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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

単純なことなのです

作者: 和執ユラ



「どうでしょうか?」

「ああ。美味しいと思う」

「そうですか? よかった……」


 学園の庭。青々と生い茂る植物に囲まれた美しい空間。

 二脚並べられているベンチの一脚に、男女が腰掛けていた。男性はラッピングされている袋からクッキーを取り出して食べており、その隣で女性が笑みを浮かべている。何とも仲睦まじい光景だ。

 もう一脚のベンチには、男性の友人が座っている。二人の様子を穏やかな表情で見守っていた。


 貴族の子女が多く通うこの王立学園の例に漏れず、彼ら三人も貴族の子女である。男女を眺めているのがアシュトン・ラッシュ伯爵令息。女性はオーレリア・ミルワード侯爵令嬢。

 そして、クッキーを食べている男性はフランシス・ヴァーノン・ルースリヴィア。このヴァーノン王国の第三王子である。


 そんな三人を木の影から眺めている女性の姿があった。ストロベリーブロンドと金にも似た琥珀色の瞳を持つ女性は、親しげに言葉を交わす三人を暫く観察するように見ていたが、ふと視線を落として踵を返す。

 女性の名はヴィオラ・マリー・タウンゼント。タウンゼント公爵令嬢にして――フランシス第三王子の婚約者である。



 ◇◇◇



 ヴィオラとフランシスの婚約は幼少の頃に結ばれた。情熱的な関係ではないけれど、冷え切っているわけでもない。あることがきっかけとなり、一時期はぎこちない距離感だったこともあったものの、現在はお互いを尊重し合う良い関係を築けている。

 それはヴィオラの主観的な意見ではなく、判然としている事実だ。


「ヴィオラ」


 学園の講義が終わると、ヴィオラのクラスにフランシスとアシュトンが迎えに来た。アシュトンはフランシスの友人であり従者でもあるので、学園でも王城でも行動を共にする時間が長く、必然的にヴィオラとの接点も多くなっている。


「帰ろう」

「はい」


 フランシスのエスコートを受けて、ヴィオラは馬車へと向かった。


 ヴィオラの学園への送迎にはほぼ毎日、王家の馬車が使われている。フランシスが共に過ごす時間を増やせるようにと提案したことで、一つ下の学年にヴィオラが入学した時から、公務等の理由がない限りは共に登下校をしているのだ。

 王族であっても学生のうちは学園を優先するという方針なので、フランシスに王子として外せない仕事が任せられることはそう多くない。それがほぼ毎日の送迎に結びついている。


 馬車にはヴィオラとフランシスが向かい合って乗る。アシュトンは放課後はそのままラッシュ伯爵邸に帰ることもあれば、フランシスの仕事の補佐のために別の馬車で王城に向かうこともあった。今日は伯爵邸に帰るとのことで、門の外で別れた。


 馬車内はヴィオラとフランシス、二人だけの時間となる。

 公爵邸に向かう道中、学園のことや王城であったこと、交わされていた他愛のない話がふと切れて、いつもの二人の間にはないどことなく不自然な沈黙が流れた時だった。


「最近、元気がないな」


 フランシスがそう切り出した。ずっとタイミングを見計らっていたのだろう、心配げな面持ちをしている。


「何か悩み事でもあるのか? それとも、体調が優れないか?」

「なんでもありませんわ、フラン様。ご心配をおかけして申し訳ありません」


 安心させるためにふわりと鷹揚にヴィオラが笑みを浮かべるも、フランシスは納得した様子もなく眉根を寄せる。その表情はどこか寂しそうで、普段は泰然として構えている彼にしては珍しい。


「俺には言えないことか?」

「……」


 無言を貫くヴィオラに、フランシスが躊躇いがちに口を開く。


「本当は、ヴィオラから相談してくれないかと待っていたんだが――」


 紡いでいる途中で馬車が停まり、フランシスは言葉を切った。ヴィオラがドアの方へと視線を向ける。


「到着したようですね」


 少しして、外から御者の手によってドアが開かれたので、先にフランシスが降りた。ヴィオラが続こうとすると、いつものようにフランシスの手が差し出される。その男らしい骨張った大きな手をとって、ヴィオラは石畳に降り立った。

 目の前には見慣れた公爵邸の門が聳え立っている。学園に通い始めてからは、当然ながら領地よりも王都のこの屋敷にいる時間が格段に増えた。隣にいる彼と会う時間も。


「送っていただきありがとうございました」

「……ああ」


 ヴィオラが見上げて目を合わせてお礼を告げ、フランシスが応えたところで、ヴィオラは繋がれた手を離そうと引いた。しかしフランシスが優しく、それでいて解けない程度の力を込めて拒む。


「フラン様?」

「……また明日、迎えに来る」

「はい」


 名残惜しげに手が離され、優雅に一礼したヴィオラは公爵邸の中に入った。フランシスは毎度ヴィオラが邸に入るまで見届けてから帰るので、扉が閉まるまで背中にずっと視線を感じていた。


(やっぱり、少し不自然なのね……)


 自身の態度が違和感を与えてしまっていると気づかされ、ヴィオラはむに、と軽く頬を摘む。

 フランシスとオーレリアのあの光景を目撃してしまって以来、考えないようにと意識すればするほど、どうしても頭の片隅から離れないのだ。態度に出さないように気をつけているつもりでも、彼には筒抜けのようである。

 動作か表情か、両方か。勘付かれる要素となったものは即座に直したいけれど、相手は付き合いがあまりにも長く、それも婚約者の肩書きを持ち、観察眼も鋭い王子フランシスである。改めて留意したところで容易に誤魔化せるはずもなさそうで、ヴィオラは悶々と思考を巡らせた。



 ◇◇◇



「――ヴィオラちゃん」


 昼休憩の時間、一人になったところを狙ったのか、庭に出たヴィオラはアシュトンから声をかけられた。

 フランシスは仕事があるからと、今日はまだ学園に来ていない。事前に連絡を貰っていたので、朝の登校は公爵家の馬車を利用した。

 朝のうちにアシュトンには会ったため、アシュトンが手伝う類の仕事ではなかったのだとその時に教えられている。


「最近、登下校以外であんまりフランとの時間が持ててないみたいだけど、何か忙しかったりする?」

「特に何も変化はありません」


 予想の範囲内の質問だ。穏やかに、動揺など欠片もなくヴィオラが言い切るけれど、アシュトンは人好きのする笑顔を浮かべて続ける。


「本人じゃなくて俺にだからこそ言えることってあると思うんだよね。俺も二人とは長い付き合いだし、一応近くで二人をよく見て来てるわけだし」

「ご心配なく」

「忙しいんじゃないなら何かな。――まさかフランのこと嫌いになったとか、そういうことじゃないよね? 万一そんなことになってたら色々と大変なことになる切実な問題だから、相談してくれないと困るなぁ。主に俺が」


 彼が? と、ヴィオラの中に疑問が生まれた。


「相談するようなことでもありません。そのうち心の整理もつきますので、気長にお待ちいただければ」

「いやいや、ほんとにさ。遠慮しなくていいから。このままだと我らがご主人様が爆発しかねないんだよね。今は戸惑って落ち込んでる程度だけど、そのうち八つ当たりが飛んできそうで……。ね? 俺のためにもお願いだよ」

「……」


 先程の言葉通り、なかなかに切実な願いだ。アシュトンの表情を見れば伝わってくる。

 これは引かなそうだと、ヴィオラは観念して小さくため息を吐いた。




 話し合うためにやって来たのは、先日フランシスがオーレリアからクッキーを貰っていた例の場所だ。どうにも複雑な心境に陥ってしまうけれど、説明のためにはわかりやすい場でもある。

 ヴィオラはベンチに腰掛けたが、アシュトンは立ったまま、話を聞く態勢に入っていた。催促はせずに気長に待つつもりらしく、しかし逃すつもりもないようで、真摯にこちらを見据えている。

 ヴィオラは目を伏せ、ゆっくり口を開いた。


「昔、フラン様に手作りのお菓子をお渡ししていたことがあります」


 あまりにも予想外の出だしだったのか、虚をつかれたらしいアシュトンはぱちりと目を瞬かせた。構わずにヴィオラは続ける。


「我が家の料理人に教わりながら、頑張って作りました。味見もして、フラン様の好みに合わせて、甘さ控えめのクッキーを。もちろん料理人やお菓子職人の腕に比べれば圧倒的に拙いものでしたし、ご満足いただけないだろうとは思っておりました。けれど喜んでもらいたくて、フラン様が我が家にお越しになってくださった際にプレゼントしていたのです」


 ヴィオラに会うために領地の公爵邸を訪問してくれた彼に、緊張しながらも期待に胸を膨らませて渡した。いつも彼は、嬉しそうに受け取ってくれた。美味しいよと、ありがとうと言ってくれた。――けれど。


()()()は、受け取ってはいただけませんでした」


 それは、ヴィオラが十一歳、フランシスが十二歳の頃のことだ。

 包装紙の中身がクッキーであることを認識したフランシスは顔色を悪くして、すまないと、謝罪と共にプレゼントを返したのだ。

 その場にいなかったアシュトンも、後日聞いて知っていること。だから「あの日」と言えば通じる。


「それは……」

「ええ、わかっております。当時のフラン様に、あのようなものをお渡ししてはいけませんでした。浅慮だったと言わざるを得ません」


 プレゼントのクッキーは受け取ってもらえなかったけれど、それは仕方のないことだった。


 昔から王子達三兄弟の仲は良好だ。しかし、周囲で勝手に王位を巡って派閥が出来上がってしまい、それぞれの王子を推す貴族の対立関係が殊更深刻化していたのが、五年前のその時期だった。

 フランシスは第二王子を推すある貴族の計略で毒殺されかけ、数日生死を彷徨った。かなり厳しい状態だったけれど、優秀な専属医のおかげでなんとか持ち直したのだ。


 毒を盛った実行犯は、フランシスが赤ん坊だった頃から仕えていた、信頼していた侍女だった。フランシスにとっては身分の差を越えた姉のような存在であったし、ヴィオラも彼女のことをよく覚えている。とても優しく、温かい人だった。

 彼女を犯行に走らせた貴族は、彼女の幼い弟妹を人質として攫い、侍女という便利な立場にある彼女を脅迫していたのだ。フランシスを殺さなければ弟妹の命はない、と。

 結局、彼女の弟妹は誘拐されたその日に殺されていたことが軍と警察の捜査で発覚した。その貴族は最初から、犯罪の証拠となる彼女とその弟妹を生かしておく気はなかったのだ。

 彼女はフランシスに出した紅茶に毒を混入させたこと、黒幕の貴族のことや証拠について証言し、弟妹の死と事件から数日後にフランシスが峠を越えたことを牢の中で聞いた後、処刑された。


 命は助かったフランシスだったが、その事件以来、他者が用意する飲食物に口をつけられなくなり、自ら飲み物や食事を準備するようになった。

 ヴィオラとフランシスの関係が一時期ぎくしゃくするきっかけになったクッキーの一件は、その事件から約ひと月が経った頃のことだ。

 婚約者としての交流のためだったことも確かだけれど、毒殺未遂事件以来ほとんど部屋で塞ぎ込んでいたフランシスの気晴らしも兼ねての訪問だったらしい。

 その目的を、ヴィオラが壊してしまった。


「――わたくしがただ、驕っていたのです。わたくしの手作りであれば、もしかしたら安心して食べていただけるのではないかと」


 事件のことはヴィオラの耳にもすぐに届いた。彼がまともに食事ができなくなったことも。

 それで思ったのだ。幼い頃から時間を共にしてきた婚約者の自分が作ったものであれば、彼は口にできるかもしれないと。何度か手作りのお菓子を振る舞ったことがあったし、ヴィオラが彼に危害を加えることなどありえないのだからと。

 ヴィオラなりの気遣いであったけれど、所詮はまだ十一歳の子供だった。公爵夫妻や使用人達が難しいのではと止めようとしたのに、試してみる価値はあると進めたヴィオラは、信頼していた侍女の裏切りと毒によって彼に根深く植え付けられた恐怖をまったく理解できていなかったのだ。


「幼くて、愚かだったのです」


 静かに語ったヴィオラにアシュトンが何か言いたげな様子で口を開きかけたが、ふとヴィオラから視線を外し、校舎からこのベンチまで続く庭の道の、ベンチを通り過ぎた反対側の方に目を向けた。ヴィオラも顔を上げてそちらに視線をやる。

 午後から学園に来ると聞いていたフランシスの姿があった。少し前から茂みと木に隠れて話を聞いていたのだろう。ヴィオラもそのことにはなんとなく気づいていた。


 フランシスがヴィオラの元に歩み寄る。ヴィオラは彼をじっと見上げた。

 彼は心苦しそうに眉間に皺を寄せている。当時の彼自身を責め立てているようなその表情に、ヴィオラは違うのだと伝えたくて表情を和らげた。


「あの日のことについては私に非があったので、フラン様を責めることなどありえません。ただ先日、オーレリア様の手作りのクッキーをお食べになっているところを、たまたまお見かけしてしまいました」

「!」

「少々、躊躇いはあったご様子でしたが……突き返すこともなくお受け取りになり、目の前で食して感想を告げておられましたね」


 まさか見られていたとは思わなかったようで、フランシスは動揺で目を見開いた。


 ヴァーノン王国では、貴族令嬢や夫人が自らお菓子作りをすることは珍しくない。慈善活動の一環で孤児院や教会、被災地へ寄付をするのが貴族の美徳であるのだが、お菓子を贈る際、手作りの方が気持ちが込もっているから望ましいとされている。王立学園でも調理実習の授業が取り入れられているほどだ。

 もちろん、使用人に作らせたものや購入したものを手作りだと偽る令嬢夫人が多いのも現実である。そこは得手不得手があるので仕方のないことだろう。

 そして、オーレリアは手作りのお菓子や刺繍を施したハンカチを教会のバザーに積極的に提供するなど、慈善活動にとても熱心で、お菓子作りや刺繍が趣味だ。


「ヴィオラ、彼女は……」

「承知しております。ジェラルド様とのご婚約が内定されているのですよね。近々公表のご予定だと、我が家にも通達が届いておりました」


 オーレリアは第二王子ジェラルドとの婚約が決定した。公爵家でありフランシスの婚約者が娘のタウンゼント家には、正式な公表前に王城から一足早く知らせがあったのだ。


「ジェラルド殿下にお渡しする前に味見をしてほしいとお願いされ、お断りするのが心苦しかったのでしょう。尊敬する兄君から彼女のことを頼まれていたのであればなおのこと」


 オーレリアのクラスではあの日、お菓子作りの授業があった。その時に心を込めて作ったお菓子をジェラルドにプレゼントするからと、ジェラルドの好みをよく知る弟のフランシスに味見を願い出たのだ。

 弟と婚約内定者が同じ学園、同じ学年であることから、ジェラルドはオーレリアのことを気にかけてやってほしいとフランシスに頼んでいるらしい。

 兄二人を尊敬している彼が、兄の婚約者となる女性を無下にできるはずもない。そんなことくらい、そばで彼や上の王子達を見てきたヴィオラはよく心得ている。

 だから、ヴィオラが抱いたのは悋気ではない。


「単純なことなのです」


 それは酷く、単純なこと。


「子供じみたわがままであることは承知しておりますわ。ただ本当に、自分でも驚くほどに、大きな衝撃だったのです。フラン様が家族や城の者以外の他者の手作りを食せたことは、過去を克服できたことは、本来であれば喜ばしいことなのに……わたくしの心は、喜びよりも寂寥感が勝りました」


 事件から数年が経ち、家族――国王夫妻や兄達の手作りや、長い付き合いのある王城の料理人が作ったものであれば、問題なく食べられるようになったことは知っていた。

 それ自体は純粋に、心から喜べた。自分のことのように歓喜したし、安堵した。彼も王子で忙しい身なのだ。毎度食事を自ら用意するのは負担となるし、彼の体のことを考えると、安心して食事ができる環境は欠かせない。だから――。


「一番最初は、わたくしであってほしかった」


 ぽつりと吐露された言葉に、フランシスは僅かに瞠目した。


 家族や料理人であれば仕方ないと、ヴィオラは割り切れていた。だから、彼ら以外の中では、婚約者であり幼馴染みでもある自分が最初であってほしかったのだ。

 オーレリアだったから、女性だったからではない。自分ではなかったから、不満が急激に湧き上がった。

 これはただの、身勝手な嫉妬に過ぎない。燃えるような愛は育んでいなかったけれど、フランシスにとって自分は特別な存在であると自負していたからこそ、確固たるものであったはずの矜持があの光景を前にして脆くなったのだ。

 男女間の嫉妬ではなく、幼稚な、一種の独占欲だった。


「数日経ってもフラン様からあの日のことについて報告がなくて、そのことについても、少々もやもやしてしまっていました」


 婚約者なのだから、すぐに知らせてくれると思っていた。けれど彼は、オーレリアからクッキーを貰ったことを教えてはくれなかったのだ。

 そして、色々と考えてしまった。もしかしてこれは初めてのことではないのかもしれない。家族や王城の人間以外の他者の手作りを彼が食すのは、オーレリアのものが初めてではなく、もっと経験していたのかもしれない、と。

 彼にとってヴィオラはその程度の存在だったのだと、突きつけられたような気がしたのだ。


 俯き気味に視線を落としながらそれまでの心情を零したヴィオラは、目の前にフランシスが跪いてヴィオラの手を取ったことで顔を上げた。フランシスの綺麗な双眸が、まっすぐにヴィオラを映している。


「すまない、ヴィオラ。俺が浅はかだった」

「いえ。これはわたくしのわがままですから」

「いや、全面的に俺が悪い」


 ヴィオラは何も悪くないと、彼は言う。


「家族や王城の者以外が作ったものを口に入れたのは、あの時だけだ。……オーレリア嬢のクッキーを貰ったのは、兄上のためにというのも確かにあった。けど、それだけじゃない」


 包み込むように手が重ねられた。婚約者としていつもエスコートを受けているので、慣れた温もりではある。けれど、このように触れられることは滅多になくて、彼が真剣に謝罪と説明を紡いでいる状況であるにもかかわらず、胸が高鳴る。


「五年前のことは俺もずっと気にかかっていて、申し訳なく思っていた。涙を堪えるヴィオラの姿に後悔が押し寄せて、だが口に入れることは体が拒絶していてどうしてもできなくて、謝ることしかできないのが本当に辛かった」

「フラン様……」

「だから、克服するために色々と試してきた。ヴィオラの手作りのクッキーでもケーキでもなんでも、絶対に食べられるようになりたかったんだ。……婚約者という絶好の立場にあるのに、俺だけヴィオラの菓子を食べられないなんて悔しすぎるだろう? 公爵夫妻やバザーを訪れる者、公爵家の使用人にまで振る舞われるのに。しかも食べられないことでヴィオラを悲しませるなんて」


 情けないと、眉尻を下げてフランシスは小さく笑みを浮かべた。懸命に、真摯に懊悩の過程を語る彼を、ヴィオラは揺れる瞳で見つめ返す。


「まずは兄上達や母上に何かしら食べ物を作ってもらって、それを食べられるようになったら料理人に頼んで……そうして慣らしていった」


 王妃と料理の経験がほとんどない上の王子二人は多忙な中、時間を捻出して慣れない料理やお菓子作りをしてくれたと言う。時折国王も交じって。

 家族が目の前で作ってくれたものであっても、最初の頃は口にすることもできず、なんとか無理に詰め込んでも吐き出してしまっていたそうだ。それでも時間をかけてゆっくり、少しずつ慣れ始め、今では料理人の料理を普通に食べられるまでになっている。

 であればヴィオラの手作りも食せるはずだと、フランシスは考えていたようだけれど。


「ヴィオラに伝えるつもりだった。だが……大丈夫だと確信に近い自信を持っても、もしまたあの時みたいにヴィオラを傷つけることになってしまったらと、言い出せなかった」


 いざヴィオラに伝えようとすると、あの時の光景が頭を過って一歩が踏み出せなかったらしい。どれほどの葛藤を抱えていたのか。それは彼にとってヴィオラが大切である証とも言える。


「だから、オーレリア嬢に味見を願われて、ちょうどいいと、利用しようと思ったんだ。彼女の手作りが平気なら、ヴィオラの手作りは絶対に大丈夫だから。……はっきり言ってしまうとオーレリア嬢のクッキーには抵抗感が多少あったが、無事に胃の中に入れることはできて、ようやく決意が固まった。ヴィオラが次の調理実習で何かを作った時にでもそれを貰って、驚かせて、喜ばせようと思ってたんだ」


 自嘲気味に後悔の念を滲ませた笑みを、フランシスは浮かべた。


「それでヴィオラを傷つけていては本末転倒だな」


 今度はヴィオラの方が目を丸める番だった。

 知らなかった。あの時のことを、彼がこんなにも気に病んでいたなんて。

 フランシスは何度も謝ってくれた。そんなことをする必要はないのに、当時の彼の心情を測りきれていなかったヴィオラに非があるはずなのに、何度も何度も。

 ヴィオラが気にしないでほしいと謝罪を受け入れたことで、終わったと思っていた。けれど違ったのだ。

 彼はずっと努力を重ねていた。生死を彷徨う体験をしたトラウマはそう容易に克服できるものではないはずなのに、ヴィオラのために。


「申し訳ありません。わたくし、そのようなことを知らずに……」

「ヴィオラが謝る必要はない。言っただろう。全面的に俺が悪い。食事の特訓についても知られないようにしていたしな」


 徹底的に伏せていたのだ。王城の外に漏れないように。期待させるだけさせておいて無理だったという結果に終われば、また悲しませてしまうだけになるから。


「誰かが作ったものでも食べられるようになりたいからと、ヴィオラの手作りの菓子や料理が食べたいからと、素直にそう願っていれば、ヴィオラは協力してくれたはずだ。その選択をしなかったのは、俺のわがままだ。俺が臆病だったせいで、結局ヴィオラを傷つけることになってしまった」


 ぎゅっと、ヴィオラの手に重ねられている大きな手に力が入る。


「すまない。許してくれるか……?」


 彼にしては弱々しい、窺う様子でヴィオラにそう問うた。希う眼差しはどこまでも切実だ。

 許すも何もないと、そう言ったところで彼が納得することはないと理解していた。だからヴィオラは告げる。


「はい。……フラン様も、説明なく一方的に距離をとってしまったわたくしを、許してくださいますか?」

「もちろんだ」


 そう言ってヴィオラの手を口元まで持ち上げると、フランシスは手の甲にそっと口づけを落とした。柔らかな温もりにヴィオラが息を呑むと、美貌の王子様は口角を上げる。


「本当は別の場所に口づけたいところだが、さすがにここは人目があってもおかしくないからな。ヴィオラは恥ずかしいだろう?」

「べ、別の場所……」

「なんだ、言わせたいのか? それとも――」


 立ち上がったフランシスは、ヴィオラの隣に腰掛けた。フランシスの手が伸びて、ヴィオラの顎に添えられる。親指の腹がゆっくり下唇をなぞった。


「人目など気にせず、してほしいのか?」


 悪戯な笑顔を見せるフランシスに、ヴィオラの心臓が大きく鼓動を刻んだ。甘い痺れが体に走り、羞恥で沸騰するかのように全身が熱くなる。

 耳まで真っ赤にさせたヴィオラを見つめる熱を孕んだ甘い眼差しは、愛おしいと恋情を全面に出していた。

 いつの間にかアシュトンは姿が見えなくなっている。空気を読んで退散したのだろう。優秀だとフランシスは感心するが、ヴィオラからすると頼みの綱の逃走に他ならなかった。助けが見込めない。


「こ、こんなフラン様は知りません」

「そうだな。五年前のことで互いに遠慮があったんだろう。だがそれももうなくなったな。嫌か?」

「嫌ではないですけれど……」


 どう反応していいか困るのだ。今だって彼は、ヴィオラの返答に心底嬉しそうに表情を緩め、甘さを凝縮させた熱い眼差しを送ってきているのだから。

 ヴィオラは慣れていないから、耐性もない。


「破廉恥、です」

「婚約者なんだ、それくらいの触れ合いは許されて然るべきだと思わないか?」

「……言質をとろうとしないでくださいませ!」

「今は婚前交渉にも割と許容的な風潮になりつつあるのに」

「こんっ……」


 顔を真っ赤にし、目を見開いて狼狽したヴィオラは、じりじりと追い詰めてくる婚約者から逃れるように、逸らした視線を彷徨わせる。


「それはまあ、確かにそうですけれど……」

「ああ、そうだ。だからキスくらいは問題ないだろう?」

「だから言質を取ろうとするのはおやめください!」

「やはり引っかからないか」


 残念だ、と楽しそうに呟くも、フランシスは手を離さない。それどころかふに、と――感触を楽しむようにヴィオラの唇にまた触れている。おかげで反射的にフランシスに視線を戻してしまった。


「人目がない場所であれば、安心して俺に身を委ねてくれるか?」

「っ……」

「本当はずっと、ヴィオラに触れたくて仕方なかった」

「〜〜っ!!」


 とてつもなく甘い、とびきりの優しい笑顔と声を、間近で受けた。


 色々と限界を迎えそうになり、せめてもの抵抗として、ヴィオラはフランシスの胸元に顔を埋めた。こうすれば顔を見られることも唇に触れられることもないから、彼がヴィオラの反応をいちいち確認して楽しむこともできないはずだと踏んだのだ。

 けれど、その選択は逆効果と言わざるを得ない。

 これまでフランシスがかなり自重していたこともあり、ヴィオラは常に淑女然とした態度を崩さなかった。多少照れる程度だったのだ。だから、慣れない触れ合いに素直な反応を見せる婚約者の可愛らしい一面に少しだけ箍が外れ、フランシスが愛しい彼女の頭にキスを落としたのは仕方のないことである。それにまたヴィオラがびくりとするのでフランシスの悪戯心を刺激し、湧き上がる衝動に抵抗せず更にキスを落としてしまうのも、仕方のないことだろう。

 だってヴィオラは拒絶の言葉を口にすることも、逃げることもなかったのだから。


 こうして、喧嘩とも呼べない、すれ違いのようなちょっとした出来事は終わりを迎えた。

 そして、お互いを想い、尊重し合うがゆえに少しだけ距離があった二人の関係は、この日を境に仲睦まじい、恋人らしさ溢れるものへと発展したのだった。



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