壊れる音が聞こえた
夫人はお茶会がない日は大抵屋敷で本を読んでいるが、何もずっとというわけではない。新しい本を求めて、街に降りることがある。
街の賑やかな喧噪は彼女にとって好ましかった。馬車の窓にかかっているカーテンの隙間から見える人々の顔はどれも笑顔に満ち溢れており、夫人はそれを眩しく思った。
人に愛され、人を愛する姿がそこにあった。
「公爵邸へ」
目当ての本を手に入れた夫人は御者にそう短く告げて、馬車に乗り込んだ。今日買ったのは続き物の最新巻と目に付いた面白そうな本である。まるで宝物かのように夫人はその本を大事に抱えた。
公爵家の図書室は他の公爵家と比べても蔵書数が多い。それは公爵夫妻が読書家であることと、夫人がこうして気に入った本を並べているからである。それゆえ、国土や経済の本ばかりでなく、恋愛小説といったものまで幅広く置いてあった。
ちなみに、アイリスは自身の母親が選んだ本とは知らずに読んでいる。夫人も買った本が多すぎて全部覚えているわけではないので、アイリスが持っている本を見ても何とも思っていない。
同じような本の趣味を持つ、似た母娘である。
馬車は少し狭い路地を揺られながら進んで行く。
この辺りは商業区が近く、建物が入り組んだ構造をしていて、馬車はゆっくりとした速度を出している。行き交う人の顔も見れるぐらいだ。
夫人はその光景をいつものように眺めていた。
一度も訪れたことはないが、可愛らしい小物を扱っている店を通り過ぎようとした時だった。
カラン、と店の扉が開く音がした。
その音につられて視線を店から出てきた客に移したとき、彼女は目を見開いた。
旦那様がいた。
朗らかに笑う女性と満面の笑みを浮かべる幼い子供を連れて、優し気に笑っていた。
落とされているとはいえ、馬車の速度は人が歩くよりも速い。ほんの数秒にも満たない時間であったが、彼女には永遠にも似た時間に感じられた。
馬車の窓はカーテンでほとんど遮られており、旦那様がこちらに気付いた様子はない。
一瞬だった。その一瞬で十分であった。
かつて友人と共に語った理想の家族がそこにいた。
「奥様、着きましたよ」
御者の言葉にハッと気付いた。いつの間にか公爵邸に着いていたらしい。
ずっしりと重くなった荷物を持って、自室へ向かった。
机に適当に本を置き、状況を整理しようと腰掛ける。
一度大きく息を吸って、あの光景を思い出してみた。額に当てた手がかたかたと震えており、そんなに衝撃的だったのかと自分でも驚いた。
自分の夫に愛人がいるのは知っていた。それに対して不満などはなかった。
誰かを愛するというならご自由にどうぞと思っていた。元々政略結婚だったことから、相手が乗り気でないのは気付いていた。自分も意欲的ではなかったし、それならお互い気にせず丁度いいかぐらいに考えていたのである。だから、愛人の一人や二人作ろうがよかった。だが、実際に見てみると予想していたよりも衝撃的であった。
傷ついたわけではない。旦那様のことを愛していたのにとかそんなことはない。裏切られたとか軽蔑するとかそういうことでもない。
私の方が愛人だったのではないのかと錯覚したのである。
メイドに入れさせたハーブティーを一口飲み、少し落ち着いた頭で考える。
夫婦とは本来、愛し合う者同士がつくる関係だと思っている。
やがてその夫婦の間に子供が出来、夫婦から家族へと名前を変えて幸せな日々を送るのだ。あくまで自分の理想であり、他人の意見や現実など知らないがそうなのだろう。その日常に愛人という存在は不必要であり、むしろ邪魔になりえる。
愛人だけならそこまで驚かなかったかもしれない。しかし、二人の間には愛されて育っている子供がいた。未亡人かという考えもよぎったが、それにしてはあの人に似過ぎている。歳はアイリスよりも下ぐらい。
愛人との間に子供を作ったことは悲しくない。
その子供を愛することも不快には感じなかった。
ただ、自分が昔夢見た家庭を壊そうとする存在であったことが酷く虚しかったのだ。