一章 転校生と犬と秘密
0.
どういう因果か、転校生――七柄荒人は美華の隣の席にされた。当然のことながら理由を問う。それに対し、担任の先生は「五十音順でそこになるから」らしい。
わざわざ隣の席の男子をずらしてまでする事かと、美華は内心一人不満を漏らしていた。
そして、そんな美華に追い打ちをかけるかのように担任から告げられる。
「七柄君はまだ教科書を持ってない。だから、空良音さん見せてあげなさい」
「え……あ、はい……」
戸惑うように返事をすると、荒人の方から視線を感じた。美華は恐る恐るその方へと視線を向けると、ジトッとし隣人の目が向けられていた。何か言いたげだ。
「えっと……な、何?」
意を決して訪ねてみる。
「すまんな。嫌ならいいぞ」
ただ一言そう告げられた。
その淡白な物言いに、美華はため息を一つついてみせた。
「あのねぇ、そんな事したら怒られるの私なんだけど?」
「そうか、じゃあよろしく頼む。如何せんこっちでの生活が慣れん。迷惑をかけるな」
(な、何こいつ。変なの。……私がほしい変化はこういうのじゃないんだけどなぁ……)
口調、というより雰囲気が中学生らしくないことに違和感を覚える。見た目というわけではない。言葉の雰囲気等が、だ。
考え事をしていると、いつの間にか荒人は机に伏せていた。先生が連絡事項を説明しているときに堂々と寝る様はある意味凄い。
「気をつけ!」
日直から声がかかった。この掛け声に、クラス一同が形式上の姿勢をとった。一人を除いては……。
お隣さんが机に突っ伏している。
「ちょっと」
これには美華が肘で小突く形でサインを送る。ノソリと頭を起こして眠そうな顔をしている荒人は、「なんだ?」と言いたげだ。
「姿勢!」
小声でそう告げると、荒人はググッと伸びをする。その様は前足と背中を伸ばして欠伸をする犬のように見える。
「ん?」
「『ん?』じゃないわよ! 姿勢正して!」
「なんかよくわからんが、同じようにすればいいのか?」
そう言うと仕方なしに背を伸ばす。その様子を確認して、日直の生徒が「礼!」と声掛けをした。一斉に頭を下げる行為を見て、ワンテンポ遅れるように荒人も頭を下げた。
(つ、疲れるなぁ……)
美華はHRが終わると同時にドッと机に額をつけた。
1.
転校生という事もあり、七柄荒人の人気はすごいものがあった。特に女子の間では……。
質問攻めにあう彼の様子はというと、非常に面倒くさそうだが、感情を表す様子もなく淡々と答えているようだ。
その様子を頬杖をついて横から眺めていた美華は、「大変だなぁ」と他人事のようだ。そんな美華に、荒人は救いを求めるような視線をチラチラと投げかけていた。
(な、なんで私に……)
この状況で止めに入れば変に詮索される。ただでさえ荒人は美華に対して何かと視線を投げかけたりとこの短時間で接触が多い。男子なら茶化される程度で終わるだろうが、女子はそうもいかない。
中学生の異性事情はシビアだ。
とうぜん、いかに美華であろうとそんなことは御免こうむる。かわいそうではあるが、それとなくうつ伏せになって寝たふりをしてやり過ごす。
「……すまんが、保健室」
美華からの援護は無いと悟ったのか、荒人は立ち上がってその場から逃げ出した。ただ、そんな彼を簡単に逃がしてなるものかと数名の女子生徒が保健室へと案内しようとしていた。
「いい」
淡白な答えをし、彼は教室を後にした。
「かわいそうなことしちゃったかな?」
廊下を歩く転校生を見つめ、美華は罪悪感に駆られた。
――
人を見た目で判断するのはあまり良くないことではある。しかし、案の定。案の定七柄荒人は勉強は苦手のようだった。
三時間目。ついにその時がやってきた。
「電圧を求める公式はV(電圧)=I(電流)×R(抵抗)だ」
公式を見ていたら頭が痛くなる。そんな思いを抱きつつ板書をする美華は、そっと荒人を確認する。表情はそのままに、完全にフリーズしている。
偶然なのだろうが、理科の教師が「七柄君」と名指しした。眼鏡をクイッと上げた男性教師は「3Aの電流と5Ωの抵抗の時の電圧は?」と問いを投げかけた。
荒人からの反応は、無い。パソコンで言うところのローディング状態で止まっている状態だ。
「七柄君?」
見かねて美華が声をかけた。
「な、なんだ?」
ようやく反応をみせた荒人に、美華はちょいちょいと理科の先生にあてられている事を伝えた。目だけを教卓へと向け、彼は鋭い目つきそのままに教員を視認する。
恐らくこの眼は彼の素のものなのだろうが、それにしても鋭すぎる。
「なんか用か?」
高圧的な態度で聞きかえしている。これには「マジか」といった具合でクラスの空気が張り詰まった。
「七柄君。その態度は問題じゃないかね?」
至極当然の注意だ。先生は眉をピクピクと痙攣させて眼鏡の奥から厳しい視線が向けられていた。
「ふむ。これはダメなのか。すまないな、まだ慣れてないんだ。許してくれ。で、俺に何が聞きたい?」
ピクピクと目元が敬礼しているのが眼鏡越しにわかる。当事者でない美華もこれには危機感を覚えた。
「電圧を求めるように言ってるんだよ。わかるでしょう?」
「電圧? あの奇妙な模様のことを言っているのか?」
公式を指さし美華に尋ねる荒人は真顔で尋ねている。ふざけているようには見えない。
「すまん。どうすればいい?」
「えぇ……? えっと……電流と抵抗をかけるんだから3×5で答え15ボルトだよ。ちょっと大丈夫なの?」
さすがに心配になり一言添える。
「わからん。しかし、助かった。感謝する」
礼を口にし、荒人が悪びれもせず問われたことに対しての答えを口にする。正解なのだが、教師の怒りは収まらないようで――。
「七柄君、後で職員室に来るように!」
怒りをかみ殺すように男性教師の声が教室に鳴り響いた。
教室内では笑いをかみ殺すようにクスクスと笑う者もいれば、呆気にとられている者もいた。そして、美華はというと――。
ただただ、怒られているのに眠りにつきそうなほど退屈そうにしている荒人の横顔をみて嘆息していた。
「バカなのか、大物なのか……」
――
こってり絞られたはずの荒人だが、ノーダメージといった具合に戻ってきた。その他の科目同様に心ここに非ずというか、わからないために固まっているのか最中ではない。
ただ、その度に美華がフォローしなければならなかったという事だ。
「ふむ。迷惑かけてすまないな」
せめてもの救いは、この一言があるからだろうか。顔は無表情に近いが、その声色から申し訳なさそうにしているのはわかる。
そして、そんな美華に安息の時間が訪れた。本日最後の授業――体育の時間だ。
男女にわかれるためようやく解放される。更衣室に移動した美華は嘆息を一つついてみせた。
「どうしたの?」
「いや、七柄君のお守りに疲れてね。たぶん、悪い人じゃないんだろう――」
「私が変わってあげようか!」
複数の女子が名乗りを上げ始めた。これには美華も体をのけ反らせて「えぇ……」と引いた。
「人事だからそんなこと言えるんだよ……」
恨めしそうな顔でクラスメイトに視線を送った美華は、口を尖らせ上着をロッカーへと入れた。その様子を見ていたクラスメイトの女子がプッと噴きだしてきた。何事かと目を向けると茶化すような視線を向けてきていた。
「そんなに思いつめた顔をしていると、いつまでたっても大きくならないわよ」
そう言って自分の胸を強調するかのようにジェスチャーを取ってきた。
美華はカッと目を吊り上げ口を尖らせた。
「うるさい! 私はまだ発展途上なの! それに、大きければいいってもんじゃないでしょう?」
「それが大人になった時にも言えればいいわね」
「クッ……もげてしまえ!」
――
体育館で男女に分かれての授業。
男子はバレーボール。女子はバスケットボールだ。美華は友人数名と組んで、パスの練習をしていた。ほとんどの生徒は練習と称して遊んでいるのが現状で、教師が様子を見に来た時だけ真面目にパスの練習をしていた。
「美華、見て見て」
促されるままに視線を向けると、男子のバレー風景だった。スパイクの練習をしているのか、教師が投げた球を打つ練習をしている。
ピッ! と、鋭い笛の音と共に男子が一人スパイクを撃ちこむ。しばらくその様子を眺める美華。大体がネットギリギリをフワッとした球が飛んでいるだけだった。
「七柄君の番よ」
相も変わらず眠たそうに、立っている。笛の音と共にボールが挙げられると、荒人はノソノソと助走をつけ始めて一気に急加速した。
そのスピードは一瞬で最高速に入ったかのようで、ジャンプすればまだ昇っているボールに追い付いていた。
遠目でよくわからないが、あの眠たそうな顔がその時だけは獲物を追う獣のように見えた。
ズパァン! という快音と共に叩きつけられる白球。その光景に、一同は静まり返った。
「すごい……」
ややあって、一同が同じように口にした。中学生の身体能力の比じゃない。
静まり返ったその状況に、荒人は何かを察したのか「しまった」と顔をしかめていた。
女子の間でも盛り上がりを見せ、さきほどのスパイクの件で話は持ちきりだ。さすがの美華も荒人の身体能力の高さに今までの授業でのことを忘れて見直したといった感じだ。
「すげぇな!」
男子生徒が駆け寄ってきている。盛り上がる体育館だが、教師の笛と共に終わりを迎える。
「ほら、練習に戻る!」
授業が再開される。男子組の方は、荒人を中心とした輪ができあがりまだ盛り上がりの熱は冷めてないようだった。
「美華、行くよ!」
同じ組の子に促され、美華はパスを受け取った。ドリブルシュートの練習に入る。二人一組となり、パートナーの生徒がドリブルしつつ並走する。
そんな中、美華の視線の先に荒人の姿が映った。
「え?」
荒人と視線が合った。ような気がした。慌てて視線を逸らす美華だが――。
「美華!」
気付いた時には目の前にボールが迫ってきていた。
「っ……!」
咄嗟に頭を守ろうと反応するも、それが悪かったのか頬にボールが直撃した。
よほどいい角度で入ったのか、そのまま視界が暗転する。美華はその場で倒れ込んだ。
「どけ! 邪魔だ!」
その時女子の声ではなく、一目散に聞こえたのは男子の声だった。
2.
「まったく、無茶してくれるわね」
気付けば、白い布団の中にいた。そして、この声には聴き覚えがある。保健室の識星蓮理だ。誰かと会話している。
美華はそっと聞き耳を立ててみた。
「仕方ないだろう」
「仕方ないじゃないわよ……。あなたは――」
「あー。わかったわかった。うるさいぞ」
「あんたの事を思って言っているのよ? あんたの素性がバレた場合、こっちの世界にはいられなくなる可能性もあるのよ?」
(何の話? それにこの声……七柄君? だよね?)
蓮理の声色から事の重大さだけは伝わってくる。しかし、何の話をしているのか理解が追い付かない。
「ちゃんと聞きなさい! “狼天”!」
その名前に、美華は耳を疑った。狼天は蓮理が連れている犬の名前だ。初めは名前の言い間違いかと思った。しかし、蓮理はすぐに名を修正する気配もなかった。
狼天という名前。そんな人の名前はこの学校では聞いたこともない。
「うるせぇ狸だ。今後気を付けるからもういいだろう?」
「本当に大丈夫なの? あの子は“おくぅ”としての記憶がない。下手すれば、嫌われて終わりよ? もう少し――」
何かに気づいたのか、蓮理かもう一人のどちらかがベッドを仕切っているカーテンを開けた。そのあけ方には危機感を覚えるほど鋭いあけ方だった。
布団をかぶるように聞き耳を立てていたのが功を奏したのか、起きていることは気付かれなかった。しかし、この時カーテンを開けたのが誰なのか、考えると背筋が凍るような感覚を味わった。
なにか隠している。
美華は目を閉じて何事もないことをひたすらに祈った。
(お願い――)
ややあって、ゆっくりとカーテンが閉じられた。美華は安堵のため息をついて額から噴き出ている汗をそっと拭った。
「とにかく、あまり目立つようなことはしないように。昔馴染みとして、あなたの希望は叶えてあげたいんだから……」
その言葉を聞き、狼天と言われた人物が歩きはじめた。ゆっくりと扉を開けられた。
「善処はする。じゃぁな」
狼天と言われた男が出て行ったのを確認したのか、椅子に座る音がした。
「もう……。本当にあの子のことになると冷静さを欠くんだから……」
(あの子って誰の事? ……私、じゃないよね?)
美華は目を閉じた。その瞼の裏に狼天と荒人を並べた。
(あり得ない……。だって、犬と人間だよ?)
美華は何が起きているのか理解できないと体を強張らせた。それと同時に緊張の疲れからかドッと睡魔が襲ってきた。
そのまま眠りの世界に落ちていく中で、なぜか荒人が大人の男性の後ろ姿と重なった。
――
「空良音さん。大丈夫?」
体を優しく揺さぶられ、美華はゆっくりと意識を覚醒させた。目をゆっくりとあけると、そこには保険の先生である識星蓮理の姿があった。
母親のような優しい笑顔を見せた蓮狸は「大丈夫?」とまず気づかってくれた。そして、意識の覚醒と共に徐々に眠る前のやり取りが脳内で再生された。
(さっきの会話の事……聞いた方がいいのかな?)
そんな思いを抱き、本件の先生を見つめる美華の視界に時計が写り込んだ。
すでに帰りのSHRを行っている時間だ。
「うわ……」
慌ててベッドから出る美華。しかし、少し立ちくらみがしてしゃがみ込んでしまう。
「あぁ~。だめよ。脳震盪で倒れたんだからそんな急に動いたら……」
蓮理に支えられ、美華はゆっくりと立ち上がる。
「えっと、私って――」
記憶を手繰り寄せる。ボールが目の前に迫ってきて頬にあたったことまでは思い出せた。
「七柄君が運んできたのよ。お姫様抱っこで」
「え?」
しばらく思考が止まる。ややあってから脳内再生されたのは、目を回している自分を、あの仏頂面の男子がお姫様抱っこで歩く姿だ。
ボン! と効果音がつきそうなほど、一気に顔が赤くなる。
「今日はよく保健室に来ていたから覚えているわ。あの子の顔……」
荒人は時間時間の間にクラスメイトを避けるかのようにいなくなっていた。どこに行っているのか疑問だったが、ここにいたのかと美華は納得した。
そんな美華をしている美華をよそに、蓮理は笑いをこらえるように体を上下に揺らせた。
「どうしたんですか?」
「いえ、あなたを連れてきた時、この世の終わりみたいな顔していたから――」
「え……」
痛い思いはしたが、それはそれで見てみたかったと真剣な顔になる美華は、勝手に青ざめた顔の荒人を想像した。
「お礼、言わないと……」
「えぇ、大丈夫な姿を見せてあげなさい。多分、喜ぶわよ」
「七柄君、無表情だからちょっと想像つかないなぁ」
そう言い、ゆっくりと歩きはじめる美華は、蓮理から預かっておいた制服を預かった。その後、保健室を出る時にペコリと頭を下げた。
「ありがとうございました」
「えぇ……お大事に」
そう伝えると、蓮狸は微笑んで手を振っていた。
「生まれ変わり……か。環境が変われば、こうも変わるものなのね……。あの子も、今頃はどこかで幸せになっているのかしら?」
美華を見送った後、蓮理は誰にも気づかれないように、ただ一人呟いた。
3.
「美華、大丈夫なの?」
教室に戻った時、クラスメイトから口々に尋ねられた。「大丈夫、大丈夫」と力こぶを作るようなそぶりを見せる美華は笑顔で応える。それに安堵したのか、ボールをぶつけてしまったクラスメイトがヒシッと抱き着いてきた。
「よかった……死んじゃうかと思ったよ……」
「あれくらいじゃ死なないよ。プロ野球選手もビックリの剛速球ならわかんないけどさ」
冗談交じりに答え、ウインクした美華は、自席の隣にいる荒人に視点を合わせた。席につき、どう切り出そうかと言葉を探す。とりあえずストレートに気持ちを伝えようと口を開いた時――。
「無事でよかった」
かわらず無表情そのままに伝えられる。眉一つ動かない彼のその言動に、美華は対照的に笑顔を向ける。
「ありがとう。保健室に連れてってくれたみたいで」
「今日は助けられたからそれくらいはする」
感情が無いのかというくらい表情が顔に出ない。こんな人は初めてだったがなぜだろうか。この時の荒人はすごくうれしそうに見えた。
――
――放課後。
着替えを終えた美華は教室で一人ボウッとグラウンドを眺めていた。グラウンドを左右に分け右手側に野球部。反対側にサッカー部が展開している。
次にある大会に向け、彼らは汗を流し青春を謳歌している。体育館からも声が聞こえてくる。バレー部が試合方式で練習をしているのか、時折ボールを叩きつけるような声と、生徒の掛け声が聞こえてくる。
フワリと風が吹いた。頬を撫でる風はなぜか切なくて、思わずため息をつきたくなるほどだ。
――ちゃんと聞きなさい! 狼天!
保健室での一幕が思い浮かんだ。蓮理と、荒人であろう声の主との会話だ。
「あれ、なんだったんだろう?」
本人に確認をしてみたい一方で、蓮狸が口にした言葉も思い出される。
――素性がバレた場合、この世界にはいられなくなるのよ?
「あれは、どういう意味なんだろう? この世界って何? どういうこと?」
そんなことを考えていると、無表情で愛想のない彼の顔が浮かんできた。
「悪い人じゃないんだろうけど……」
考えれば考えるほど気になってくる。その好奇心が膨れ上がり、美華は歩きはじめていた。
(どこにいるんだろう、七柄君?)
――
学校中を走り回り、美華は保健室へとたどり着いた。一年生から三年生の教室、技術室や音楽室などの教室も回った。そして、たどり着いたのがここだった。
「七柄君!」
保健室の扉を力強く開けると、目的の人が報告書らしきものを書いていた。彼女は美華の存在に気づき、眼鏡をクイッと上げ目を丸くしていた。
「ど、どうしたの?」
「いないか……」
美華は一通り保健室内を見渡し、蓮理へと目を向けた。
「先生。七柄君の居場所とか、わからないですよね?」
「七柄君の? ……さぁ、わからないわね。でも、人気のない所にでもいるんじゃないかしら。彼、さっき部活の勧誘で面倒臭そうにしてたから」
今日の体育の授業での出来事を思い返し、納得する美華は人気のない場所を模索し始める。
放課後、人がいなさそうな場所といえば屋上くらいだ。
「何かあったのかしら?」
屋上へと向かおうと踵を返した時、蓮理に呼び止められた。振り返ると、彼女は妖艶な笑みを浮かべ椅子にもたれて見つめていた。
「い、いえ……その、ちゃんとしたお礼をまだ言ってないので……」
ゾクリと悪寒が背を撫でた。すべてを見透かされるような瞳だ。その目に、美華の心の中に警戒心が生まれる。
「そう。それじゃぁ早く行ってあげなさい」
「は、はい。それじゃぁ、失礼します」
逃げるように走り去る美華。全速力で屋上へと駆けて行った。
保健室からノンストップで階段を駆け上り、美華は扉を蹴破るように飛び出した。
息継ぎをしなかったかのように、肩で息をする彼女は膝に手をつきしばらく小刻みに呼吸を繰り返した。そして、約一分の後にようやく落ち着きを取り戻したのか、大きく空気を吸い込むと、続けて息を吐いた。
「なんか、こわかったなぁ、識星先生」
振り返り、誰かつけてないかを確認する。誰も来てないことを確認した美華は、ゆっくりと扉を閉め、屋上を静かに見渡した。
誰もいない空間。流れる雲が心地よい風を美華へともたらした。
「ここにもいないかぁ。もう帰ったのかな?」
後頭部を掻き、落胆の表情を見せると、美華は諦めて帰ろうとした。その直後、背後に高所から着地するような音がした。
驚きつつ振り返ると、目の前には探し人が眠そうな顔をして立っていた。
「きゃぁ!」
思わず声を上げて尻餅をつく美華だが、相手は驚く様子もなく「何を一人芝居している?」と物言いたげだ。
「誰か探しているのか?」
そう尋ねる荒人は獣の耳のような寝癖に手を添えた。手を当ててはいるが、特に直そうとしているわけではないようだ。
そして、かれの首には白い奇妙な形のモノがぶら下がったネックレスがかけられていた。
「えっと、七柄君を探していたの……その、もうちょっとちゃんとしたお礼が言いたかったから」
そう言い、美華は経ちあがてスカートを軽く叩いた。
「ありがとう。私、七柄君の事ちょっと変な奴だって思ってて……」
「俺は、変だったのか? ふむ……」
表情そのままに腕を組み、荒人は悩んでいるそぶりを見せた。相も変わらず表情はそのままであるが……。
「まぁ、いい。例の件に関しては礼など不要だ。俺が好きでやった事だからな」
美華はその一言に恥ずかしさを覚えて口をへの字に噤んで頬を赤くした。こうも恥ずかしいセリフを無表情で言えるあたり天然なのだろう。
「えっと。あと、私……七柄君に聞きたいことがあって……」
いよいよ本題だ。誰もいないことをもう一度確認し、七柄荒人に向き直る。
「私、識星先生と七柄君? が話しているの聞いたの」
そう切り出すと、荒人は一瞬「識星?」と眉に力を入れた。しかし、それが誰か判明したのか「あぁ」と一人納得したようだ。
「なんの話だ?」
「その……識星先生が。七柄君を、“狼天”って……呼んだの……」
初めて彼の表情が大きく動いた。目を見開き、つばを飲み込んでいるようだった。心無しか、大きな寝癖が動いたようにも見えた。
荒人はしばらく回答を探す様に目を泳がせていた。その反応に、何かあると悟った美華はただ静かに相手の反応を待った。
「そう、か……聞いたのか……」
ゆっくりと歩きはじめた荒人は、金網にもたれかかり腕を組んだ。天を仰ぎ、一つ深呼吸をした。
「で、お前はどう思っているんだ?」
逆に聞きかえされ、美華は言葉を詰まらせた。『どう思っているんだ?』とはどういう意味なのかを考え、今自分にあり得る語呂を詮索する。
「私が知っている狼天は、識星先生が連れている犬で……。私に懐いてて……。だって、狼天なんて名前の人聞いたことないし、ましてや犬と一緒の名前……。でも、七柄君は人間――」
「じゃないとしたら?」
言葉を遮り、だたそう口にした。荒人は微動だにせず、静かに美華を見つめている。
「俺が人間じゃなかったとしたら? 化け物で、お前に会いに行っていたとしたら?」
そういうと、証拠と言わんばかりに荒人は本性を表す。寝癖だった髪の毛は耳になり、制服の上着を脱いで背中を見せると、腰にフサフサの尻尾が生えていた。しかし、すぐに人間にもどる。
絶句。
言葉を発することができず、美華はキュッと握り拳を作った。
「怖いだろう? 悪かったな、怖がらせて。お前に素性がバレた以上、俺はここにはいられない」
そういい、荒人は歩きはじめた。
そんな彼の姿を目で追う美華は、荒人と初めて会った日の事を思い出した。跳んできた白球を受け止め守ってくれた時の事を、だ。
「ま、待って!」
美華が呼び止めると、荒人は足を止め振り返った。
「聞きたいことがあるの」
その問いかけに、荒人はしばらく無言で立ち尽くした。そして、ややあってから、ただ一言「なんだ?」と返す。
「七柄君の目的は後で聞くけど、どうして嘘つかなかったの? 私の問いに、シラをきればよかっただけなのに」
問いかけに荒人は視線を逸らせた。どう伝えればいいのかわからない。というより躊躇っているようだった。
そんな荒人に、美華はただじっと答えを待った。
「そうだな。お前には嘘をつきたくなかった。それだけだ」
真剣かつ恥ずかしそうに答えてきた。その顔は羞恥に溢れ、唇を震わせていた。
美華も顔を赤くする。よくもそんな歯が浮くようなことを真っ直ぐ言えるものだと感心する。
「目的はなんなの? 自惚れたくはないけど……私なの?」
「そうだ」
即答してきたことに、美華の心臓は一気に鼓動を速めた。胸に手を当てなくともその鼓動がわかるほどだ。
「どうして? 私、どこにでもいる普通の女の子だよ? 特殊な力があるわけじゃないし、凄い家系ってわけでも――」
「そうだな。お前はどこにでもいる普通の女だ。だが、俺にとっては特別な女だ」
この一言に、思わず鼻血が出そうになった。
こんなセリフ、超甘ったるいラブコメ漫画でしか聞いたことがない。嬉しさではなく、ただ恥ずかしさから笑いが込み上げてきた。それを抑えようと口を押える。
「なにかおかしいこと言ったか?」
荒人は恥ずかしそうにしているが、真面目のようだ。視線を逸らし、彼は「だが……」と口にした。
「俺はお前の前から消える。荒人としても、狼天としても……」
「あ、ちょ、待って!」
そう行って去ろうとする荒人に、美華は声をかけた。
足を止めた荒人が美華を見つめる。気丈を装っているが、愁いのある雰囲気は隠せない。
「えっと、別に悪さしに来たわけじゃないんでしょ? 私を食べに来た……とか……」
そのワードに荒人の眉がピクリと反応した。
「俺は人は喰えない。それに、たとえ人を喰うとしても、お前だけは喰わない」
どうしてこうも臭いセリフが言えるのか。
美華はただただ赤面だ。
「……ねぇ」
顔色を窺うように美華が声をかける。荒人からの反応は無い。
「悪さする気がないならここにいてもいいんじゃないかな?」
「なに?」
「いや、だって……」
美華は荒戸に近付く。思いもよらない反応だったのか、体をのけ反り相手は後退した。
「だって、この事知っているの。私たちだけでしょ? バレなきゃいてもいいんだよね?」
単純だが、この大胆不敵な提案に、荒人は目を丸くして呆然としている。初めて表情の変化が見れたことに、美華も新鮮な感じだった。
「あと、七柄君は――」
「狼天だ。俺の本名は七之柄荒現狼天だ。お前には、そう呼んでほしい。それより、いいのか? 俺は人間じゃないんだぞ?」
荒人――いや、狼天は解せないといった具合で、喜んでいいのか困っているようだった。
「いいよ。悪いことしないなら。それに私、犬の時の狼天好きだし」
満面の笑みを浮かべ、美華がそう告げる。狼天は「そうか……」と僅かではあるが口角を上げていた。
4.
「――――!」
連理は一人保健室で悶えていた。その耳にはほら貝のようなものが握られており、それを自らの耳にあてていた。
「甘い! 甘すぎる! 甘すぎて砂糖吐きそう!」
蓮理はそういうともう一度机に伏せて足をバタつかせた。
「いやぁ、しかし美華ちゃんもやるわね。丸くなったとはいえ、あの狼天を――」
落ち着かせるために深呼吸を一回。蓮理はほら貝を机の上に置くと頬杖をついて窓から外を眺めた。番らしき一組の鳥が横切った。その光景に口角を緩める蓮理だったが、静かに目を閉じた。
「さて、どうなるか。狼天、美華ちゃん……頑張ってね」
本日の終わりを告げるかのように、チャイムが鳴り響いた。




