プロローグ
お母様が死んだ。
その日は、休日で家庭教師が来ない日だった。マナーの勉強の時間になっても来る様子がないお母様を不審に思い、私は彼女の部屋を訪ねた。
「お母様、アイリスです」
部屋をノックしても返事がない。いつもなら、忙しいと言って用件も聞かずに断る彼女にしては珍しいことだと思った。
どうしたのだろう、風邪でも引いたのだろうか。
彼女は元々体が弱いから不思議なことではない。だけど、なんだか嫌な予感がした。
「お母様?」
普段なら許可もなく扉をあけない私が扉をあけたのだ。余程焦っていたのだろう。
脈が速くなり、心臓の音がうるさいくらいに頭に響く。
この扉をあけてはいけない。頭の片隅で小さな声が聞こえた。
だが、その声は無視した。確かめなければいけない、と。
「あの、お母さ・・・」
扉をゆっくりとあける。
外の光が中に差し込んでいて、公爵夫人の寝室は美しく輝く。
部屋の奥にある彼女のベッド。
白いはずのシーツは赤黒く染まり、この部屋の主がいつ頃亡くなったのかを物語っている。
近づいてはいけない。誰か人を呼ばなきゃ。また小さな声が聞こえた。
しかし、私の体は吸い寄せられるように彼女のベッドに近づいた。
シーツを染めたのは彼女の血。
胸に刺さっているのは銀色のナイフ。
部屋の主は手を組み、亡くなっていた。
彼女の娘であるアイリスは、それをただ静かに見ていた。
では、ここで舞台裏の話をするとしよう。
公爵夫人の突然の死。死因は、病気の急激な悪化と公表された。
だが、それだと夫人の娘が見た銀の刃物はなんだったのかという話になる。
見間違いか? いや違う。 他殺か? それも違う。
正解は、自殺。
未知の病でもなく、敵対派閥の暗殺者でもなく、彼女は自分自身で命を絶ったのだ。
なぜか。
遺書はなく、前日の夕餉に会ったときもいたって自然だった。それらしき予兆は、誰も感じなかった。
つまり、謎なのである。しかし、公爵家の当主はそれをさして気にしなかった。怒りも悲しみも困惑も、そして喜びも。彼は何も感じなかった。あえて言うとすれば、今まできちんとはまっていなかったパズルのピースがようやくあるべき場所へ収まったような、そんな納得に似た何かを感じただけだった。
この不思議な感覚は、屋敷の全ての人間が感じ、誰一人として謎を解こうとすらしなかった。
それは、彼女の娘とて例外ではない。
母親の死を見ても動揺しない娘は、周りからその実情を知られれば、可哀そうと言われるだろう。
よくある日常を過ごしてきたものは、その過去を基準に哀れむ。そして、もし自分だったらと考えたときに誰かに助けを求めようとする。
だが、渦中の少女はそのやり方を知らない。頼れる人が分からない。
信じれば相手が苦しみ、独りでいれば訳の分からぬ衝動に駆られ、全てがぐちゃぐちゃになる。
これは、人を信じきれない少女の日々。
立ち上がれども、戦いはしない。
意思は持てども、歯向かわない。
夢を見れども、ただ見るだけ。
生存できると幼い日に悟ったあの日から、彼女はひたすらに自分を守り続ける。