ、受けいれられてるだけで満足だった。
「…ああ、俺はどうして力がないことに目を逸らしながら安穏としていたのだろう」
レンは立ち向かい、俺はただ逃げまどっていただけだった。
誇りも何もなく、強大な力にただ背を向けて逃げ出しただけの負け犬だ。
「そうだな。おまえは確かに弱くて、狡いのかもしれない」
心を見透かすような目をして女性は言う。
「だがそれゆえに生き残った。お前と一緒にいた娘もそうだ。理不尽から逃げる時、蛮勇よりも弱さこそが人を救うことだってあるだろう」
彼女は別に慰めるでもなく、淡々と付け加えた。
「はは…」
それを聞いた俺は思わず乾いた笑いがこぼれ出てしまった。
限界まで感情が昂ると、涙や怒りよりも笑いしか浮かんでこないというのはどうやら本当らしい。
理不尽というのはどこにでも転がっていて、理不尽を嘆いても誰も助けはしてくれない。
立ち向かう強大な理不尽の前に、自分はいかに無力かを思い知らされることなんて、当たり前のように記憶にあった。
「俺は一度全てをなくしたとしても、こんな簡単なことを理解していなかったんだな。」
拳を強く握り締め、歯を食い縛る。
許されるなら叫び出してしまいたい。
ただ、悔しかった。
あれほど悔しい想いさえ薄れさせて、備えもせず、挑戦もせず、ただ安穏と生きてきた自分の今の姿が、どうしようもなく許せなかった。
「悔しいか? 悔しく思うならついて来い。抗う術を教えてやる。私は魔女だから、当然代償は払ってもらうがね」
魔女の声に俺は無言で頷いた。
そして立ち上がり窓の外を眺める。
俺の目に映るのは、未だにうっすらと赤い火を灯す森の残り火だった。
その色は俺の心の中に燃え盛る感情を映し出しているかのように、鈍い紅色に輝いていた。
この日の光景を二度と忘れることはないのだろう。
そうして俺は、この日から魔女の弟子となることになった。
***
火竜に村が襲われてからしばらくの間、俺とレンは村で治療に専念することになる。
幸い村との取引で、取引役も担っていたので、この村の人間とは顔見知りであり、村の空き家を貸してもらえた。
治療が終わった後、魔女が普段暮らしてる大森林の高台にあるロッジを訪れ、弟子としての修行を開始することになった。
修行を始めてから半年ほどが過ぎ、俺たちもここでの生活に徐々に慣れて来た。
レンは主に剣術と身体を強化する術式の修行。
俺はさまざまな術式を中心に教えを受けている。
魔術自体はいくつか手段があって、一つは精霊術式。
これはエルフ族が得意としていて、自然の力を増幅して再現する術式だ。これは自然の力を見ることが必要で、残念ながら今の俺には使えないし原理も全くわからない。
もう一つは魔導術式。
魔導宝珠を核とし、魔導回路を通じて魔力を供給することで事象改変を発生させる。魔導宝珠は自らの特性に影響されて変質するが、魔力さえ通せば誰にでも使える簡単な作りのものもある。
レンの修行はどちらかというと森の中で肉体を使うことがメインとなっていて、俺は術式の修行のため家にいることが多かった。
だから、不本意ながら自然と俺が炊事を担当することになっていった。
全く、俺に自炊をさせようなんていい度胸である。
「クロウ!」
「何ですか、師匠」
「食事が野菜スープだけってどういうことだい?」
夕飯の時間、食卓には並んでいるのは野菜スープの器のみ。
いつもと比べるとそれなりに寂しい食卓である。
「ちょっと、今日の狩りに失敗したというか。塩スープにならないだけ善処はしたと思う」
俺は蒸し器に蓋をしつつ、苦し紛れに言い訳する。
「あんたは本当に料理苦手だよね」
「否定はしないさ」
師匠はその様子にくつくつと笑って器に手を伸ばす。嫌味な感じはなく、単に俺の言い訳する姿が少しおかしかったらしい。
食べ物は食えれば良いというのが俺の信条だ。
あと今日は仕掛けたの罠が壊されててミスったんだよ。悪かったな。
ここに来てからずっと師匠に魔術を教えてもらっている。
師匠は魔力も魔術を扱う技術も知識も豊富で、かなり優秀だといっていいのだろう。
俺が今教えてもらった魔術も一部を扱うことが精一杯で、今のところ及第点に届いてるかどうかさえ怪しい。
転生でもしたのなら、もう少し才能や特殊な能力があると期待したんだが、自分の能力は人並みに過ぎない。
今のままだと多少知識だけある一般人に過ぎないんだよなあ。
「世の中そう甘くはないってことか」
肩を落とし、思わずぼやく。
そして無意識に自分の左腕の感触を確かめるように腕を撫でた。
「弓を扱うのは無理そうかい?」
師匠は何か勘違いしたのか、俺の左腕、義手の方を眺めてくる。
過去の襲撃の際に失われた俺の腕は、今は義手になっている。手袋をはめてるので一見は分かりにくいが、腕の半ばから先が魔術で作られた義手となっている。
「そもそも単に俺が弓とか苦手なの。そんな簡単に命中率は上がらないよ。ありがたいことに腕はちゃんと動いてるし、左目も問題なく見えてる」
俺は左手をひらひらと振って笑ってみせる。
義手とは言っても機械式の義手ではなく、肉体の一部を補う魔導具だ。一見すると形状は普通の腕にしか見えない。
腕の稼働は装着者の供給される魔力で行って、感覚のフィードバックもある。正しく使うのは自分の意識とそれに伴う動作パターンを義手自身に覚え込ませる必要がある。
師匠が知り合いの魔導技術士より託された試作品らしい。
助ける代償として魔術の実験台になること。それが俺に課された条件の一つだった。
「エルフの村で育ったんなら弓くらい使えて当然だと思ったんだけどねえ」
「レンは使えるよ。アイツ肉体派だし」
「肉体派というわりには華奢だけどね。アンタは頭脳派を気取るつもりかい?」
「俺はただの一般人。強いて言うなら庶民派かな?」
「そのわりには魔導術式の基礎はわかってるようだね。腕ももう自由に動かせてるし。エルフ族は、魔導術式なんて使わないだろう?」
「変わり者がいたのさ。腕も最初は動かすのにもかなりぎこちなかったよ。でも、イメージとあった動きができるよう調整を繰り返せば誰でもできるだろ?」
「そんな早く馴染むものとは思えないんだけどねえ」
骨格となるフレーム、伸縮する筋肉を代用する魔術糸、それを操る魔導宝珠が組み込まれており、その一連の動きを制御する回路群に、決まった動作を学習させるようなイメージといえば良いだろう。
「細かく動かそうとするとわけがわからないけど、割り切って動作を絞って、あとは無意識で動かせるところまで反復すれば良いだけじゃない?」
「そんな発想でできるところが理解不能だよ」
自分が腕を動かす感覚は変えられない。だから、それに合うように魔導術式を調整する。要するにデータの細かいパラメータ調整のようなものだ。
「師匠が難しく考え過ぎなんだよ。なまじ網羅的に全てのパーツをコントロールするから悪いんだよ」
何かを身体に染み込ませるときは、とにかく反復して無意識で出せるようにする。仕組みや原理を考えるよりも感覚に従った方が良いこともある。
襲撃の時に失われた左目も今は義眼になっている。
こちらは魔導技師の手によるものではなく、かなり高度な魔術で作られた魔眼らしい。
顔の傷は後が残ってしまったので人相はあまりよろしくない気もするが、両目が見えるというだけでも有り難かった。
そしてこの目は魔素の動きを見ることができようになり、魔導回路を調整しやすくなったのでかなり重宝していた。
「ふん、まあいいさ。実験は順調に進んでるようだね」
心配して損したとばかりに魔女は突き放すように言い放って、スープを口につける。
「おや、これわりと美味しいね」
「じゃがいもとにんじんと玉ねぎを煮てヤギの乳を加えてスパイスで味付けしてみた」
「ほう、でもこうなるとパンが欲しいね」
「あるのでちょっと待ってくれ。しかし、師匠もすっかり人の食事に染まったようだな」
「ふん、味覚自体は人もエルフもあまり変わらんよ。問題なかろう?」
エルフ自体はそこまで香辛料を使うような文化はなかったようだけど、香辛料を使った料理にはまったらしい。
蒸し器の中で蒸気でやわらかくしていたパンを取り出して食卓上に出す。
「そういえばこれもクロウが作ったのかい?」
「いや、麓の村でもらってきたんだよ」
自分の記憶だと小麦と塩と水と酵母があればパンは焼けると思うけど、小麦が手に入れようと思うと取引する必要がある。
それに買えるものであれば買った方が楽だ。
「おや、今日は村まで行ったのかい? 麓の村まで行くの時間かかったろう?料理する時間を考えると……今日のメニューはきちんとこなせたんだろうね?」
「問題ない。火の番をするのも面倒くさいので自動で調理はできるようにしてみたし」
「は?」
「いや火にかけるのは良いけど、調整したり番をするのって難しいからさ」
「…それはわかる。それで?」
「煮る料理なら条件が変わりにくいし、この前言ってた生活用の魔導具が使えるかなと」
「ああ、才能がない人間でも魔術を発現できるようにしたってあれか。別に今のクロウにも必要ないだろう?」
「火を起こすとか瞬間的なのなら別に必要ないんだが、継続的に魔力を流すとすると目の前から離れられなくて面倒なんだよな」
「確かに、厄介なのは火を起こす部分だからね。その後をどうこうしようって発想はないね。そもそも離れたら危ないだろ?」
「そう。だからそれを魔導具でやろうと。魔導具は人が触らないと使えないと思ってたけど、魔石の供給があれば発動するようにもできるんだ」
「……ん?」
「本来なら人が触ってないと使えないんだけど、最初の発動後には魔力供給源が触れていると自動的に継続するようにできるんだ」
「いや、そんなことしたら火事になるだろ? 前みたいに鍋を爆発させるのは勘弁しておくれよ」
「だから炎じゃなくて金属に熱を加えるだけにしてる。それを鍋の中の入れておけば良いわけで。魔力供給量を調整すると、ほっといても熱は止まるし、発生する熱量だと燃える心配もない」
「そういえばアンタ、用済みになった魔石をくれって言ってたね」
「そう。あまり強力なのはいらない。魔力の集積を極めて遅らせるというのがコツかな? あと加熱用と熱の維持のために二種類吸収量が違う術式を用意するんだ。効率は悪いけど、俺の身体を離れても魔力源があればよい。これで俺の魔力でもお湯を作るのもかなり楽になったんだよな」
この世界では火を起こしたり、お湯を沸かしたりするだけでも、相当面倒だ。
便利な文明の恩恵を受けた俺には、どうしても耐えられなかったのでついつい生活に共通魔導術式を取り込むことが日常と化している。
魔導回路の調整の練習にもなるのでよしとしておこう。
「アンタは本当に楽することに関しては情熱を注ぐんだね」
呆れたように魔女が声をかける。
「師匠は魔力が豊富だから良いけど、こっちは人並みだから工夫がいるんだよ。あとこの生活魔術は人族との良い取引材料になるんだよ」
「意外にちゃっかりしてるね」
「それに俺の故郷の諺にあるんだが、怠惰は美徳なんだよ」
「はん、故郷、ね? それ教会のやつの前で言うんじゃないよ」
「ははは、俺も流石にそこは弁えてる」
「だといいけどね。アンタたまに見境なくなる時があるから心配だよ」
「師匠の心配には及ばない」
「私に迷惑がかからないか心配だって言ってるの!」
「少しは弟子を信用してくれ」
「普段は慎重なのに、集中した時のあんたは何かやらかすからね。この前は丸二日くらいご飯も忘れて集中してて、本気で頭がおかしくなったのかとと思ったよ」
いや、ほら集中したら時間を忘れるってよくある話だよ。
俺も朝から寝るまで、毎日毎日ぶっ続けでゲームやってた時あるし。
「いや、ご飯の用意を忘れたのは本当に悪かった」
「術者に必要なのは複数の物事を並列で処理することさ。あんたはわりとしっかりしてると思ってたけど、魔術に関しては変人だからね。うまくやっていけるのかは心配だよ」
師匠はため息をつき、「私の育て方が悪かったのかねぇ」とため息とともに口の中でぼやいた。
***
深緑の森の中で、私は一人、立ちはだかるワイルドボアと対峙していた。私はレン。今は亡きダークエルフの森の村の剣士である。
私の前にいるのは、この森を根城にする巨体を持つワイルドボアだ。こいつは猪の魔獣で、その本性は荒々しい。私の姿を見付けるやいなや、牙を剥き出し、唸り声を響かせて威嚇してきた。
「ふぅん、そっちがそんなにやる気なら、遠慮せずに戦おうか」
静かに両手剣を構える。
一年前ならこの相手と一人で戦うなんて無理だったかもしれない。でも今は違う。互角以上の戦いができる自信がある。
私は静かに両手剣を構える。ワイルドボアは魔獣としてはそれなりの強さで、一年前の私なら一人で対峙することは無理だったんじゃないかな?でも、おそらく今は互角以上の戦いができるとは思う。
剣を構えた途端、ボアの突撃が始まった。岩がそのまま迫ってくるような圧迫感で、まともに受ければ持ちこたえられないだろう。
「加速」
息を吸い込み、魔力を引き出すと体内の魔導回路が励起する。そうして、強化された筋力で横に跳躍し、突撃をかわす。
魔力は術式の発動のためだけでなく、身体を強化するための手段でもある。
この技もだいぶ慣れてきたようだ。
人間や亜人が大型の魔獣相手に、単独で戦って勝つのは本来であれば無理だ。しかし、それでも人や亜人が生存圏を確保しているのは、武器や道具だけでなく、魔力を駆使することによる恩恵だ。
私は師匠の教えでいくつかの身体強化を分類し、ひとまとめにすることで発動時間を大幅に短縮していた。
「増幅」
加速で強化した足で地を蹴り、ワイルドボアとのすれ違いざまに上半身の筋力を強化して剣を振るう。その一撃がボアの毛皮を切り裂き、怯ませる。
怒りに燃えたワイルドボアは再び突進してくるが、その攻撃は単調だ。私には十分に捌く余裕があった。
「これで終わり。跳躍!」
私はボアの突進を見越し、跳躍力を強化。木の幹を蹴り、反転して弧を描く。
「点火!」
真下に向けて剣を構えて、力ある言葉を唱える。
赤い宝珠が輝いたかと想うと、自分の体が 爆発的に下へ加速した。体重を加えた剣がボアの体を貫く。
──グォォォォ!
断末魔を上げるワイルドボアと、飛び散る血飛沫。
「うわ、ベトベト。最悪」
不快感に耐えきれず、私は森の清流へ足を運んだ。
服を脱ぎ、水浴びを始めると、心臓近くの奇妙な刻印が目に入る。
火竜から与えられた刻印。自分の未熟さの証明で、おそらく呪いだろうと師匠は言っていた。
この刻印が何を意味するのかはわからない。
でも、絶対に良いものじゃないよね。おかげで私は精霊術式が使えなくなったわけだし。
私の村が火竜から恨みを買う事態に心当たりはない。
竜の棲家は山奥で、むしろ人間との緩衝地帯になっている私の村は関係ないはずだ。
どうしてあんなことになったのだろうか。
けど、それを知ってももう手遅れだ。
私が守りたいと思っていた人々はもういない。
そして、自分の目的のためだけに、クロウという唯一の家族を利用してしまった。
それが少し気がかりだ。
「クロウだけなら、多分、普通の人の世界でやっていけそうだよね。そもそも戦いよりも日々ぐーたらしてる方があいつは性合ってそうだし」
まったくもう。
その姿をリアルに想像できて少しおかしかった。
せっかく肩を並べて戦えると思ったのに、最近のクロウはすっかり術式の方に傾倒してしまった。
彼は術式が向いているといえばそうなのだけど、私にとっては不本意だ。
小さい頃からあんなの鍛えてあげたのに。
ああ、思い返すとふつふつと怒りが湧き上がってきた。
やはり、ここはもう一度念入りに鍛え直すべきだろう。
「私は止まるわけにはいかないしね」
私は、未だに過去の恐怖を乗り越えたとは言えなかった。
夜ごとに同じ夢を見る。夢の中で私は何度も何度もあの森の村で失敗を経験していた。
まだ力が全然足りない。
「火竜を見つけ出すなんて、御伽噺みたいなものだよね」
けれど、身体を動かしているときだけ、考えることから解放される。
きっと、戦わなければ、この虚無感に負けてしまう。
だからこそ、深く考えることなく、目標に向けて頭を空っぽにする。
夢を見ずに深い眠りにつくまで、自分を鍛える。
これが歪んでることなんてとっくにわかってる。
でもやめろと言われても多分止まることはできない。
私が魔女の弟子になったのは、この先のことを見据えてのことだ。
ここで力をつけて、冒険者になる。そして自分の村を襲った竜を探し出そうと思っている。
本来、竜は無闇に人を襲うような生き物じゃない。それにあの竜は魔術を使っていた。その意味を私は知りたい。
そして決着をつけたい。
意味なんて知っても過去は戻らないのだけど、多分、新しく何かを始めるのは終わりが必要なのだと思う。
そして村を失った私たち孤児が生き残るためのは、おそらくこうするしかないのだろう
私だってそのくらいは考えている。
余裕ができれば旅して、クロウの昔住んでたところを見つけたっていい。
もしかしたら彼には家族がまだ生きてるのかもしれないしね。
考え事を続けてるとは自然と自分たちの家へと向かっていた。
深緑の森の中に佇むその家からは、心地よい食事の香りが漂ってきて、私の鼻をくすぐった。
その匂いを嗅ぐと、一日の疲れがほぐれるように感じられた。
「ああ、もうご飯の時間だったね」
疲れた顔を引き締め、元気に家の扉を開けた。
「え? もう食べてるの?」
私は食事を始めている師匠を見て驚いた。
待ってくれても良いのに。
「大丈夫だ。ちょうどご飯を用意し終えたところだからな。おかえり、遅かったな」
「ありがとう、クロウ。ちょっと汚れちゃったから水浴びしてた」
顔を洗ってさっぱりした自分を見せつけるように言った。
「そう。それで、今日の訓練はどうだったんだい?」
「ふ。今日はちゃんとかったよ。魔獣化した猪も倒せたし」
「これで初歩の初歩はクリア。ギリギリ及第点ってところかねえ」
「弟子が目標をクリアしたんだから喜べは良いのに」
「一通り身体強化は使いこなせるようになったって意味では大丈夫だけど、剣術は私は教えられないからね。ひとまずは、ひたすら実践訓練あるのみさ」
師匠の言葉を聞きながらも私は我慢できずに食事に手をつけた。
「あ、これおいしい」
「全く食いしん坊だね。やれやれ、誰に似たんだか」
「師匠では?」
先に食べ始めた師匠を揶揄するようにクロウはツッコミを入れる。偉いぞ、弟よ。もっと言ってやれ。
「模擬戦をお望みならいつでも揉んでやるよ」
「……」
あ、師匠のジト目に耐えかねて目を逸らしたな。このヘタレめ。
やはり後で鍛え直そう、と私は心に決めた。
まあ、私は成長期で食べ盛りで、そして前衛なのだ。
だからもう一個パンを食べるのもこれは正当な行為である。
「一日中訓練してたらそりゃお腹は空くよ」
「最近は食べる量も増えたおかげか、確かに筋肉はかなりついたもんな」
「魔力を体に通す訓練もだいぶ慣れてきた。師匠が言ってたのもかなり使いこなせるようにはなったよ」
私は手を出して魔力を通した様子を魔女に見せる。
「ふむ、そろそろ準備し始めた方が良いのかもしれないね」
私を見て魔女は何か考え事をするように呟いた。
この人がこういうこと言う時は、たいていよくないこと企んでる時なのよね。
***
日の光さえ遮る巨大な木々が立ち並ぶ森の中を、俺たちは音もなく歩みを進めていた。
周囲は薄暗く、まるで靄にでもかかったかのように、先は見えない。さきほどからずっと聞こえるのは悲しく暗い、森の声。
通り抜ける風が、人の嘆き声のように反響して森の深淵の彼方へと通り過ぎてゆく。
まるで森で道に迷って彷徨う子供が居て、けれど、泣き疲れて小さくしゃくりあげるような、そんな切なくて寂しい音が、先ほどからずっと森に木霊し、繰り返し、繰り返し、歩くものたちの耳に届いていた。
「おまえたちも、ああなりたくなかったら気をつけることだね?」
先頭の女性は、少年と少女を振り返りもせずに意地悪な声でそう言った。
彼女は大きな帽子と、拗くれた枝で作られた大きな杖を携えており、まさに御伽噺に出てくる魔女のようなような格好をしている。
「残念ながら、俺もレンもそんなか細い声で泣くほど可愛げはないだろ?」
「……喧嘩を売ってるの?」
肩を竦めてい俺に、レンは頬を膨らませて答える。
「まったく、呆れるほど仲がいいわね、あんたたちは」
「どこか」「どこがよ」
息の合った俺たちの返答に、呆れたように溜息をつくローブを着たエルフの女性。
彼女は先頭に立って森の中を悠然と歩んでいく。
ここに広がる広大な森はまさに樹海と呼んでもいいだろう。誰も訪れることのない天然の結界に阻まれた地。
『結界』というのは本来世界を分かつもの、外と内をわける境界線という意味合いをもつ。その意味では確かにこの森は結界といってよいのだろう。
「ほんといつ来てもまっくら…」
「怖いのか?」
「まさか」
「…だよな、むしろ怖さの方が逃げ出すだしそうだ」
「殴られたいの?」
「いった…だから、もう殴ってるだろ。レンはそうやって暴力にすぐ訴える」
「むう」
「うるさいよ、お前たち。ちょっとは緊張感ってもんをちょっとは持ちな」
立ち並ぶ木々たちはまるで先頭を行く彼女を避けるように……いや、実際、確かに避けているようにも見える。木々たちはまるで道を開けるように枝を動かし、彼女の前に通り道を作ってゆく。そして、彼女もまるでそれが当然だといわんばかりに平然と歩みを進めてゆく。
その姿はまさに魔女。森の木々すら従えて、この嘆きの森に迷いこんだ者たちを閉じ込める。そんなお伽話を思い出す。
(少なくとも、師匠の姿はそう言われても否定はできないだろうな。)
などと、後ろを進む俺はいつものように聞かれたらまずい言葉を呟く。もちろん、口には出さぬように心の中で、だが。
ほどなく、森の奥へたどり着いたとき、彼女は足を止めた。
「どうしたの?」
後ろを進む少女が問う声に応えず、彼女は一息つく。
「ふむ、この辺からかね」
彼女はゆっくり振り返って、俺たちに視線を向ける。
魔女はしばらく俺たちを眺め、やがて静かに、だが、きっぱりと言った。
「さ、ここからはお前たちだけだよ。いってらっしゃいな」
道案内は終わりだと言わんばかりに、魔女は進む先を杖で指し示す。
指し示された先は暗く、それはこれから起きる未来を暗示しているようだ。どうなるかなんてさっぱりわかりはしない。まさに今の俺たちの心情を現している。
けれど、もしかしたら、そう思ってるからこそ、そう見えるのかもしれないな。
現実は確かにそこにある。けれど、それを受け入れるのは自分の意思だ。
そもそも目に映るものですら、とてもじゃないが全てをわかることなどできはしない。それぞれの人間が自分に都合よく加工し、処理し、切り捨てたものに過ぎない。
今こんな気分になっている理由は一つだろう。
いつもは魔女が連れて行き、弟子たちはその手伝いをするだけだった。
最近は魔女にずいぶんこき使われるようになったが、それでも魔女が側に居てくれるだけで安心感は大きかった。
自分より上位の絶対の存在。それが安心感を与えてくれる。
しかもその存在が意地悪で怖いほど丁度良い。
なぜなら、魔女より怖そうに見える人は俺たちは今まであったことがないのだから。
だが、今日、この日から。
ここから先は二人だけで行くのだと、彼女は言った。それはもう何日も前からそう告げられていた。
「正直、魔女のいつもの意地悪か冗談だとも思ったんだがな…」
俺の淡い期待は完全に裏切られたことになり、自分の甘い考えに気づいて、年齢に似合わない苦笑いを浮かべた。
「ま、卒業試験って奴さ。雛鳥ですら数ヶ月。あんたらはもう一年。一年もやり込めば十分だろうさ」
「別に大丈夫よ。行くよ、クロウ」
彼女は地図を広げて自身の指先に生み出した輝きで地図を照らし、
「いや、それ地図が逆だと思うんだが」
思わず突っ込みをいれる。俺はやれやれと一つ呟き、レンに向かって冷静に忠告した。
「わかってるよ!」
それを聞いてはっとするが、すぐにむっとしたような表情で慌てて地図を逆向きにするレン。気丈に振る舞ってはいるが、微かに目が不安げに揺れている。
レンの様子を彼は見逃さなかった。
自分でも怖がっていることに気づいてないのだろうな。
と、心の中だけで呟いてみる。
余計なことは言わない。それが彼が過ごしてきた年月の中で学びとったものの一つだ。
「…単に口喧嘩になれば面倒なせいかもしれないけどな」
「何か言った?」
「いや、別に……何でもない」
じとっと見てくるレンに、俺は肩を竦めて答える。しかし、やはり口から出てしまうものは止められないらしい。
「すいぶんと最近、ペースが早くなっているみたいだからね。お前たちもいつまでも遊ばせるわけにはいかないのさ」
魔女の言葉に俺たちは気を引き締めたように頷いた。
薄々と気づいてはいるが、最近、特に魔獣の生まれるペースが速くなってきている。
嘆きを冠するこの森には一つの役目がある。この森はどうしてかあらゆる場所から負の想いが集ってくる場所だ。
想いはただ、そこにあるだけならば想いでしかない。けれど、世界中の多くの人が知らない真実は別にある。
あるきっかけで想いは収束し、魔獣たちは目覚めてしまう。そのきっかけが空から降り注ぐ光の雨だ。
人知れず空から降り注ぐの光の雨は、空から降り注いで地に積もる。今は見上げても見えないが、木々の向こう…空の彼方には、常人には見えない無数の光が存在する。
夜天に輝く燐光は大気圏で燃え尽きる流星のように尾を引いては消えてゆく。
まるで、星が落ちてくるような錯覚を与えられるこの現象は星の雨と呼ばれている。
そして、この雨はとある物質によって構成されていた。
人のイメージを具現化する力、想いを具現化するこの不思議な物質。魔素と呼ばれることもあるが、これはいうなれば想いを叶える魔法の力だ。
けれど、人の想いは様々で、時には悲哀と恐怖にまみれている。もし、強い負の感情に満ちた想いを素直に具現化してしまえば、この世の中がどうなるか…なんて、考えたくもない。
集積した魔素や獣の体を核として、さまざまな異質な存在が具現化してしまう。
願いを叶える魔法の力は、おとぎ話のようにみんなを幸せにするわけではなく、悲劇は起こり、そして繰り返される。
……そう。まるで終わらない悪夢のように。
古来、過ぎたる力をもってしまったものは不幸にしかならない。それは誰でも知っているはずの皮肉な世界の法則。
だからこそ、先人たちは強すぎるこの力自体を封印することにしたのだろう。
ここで生まれ落ちる魔獣たちをこの場所から逃さないようにすれば、世界に真実が漏れ出す心配もない。
悪夢はただの悪夢として、夢はただの夢として終わるだろう。
悪夢を悪夢として森へ閉じ込める。
それがこの森の役目。
星の雨によって育まれる異質な存在を白日の下に晒さないこと。
それこそが魔女の役目だ。
これは数百年にもわたって続いてきたシステムの一部となっているらしい。
破らせるわけにはいかない大切なユメ。世界は壁一枚隔てたその向こうに、知ってはならないモノを封じている。
けれど、封印はいつか解かれる、というのもまた皮肉な世界の法則というものだ。
今は月に一回がどんどんペースが短くなって、今ではついには一週間に一回というペースになってしまった。
さすがにそれ以上ペースが早くなるようなことはないようだが、そう何度も魔女も家を離れるわけにはいかない。
それに、もしかしたら森の周囲に漏れ出てしまう可能性だってある。
そうなれば森からあまり出られない魔女が手出しすることはできない。
初めての単独任務が決まったのはこういった事情もある。
「クロウ。いいかい。危なくなればお前の力を使って撤退してくるんだよ」
「了解。しかし、構わないのか?」
きっと倒してくるまで帰ってくるんじゃないようなことを言われると予想していた俺は、魔女の言葉に思わず問い返す。
「構いはしないさ。その代わり、連日働いてもらうことになるだけだよ」
「ああ、そうゆうオチなんだな…しかし、そこまでなのか?」
軽く苦笑いを一つ浮かべる俺に、肩をすくめて答える魔女。
その表情はやや苦々しいものが混じっている。
それは視線を向ける俺の表情と同じもの表情……いや、むしろ魔女に俺が似てしまったのだろう。
「ああ、よろしくないねぇ。ほんとうはもうちょっとゆっくり隠居させてほしかったんだが、そうも行かないようだ」
「なるほどな…」
考え込むように黙り込んむ俺。けれど、何らかしらの変化が起きているのは俺も肌で感じていた。
「……ちょっと」
そんな俺をつまらなさそうにレンはつつく。
「話は終わった?じゃあそろそろ行くよ」
灯していた光の明度を上げて周囲を照らしたレンは、俺の顔を恨みがましそうに見つめ、待ちきれないようにそう言った。
「相変わらずせっかちな子だねぇ」
魔女は呆れながら、「そういえばこの子は考えるより行動する子だったね」と呟く。
けれど、その彼女の思いきりの良さこそが…魔女にも、そして自分にも必要なのだろうと俺は考える。
「ま、終わったよ。せいぜい気をつけるんだね。……何せ、あんたの嫌いなお化けがいっぱいでるんだからね」
少し意地悪な顔になった魔女が少女に囁けば、
「お化けが嫌いって、いつの話よ。言われなくてもわかってる」
レンは形の整った眉をしかめ、いつものように強気な声で答えるのだった。
***
「レン、気づいてるか?」
俺が問いかけると、レンは慎重に森を見回した。
「鳥の鳴き声、止んだね。何か、おかしい」
違和感に気づいた俺たちは、何かが待ち構えているような感じを覚える。レンと一瞬目が合うと、心の中で同意を交わすように足を止めた。
突如、森の中から黒い体躯の獣が複数現れる。
その黒い狼たちは死の匂いと瘴気を纏っており、肌にぴりぴりとした感覚が伝わってくる。
魔女の教えによれば、黒い獣たちは生まれてからずっと痛みに蝕まれている。欠けた生命力に対する飢餓感が彼らを苛み続けているらしい。
一匹の獣が高く吠える。それが戦いの合図となった。
「ほら、行くよ、クロウ!」
「了解だ」
レンが先陣を切り、一瞬だけ瞳を閉じる。
「焼き尽くしなさい…! 爆炎!」
力ある言葉と共に炎がレンの剣から生まれる。そのまま剣が横薙ぎに振るわれると、扇形に炎が放たれる。
生まれた炎が取り囲む狼たちの身体を薙ぎ払い、狼たちからは苦悶の声が上がる。
「大人しくしといてもらおうか? 後で相手をしてやるよ」
俺は魔導回路を埋め込んだ小型ナイフを投擲する。
それが狼に突き刺さると同時に、ナイフに込められた術式が発動する。刻まれた魔導術式が展開し、魔力が狼の体に流れ込む。その魔力は狼の体に浸透し、体の自由を阻害し、一時的に狼の動きを封じ込める。
このナイフは俺が改造した特別製で、相手に刺さった場合に遠隔で魔導術式を起動させることができる。直接相手を殺傷する能力はないが、足止めするのは十分だ。
もとよりこちらは二人のみ。
対する相手は多数だ。
圧倒的な数を前に殴り合えば多少の有利などはじけ飛ぶ。
だから、まずは足止めしながら森の中を機動しながら一度に相手をする敵を減らす。
多対一の状況をなるべく作らないよう敵を牽制しながら戦う──それが俺たちの狙いだった。
「さすがにしぶといね」
「想定通りってとこだろう?」
狼とはいえ、魔力に影響を受けた魔獣の一種だ。そう簡単に倒れる相手ではないのだろう。
「クロウ、左から二匹、注意して!」
レンの声に俺は即座に反応し、腰の後ろの短剣を引き抜き、左から迫る狼の牙を受け止め、もう一匹は障壁で受け止める。
「いい? クロウ。しっかり捕らえておきなさい」
「人使い荒いな…」
俺は軽口を叩きつつも狼を押し戻し、ナイフを引き抜いてその動きを縫い止める。
狼の牙を辛うじて受け止めたせいで、傷つけられた俺の腕から血が滲む。
どうも魔女の与えてくれた魔除けの刻印のおかげで傷は最小限に抑えられている。
「たまには感謝してもよいかな」
などと、似合わないことを考えている自分を自覚したまたいつものような微妙な笑みを浮かべる。
一度に複数を相手にしない作戦は今のところは順調にいってはいる。
「一旦離脱するわよ。じゃあ置いてかれないでね。加速)」
「誰に言っている」
数が多ければいちいち相手などしていられない。
俺も身体強化を発動させて、レンと一緒に後退する。
「いいからさっさと滅びなさい! 増幅」
追いかけてくる狼に対して、レンが突然反転し、すれ違いざまに剣を振り抜くと狼は切り裂かれてボロボロと崩れ去る。
今のところはなんとかなりそうだ。
しかし、一度でもバランスが崩れれば自分たちの命は危険に晒される。
自分の考えに苦笑しつつ、他の狼の様子を見渡した俺の瞳には、拘束したナイフを自分の口で引き抜き、脱出する狼の姿が見えた。
「……あぶない!」
この位置、このタイミングでは間に合わない。
レンに向かう狼は襲いかからんと突進し、
「きゃっ!」
レンはかろうじて反応して身をひねったようだが、吹き飛ばされ思わず尻餅をついてしまう。
「大丈夫か…? ったく、大人しくしてろ!」
俺は魔力を込めて帯電した短剣でその狼を切り払った。
どうもおとぎ話のように百年の眠りにつかせるのは、本物の魔女でもなければ難しい。
自分自身はまだ魔女のレベルには達していない。あるいはもしかしたら自分たちの師匠ならばできるのかもしれないが。
「いたた…いいからいまのうちに立て直して!」
傷ついたというのに相変わらずレンは強気さを失いはしない。俺をじっと睨み付けて言うが早いか立ちあがる。
「はいはい、わかったよ…ったく。暴れすぎだ」
もう何度目かになるナイフを投擲すると、それは魔導回路に組み込まれた命令に従って軌道を変えて背後で動き出そうとした狼を正確に貫く。
「そろそろ危ないね。終わらせるよ」
これで概ね半数以上は倒した。
このままで行けばほどなく群れは全滅するだろう。
確かに勝利の天秤は俺たちへと傾いていた。このまま進めば、すべては終わるはずだった。
しかし、そんな優しい結末を容易に許してもらえるはずはなかったのだ。
***
「でっかいのが居るね…」
群れの奥に、馬どころか熊を遥かに超える大きさの狼が、ゆっくりとその姿を現した。
その巨大な狼は警戒しながら獲物を眺め、ついに動き始めた。
狼の主が前に進み出すと、その巨大な口を開けて深く息を吸い込む。
胸に満たされる空気と共に、すでに巨大な体はさらに大きく見え、一回り大きくなったかのような錯覚を覚えさせる。
狼は二人を睨みつけ、そして、大きく口を開けた。
その瞬間、猛烈な波が打ち付けるかのような強烈な衝撃波が俺たちに襲いかかる。それは物理的な力による圧力、まさに無形の爆風だった。
これを喰らったら詰む!
「障壁」
咄嗟に判断して右手を突きだした俺の前には、自身の防具によって生み出された防御結界が起動する。
猛烈な衝撃波が結界に到達し、一瞬の後に再び突きつけられる。休む間なく、何度も何度も繰り返し打ちつけられる衝撃波が、防御結界の領域に波紋を作り出し、領域を徐々に食いつぶしていく。俺の奮闘をあざ笑うかのように。
防具から焼けつくような音が鳴り響き、結界の機能が停止した。
支えきれなかった衝撃が今度こそ身に届く。
咆哮が体を打ち据え、轟音が脳内一杯に乱暴に何度も反響する。
それは思考すらもかき消して、意識を真っ白を染め上げてゆく。
「くっ!」
俺が気がつくと、彼は地面に転がっていた。身体に痛みが鋭く走り、胃からこみ上げる吐き気がする。
どうも内部にまで衝撃が伝播したらしい。
口の中には鉄と血の混じった鉄錆にも似た血の味がいっぱいに広がってゆく。
「…不味いな」
目の前がぼんやりと曇り、意識が朦朧としてきた。
このままだと俺たちはひとたまりもない。死は免れない現実のものとなり、彼らに襲いかかる。
自分たちの未来も、存在も、想いも…全て朽ち果て、ここで終わる。
……そう思えば、ぴくりと指が動いた。
決してここで死なせない。
俺は幼い頃からレンと共に過ごしてきた。
けど、彼女にはもう家族がいない。
だからこそ、自分が死ぬわけにも、死なせるわけにはいかないのだ。
もしかしたら、このまま倒れても魔女の助けが来るかも知れない。
けれど、リアリストの俺には楽観的予測などできはしない。
そんな都合よいことは、この世にはないのだ。
それはずっと昔、魔女に拾われる前から俺にはわかっていた。
魔女は危なくなれば逃げろと行った。
だから、助けなんて来ないのだろう。あの逃げろという言葉は精一杯の譲歩なのだろうから。
ならば、ここでやるべきことはひとつ。
そう考えて、俺は手をつきなんとか立ちあがろうとして、
「しっかりなさいっ。治癒」
「うおっ」
背後からの一撃に立ち上がるのを邪魔された。
背中への張り手と共に治癒の力が叩き込まれる。
ああ、どうやら心配するまでもなくレンは無事らしい。
注ぎ込まれる力によって、みるみるうちに傷はふさがっていき、胸の痛みも吐き気も遠のいていく。
暖かい光が自分の身体の中に入っていくのを俺は確かに感じた。
でも張り手じゃなくても良くないか?
「もう少し優しくできないものかな」
「倒れるよりはマシでしょ。それに壁になれなんていってない」
怒ったように抗議してくるレン。
どうやら無意識にレンを庇う形になっていたようだ。
「クロウは私より弱いのにたまに無茶する」
「レンほど、じゃないつもりだけどな」
レンも時おり喉から掠れるような息をもらす。
彼女もかなり息が上がっている。強がってはいるが限界が近いのだろう。
先ほどの衝撃波は恐ろしく強力だった。
だが、一度放てば連続で放てるようなものではないらしい。
今度は拘束から脱出してレンに後ろから襲いかかろうとした狼がは自分の放った鏡面は生み出した光に貫かれて消滅する。
「お節介なのも相変わらずね」
「倒れられたら困る。一蓮托生だからな」
茨で傷つけられた狼たちの体は既に満身創痍のようだ。
だからあと少し、後押しすれば倒せるだろうか。
「じゃあ、そろそろかたづけようか?」
「大丈夫なの?」
俺に本当は余裕などありはしない。
けれど彼が魔女から学んだことがもうひとつ。
「魔法使いたるもの、不可能はないとしれってな」
不可能に可能をかえることが魔法であり、魔法はイメージの力の左右される。
「魔女の弟子の力を見せてやろう。…どうした? 自信がないのか?」
敵が逃れる可能性も高いこの魔術でも、この状況ならば外す可能性は少ないだろう。
「誰に向かっていってるの…さぁ、合わせなさい!」
レンが幾度目かになる炎を解き放ち、それに合わせるように俺は術を発動させる。
狼に、追い打ちをかけるように無数の光が走って、狼の体を貫いていく。
断末魔のように一度身体を震わせて、身体がぼろぼろと崩れてゆく。
こうして周囲に居る敵は全て消え去った。
残る敵はただの一体のみ。その姿は未だ威厳を失っていない。
狼の主はひとつ大きく遠吠えを上げ、走り出す。
弾かれたように躍動し、疾走するその姿から感じられるのは、先ほどの衝撃波よりも遥かに危険な死への圧力。目前に迫り来る狼を見て、俺はレンと視線を交わす。
「跳べっ」
「言われなくてもっ」
一瞬だけ視線で合図をして、迷わず俺たちは左右に跳ぶ。
飛びながら考えることはやはり同じだ。レンは炎で形成された巨大な剣を振り翳し、俺は左手を構えている。
「燃え尽きろっ!」
薙ぎ払われる炎の剣。
無我夢中で放つその一撃は、今までのどんな一撃よりも強かった。力と感情が高ぶっていたのか、限界が近いせいなのかはわからなかった。
「制限解除」
そして俺の左腕の封印が音を解けていく。幾多の魔法陣を形成しながら膨大な魔力が生まれていく。
「危なくなったら使えって言ったよな。」
俺の左腕は義手だが、それは魔術仕掛けの義手である。その中には魔導宝珠が組み込まれ、複雑な動作を制御している。
しかし外付けの魔導宝珠でありながら、それは俺の肉体と繋がって常に魔力供給を受けている。本来魔力を外に出す時、自己防衛本能で無意識に制御される。
しかし、その義手に魔力を吸い上げる術式を加えればどうなるか? 義手は肉体の一部であり、体の求めの応じて魔力は無尽蔵に供給される。
そして、この手の内側にある魔装具は、予め回路が組み込まれた魔導術式で構成されていて、魔力さえあれば誰でも使える。この魔導回路は俺の師匠が刻んだものであり、俺はそれを代行できる。
「さて本物の魔女の技というのを喰らってもらおうか」
義手の魔力は俺の普段使う魔術よりも格段に高い魔力を要求する。だからこそ魔力だけではなく、俺の生命力すらも魔力に変換しなければ使えない。
膨大な魔力が左手に収束し、ばちばちと爆ぜるような音がして義手に込められた魔導回路は臨界点に達する。
「魔槍よ穿て!(グングニル)」
力ある言葉と共に、生まれる光が膨大な光を伴って、その前方を貫いた。
怨嗟の声が森に響く。それは断末魔の鳴き声なのだろうか。
長く遠く響く声は、森の嘆きの声をすらかき消して、どっさりと地面に崩れ落ちた。
狼の主は既にぴくりとも動かない。
もっとも、それはそれは俺も同じで、じっとその姿を見守っていた。
風が周囲を凪いでゆく。
それを合図にしたかのように狼の体は構成がほどけるようにぼろぼろに崩れ去り、風にまかれるように消えてさってゆく。
終わってしまえばあっけない。
残るのはわずかな戦いの痕跡、そして疲れ切った俺たちだけだ
。
森はまるで最初から何もなかったかのように周囲は静寂に包まれて、いつもの森へと還ってゆく。
悪夢は夢のまま葬られた。
どうやら未来は閉ざされずにすんだらしい。
「…やったのか」
荒い息を吐きながら、俺は木に手をついた。
既に力は残っていない。全ての力を使い尽くした俺は、周囲にあるうちで一番大きな木に背中からもたれた。
「たぶんね」
レンの方もそれは同じ。彼女はさらに木に持たれて座り込んで、疲れたように目を閉じる。「このまま眠っちゃえば楽なんだけど」
「寝たら風邪引くぞ」
俺が突っ込みに、レンは少しふくれたように言う。
「じゃあ、抱えてつれて帰ってよ」
「無茶言うなよ」
俺は困ったように視線を向ける。
そうすると彼女はやれやれと肩を竦める真似をして、
「冗談よ」
少し疲れたのか眠そうな声で呟き、背中に体を預けて黙り込む。
「レン……?」
「…………。」
「って、寝るの早いな、おい」
既に眠っていたレンを見て、俺はいつもの苦笑いを浮かべた。
「もういいや…俺も疲れた」
しばらくなんとか身体を起こそうと頑張ってみた。
だが、やがて動かない身体に諦めて俺も瞳を閉じた。
ぐったりしているが、どこか心地よいような…不思議な疲労感が体を包む。
その感覚は、すぐに俺を眠りの世界へと誘ってゆくのだった。
***
そして、翌朝。
魔女は深緑の森をゆっくりと彷徨い、やがて彼らの姿を見つけ出した。
「おやおや、心配して見に来たらこれだから、困ったもんだよ」
立派な老木にもたれ、幼さを残した無邪気な顔で眠る少女。その隣には、難解な問題でも解いているかのような顔で、深い眠りについている少年。
二人は支え合うように眠っていた。
その姿を見て、私の中には複雑な感情が交錯する。
竜の呪いはレンの体を蝕む。
刻印は心臓に影響して、より強い魔力を身体から引き出してしまう。彼女は力を得る代わりに精霊術式は使えなくなった。
その力は魔導術式で補うことはできているが、限定的だ。
もっとも彼女は剣士としての素質の方が勝ってるから問題ないのかもしれない。
刻印をつけた竜とはおそらくなんらかの繋がりがある。
だからいずれ竜と再会することもあるのだろう。
クロウは助けるためとはいえ、魔導術式の実験台にしてしまった。これは彼自身が望んだことでもある。
私が手を貸した力も使ったようだが、本来何の力もない彼に戦いに身を投じるのは流石に荷が重かったのだろう。
「一体いつになったら、心配をしなくて良くなるのかな。この子たちは」
細かく震える肩に毛布をかけ、ひとまず寒さからは守ってやる。
森には今は、危険な魔獣の気配は感じられない。
前回の魔獣の襲撃が去り、次の出現までは少なくとも、かなり猶予があるだろう。だから、少なくとも今は、大丈夫だ。
「今はゆっくりやすみな」
つぶやきながら、私は青く澄んだ空を見上げた。
昼の時間帯は、日の光もこの森に深く差し込み、星の雨の輝きは今は見えない。
「雛鳥も飛び立つ時期が来たってことかね」
私は本当はこの森に彼らを縛りつける気はなかった。
卒業試験というのはそういう意味も含んでいる。
先のことなどわからないが、今この時は無事にこの子たちがやり遂げたことを喜ぼう。
日の光を受けたいっぱいの自然の緑に囲まれたこの場所には、嘆きの声も今は聞こえない。そんな森の中を風がやさしく通り過ぎてゆく。
それは眠る二人の髪を揺らして、彼方へと過ぎ去っていった。