産業革命と天才児
――紡績と蒸気機関。銃と鉄。山は切り崩され工場は黒煙と汚濁水を垂れ流す。環境汚染に眉を顰める人々は、しかし怒りのはけ口が見つからない。産業革命。労働階級は貨幣を受け取り、酒、麻薬、異性を手に入れる。快楽の依存症。喜びの強要が否定の言葉を塗りつぶす。――
「今月の給料、ユミちゃんにぶっこんじまったわい!」
「ユミちゃんの穴に、ってかい!?」
「ガハハハハハ!」
「いよっ、大将! 豪快だねえ!」
「ぎゃははははは」
大げさな笑い声。これでうれしいのだろうか。人間の一生とはこんなものなのだろうか。
「おいマサヤ、お前も飲めよ」
「いや、いいよ僕は」
顔を真っ赤にした父が、ろれつの回らない舌で言う。俺が否定すると、もう赤くならないと思った顔がさらに赤くなって、眉を吊り上げる。
「なあんだい釣れねえなあ! ほら!」
「えっ、あの……。なんか、苦しいんだ。胸のあたりが」
胸の痛みは工場の排水のせいであって、酒のせいではないと思っている。だけど、酒は飲みたくない。飲むともっと痛くなるから。
「んん? なんだおめえ! 苦しいならさっさと医者に行けってんだ!」
「医者は、その……」
医者に工場の排水のことを伝えると、怒られる。「どうしようもない無職が流している風説に耳を傾けるな。悪いのは工場ではなくお前の免疫。薬で免疫を高めろ」と言って。そして、ワクチンを注射される。もっと腹が痛くなる。頭も痛くなる。
「まったくまいったねえ。こいつの医者嫌いには。いつまでも注射が恐いガキかあ? あーん?」
医者が全く信用ならないと、大人に伝えても効果がない。何故か大人は医者を信じてしまっているから。両親が毎朝読んでいる科学新聞。今日は「無職の浮浪者がワクチンは危険などと風説を流布している」と書いてあった。昨日は「無職の浮浪者がアンモニア水を飲んで健康になろう、などと風説を流布している」と書いてあった。そして「弱者ではなく専門家の言葉を信じよう」「かつて騙されていた有名人が改心」などと締めくくる。このような新聞によるお人形遊びの積み重ね。両親の頭に医者は善、弱者は悪と刷り込まれる。自分の感覚、子どもの言葉を信じず、お金持ち、修行(勉強)した人間の言葉を優先する。それが合理性だと言って。弱者の発言が、強者の発言よりも有力であるはずがない。強者が嘘をつく可能性ですら、弱者よりも低いと言って。
強引に俺に酒を飲ませようとする父。それを頑なに拒絶する俺。父は怒り、ついには俺をタコ殴りにする。
「おおっ、乱闘か?」
「ほーらやれ! もっとやれ!」
「ぎゃははははは! 弱すぎだろマサ坊よぉ!」
父の友人達は、殴られる俺を見て大喜びするのであった。なんだ、この地獄は。
翌日。全身の痛みに耐えながら、早朝に起床。桶を突っ込んだ樽を背に担ぎ、川へ水汲みに行く。痛みを理由に弟に代わってもらうわけにはいかない。弟は汚染箇所を避けずに適当にガバッと汲むからな。
「おーいマサヤァ。どうしたんだその顔ぉ?」
隣の家のアキトも水汲みだ。
「昨日、酒を飲まなかったんだ。そしたら親父に殴られた」
「ぷぷっ。相変わらずだなあ。なんで飲まねえんだよ酒くらい?」
「前も言っただろう。俺の親父は、酒を飲むと俺を殴ってくる。性質の悪い酔っ払い。そういう人間になりたくない」
「いや、お前が飲まないから殴るんだろう? お前、おかしなこと言ってるぞ?」
確かに、飲めば避けられたかもしれない。だが、酔っ払うということは、この社会を受け入れるみたいで、認められないんだ。
「……。どうでもいいや、俺がおかしかろうが何だろうが」
「相変わらず変わってんなあ。マサヤよぉ」
川の水、アキトは岸の近くの水をサッとすくう。その方が楽だから当然だ。だが俺は、できるだけ中央を選ぶ。中央は流れが速くて、透明が強い。岸は流れが遅くて、濁っている。この違いが、腹のダメージの違いとして現れる。それを俺だけが気付いているから。話しても誰も信じてくれないから。
「じゃあな、アキト。また学校で」
「ああ」
学校教育。立派な成人になるためには教育が必要なのだと先生が言っている。では学校がなかった時代に生まれた先生は立派な成人ではない、ということでいいのだろうか? こう言えば先生は怒鳴り散らしこちらに殴りかかってくるのが目に見えているから言ったことはない。
やつらが言う立派な成人。それは社会に立派に隷属しているということ。社会に、権力者に対する怒りを忘れ、むしろ社会を否定する者に怒りを向ける人間こそが立派なのだ。つまり、疑問が湧いて止まらない俺は、叩かれる側の人間。それも、時間が経てば経つほど教育が浸透し、立場を失っていく。どうすれば止められるのか。この地獄の流れを。どうすれば……。
「えー、以前の、村の口伝が頼りだった頃は、毒が侵入した時に手を切り離すしかなかった。えー、しかし、血液循環説が浸透した現在では、このような無駄なことはしない」
毒ごときで手を切り離した話なんて、聴いたことがない。毒消しは、血を抜くだけ。なんで先生は、わざわざこんな大げさに言うのか。嫌な予感がする。
「そうではなく、ワクチンにより、免疫を高めるのだ。人間には、適応能力がある。竹刀を何度も振るえば、その重さに腕が慣れて、力がつくのと同じように。一見毒と思われた汚染水も、少量の摂取を繰り返すことにより、人間の免疫が高まって慣れていく。そうすれば、もはや毒ではないということだあ」
はあ、なるほど。ワクチンを褒めるためだったのか。ワクチンを大げさに褒めるために、医者以外を大げさに辱める。汚染水を飲めば飲むほど、免疫が高まるのならば。俺の腹の痛みは、とっくに治ってるよ。まあ、どうせ怒られるから言わないけどね。