いつか気付く
は、と柱時計の鐘の音で気が付く。
カチカチと正確に時を刻む針を見て、いつの間にか時間が経っていたことに夫人は驚いた。そして、自分が先日の出来事がそんなに衝撃的だったのかとも。
基本的に人間関係に対して頓着しない彼女にしては、とても珍しいことである。正直、いつも通り受け流せるだろうと思っていた。
それが蓋を開けてみると全く出来ていないのだ。夫と結婚することになっても、特に何も思わず唯々諾々と従ったのに、愛人というたった一つの事実でここまで動揺しているのである。結婚に関してはそういえばそんなこともあったなと、現在進行形で続いている関係にどうでもよさげに扱った。では、愛人の存在かと言えばそうでもないのかもしれないと、日をまたいで少し落ち着いた彼女はそう考えた。
そのことにも、また驚いた。
馬車の中ではあれだけ虚しく感じたのに、その後に来た何かで彼女の心は支配されていた。大きすぎる虚無感に考えは浅くなり、行動も緩慢になってきていた。
あの日から夫人は日常生活で些細なミスがでるようになった。
カトラリーの使う順番を間違えることもあれば、人の話を上の空で聞いていることもある。怪我や一大事にこそ繋がっていないが、淑女の鏡である彼女からすれば明らかにおかしい。
完成された絵画に黒インクがつけば、芸術に詳しくない者でも流石に気付く。他の全てを台無しにしてでも黒い点はやけに目立つことだろう。といってもまだ小さなシミなので、注意深く見ている者だけにしか分かっていない。
夫人は冷静沈着と称される人間である。そのおかげで予期せぬ事態にあっても、動じずに最適解を導き出せる。例えそれが、感情が育たなかった結果だとしても、静かな思考回路は彼女を何度か救ってきた。
普段であれば、今回の結論の出し方も正解だったはずだ。しかし、数日間物思いにふける時点でいつもの彼女ではないことは確実だった。大抵の問題は最短で二秒、最長で一日で片付ける彼女が、その数倍以上の時間をかけている。一人頭の中で堂々巡りを繰り返して出した結論は、人間関係のことであり誰かに相談すべきであることをしなかったためはっきり言って大間違いであった。
誰か彼女の頭を覗けば、そこは違う、そこはこうすればよいと助言してくれただろうが、ありもしないたらればは意味がない。
他人からすればなんて馬鹿な考えなのだろうと笑われるかもしれない。なぜ、と頭を抱える人だっているだろう。
だが、一度終わった議論を繰り返すつもりのない彼女はその間違った結論を実行した。散々悩んだ後に導き出せた答えに高揚していたのかもしれない。
久しぶりに食堂で、一家というには離れ離れである彼女らは一緒に夕餉を食べた。
中盤、公爵が最近調子が悪いと聞くがどうしたと尋ねると彼女は微笑んだ。何がおかしかったのかくすくすと笑いながらその質問に答えた。
「ええ、もう大丈夫よ」
全てをやり切ったとでもいうかのようなその表情は、ゾッとするような美しさだった。
寝室に戻った後、彼女は自身の胸をナイフで刺した。自殺である。
母の死を知らされて、いや自分で知ってしまったアイリスは至って冷静だった。
彼女はそれを今まであまり関わってこなかったからだと考えたが、恐らく嫌な予感がして舵を取る方向を変えたのだろう。瞬きにも満たない時間で、彼女は酷く恐ろしいものが自分の横にいるような気がした。怖いもの、例えば暗闇や吠える犬がいれば目をつむるのと同じ反応である。
時間が経って変色した赤に染まりながら自分の母親は穏やかな笑顔で息を引き取っていた。王妃様の伝言を聞いた時よりも、優しく、安心した子供が泣くような表情を彼女は浮かべていた。
愛人の存在を知った人間とはとても思えないような顔だった。
一応、弁明するとすれば夫人は疲れていたのだ。
今まで弱音らしき弱音を吐いたことがなく、降り積もり凝り固まったその疲れは知らず知らずの内に彼女の思考を蝕んでいった。じわじわと侵食される彼女にはまだいくばくかの余裕があったが、夫の愛人の存在を知った瞬間、残っていた空間が全て燃え尽きた。
恐怖と失望が一緒くたにされた感情は絶望と呼ばれるものだ。
何もなかったと言われれば否定できなくとも、彼女の心を優しく守っていた壁が一瞬にして消えたのである。見たくもない景色に何を感じたのだろうか。特筆すべきとはなにもない、真実、事実、現実として日常にありふれるそれらはどう見えたのだろうか。残念ながらそれを知る人物は既に亡くなっているので、謎のままとなる。
唯一、知ることができるとすれば彼女とよく似たアイリスかもしれない。
彼女はそれを見たとき果たしてどう考えるのか。全てのピースが嵌ったような感覚を覚えた後、生きていくのか死を選ぶのか。それとも、見なかった振りをするのか。
分かるのはきっと先だ。