8 宣告の時
「ギル、随分と食べるのが遅いのね。珍しい」
「え?」
ギルは、はっとして自分のお皿に目を落としました。お皿にはまだ、半分も料理が残っていました。そういえば、ハルを見送ったあと、着替えて食事の席についたところから、記憶がありません。
「いつもなら家族の誰よりも早く食べておかわりするのにな。食欲がないのか?」
お父さんがからかうように笑いました。いつもなら怒って反論するところですが、今日のギルはそんな気にはなりませんでした。
「ううん……ちょっと考え事してたんだと思う」
ギルはナイフとフォークを握りしめたまま、窓の外に目をやりました。もうあと数十分もすれば日没でしょう。今頃、ハルとバートはどうしているのでしょうか。うまく話はついたのでしょうか。
そんなギルの様子に、お父さんは笑うのをやめて、心配そうな表情になりました。
「おい、本当にどうしたんだ? ぼーっとして」
「兄さんは今、どうしてるかな」
「うん?」
「バートも兄さんも、ちゃんと無事かなあ」
お父さんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてギルを見、そしてまた、大きな声で笑いはじめました。
「大丈夫さ。さっき無事についたという電話があっただろう。外国に行ったわけじゃなし、何を不安になることがあるんだ」
「わかってるさ。だけど……」
正直、ギル自身も、どうしてこんなに気が落ちつかないのかさっぱりわかりませんでした。ただ、さっきから、なんだか胸騒ぎがするのです。
「一晩中ハルと一緒だったから、寂しいの? 今日中には帰ってくるわよ」
お母さんが笑いながら自分のお皿を持って立ちあがりました。いつの間にか、両親は二人とも食事を終えていました。
「寂しい、のかな。自分でもなんだかよくわかんないや」
ギルは急いでお皿に載っていた肉片を口に押しこみました。あまりにも食べ終わるのが遅いと、テーブルの片付けをひとりでする羽目になってしまうからです。
そのときでした。ドオンという轟音が遠方から聞こえ、少し間を置いて床が大きく揺れました。
「やだ、何?」
「地震か? 少し様子を見てこよう。ふたりはここにいなさい」
お父さんはそう言い残すと、玄関から外へと行ってしまいました。
10分後、お父さんは青い顔をして帰ってきました。
「あら、おかえりなさい」
「父さん、どうだった?」
ギルが尋ねると、お父さんは腕を組んだまま、困ったように首をひねりました。
「それが、どうも奇妙で……ほら、町の西はずれに、隣町のコードルクへ行く道があるだろう。その道の途中から先が、森になってしまっているんだ」
「えっ?」
ギルが思わず聞きかえすと、お父さんはいよいよ頭を抱えて座りこんでしまいました。お母さんが慌ててお父さんの肩を支えてひっぱり起こしました。
「ちょっとあなた、大丈夫?」
「いや、全く、自分でも何を言っているのかさっぱりわからないんだが……とにかく、わけがわからん。噂じゃ、さっきの大きな音が鳴った瞬間に隣町一面が森になってしまったそうだ。おかげで町中から野次馬や新聞記者が押し寄せていて、町の西側は大騒ぎだ。一体何がどうなっているのやら」
お父さんは頭を振って立ちあがり、グラスを片手にふらふらと台所へ行き、水を汲んで一気に飲みほしました。
「コードルクって……アリーの家がある町の方だよな」
アリーやハルがいるあの町に、何かあったのでしょうか。ギルは反射的に、玄関の方へと駆けだしました。
「ギル、どこへ行くの!」
お母さんが慌てたように叫びましたが、ギルは止まりませんでした。
家を出て、いつもアリーの家へ行くときに通る道を走っていくと、いきなり凄まじい人混みに出くわしました。そのほとんどは町の人でしたが、その中に何人か大きなカメラやメモ帳を持った、新聞記者らしき人物も混じっていました。
それよりも驚いたのは、まるでその人々の行く手を阻むように立ちはだかっている、大量の巨木の存在でした。ギルの背丈の10倍はあるであろう太い木が、これでもかというくらい、道の石畳を突き破って、横一列にぼこぼこと、どこまでもどこまでも生えていました。さらに、木はその奥にも延々と生え続けており、その姿はまさしく森のようでした。
「何だよこれ……」
ギルが途方に暮れていると、どこかから女性が興奮気味にがなりたてる声が聞こえてきました。
「だから、あたしは見たんだっての! さっき、もんのすごい爆発と地震が起こっただろ? そのすぐ後に、地面からいきなり木がたくさん生えてきたんだよ。嘘じゃない、この目で見たんだから!」
どうやら女性は、新聞記者の取材に答えているようでした。さらに、別の方向からはこんな声が聞こえてきました。
「おい、じきに警察が来るってよ。これだけの大ごとなら、ひょっとしたら軍部も動くんじゃないかという噂だ。いずれこの場所は封鎖されるぞ。面倒ごとに巻きこまれる前に、逃げようや」
ギルは、黙ってこの突然現れた大木たちを見あげました。
この光景に、ギルは見覚えがありました。そう、アリーに案内されてから何度か訪れた、クロックへ続くあの森です。木の見た目こそ違えど、そっくりです。
この森の向こうには、アリーの家があります。そして、ハルとバートもそこにいます。さらにその向こうには、クロックへと続く森もあります。
「まさか、兄さんたちに何かあったんじゃ……」
ギルは咄嗟に人混みをかき分けて森へ近づくと、身を屈めて、そっと森の中へと入りました。
足元は、どこから運ばれてきたのか、大量の落ち葉で埋めつくされていました。さらに、目の前にはあちこちから生えた大木がのびており、もはや自分がどこにいるのかもよくわかりません。それでも、あたりをつけてまっすぐ進んでいくと、見覚えのある建物が見えてきました。
それは、いつも隣町へ行くときに目印にしている緑屋根の喫茶店でしたが、かつての美しい外観は消え失せ、壁や屋根にはコケが生え、壁の一部にはヒビが入り、玄関の扉の塗装ははげてボロボロでした。さらに、建物の真ん中からは屋根を突き破って、とてつもなく太い木がにょっきりと生えていました。ギルは窓からそっと中を覗いてみましたが、人がいる様子はありません。中の家具もひどく傷んでいて、まるで何十年も放置されていたかのようです。この光景にもまた、ギルは見覚えがありました。そう、ハルが家を飛びだした翌日、両親に連れられて帰宅した家の様子にそっくりなのです。
「大変だ、兄さん……!」
ギルは急いでアリーの家へ行こうとしましたが、あまりにも以前と光景が違うので、どっちへ行っていいのかよくわかりません。
「せめて、地図でもあればなあ」
このままがむしゃらに走って迷ってしまっては大変です。ギルは少し考えて、喫茶店の扉を押しあけました。扉はとんでもなく傷んでおり、聞くに耐えないひどい音がなりましたが、今はそれどころではありません。失礼を承知で片っ端から引き出しをあけて物色していると、偶然、方位磁針が引き出しの奥に入っていました。
「そういえば、アリーは方位磁針を持っていたっけ。俺もそうすればよかったなあ」
ギルはそう呟くと、方位磁針の針をあわせてみました。
「ええと、今来た方向が西のはずだから、ここで右に曲がると……こっちか」
この喫茶店を曲がれば、あとはほとんどまっすぐ進むだけです。ギルは、周囲にある変わり果てた建物と、これまでの記憶を結びつけつつ、アリーの家を目指すことにしました。
しかし、相変わらず、この森のどこにも人影はありませんでした。ギルはだんだん不安になってきました。普段なら、この辺りはたくさんの人が行き交う、にぎやかな場所だったはずです。それなのに、どうして人間がひとりも見当たらないのでしょう。
そのとき、どこからともなく、ガサガサという枯葉を踏む音がしました。ギルは、びっくりして立ちどまりました。
音は、だんだんとこちらに近づいてきているようです。息を殺して辺りを見回していると、不意にそばにあった木の陰から、誰かがでてきました。
「キャアア!」
「わっ!?」
相手はギルの姿を見て、相当驚いたようでした。ギルも、相手の悲鳴に驚いて、思わず声を出してしまいました。
「す、すみません」
「いいえ、私こそ……」
相手は若い女性のようでした。ギルはひとまず安心し、こう声をかけました。
「人がいてよかった。俺、この町の知り合いの家を目指してるんですけど、町に人が全然いなくて。一体、何があったんですか?」
すると、女性は怯えたようにその場にしゃがみこんでしまいました。
「わからないの」
「えっ?」
「目が覚めたら、こんな光景が広がっていたの。周りには誰もいなかったわ。だから、店の中を探していたら、旦那様と奥様が……」
突然泣きくずれた女性に、ギルはおろおろするほかありませんでした。
「なんかよくわからないけど、とりあえず立ってください。俺、急いでるんですよ。兄さんを探しているんです。ハロルド・ワイズっていうんですけど、知りませんか?」
すると、女性は泣くのを辞め、驚いたようにこちらを見あげました。
「あなたは、ハルと知り合いなの?」
突然、兄の名前を愛称で呼ばれたので、ギルはびっくりして固まってしまいました。
「え……はい。ええと、俺の兄です」
「『兄』? それじゃあ、あなたは、あの子の『弟』?」
「兄さんを知っているんですか?」
そのとき、女性の左手が、淡い緑色の光を放ちました。
「うっ……!」
女性は突然、左手首を押さえて呻きはじめました。ギルは仰天して女性に駆けよりました。女性は立っていられなくなったのか、苦悶に満ちた顔で地面に座りこんでしまいました。
「ど、どうしたんですか?」
ふと女性の左手を見ると、ぼんやりと、袖の下で何かが発光しているのがわかりました。ギルは咄嗟に、女性の左腕の袖をまくってみました。
「なんだよ、これ……」
そこには、不気味な緑色の光を放つ、腕輪のようなものがはめこまれていました。その腕輪の光はしばらく、強くなったり弱くなったりと、点滅を繰り返していましたが、やがて、少しずつ弱まり、とうとうただの汚い緑色の腕輪に戻ってしまいました。
「うう……」
腕輪の輝きが消えるのと同時に、女性の表情も少し和らぎました。女性は苦しみから解放されたのか、ぐったりと側の木にもたれかかったまま、動かなくなってしまいました。
「大丈夫ですか?」
女性は荒い呼吸を何度か繰り返すと、弱々しく自分の左手を持ちあげました。
「どうして時計が……何が起こっているのかしら……」
そしてゆっくりと身を起こし、困ったように立ちつくしているギルを見あげました。
「あなたの名前は?」
「ギルバート・ワイズっていいます」
女性は目を見開いてギルを見、そして困惑した表情で目を伏せました。
「そう……それじゃ、あなたがワイズさん[#ruby=家_ち#]の子なの……」
「俺の兄さんは、今、この町にいるはずなんです。だから探していて。お姉さんは、兄さんのことを知っているんですよね?」
ギルはそこまで言って、目の前にいる人物の名前を聞いていないことに気がつきました。
「ところで、お姉さんの名前を聞いてもいいですか?」
「レイチェル。私はレイチェル・ワトソン」
「レイチェル・ワトソンだって!?」
ギルは仰天しました。だって、ハルとバートが会いに行ったのは、外でもない「レイチェル・ワトソン」という人物だったからです。ギルは思わず大声でレイチェルに詰め寄りました。
「兄さんは、あんたに会うためにこの町へ来たはずだ。なあ、兄さんがどこにいるか知らないか?」
するとレイチェルは下を向き、声を震わせ、途切れ途切れに言いました。
「確かに会ったわ。会ったところまでは覚えてる。でも、そこから先の記憶がないの。いろんなことが同時に押しよせてきて、わけがわからなくなって、目の前が真っ暗になって……気がついたら建物が壊れていて、周囲には木が生えていて。私にも、何が起こっているのか、さっぱり……」
「時の掟は三度破られた。後継者は潰えた。時の魔法は消滅する」
低くしわがれた声が、レイチェルの方から聞こえました。しかし、レイチェル自身が焦った様子で周囲を見回しているところを見ると、彼女が喋っているわけではなさそうです。
「誰? 誰なの?」
すると、レイチェルの腕輪が再度輝き、すうっと誰かが抜けでてきました。ギルはその人物を見て、あっと声をあげました。
「フローじゃないか!」
出てきたのは、フローにそっくりな少女でした。しかし、その表情は氷のように冷たく、全身は緑色の光に包まれていました。フローらしき少女はギルには目もくれず、まっすぐにレイチェルを見下ろすと、先ほどの低い老人のような声で、淡々と告げました。
「私はクロック王国の時を司る精霊。これよりお前に審判を下す」
「精霊……? あなたは、フローではないの?」
「あれは長い時を生きる中で自然発生した、無駄な人格だ。裁きの時には必要ない。よって、お前が禁忌の術を使うと同時に消滅した」
「禁忌? なんのこと?」
「覚えがないのか。お前はこの土地の時を、強制的に約200年進めたんだ」
「えっ?」
「ええっ!?」
ギルは慌てて、精霊とレイチェルの間に割って入りました。
「おい待てよ。200年進めたって、どういうことだよ?」
精霊はちらりとギルを一瞥し、馬鹿にしたように笑いました。
「王族の魔力のことも知らんのか。レイチェル王女は自分の力を制御できなくなり、その結果、巨大なエネルギーが暴発した。その影響で、周囲の時間が強制的に進んだのだ」
ギルはレイチェルの方を振り返りました。確か、このレイチェルという人は、ハルの姉にあたる人物のはずです。ハルが王子で、家をめちゃくちゃにする力を持っていたのですから、もしかすると、王女と呼ばれたこの人にも同じことができるのかもしれません。
「つまり、突然木が生えたのも、建物がぼろくなったのも、そのせいなんだな。兄さんの時と同じってことだな」
すると、レイチェルが弱々しく呟きました。
「それじゃあ、旦那様の身体が骨だけになったのも、私のせいなの……?」
ギルはその言葉を聞いて、背筋が凍りました。
「なんだって?」
しかし、レイチェルはひどく動揺した様子で、黙りこくったままです。ギルは思わず、レイチェルの肩を強く揺さぶりました。
「答えてくれよ! 骨だけになるって、なんなんだよ?」
レイチェルは今にも泣きそうな顔で、おずおずとギルを見あげました。
「はじめに見たときは、ただ倒れているだけだと思ったの。でも、よく見たら、全身が黒っぽくなっていて。助け起こそうとしたら、肌がボロボロに崩れ落ちて、洋服と骨だけになってしまって……」
ギルは精霊の方を振り返りました。これ以上レイチェルに聞くよりも、この精霊に尋ねる方が早いような気がしたからです。精霊はギルの意図を察したのか、ギルが口を開く前に「当然だ」と言いました。
「人間の寿命くらいは知っているだろう。生きている人間の時間を200年進めたらどうなるか、わからないかね?」
ギルは、精霊に掴みかかろうとした手をだらんと下ろし、そのまま地面に膝をつきました。
「そんな……」
頭の中が、真っ白になりました。
ふっと、戸口で見送ったときにハルが見せた、笑顔が脳裏をよぎりました。今までも家族として一緒に過ごしてきましたが、あんな笑顔を見たのははじめてでした。まさか、あれがハルの最後の姿になるなんて……ギルは泣くこともできず、ただただぼんやりと、これまでのハルと過ごしてきた日々を思いかえしていました。
ハルとは長い間、ずっと一緒に暮らしてきました。しかし、ギルにとってずっと、ハルは少し理解しがたい不思議な人でした。
たとえば、ハルは、どんなにいいことがあっても、飛びあがって喜ぶようなことはなく、いつも柔らかく微笑んで受けとめる人でした。ギルの成績が良かったときも、同じ笑顔で道徳の本に出てきそうな、ありがちな言葉で褒めてくれるだけでした。ギルが叱られたときだって、あざ笑うこともなく、馬鹿にすることもなく、黙って助け舟を出してくれました。
とにかく、すべてが教科書通りで型にはまっていて、行動原理が理解できないのです。ですから、これまでギルはハルのことを機械のような人だと思っていました。だからこそ、突然ハルが家を飛びだしたときは、とてつもなく驚きました。森に行く途中で彼が見せた表情は、それまでギルが見たことのないものでした。
そのときになって、ギルはようやく、自分がハルのことを何も知らなかったことを思い知らされました。
でも、途中でバートに会い、とうとうギルは、ハルの本心を聞きだすことができました。そして、本当の意味で仲直りをすることもできました。あの事件を経て、ようやく、ようやく本当にハルのことを知ることができたのです。それなのに……
「なんで、なんでだよ。どうしてそんなことしたんだよ!」
ギルはレイチェルに向かって、思いきり怒鳴りました。精霊が言いました。
「これは『分裂現象』と呼ばれるものだ。本人の意思とは無関係に起こりうる。だが、禁忌であることに変わりはない」
「分裂現象!?」
レイチェルはハッとして左手の腕輪を見つめました。
「ああ、そんな……! アールから、気をつけるように言われていたのに。せっかく、過去のことは考えないようにして、おかしくならないようにしていたのに。じゃあ、あのときに……」
レイチェルは憔悴しきった様子で左手首を握りしめ、そのまま動かなくなってしまいました。
「『分裂現象』……」
精霊が言ったその奇妙な言葉に、ギルは聞き覚えがありました。そう、昨日ハルの身に起きたおかしなできごとは、すべて分裂現象のせいなのだと、バートは言っていました。
──分裂現象というのは、所詮は心の問題だ。単純にトラブルの根源が解決すれば、暴走は収まる。
確かに、バートはそう言っていました。分裂現象は心の問題だと。
「ねえ、レイチェルさん」
ギルはできるだけ優しい声で、レイチェルに話しかけました。
「兄さんに会ったときのことを、教えてください」
ところが、レイチェルは動きません。あまりに恐ろしい真実に、参ってしまっているのかもしれません。それとも、先程怒鳴ってしまったせいで、萎縮しているのでしょうか。
ギルは困ってしまいました。普段のギルなら、誰かがこんな状態になってしまったら、めんどくさくなって放りだして帰るところです。けれど、今だけはそうはいきません。そこで、深呼吸すると、もう一度話しかけました。
「さっきは取り乱してすみません。別に、怒っているんじゃないんです。ただ、事件が起こった理由を知りたいんです。原因を探れば、もしかしたら解決するかも……」
「そんな時間はない」
ギルの話をかき消すように、精霊がぴしゃりと言いました。
「日没と同時に、すべてが決行される。逃れることはできない」
しかし、レイチェルを説得しようと必死なギルにとって、それはただの雑音でしかありませんでした。
「うるさいな。ちょっと黙ってろ」
ギルは手を伸ばして精霊を掴もうとしましたが、するりと抜けてしまいました。精霊は呆れたようにため息をついて言いました。
「ならば、好きにするがいい。何をしようと、あと数分程度で終わる」
そう言い残し、精霊はすうっと消えてしまいました。ギルは精霊が消えたので安心し、レイチェルの方に向きなおりました。
「私は……」
ゆっくりと、レイチェルが頭を持ちあげました。
「ずっと恨んでいたの。母親のことも、ハルのことも。私の[#ruby=故郷_ふるさと#]を破壊した、この国の軍人のことも、何もかもが憎くて仕方がなかったの。いつだって、[#ruby=故郷_こきょう#]や家族の話をされるだけで、気が狂いそうだったわ」
「兄さんを恨んでいただって? どうして?」
昨日のことはともかく、普段のハルは人あたりもよく、滅多に怒ることはありません。そんなハルが誰かから恨みを買うなんて、ギルには信じられませんでした。
「私が家族と過ごしたのは、5歳まで。それきり、一切会えなくなってしまったわ。義理の家族はいい人だったけれど、どうしても遠慮して、本音を打ちあけることはできなかった。せめて、母親だけでもそばにいてくれればいいのにと、何度も思ったわ」
レイチェルは、かろうじて聞きとれるくらいの小さな声で、過去に家族で暮らしていたときの話をしてくれました。
レイチェルはかつて、両親とハルとともに、あのクロックで暮らしていました。しかし15年前、レイチェルの母、サンディの軽はずみな行動がきっかけで軍隊が森に押しよせ、国の存続が危うくなりました。レイチェルの父親は、ある魔法を用いて、国に侵入してきた兵隊たちの時間を止め、そのまま国の中に閉じこめてしまいました。
ところが、魔法によって生きている人間の時間を止めるというのは、古来より禁じられていた行為でした。罰としてレイチェルの父は、その時間を止められ、あの白い時計塔の最上階に封印されてしまいました。レイチェル自身はわけもわからず、女中に連れだされ、知らない町に連れていかれ、そこで長い時間を過ごしました。
やがて、育ててくれた女中が亡くなったことをきっかけに、レイチェルは現在の町に引っ越し、そこで偶然、母であるサンディと再会しました。期待と不安を胸に、レイチェルはサンディと再会します。しかし、会いたくてたまらなかった母、サンディはレイチェルの目の前で、こう言い放ちました。
──私に娘はいないのよ。
「母は私と父の記憶を喪失していたの。もちろん悲しかった。でも、それ以上に悔しかったわ。あの人は、ハルのことだけは自分の家族だと言っていたの。私はずっとひとりで寂しかったのに、ハルはずっと母親と一緒にいて、幸せに暮らしていたのだと思うと、どうしようもなく虚しかった」
やがて、木と木の間をぬって夕日が差しこんできました。ふと空を見あげると、真っ赤に燃えていた空が、少しずつ闇にのまれはじめていました。
ギルは、何も言えず、黙って下を向きました。
話には聞いていました。ハルには実のお姉さんがいると。長い間家族と暮らせなかった、不憫な人だと。伯母は記憶喪失になっていて、娘のことを覚えていないと。けれども、ギルにはそれがどういうことか、今ひとつよくわかっていませんでした。正直、ハルに別のきょうだいがいること自体、夢か幻のように思っていました。それが、この人だったなんて。今、目の前で座りこんでいるこの人だなんて。
レイチェルは疲れきっているのか、ぼうっと、どこかあらぬ方向を見ていました。
──そういえば、似てる。
よくよく見ると、その面差しは、どことなく、つい数時間前まで一緒にいた兄にそっくりでした。ギルは、ハルの姿を思い返し、それから、昨夜のハルの表情を思いだしました。
レイチェルは、ハルのことを「幸せに暮らしていた」と言いました。しかし、幸せに暮らしていた人が、あんな表情をするでしょうか。あれほど憎しみをこめて自分の過去を語るでしょうか。
「誤解だよ」
レイチェルは、首だけ動かしてギルを見あげました。
「『誤解』?」
「レイチェルさんから見たら、幸せに見えたかもしれないけど、兄さんはずっと苦しんでいたんだ。そのことに、誰も気づいてあげられなかったんだ。俺も、毎日同じ家で暮らしていたのに、何も気づけなかった」
ギルは、言葉を選びつつ、レイチェルに昨日までの事の顛末を話しました。サンディおばさんが、ハルと自分を間違えていたこと、自分もハルのことを誤解していたこと、今になってようやく和解できたこと……ひとつ話し終えるたびに、レイチェルの表情はだんだんと曇っていきました。全てを話し終えた頃、日はすっかり傾き、目の前にいるレイチェルの顔の判別すらつきにくくなっていました。それでも、彼女が戸惑っていることだけは、ギルにもはっきりとわかりました。
長い沈黙のあと、レイチェルはようやく、口を開きました。
「そんなことになっていたなんて。私は、ずっと……」
、そのときです。突然、ゴーンという重く鈍い音が聞こえ、びりびりと地面を震わせて響きわたりました。
「なんだ?」
そう呟いた瞬間に、また同じ音が聞こえました。けれど、このあたりに大時計や教会はないはずです。あったとしても、地面が震えるような音なんて、鳴らないはずです。辺りを見渡しても、特に音のでそうなものは何もありません。
「キャアア!」
突如、レイチェルの悲鳴が背中側から飛んできました。慌てて振り向くと、いつの間にか、レイチェルの周囲をたくさんの歯車が取り囲んでいました。その無数の歯車は不気味なほどに綺麗に噛みあい、ひとつの物体になりました。その形は、まるで人間の手のようでした。
「レイチェルさん!?」
ギルは急いでレイチェルのもとへ走りました。しかし、行ったところでギルにもどうしようもありません。
謎の鐘の音が鳴り響く中、大きな歯車の手は、大きく広がってふたりの上に覆いかぶさったかと思うと、そのまま握りこぶしをつくるかのように、四方八方からこちらへと迫ってきました。
「うわ……!」
声をあげる暇もなく、ふたりは手の中に飲みこまれてしまいました。
手の中は真っ暗でした。ギルはどうにかして外へ出ようと、壁らしき場所を押したり蹴ったり叩いたりしましたが、歯車が引っかかって怪我をするだけで、どうにもなりませんでした。
「くそ、どうなってんだよ」
ところが、鐘の音が聞こえなくなると、ゆっくりと手が開きました。そして、勢いよく持ちあげられたかと思うと、次の瞬間、凄まじい勢いで投げ飛ばされました。
「うわあああああ!」
ギルは、まるで野球のボールのように放られ、そのまま地面に落ち、全身を凄まじい勢いで地面に擦り付けながら滑って、ようやく止まりました。
しばらくの間、ギルは何が起きたのか理解できず、倒れこんだまま、荒い呼吸を繰り返しました。心臓は早鐘を打ち、全身の血流がおかしくなっているのがわかりました。めちゃくちゃに振り回されたせいで、目が回っているのか、目の前の景色がゆっくりと動いているように感じられました。腕も足も、無数の擦り傷と切り傷、それに土や雑草がついていてひどい有様でした。
「痛って……」
起きあがろうとすると、落ちた勢いで打ちつけてしまったのか、身体のあちこちに鈍い痛みが走りました。ギルはなんとか上半身を起こすと、ぼんやりと空を眺めました。
空には、何も見えません。ただ、暗闇が広がっているだけです。いつの間にか、もう夜でした。それでも、なぜかギルは、自分の手や足を見ることができました。
「どこだ、ここ?」
手や足が見えるのは、どこかから光が来ているからのようです。そして、その光は、ギルの背後から差しこんでいました。ギルは痛みに耐えつつ、身体をねじって後ろを振り返りました。
そこには、不気味なほど真っ白に輝く、あの時計塔がありました。
「時計塔!? あれは森の向こうにあったやつじゃないか!」
ギルは急いで立ちあがると、痛いのも忘れて時計塔の入り口へと駆けていきました。しかし、入り口へたどり着く前に、ギルは足を止めてしまいました。時計塔の真ん中に、とんでもないものを見つけたからです。
「レイチェルさん……?」
それは、ふたつの歯車の手に握られた、レイチェルの姿でした。レイチェルはぐったりと目を閉じたまま、ぴくりとも動きません。歯車の手は時計塔から生えており、がっしりとレイチェルの身体を掴んで、大時計のすぐ下に、彼女を宙づりにしていました。
「レイチェルさん、レイチェルさんってば!」
大声で呼びかけても駄目です。内側から塔の上に行こうとしましたが、時計塔の入り口は鍵でもかかっているのか、いくら力をこめて押してもびくともしませんでした。
「なんだよ、意味がわかんねえよ。第一、森の向こうは時間が止まってるはずじゃなかったのかよ……」
そう、この時計塔があるクロックという場所は常に12時で、常に青空が広がっている場所のはずでした。あの場所は時間が止まっているのだと、バートはそう言っていました。
「時間……」
時間といえば。ギルは少し前に精霊が言っていた言葉を思い返しました。
──日没と同時に、すべてが決行される。逃れることはできない。
「日没って、まさか今日の……?」
あのときはレイチェルの気を引くのに必死で、きちんと聞かぬままに対応してしまいました。でも、もしあの言葉が今日の日没を差しているのだとしたら。
「何が『決行』されるんだ?」
そのとき、カチ、と軽やかな音が頭上から降ってきました。ギルは反射的に上を見上げ、そして絶句しました。
あの、止まっていたはずの大時計が、12時1分を指しているのです。
「動いてる……?」
ギルがそう呟いた瞬間でした。ぐわっと時計塔が開きました。扉が開いたのではありません。時計塔そのものがふたつに割れて、その内部を剥き出しにしたのです。奇妙なことに、そこにはあの螺旋階段も、最上階もありませんでした。内部は大小さまざまな歯車がびっしりと埋めこまれ、さらにその中央部には青い光が不穏な輝きを放ちながら、渦を巻いていました。
「えっ」
ギルが何か言う前に、歯車の手はレイチェルを青い光の中に押しこみ、その光を覆い隠すように裂け目を閉じると、元通りの時計塔に戻りました。そして、あの不気味な手は、何事もなかったかのように、すっと時計塔の中にひっこんでしまいました。
気味が悪いほどに、静かでした。まるで、はじめからここにギルしかいなかったかのように、時計塔はそこに佇んでいました。
「待って、待ってくれよ。レイチェルさん……?」
ギルは力なく立ちあがると、よろよろと時計塔に近づき、その壁に手を置きました。けれど、どこにも裂け目なんてありませんでした。そのうち、時計塔の光は、ふっとろうそくを吹き消すように消えてしまいました。
「えっ、嘘だろ!?」
突然暗闇に放りだされたギルが戸惑っていると、ポツ、と頰に何か冷たいものがあたりました。それが雨だと気づいたときに、すでに辺りは土砂降りになっていました。その数秒後には、遠くから雷のような音が聞こえ、強風が吹きつけてきました。
一瞬にして、時計塔の周囲は別世界に変わってしまいました。
ギルはもう一度、手探りで時計塔の扉を開けようとしました。しかし、やはり扉は開きませんでした。どこか他の場所へ行こうにも、真っ暗で何も見えません。ここがどこなのかも、どこへ行けばいいのかも、全くわかりません。やがて、服に雨が染み渡り、身体中がぬかるんだ泥のようにべちゃべちゃになりました。吹き荒れる風の中、ギルは顔面蒼白になって頭を抱えました。
「俺、どうしたらいいんだよ……兄さん……!」
そのとき、遠くの方に、チラチラと何か、小さな灯が動いているのが見えました。その灯はだんだん大きくなって、こちらへ近づいてきました。目をこらすと、その灯の側には、誰かの足がありました。とうとうその灯はギルのすぐ前までやってくると、カアッと強く輝きました。
「あっ」
灯の正体は、小さな時計でした。そして、その時計は、人間が持っているようでした。その人間の顔にギルは見覚えがありました。相手の方も相当驚いた様子でこちらを見ています。ふたりは同時に叫びました。
「ギル!?」
「アリー!?」
そこにいたのは、日曜日に別れたきりの、アリーでした。




