7 救助
よく見ると、床の穴からは梯子が伸びていました。きっとこの梯子が屋根裏部屋への入り口なのでしょう。男性は梯子に足をかけると、怒り気味にアリーを急かしました。
「ほら、早く」
「は、はい……」
そのとき、コツンと足に何かが当たりました。拾い上げてみると、それはあの赤い目覚まし時計でした。小屋の床に置いておいたのに、どうしてここにあるのでしょう。扉へ倒れこんだときに、一緒に蹴飛ばしてしまったのでしょうか。
アリーは目覚まし時計を無理矢理ポケットに押しこむと、男性に続いて梯子を降りました。
梯子を降りていくと、梯子のそばには先程の声の主と思われる若い女の人と、もうひとり、太った中年の女性がいました。
「お兄様ったら、いつも無茶をなさるのだから」
「まあまあ、お嬢様……」
若い女性は、綺麗な金色の巻き毛を振りながら男性に怒りましたが、隣にいた中年の女性にとりなされて大人しくなりました。服装からして、中年の女性は女中さんのようでした。
アリーははじめ、ふたりが何を喋っているのか、よくわかりませんでした。注意して聞いていれば何を言っているのかは理解できたのですが、普段の家や近所での会話と比べると、かなり聞き取りにくい部分がありました。この人たちは、何者なのでしょう。
「ところで若旦那様、物凄い音がしましたが大丈夫ですか? ですからネズミ退治など、召使いに任せればよいと言いましたのに」
女中らしき女性はそこまで言ってから、梯子を降りてきたアリーを見て仰天しました。
「まあ! なんですかこの子は!」
驚くのも無理はありません。今のアリーは全身がどろどろに汚れ、身体中傷だらけでした。さっきまで泣いていたのもあって、顔は涙と擦り傷と砂埃でぐちゃぐちゃです。正直、この間までのバートといい勝負かもしれません。
「えっと……俺が連れてきたんだよ」
男性が頭をかきながら面倒くさそうに言いました。女中らしき女性は驚愕の表情で叫びました。
「どこからですか?!」
「家の前ですっ転んで怪我してたから」
「なのに屋根裏部屋にいたんですか?」
「屋敷が広すぎて迷子になってたんだよ。なあ、アリー?」
いきなり初対面の人に親しげに名前を呼ばれ、アリーは困ってしまいました。ただ、この場で自分の身に起こったことを一から話すのは大変難しいように思いましたので、仕方なく黙って頷きました。しかし、女中らしき女性は納得がいかないという顔をしました。
「そんな馬鹿な……」
「まあ、どちらにしてもネズミはいなかったよ。じゃあ、俺はこれで。彼女と少し話がしたいんだ」
「何を言っているんですか。晩餐会はもうすぐですよ。役員の皆様もいらっしゃるのに」
「そうですわ、お兄様。今度すっぽかしたら、お父様がなんと仰るか」
女性たちは困惑していましたが、男性は気にもとめていません。この人たちは、一体何者なのでしょう。アリーはというと、いきなり現れた知らない人たちの知らないやり取りに、ただ目を白黒させていました。
「どうせ俺は父さんの付き添いだろ? 『残念ながら若旦那様は突然高熱が出てベッドから動けなくなりました』とでも言っといてくれ。俺は明日まで病人になるよ」
男性は、透き通るような淡い金髪と、澄んだ青い目をした青年でした。来ている服も、よく見るとスーツではなく、きちんとした高級な燕尾服でした。
「そんな子供のような言い訳をして、通るとでも思っているんですか?」
「うるさいな、とにかく今はそれどころじゃないんだよ」
男性はアリーの肩を掴んで歩きだしました。すでに力という力を使い果たしていたアリーはされるがまま、ずりずりと引きずられて行きました。
連れていかれたのは、大きな寝室でした。きちんとカーペットが敷かれ、天井からは見たこともない美しい照明器具が吊り下げられていました。端の方には大きな天蓋つきベッドが置かれていましたが、男性はそちらとは反対側の、テーブルの方へ行き、来ていた上着を脱ぎ捨て、ソファに腰掛けました。
「遠慮せずに座れよ。ここ、俺の部屋だから」
そんなことを言われても、この格好でこんな高級そうな布の上には座れません。仕方がないのでアリーはおずおずと、できるだけソファを汚さないように、ちょっとだけお尻をのせました。
「全く、驚いたよ。屋根裏から変な音がするから、ネズミでもいるのかと思って行ってみたら、人間が出てくるとはな」
アリーが着席したのを確認すると、男性は部屋の鍵を閉め、ソファに座ると、足を投げだして片腕をソファの後ろに回しました。そのきちんとした服装とだらしない姿勢のギャップに、アリーは少し戸惑いました。
「本当にごめんなさい。やっぱり、あなたが鍵を開けてくれたんですか?」
「ああ、あの扉の鍵は俺が持ってるんだ。鍵の持ち主が行方不明になったんで、こっそり鍵屋に作ってもらった偽物だけどな。ところで、名前はアリーだっけ? フルネームは?」
まるで、古くからの知り合いに語りかけるような口調と態度でした。それならばと、アリーは思いきって、いつも通りの喋り方にしてみました。なんとなく、この人にはそうした方がいいような気がしたのです。
「アレクサンドラ・ローレンス。それよりも、ここはどこなの? あなたは誰なの?」
「ああ、自己紹介していなかったっけ。俺はノア・ペンバートン。で、ここは俺の家だ」
「家?! ホテルじゃなくて?」
このノアという人曰く、ここは宿泊施設でも図書館でもなく、彼と彼の家族が住んでいる家なのだそうです。
「信じられない……」
「なんだよ、ここが家じゃ悪いか? 俺だって、好きでこんな家に生まれたんじゃないんだよ」
ノアは少し不服そうに口を曲げました。容姿だけなら真面目そうなのに、さっきから子供っぽい仕草ばかりするので、アリーは困惑しました。本当に不思議な人です。
「とりあえず、あの扉の向こうで馬鹿騒ぎしていた理由を聞いてもいいか? あれはクロック王国に通じる極秘の扉だ。どうしてあんなところに君のような子供が?」
「知っているの?!」
「まあ、それなりに。色々あって、長い間あの扉を開けたことはなかったけどな」
意外なことに、ノアはクロックの存在を知っているようです。それどころか、口ぶりからして、アリーよりも詳しいくらいかもしれません。アリーは少し考えて、話してみることにしました。少々変わった人ではありますが、クロックを知っているのなら話が早そうです。
「えっと……」
アリーは戸惑いつつも、まず、両親の店とレイのことについて説明しました。今日起こった事件に比べれば、なんてことのない話でしたが、ノアは酷く驚いた様子でした。
「セミラだって? そこにクロックの森が? レイもその町にいるのか?」
「レイのこと、知っているんですか?」
「ああ、レイチェル・ワトソンだろ。あのレイチェルが外国に行っているなんて思いもしなかった……どうりで国中を探しても見つからなかったわけだ」
「『外国』? じゃあ、やっぱりここは……」
「ここはドヌールンだよ」
「えええ! じゃあここは、デルンガン王国?!」
なんと、この場所は海を隔てた隣国の首都だったのです。どうりで皆、少し喋り方が変なわけです。
しかし、アリーは一度だって船には乗っていません。ただ、扉を開けて通っただけです。なのに、どうしてこんなことになってしまうのでしょう。
「なんだ、何も知らずにここへ来たのか」
「知らないというよりも、聞く時間がなかったの。だって、バートが……」
アリーはバートの最期の表情を思いだしかけて、慌てて首を振りました。
「どうした?」
「ううん、何でも。その……扉のことだけど、実は何も知らないの。私はただ、アルバート・ペンバートンが教えてくれた通りにしただけなのよ」
すると、ノアはますます驚いた様子で、こちらに身を乗りだしてきました。
「今、アルバート・ペンバートンと言ったか?!」
「知っているの?」
「知っているも何も、うちの先祖だよ。このペンバートン家とペンバートン社を築いた人物だ。少なくともうちの家系で、他に『アルバート』の名前を持っている人間はいない。いったい、どうしてそんな人間の名前が出てくるんだ?」
どうして、と言われても、そんなのはアリーが訊きたいくらいです。そこで、とりあえず順を追ってことの次第を説明しました。説明には大変な時間がかかりましたが、ノアは黙って最後まで聞いてくれました。
全てをアリーが話し終えると、ノアは少し考えて、書棚から分厚い本を1冊持ってくると、さっきの女中を呼びました。女中はぷりぷり怒りながらやってきました。
「お父上はたいそうお怒りで、なだめるのが大変でしたよ。今度は何ですか?」
「悪い悪い。ところで今日、泊まりの客はいないよな? この子を客用寝室に案内してやってくれ。俺が呼んだ客人だ」
「この子をですか?」
女中は疑わしげにアリーを見ました。
「詳しいことはいずれ話す。とにかく今は、このアリーの汚い服と顔をなんとかしてやってくれ」
汚い、という表現にアリーは少し傷つきましたが、今は何も言いませんでした。ノアは、さっきの分厚い本をアリーに押しつけると、真剣な顔で言いました。
「アルバート・ペンバートンについては、そこに書いてある。俺は少し探し物があるから、部屋で待っていてくれ」
渡された本には、「偉大なる創業者、アルバート・ペンバートンの半生」と書いてありました。
その女中は、アリーを浴室に連れていくと、自分でやるというアリーの声を無視して大量の女中たちを呼び、アリーの体を洗いはじめました。そのままタオルでもみくちゃにされて拭かれたあと、何が何やらよくわからないままに体じゅうにクリームらしきものを塗られ、下着を着せられました。あまりにもスピードが早いので、アリーにはどうすることもできず、ただただされるがままにならざるをえませんでした。まるで機械に操られている気分です。
「さて、あとはお洋服ですね」
女中は他の女中を帰すと、下着姿のアリーを大きな扉の前に連れていきました。扉の向こうにあったのは、大量のハンガーラックと、それに吊るされたおびただしい数のドレスでした。フリルやレースがふんだんにあしらった派手なフォーマルドレスから、中央にボタンをつけただけのシンプルなワンピース、白地に薔薇の花がちりばめられたレトロな柄のものから、動物やピエロが描かれた珍しい柄、無地の深緑にベージュのカーディガンをあわせただけの地味なものなど、とにかく多種多様の可愛らしい子供服がごまんと並んでいました。
あまりの数の多さにアリーが言葉を失っていると、女中がにこやかに言いました。
「ここにあるのは、コーネリアお嬢様が子供の頃にお召しになっていたお洋服です。どれでも好きなものをくださるそうですよ。どうなさいますか?」
「ええっ、私にですか!」
「そうですよ。お好きなものをひとつ、選んでください。あの汚れた服はこちらで洗っておきますから」
「あ、ありがとうございます……」
アリーはフラフラと、その洋服の海のような部屋に入っていきました。どれもこれも厚いしっかりとした生地で、スカート部分の布もたっぷりとあり、端の細かい刺繍に到るまできちんと作りこまれていました。これほど質の高いおしゃれな服だと、一着買うだけでもとんでもない額のお金が必要なはずです。
「すごい……どれもこれも、綺麗なものばっかり……!」
普段なら滅多に見られないであろう高級品たちを目の前にして、アリーはただ、感激していました。ここからひとつだけ選べと言われても、目移りしてしまって、とても決められません。結局、部屋の中を50周くらいした挙句に、赤地に黒いギンガムチェックが入ったワンピースに白いフリル付きエプロンをあわせた、膝丈のエプロンドレスにしました。ふんわりと膨らんだ白い袖がついており、胸元には黒いリボンが結ばれています。そう、アリーは昔から赤色が大好きなのです。
もちろん、自分が今置かれている状況のことを考えれば、呑気に洋服を選んでいる場合ではないことは明らかでした。けれども、アリーは興奮のあまり、それらのことをすっかり忘れてしまっていました。
新しい服を着たアリーが、鏡の前でくるくる回っていると、キイ、と背後の扉が開きました。
「好きなお洋服は見つかりまして?」
顔を出したのは、あの巻き毛の女性でした。こちらも淡い金髪で、目鼻立ちのくっきりとした、美しい人でした。アリーは慌てて回転するのをやめて、きちんと直立しました。
「あ、あの、あなたは……」
すると女中がやってきて説明してくれました。
「この方は、第15代ペンバートン家当主であるルイス・ペンバートン卿のご息女、コーネリア・ペンバートン様でいらっしゃいます。そのお洋服も、お嬢様のものなのですよ」
アリーはぽかんとしました。なんだか長ったらしくてよくわかりませんでしたが、この女性がただ者ではないということはよくわかりました。だって、あんなにたくさんの高級な洋服を持っていて、いとも簡単にアリーに1着くれたのです。このだだっ広い家といい、その洗練された身なりといい、まるで王女様プリンセスのようです。
「その服を選びましたのね。さっきはびっくりしましたけれど、こうしてみるとあなたってかわいらしいお顔をしていますのね。よく似合っていますわ」
そこでアリーはようやく、自分がどこにいるのかを思いだしました。と、同時に、全てを忘れて洋服に夢中になっていたことを反省しました。故郷の町は酷いことになり、バートたちが悲惨な目に遭っているというのに、自分は一体、何をしているのでしょう。
「勝手にお洋服を着てしまってごめんなさい」
沈んだ声でそう答えると、女性はそれを自分への遠慮だと思ったのか、こう言いました。
「そんな暗い顔をしないで。本当にいいのよ。どうせ、もういらないんですもの。それに私、こんな妹が欲しかったの。あなた、お名前は?」
「アレクサンドラ・ローレンスといいます。普段はアリーと呼ばれています」
「まあ、かわいいお名前ね」
コーネリアというその人は、ニコニコしながらアリーの頬を撫でました。悪意や怒りは感じられません。心の底から楽しんでいるようでした。
「あの、コーネリアさん」
「あら、ネルで構いませんのよ。その代わり、私もあなたのことをアリーと呼ぶことにしますわ」
「でも……」
「どうかネルと呼んでくださいな。コーネリアと呼ばれると、パーティーの会場にいるみたいで緊張してしまうんですもの」
「じゃあ、ネルさん。どうして私にここまでしてくれるんですか? 私、勝手に飛びこんできて迷惑ばかりかけてしまっているのに……」
するとネルと女中は顔を見合わせて、同時に笑いました。
「だって、あなたはお兄様に招待されたお客様なのでしょう? おもてなしをするのは当然のことですわ」
「若旦那様はよく、通りすがりの人を屋敷に招くことがあるんですよ。偶然怪我をしていた人とか、道に迷っていた旅人なんかをね。だけど、これは昔から続く、この家の伝統なんですよ。身分や身なりに関わらず、客人はきちんともてなすのが決まりです。まあ、慈善事業のようなものですね」
アリーには、女中の言っていることが理解できませんでした。
「知らない人にそこまでしてあげて、裏切られたらどうするんですか?」
すると、女中が待ってましたとばかりに答えました。
「あたくしも、はじめのうちは怖かったですよ。身元のわからない者なんて、何をしでかすかわかりませんから。だけど、若旦那様の人を見る目は確かです。嘘やごまかしはすぐに見抜いてしまいます。逆に言うと、若旦那様が招いた客人ならば、まず安全な人物だと考えて間違いはないんですよ」
女中は「ねえ?」とネルの方を振り返りました。ネルは頷きながら、口に手をあてて上品に笑いました。どうやら、この家にはこの家なりの考え方があるようです。どちらにしても、アリーのことを悪く思っているわけではなさそうです。アリーはほっとしました。
「お夕食はまだでしょう? お部屋に用意させますわ。おそらく、晩餐会のものと同じメニューになるでしょうけれど、よろしいかしら?」
アリーは少し迷いました。こんなときに、のうのうと食事をしていていいのでしょうか。しかし、長時間あちこち走り回っていたアリーの身体は限界を迎えており、胃袋は凄まじい勢いで食事を欲していました。それに、ここで誘いを断ったところで、なんの解決にもなりません。むしろ、ここはしっかり食べて体力をつけておくべきでしょう。
「はい。ありがとうございます、ネルさん」
アリーは誘いを受けいれ、素直にお礼を言いました。
「こ、こ、ここが、私の部屋ですか!?」
アリーは入口の扉を半開きにした状態で、固まってしまいました。真っ白な壁には大きな絵画が飾られ、床には薄紫の清潔なカーペットが敷かれ、馬鹿でかい窓のそばにはアリーが6人は寝転べそうな大きなベッドが置かれていました。さらに壁側には大きなランプつきの机と椅子があり、手前側には長方形の木製のテーブルと、アリーひとりが座るには大きすぎるふかふかのクッションが敷かれた椅子が10個もありました。
「ええ、そうですよ。どうされたんですか? 早く入っていただかないと準備ができないじゃありませんか」
女中はさっさと扉を開けると、アリーの背中を押してテーブルにつかせ、手を叩いて他の女中と執事を呼びました。
「では、ただいまからお食事の配膳をさせていただきます」
テーブルには、見たこともない豪華なコース料理が運ばれてきました。おまけに、アリーの両側には女中と執事が控えていて、アリーがフォークを落とせばすぐに拾ってくれ、グラスが空になればすぐさま水を入れてくれました。さらに、一皿食べおわるごとに部屋の外から新たな料理が運ばれてくるので、アリーの周りでは常に誰かが無言で動き回っている状態でした。こんな中では、とても落ち着いて食事などできません。アリーは勧められるまま、料理を口に運んではみましたが、味なんてしませんでした。
「あ、あの、女中さん」
アリーは思わず、さっきの女中に話しかけました。バタバタとせわしなく歩き回っていた女中さんは、足を止めてこちらに向きなおりました。
「あたくしのことなら、マーガレットとお呼びください。どうかしましたか?」
「マーガレットさん、その……」
呼びとめてはみたものの、アリーは言葉に詰まってしまいました。特に話したいことなんてないのです。それでも、呼んでしまった以上は何か喋らないわけにはいきません。どうしたものか困っていると、ふと、さっきノアがくれた本の表紙が、アリーの脳裏をよぎりました。
「マーガレットさんは、『アルバート・ペンバートン』って知っていますか?」
マーガレットは変な顔をしました。
「アルバート・ペンバートン? それは、ペンバートン社を創設した、あのアルバート様のことでしょうか」
「そ、そうです。私、アルバート・ペンバートンという人のことで……」
すると、ちょうどそのとき、部屋の扉が開きました。最初に入ってきたのは、あのノアがくれた本を持った女中でした。続いて、ネルが入ってきました。
「アリー、食事中にごめんなさい。あなた、クローゼットにこの本を忘れていったのではありませんこと?」
アリーは急いで記憶を辿りました。確かノアと別れたあと、アリーは本を抱えたまま、マーガレットに連行され、そのまま服を脱がされ、洗われてしまいました。ということは、脱いだ服と一緒に本を置いていってしまっていたということでしょう。
「すみません、うっかり忘れていました。私の忘れ物です!」
「まあ、よかった」
ネルはふわりと微笑みました。まるで花が咲きみだれるような、柔らかくて可憐な笑顔でした。
「これは、アルバート・ペンバートンの伝記ですわね。もしかして、彼に興味がございますの?」
「それは……」
「ああ、そういうことでしたか!」
アリーが答える前に、マーガレットが手を打って答えました。
「お嬢様、アリー様はアルバート・ペンバートン様について知りたがっているようですよ。ちょうど今、あたくしにそのことを尋ねていましたから。ああ、それで家を訪ねてきたというわけですね」
「まあ、勉強熱心な子ですのね。それならそうと言ってくださればよろしいのに! いくらでも説明してさしあげますわ」
ネルは女中から本を受けとると、マーガレットを誘ってアリーの向かい側の席につき、本を広げはじめました。
「アルバート・ペンバートンというのは、我がペンバートン家の原点であり、誇りですの。大きな功績を残している反面、謎も多くて、未だに我が家の研究家の間でも、彼の出自については議論がなされていますのよ」
「アルバート・ペンバートン」。このデルンガン王国において、その名を知らない人はおそらくいないでしょう。彼が立ち上げたペンバートン社は、今や世界を掌握する大企業であり、この国の経済を語る上で欠かせない存在となりました。しかし、その出自には謎が多く、未だに解明されていません。また、彼の没年もはっきりしておらず、その遺体がどこに眠っているのかもわからない状態だと言います。
アルバートがこのドヌールンの町にやってきたのは、今からちょうど225年前、18歳のときでした。この時点で彼は既に、妻のアイリーン・ペンバートンと結婚していました。「ペンバートン」という姓は妻のものであり、元の名前は今日こんにちまでわかっていません。「アルバート」という名すらも偽名だという説もあります。
無一文でやってきたアルバートは、とある鍛冶屋に弟子入りすると、瞬く間に頭角を現し、わずか数年で独立を果たします。やがて自分の仕事を軌道に乗せた彼は、仕事のかたわら「趣味」と称して、ゼンマイ式の置時計をつくり、それを家の玄関に飾っておきました。ある日、彼の子供たちがそれを持って遊んでいるところを、通りがかった公爵夫人が見つけ、ぜひ譲ってほしいと頼んできます。夫人が持ち帰った時計を見た人々はみな驚き、アルバートの能力の高さを褒め称えました。やがて、その噂は国王の耳に入るに至り、アルバートは宮廷に仕えるようになります。その後、技術革命によって人々の暮らしは劇的に変わり、国は人々の時間を統一したいと考えるようになります。そこでアルバートは国の協力を得て、本格的に小型の時計の生産をはじめます。時代が変わり、政治が国王から議会中心になると、アルバートは懇意にしていた職人たちと共に会社を立ち上げ、何度も倒産の危機を乗り越えたのち、巨万の富を築くことに成功し、ドヌールンの町に大きな屋敷を設けます。
この時点で、既に70年が経過していました。妻のアイリーンは既に病で亡くなっていました。ところが、不思議なことにアルバートの顔立ちは、鍛冶屋をしていた20代の頃からほとんど変わっていなかったといいます。衰えることも老いることもない彼を、人々は吸血鬼のようだといいました。彼自身もそれを気にしており、ある日突然会社を息子に譲ると、簡単な書き置きを残して、自宅から去ってしまいました。その後、家族が手を尽くしても消息はつかめませんでした。現在もなお、歴史の研究者たちはアルバートの最期を知ろうと、あらゆる手を使って調べていますが、未だに詳しいことはわかっていないといいます。あまりにも謎に満ちているがゆえに、彼は不老不死であり、今もどこかで生きているのではないかという噂が囁かれているほどです。
「ペンバートンって、時計をつくっていた会社の名前だったんだ……」
アリーはようやく合点がいきました。赤い目覚まし時計に刻まれていたのは、きっと会社の名前だったのです。
「今では、時計の製造はほとんどしておりませんの。このご時世に時計ばかり製造していたって、行き詰まるのは目に見えていますもの。ペンバートンが時計の会社だったことを知っているのは、うちの役員と一部の歴史マニアくらいだと思いますわ」
ネルはそこまで語ってから、ふと、同じ料理が乗ったままのアリーのお皿を見ました。
「あら、うっかり喋りすぎてしまいましたわ。ごめんなさい、私のことは気にせずに食べてくださいな。私、興奮すると喋りすぎる癖がありますの」
言われてはじめて、アリーは両手にナイフとフォークを握ったままの自分に気がつきました。話を聞くのに夢中で、すっかり食べることを忘れていました。
「いいえ、あの、面白かったです。それにしてもネルさんは、アルバート・ペンバートンのことに詳しいんですね」
「詳しいといいますか……好きなんですの。アルバート氏は、我が家の始まりにして誇りですから。本物の貴族に比べれば歴史はまだ浅いけれど、今では爵位をいただけるまでになりましたのよ。本当はもっともっと話したいけれど……でも、これ以上お食事のお邪魔をするのはいけませんわね。私はそろそろ失礼いたしますわ」
ネルは満足したように席を立ちました。
「そういえば、お兄様があなたを呼んでいましたわ。なんでも、探し物が見つかったんだとか。もちろん、行くのはお食事がすんでからで構わないと思いますわ」
「お兄様って、あのノアって人ですか?」
「ええ」
「探し物っていうのは?」
ネルは困ったように眉をよせました。
「詳しいことは私にもわかりません。お兄様って不思議な人でしょう。まるで、現代版アルバート・ペンバートンだと、よく言われていますのよ」
ネルが行ってしまうと、アリーはさっきの本を、自分の方に向けてめくってみました。
そこには、バートそっくりな人物の肖像画が載っており、そのすぐ下には「アルバート・ペンバートン とても若々しく見えるが、当時80歳だったとされている」と書かれていました。
アリーが部屋を出て廊下を歩いていると、曲がり角のところで、小柄で若い女中と鉢合わせました。
「あら、アレクサンドラ様、ちょうどよかった。ちょうどこれを渡しに行こうとしていたんですよ」
女中はアリーの顔を覚えていたらしく、ぱあっと笑って手に持っていたかごを差し出しました。かごの中を覗き込むと、中には赤いベレー帽と、ポケットにねじ込んだ、あの赤い目覚まし時計が入っていました。
「私の帽子と、時計……」
「ええ、洗濯をしようとしたら、ポケットから時計が出てきたんですよ。帽子も乾いていたので、ついでに。あなた様の物で間違いございませんか?」
「はい。ありがとうございます」
女中はアリーにかごの中身を渡すと、元きた道を引き返していきました。アリーはすぐに帽子と時計をポケットにしまおうとしましたが、あいにくネルに貰ったドレスにはエプロンの小さなポケットしかついていませんでした。そこで帽子をかぶり、持っていた本の上に時計をのせ、その格好でノアの部屋へと歩いていきました。
アリーがいた部屋とノアの部屋はそれほど離れていなかったので、ものの数十秒でたどり着くことができました。恐る恐るノックすると、「どうぞ」と聞こえたので、アリーは扉をそっと開けました。ノアは、緑色のセーターを着て、大量の古そうな本を抱えていました。そのほか、床や机にも、おびただしい数の本が積まれていました。ノアはこちらを見ると、少し驚いた顔をしました。
「へえ、見違えたな。ついさっきまで、野犬みたいな格好だったのに」
彼の表情を見ると悪気はなさそうでしたが、あまりの言い草に、アリーはつい言い返してしまいました。
「馬鹿にしないで、私はこれが普通なの。さっきまでの私は事故だわ」
言ってしまってから、しまったと思いました。アリーを助けてくれたのはノアなのですから、まずはお礼を言うべきだったのに。しかしノアはたいして気にしていない様子で本を置くと、笑いながらアリーに座るよう促しました。
「悪い悪い。それで、アルバートについては勉強できたか?」
「ええと、一応は……」
アリーはソファに座ると、食事をしたことと、食事中にネルに色々説明してもらったことを話しました。ノアは、苦虫を噛み潰したような顔でそれを聞いていました。
「またネルか。あいつ、すぐ余計なことを喋るんだよなあ。昔からなんだよ、まったく」
「でも、おかげで、アルバートのことがよくわかったわ。遠い昔のすごい人なのよね? でも、おかしいの」
アリーはページをめくってアルバート・ペンバートンの肖像画を見せました。
「この人、バートにそっくりなのよ。ううん、そっくりどころか、バートそのものよ。でもバートはさっきまで私の隣にいたわ。『今』の人よ。これって一体どうなっているの?」
「それについてなんだけどな」
ノアは机に積まれていた本の中から、小さなノートを取りだし、アリーの前に置きました。
「これは?」
「アルバートの手記、つまり直筆の日記だ。正確には日記だけじゃなくて、失踪する前に家族に宛てて書いた書き置きなんかも載っている。父さんに頼みこんで倉庫の鍵を借りて探してきた。本来は関係者以外は閲覧禁止なんだが、今は緊急時だから仕方ない」
ノアは一番最後のページを開けると、ある一文を指してアリーに読ませました。そこにはひどく乱れた字で、こう書かれていました。
──俺はもう、これ以上ここに留まるべきではない。自分でもわかる。このままでは、俺は老いることもなく、永遠に生きてしまう。しかし、妻にすら先立たれたのに、今更何をして生きろというのだろう。そういうわけで、これからはのんびり旅でもしつつ、この世を去る方法を探してみようと思う。どうか探さないでくれ。
「『老いることもなく、永遠に生きてしまう』……?」
「少なくとも、アルバート自身は、ずっとそう言っていたらしい。もっとも、どう考えてもありえない話だし、研究者にも否定されているけどな。だけど俺は、この手記の内容は正しいと思うんだ。理由は後で話す」
ノアは別のノートを取りだしてページをめくり、別の文を見せてくれました。こちらは読みやすい、綺麗な字でした。上部に日付が書かれていることから、日記として書かれているのがわかります。
──アイリーンは今日から俺をバートと呼ぶことにしたらしい。なるほど、いい名前だ。ちょうど「アルバート・ペンバートン」の中に「バート」が2回入っているし、とても覚えやすい。
「『バートと呼ぶことにした』……?」
「アルバート・ペンバートンをそう呼んだのは、彼の妻だけらしい。まあ、こっちはただの偶然かもしれないけどな」
ノアはパタンとノートを閉じ、また別の本を持ってきました。よく見ると、それは本ではなく、アルバムのようでした。
「今見せたのは、ただの資料だ。本当に見せたかったのは、こっちなんだよ」
アルバムには、びっしりと写真が貼られていました。そして、そのほとんどには、アリーよりも少し幼い金髪の少年と、まだ小さな金髪の少女が笑顔で写っていました。
「これは、あなたの写真?」
「ああ、昔の写真だ。ほとんどが俺とネルだな」
ノアはあるページで手を止めると、アリーにある写真を見せました。
「昔はよく、家を抜けだして近所のやつらと遊んでいたんだ。で、その遊び仲間には写真屋の息子がいたんだ。それである日、カメラを借りてきてもらって、広場で撮ったんだ。もちろん後でばれて、そいつはめちゃくちゃ叱られたらしい」
写真の中央にはノアらしき少年と、それを囲むようにして同じ年頃の少年達が写っていました。皆、楽しそうに歯を見せて笑っています。ところがひとりだけ、ぎこちない笑顔の黒髪の子供がいました。短髪ですが、色の薄いスカートをはいています。
「この子、女の子?」
そう尋ねると、ノアは少し悲しげに目を伏せました。
「ああ。その子が……レイなんだよ」
「これが、レイ……?」
写真の中のレイは、面影こそあるもののまるで別人のようでした。そういえば、ノアはレイのことを知っていると言っていました。
「友達だったの?」
「ああ」
ノアは少し沈んだ声で答え、アルバムを閉じました。
「あの扉は、誰も知らない扉だったんだ。そもそも、屋根裏にあんな扉がついていることに気づいていなかった。元々薄暗い場所だしな。扉のことを教えてくれたのはレイだ。今でも、俺以外の人間はあの扉の存在を知らない」
「でも、それじゃどうして、あんなところに扉が?」
ノアは少し考え、こう切りだしました。
「レイのこと、どこまで知ってるんだ?」
どこまで、と言われてアリーは答えに窮しました。
「赤い帽子を持っていたことと、クロックっていう国を知っていることと……王女様だってこと」
それ以上は何も出てこなかったので、アリーは言葉を切りました。あまりの情報の少なさに、なんだか虚しくなりました。そういえば、アリーはこれまでレイとほとんど会話をしたことがありませんでした。あのクロックという国のことだって、教えてくれたのはバートであってレイではありません。アリーは何も知らないのです。もっとレイときちんと話をすればよかった、どうして何も知らないのに自分はこんなところにいるのだろう、とアリーはひとり、唇を噛みしめました。
ノアはしばらくアリーの様子を伺っていましたが、アリーがこれ以上何も話さないことを察したのか、自分から話しはじめました。
「俺はかつて、レイと一緒にあの国へ行った。あの国にはアールという爺さんがいた。アールのことは知っているか?」
アリーは首を振りました。知らないものは知りません。ノアは特に気にもとめない様子で話を続けました。
「そうか。俺が行ったときは、あの時計塔にじいさんが住んでいて、俺たちに話をしてくれたんだ。アルバート・ペンバートンの話も聞いた」
「バートの?」
ノアは座った状態で腰をさらに曲げ、アリーと同じ目線になり、あたりを警戒しながら小声で囁きました。
「これは、今のところ俺しか知らない情報だが……簡単に言うと、アルバートは『クロック』の元王子だったんだ」
「え……?」
アリーはしばらく、ノアの言っていることが全く理解できませんでした。ハルが王子なのは聞きましたが、バートについては初耳です。いったい何がどうなれば、あの国とバートがそんな関係になるのでしょうか。
「彼はあの国の生まれで、本当は国王になる予定の第一王子だったんだ。だけど家出をして、よその国で勝手に結婚を決めて、国を追いだされたから、名前を変えてこの地に住み着いたらしい。そして、この自分の屋敷に、故郷に繋がる扉を作って置いておいたんだ」
アリーはだんだん、話についていけなくなってきました。ノアはレイだけでなく、バートのことも知っているようです。
「待って、話がわからないわ。それじゃ、バートはレイとはきょうだいだってこと?」
「違う。レイは今の人間だろ? アルバートが生きていたのは200年以上昔だ。つまり、アルバートはレイの何代も前の先祖にあたるわけだ。そして、アルバート・ペンバートンというのは彼の本名じゃない。本当の名前は『シーザー』だ」
「『シーザー』……」
アリーはその名前を繰り返しました。そういえば、時計塔の地下室でそんな名前を見かけたような気がします。
「でも、あの場所に人はいなかったわ。誰もいないのに王様や王子様だと言ったって仕方がないんじゃない?」
「昔はたくさん人がいたんだ。でも色々あって、王族以外の人間はほとんどいなくなってしまったらしい。だけど、間違いなくあの場所は『国』だったんだよ。レイも幼い頃はあそこにいたそうだ」
アリーは眼を見開きました。
「レイが……?」
確か、レイが両親の店に来たのは、アリーがまだ3歳のときでした。当時の記憶はほとんどありませんが、のちにパパが、レイは海の向こうのデルンガンと言う国からひとりでやってきたという話をしてくれたのを覚えています。だからアリーも、レイは隣国から来た人なのだと思いこんでいました。
「レイはこの国に、デルンガンに住んでいたんじゃないの? 少なくともパパは、レイのことをそう言ってたわ」
「それは後の話だ。もともと、レイは家族と『クロック』に住んでいたのさ。本人とアールに聞いたんだから間違いない。あの時計塔はレイとその家族の家だったんだよ。でも、5歳の時に、あの場所に軍が立ち入って、母親と弟は行方不明になったらしい」
「お父さんは?」
「ずっと眠らされているんだってさ。恐らくは今でも。だけど、そのあたりはレイもあまり教えてくれなかった」
「そんな。じゃあ、ずっと1人だったの?」
「知り合いに引き取られて、ここへ引っ越してきたんだ。レイ本人から聞く限り、義理の両親は悪い人ではないらしい。でも正直、あの家にあんまりいい噂は聞かなかったな。あそこの夫婦、仲はよくなかったそうだし」
アリーは絶句しました。ノアはため息をつきました。
「あいつ、両親がいないのに義理の母親まで亡くしてるんだ。その上、家も親類に売り払われたらしい。俺、その頃は全寮制の学校に入れられていてさ。ようやく帰って会おうとしたときには、すでに家ごと全てがなくなっていた。それきり、ずっと音信不通のままだ」
そして、膝に抱えたままのアルバムの表紙を撫でました。
「これまで心当たりのある場所は探してみたけど、手がかりはなかった。長年会ってもいない人間なんかを探してどうするんだ、と笑われたこともあったけど、心配だったんだ。レイは元々気弱で世渡り下手だし、どこかでいびられでもしてるんじゃないかって。だけどまさか、国外に行っているとは思わなかった」
──どうして私には何もないの。
アリーの脳内で、あのときのレイの声が反響しました。
彼女は今、どうしているのでしょう。あのときは恐ろしくて、ただ逃げることしか考えていませんでした。正気のレイは瓦礫の中にいたかもしれないのに。クロックの中で出会ったレイとだって、きちんと話すチャンスはあったかもしれないのに。全て放置して、自分はここまで来てしまいました。
「私、向こうに戻る。レイのところに行くわ」
今にも部屋を飛びだそうとするアリーを、ノアは慌てて引きとめました。
「気持ちはわかるが、落ち着け。ドアの向こうでは死人がでているんだろう?」
「でも……」
「それに今は夜だ。クロックはともかく、森の向こうの町は真っ暗だろ」
「じゃあ、朝まで待つの?」
「セミラとこの国に時差はないが、日の出は向こうの方が少し遅い。朝6時くらいに出発すれば、向こうでも夜が明けているはずだ」
「だけど、まだ夜の9時じゃない!」
そのとき、アリーの手から、目覚まし時計が飛びだしました。しっかり握っていたはずなのに、まるで生き物のようにアリーの指をすり抜け、ノアの足元に転がっていってしまいました。ノアはそれを拾うと、訝しげにそれを観察しました。
「こいつ、ティムにそっくりだな」
「ティムって?」
「俺にもよくわかんないけど、時計だよ。レイの知り合いの時計なんだ」
「時計と知り合い?」
「そうだよ。あの国、時計が生きている国なんだ」
「時計が?」
アリーはもう、何にも驚きませんでした。ノアがそう言うのなら、そうなのでしょう。
「ああ。でも、これは違うな。『ふたつめ』なんて書いてあるし、アリーの名前が刻まれている」
ノアは時計をくるくると回して観察しながらそう言いました。アリーはびっくりして駆けより、ノアの手元を覗きこみました。
すると、時計の「12」の数字の下に、ある単語が書かれていました。アリーの記憶が正しければ、そこには「ペンバートン」と刻まれているはずでした。しかし、そこには違う単語が書かれていました。
「『ローレンス』? これって……」
「なんで驚いているんだよ。お前のだろ?」
アリーがその質問に答えようとした瞬間でした。
けたたましいベルの音が、部屋中にこだましました。音源は、この目覚まし時計のようでしたが、どこから音が鳴っているのかさっぱりわかりません。とはいえ、バートに貰ったものですから叩きつけるわけにもいきません。どうしたものかとアリーがあたふたしていると、時計は突然ぴたりと鳴りやみ、おとなしくなりました。
「何かしら、今の……」
アリーが呆然としていると、ノアがはっとして時計を持ちあげました。
「この時計、急に狂ったぞ。5時30分を指してる。さっきまで正確だったのに……」
そして、室内の時計を見上げて、仰天しました。
「5時30分? そんな馬鹿な、だって今は……」
アリーは咄嗟に窓に走り、カーテンを開けてみました。
「ノア、大変よ。まだ日が沈んでいないわ!」
すると、コンコンとノックの音が聞こえました。入ってきたのは、寝間着姿のネルでした。
「お兄様、大変ですわ。今は夜の9時のはずなのに、外が夕方になっていますの。お帰りになったお客様方も、混乱した様子で次々に戻ってきておりますし、玄関は大騒ぎですわ。じいやが外へ確認しにいったところ、どの大時計も5時30分を指しているといいますのよ。私、もう頭がおかしくなりそうで……」
ノアとアリーは顔を見合わせました。
「おい、これってまさか……」
「時間が、巻き戻ってる?」
結局、アリーたちが何を確認しても現在は夕方で、時刻は5時30分だという事実を覆すことはできませんでした。ノアはくたびれた様子で椅子に座り、うなだれました。
「確かに俺たちは夜まで過ごした。それなのに、今は間違いなく夕方だ。だけど、時間が戻るなんて、そんなことがありえるのか?」
「私はありえると思うわ。この時計は、時間を戻せるのよ。バートが一度、やってみせてくれたの」
アリーはノアと、その隣に立っているネルに、以前バートが目覚まし時計を使ってみせたときのことを話しました。
「なるほどな。この時計がアルバートの私物だというのなら、合点がいく」
ノアはすんなりと納得してくれました。一方、ネルは困惑していました。
「まさか。そんなことが可能なのですか? そもそも、アルバートははるか昔の人間なのに、直に会うなんて不可能では?」
「それは……」
「ああ、話せば長くなるから、それは今度な」
ノアはまだ何か言いたそうなネルを制して立ち上がりました。
「とにかく、アリーの身にはこういうおかしな事件がたくさん起こっているんだ。俺は今から、それを解決しに行かなきゃならない」
そして、部屋の出口へ向かい、扉を開けるとアリーに向かって手招きしました。アリーはすぐにその意図を読みとり、ノアのもとへ走りました。
「今からなら日没に間にあう。事件が起こったのは何時頃だ?」
「5時にバートたちが来たのは覚えているわ。そこからはきちんと覚えていないけれど、森へ行く前に日が暮れてしまったのは覚えているわ」
「待ってください。ふたりとも、どこへ行きますの?」
「少しでかけるだけだ。今日中には帰ってくるよ。多分な」
ノアはすぐに扉を閉めようとしました。が、ネルはすかさず閉まりかけの扉を抑え、ひどく怒った様子で怒鳴りました。
「行き先も言わずにでかけないでください! 今日のお兄様、なんだかおかしいわ。何を隠していますの?」
「悪い、急いでいるんだ。帰ったらきちんと話す」
「どうして? 行き先くらい教えてください。そんなに私のことが信頼できませんの? お兄様はそうやって、いつも無茶をして心配をかけるでしょう!」
アリーはだんだん、ネルが気の毒になってきました。それに、自分の都合でノアを連れだすことに罪悪感も感じていました。
「ねえ、ノア」
服の裾を引かれたノアは、目だけ動かしてこちらを見ました。
「どうした?」
「屋根裏のこと、ネルさんに話すべきだと思う」
「だめだ。こいつはすぐ人に喋っちまう」
「ネルさんはそんな人じゃないと思う。だって、ノアのこと、こんなに心配してくれているのよ。きっとわかってくれるわ」
ノアはアリーと、不安げにこちらを見つめるネルの顔を交互に見て、大きくため息をつきました。
「ネル、絶対に他言しないと誓えるか?」
「ええ」
ネルは深くうなずきました。
「お兄様は私を見くびっているようですけれど、そのくらいの分別はわきまえておりますのよ。社交界でもよく様々な質問を投げかけられますけれど、何一つ機密情報を漏らしたことはありませんわ。私を何歳だと思っていますの?」
こうしてノアとアリーは、ネルを屋根裏に案内することになりました。屋根裏の扉の向こうにあった小屋の屋根は崩れており、部屋のあちこちに木片が落ちていました。屋根の隙間から見える空は、相変わらず綺麗な青色でした。
「屋根裏部屋に、こんな場所が……」
ネルはただただ、驚愕の表情で扉の向こうを凝視していました。ノアが言いました。
「ここは特殊な場所だが、実際はセミラ共和国の一部だ。アリーの家も近くにあるらしい」
「私も行くことはできませんの?」
「さすがに、俺たち両方が消えたら大騒ぎになるだろう。お前はここに残って、俺の不在をうまく隠してほしい」
ネルはそれがよほど不服なのか、ノアを見つめたまま、しばらく唇を噛みしめていましたが、やがて諦めたように下を向きました。
「わかりました。でも、お兄様のご友人を助けたら、すぐに帰ってきてくださいね。それから、何か危ないことがあったら無理はせずに帰ってきてください」
それから、アリーに歩みより、ゆっくりと屈むと、両手をそっとアリーの両肩に置きました。
「あなたのお洋服も置いてありますから、ちゃんと取りに帰ってきてくださいね。それと、お兄様はすぐに無茶をしますから、どうかよく見張っておいてください」
「はい。本当にお世話になりました。いただいたお洋服も大切にします」
アリーがそう言うと、ネルはぎゅっとアリーの身体を抱きしめてくれました。
「ああもう、やっぱりネルは一言余計だなあ」
ノアは文句を言いつつ、扉を全開にするとアリーを呼びました。アリーは扉の向こう側に進むと、振りかえり、不安げにこちらを見つめるネルの姿に名残惜しさを感じつつ、ゆっくりと扉を閉めました。