異変
五限の行政法総論は、小テストだった。
前回授業を休んでいたため、そのことを知らなかった私は、準備をしておらず、焦りはしたものの、他方で、ラッキーだとも感じていた。
小テストの場合、答案を提出した順に教室を出て、帰ることが許されているからだ。
それほど苦手意識のない科目だったので、合格点レベルの答案を短時間で作るのは容易かった。
そして、私は、本来の授業終了時間の三十分前である十七時二十分には教室を出ることができたのである。
「ギリギリ間に合うかな……」
大手町VR劇場までは三十分程度。
私は教室を出た途端、駆け出した。
なずなは、私に、今日はライブに来ないでおうちで待ってて、と言っていたが、授業をサボっているわけではないので、問題ないだろう。
夕飯の準備は、ライブを見た後でも十分に間に合う。
大手町VR劇場は、アイラッシュの所属事務所である大手町VR事務所によって建てられた、VRアイドル専用劇場である。
三階建ての建物で、二階がステージになっており、メンバーは三階の別室で、モーションキャプチャーを使ってパフォーマンスをしている、と言われている。
その真偽はまだ、なずなや他のメンバーからは聞けていない。
「すみません」
もう客は来ないだろうと奥に引っ込んでいた1階の受付の人を呼び出し、私は、東西線の車内で購入した電子チケットを提示する。
当日券料金で少し割高だったが、やむを得ない。
私はどうしてもシオン――なずなに会って、応援したいのである。
受付でVRゴーグルを受け取ると、私は急いで階段を駆け上がる。
スマホの時計で確認すると、終演5分前だ。最後の一曲にギリギリ間に合うくらいである。
息切れしながら、劇場の重たい防音扉を開ける。同時に、VRゴーグルを装着する。
扉の向こうには、非日常的な空間――音と光の渦の中、バーチャルな美少女が舞うステージがあった。
良かった。間に合った――
ステージには、白い衣装を纏ったミステリアスな少女――シオンもいる。
客席はオールスタンディングだ。
私は、後方でまばらに立っている人たちを掻き分け、なるべくステージへと近付いていく。
今演じられているのが、本日最後の曲だろう。
曲目は、アイラッシュの代表曲である「バーチャル」だった。
〜それでもバーチャルを愛して欲しい
それは私じゃないけれど〜
浮遊感のあるサウンドの中、メンバーが悠然と踊る。
私は、行けるところまで前方に移動したところで立ち止まり、ポケットから白のペンライトを取り出す。
私がペンライトを光らせたタイミングで、シオンと目が合った――気がした。
ステージで踊るVRアイドルはホログラムであり、中の人は別室にいる。
しかし、客席の映像は、別室のモニターに映されている。
なずなは私が来たことを把握したのだと思う。
絶対に来ないだろうと思われていただろうから、きっとビックリしているのだろう。
とはいえ、「バーチャル」はシリアスな曲である。
メンバーそれぞれがその世界観に没入している。
シオンも、驚いた顔を見せたり、ニコリと笑いかけたりするようなことはない。
人形のように、表情を変えずに踊り続ける。
〜だからバーチャルを愛して欲しい
それが嘘で塗れていても
バーチャルを愛して欲しい
その中にしか私はいない〜
私が「異変」を感じたのは、一番のアウトロが終わり、二番のAメロに入ったところだった。




