違和感の正体
「旦那様、なぜ少しも気にかけてくださらないのです!」
タオルを取りに廊下を歩いていたら急にそんな声が聞こえた。真に迫った声に思わず足を止めてしまう。
大声にも驚いたし、何よりその声の主がオスカーさんであることに驚いた。
「…関係ない」
どうやら声は旦那様の書斎から聞こえているらしい。戸が完全に閉まりきっていなかったので音が漏れたようだ。
「関係あるに決まっています。子供が風邪を引いたのです、傍にいくのが親というものでしょう」
盗み聞きは良くないと知ってるけど、話がお嬢様のこととなると聞かずにはいられない。
扉の近くにそっと寄り、話を聞いてみることにした。
「それなのに何故貴方は平然と仕事をしてるのですか」
隙間からチラリと見えた旦那様はいつもと同じように仕事をしている。
確かに医者が診ていた時も、帰った後も旦那様はお嬢様の部屋にいらっしゃらなかった。侍女の私に様子を聞くこともなかった。
「…あいつも行ってないだろう」
「ええ、奥様も行かれておりません。ですが、それは貴方が行かない理由にはなりませんよ」
奥様も来られてない。
そうだ、風邪を引いた我が子を親が見舞いに来ないのはおかしい。
今まで気付いていなかったことが段々と見えてきて、頭がすーっと冷えた。
「…私は忙しい」
「…旦那様が風邪を引かれた時は先代様も来られました」
オスカーさんがいつもの口調に戻り、ちょっと安心した。旦那様が幼少の頃から仕えている彼は、昔から優しく時には厳しく接してきたという。それは後輩にも同じで、彼の物静かな人柄は皆知っている。
だから先程の大声は初めて聞いたこともあって驚いたのだ。
「そんなはずはない!」
安心した所へ、また更なる驚き。
今度は旦那様が叫ばれた。声の調子がいかなる時も変わらない旦那様が声を荒げる場面に私は今まで出遭ったことがなかった。
普段の二人とは全く違う雰囲気に心がざわざわする。
「あの人が、僕のことを気にかけることなんてないだろう…」
「………」
「この話はこれでお終いだ」
黙ってしまったオスカーさんに、話を切り上げようとする旦那様。雰囲気も戻りつつある。
ただ、オスカーさんは違ったようだ。
「…違う方の所へ通うことを私は今まで黙認してきました」
「なっ…オスカー!」
違う方…?
「…貴方は今までご自分から愛することを拒んできた、そんな貴方に愛される方が例え違う方でも私はいいと思ってきた」
「オスカー、それ以上は君でも許さない」
旦那様の制止も聞かず、オスカーさんは話し続ける。
「…貴方が愛を知れば、御自分の子も、アイリスお嬢様のことも愛するだろうとそう思っていました。子煩悩にならずとも、普通に接するだろうと思っていました」
「オスカー」
「だけど、貴方は変わらなかった。奥様でない方と逢うのは、この際よいとしましょう。でも、何故接してあげないのですか?!誕生日の時も、風邪を引いた時も、どうして貴方はその愛をお二人に少しも向けないのですか!」
「オスカー!」
「貴方は、貴方はご自分と同じ経験をお嬢様にさせたいのか!」
「もういい、黙れ!」
しばしの沈黙。
それは人の心をへし折るには十分な重さだった。
「オスカー、長いことご苦労だった…」
「…坊っちゃま」
「…僕は君に世話を焼かれずとも生きていける」
沈黙を破ったのは旦那様の方から。
「…わかりました。ですが、どうかお二人のことも気にかけてあげてください。あのままでは、アイリスお嬢様は」
「…もういい」
二人の話は終わり、部屋から出てきたオスカーさんは私に気付いて、よろしく頼むと言って前を通り過ぎて行った。その背中には悲壮感がただよっており、泣いてるようにも見えた。
廊下には私だけがいる。
そっか、違和感の正体はこれか。なんで気付がなかったんだろう、と自分を罵った。
食事の時間がズレてるのも、親子の対面がないのも、風邪なのに来ないのも、全部変じゃないか。お嬢様は公爵令嬢だから大人びているんじゃない、諦めてるから大人に見えたんだ。
家族なのに。そう思うと余計苦しくなった。
関心を向けられることへの諦め。
それを小さな子供がする程、この屋敷は異常なことにようやく気付けた。