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6 プリンセス

 さて、話は日曜日に戻ります。

 バートがどこかへ帰ってしまった後、アリーとギルはバートと別れ、昼食をとりました。

 そして、昼食を終えてギルが帰った後、アリーはなんとかして今日中にレイに会おうと画策しました。ギルの時計やバートの魔法のことを尋ねようと思ったのです。知っていれば話を聞きたいし、知らなければなおのこと、教えてあげなければいけません。

 しかし、パパはそれを許してくれませんでした。

「今日は休日だ。そりゃあ、臨時で仕事をするときもあるが、基本的にはお休みなんだよ。確かに従業員はうちに住んでいるが、お前の相手をするためにいるんじゃない。話があるのなら、パパが伝えてあげよう」

 パパに伝えても仕方がありません。子供の作り話だと思われて終わりです。手紙もだめでしょう。余計なことを書いていないか、開けてチェックされてしまうに違いありません。

 そこでアリーは、両親のいない隙にレイを探そうと考えました。ところが、ふたりはずっとアリーの側にいて片時も離れませんでした。

 そうこうしているうちに日曜日は終わってしまい、アリーはジョディおばさんの家に戻されてしまいました。

 ジョディおばさんは、ママの妹です。年老いた母親、つまりアリーのおばあさんと一緒に住んでいます。そして、普段アリーはこのジョディおばさんの家で暮らしているのです。



「おばあちゃん、ただいま」

「おかえり、アリー」

 おばさんの家に帰ると、リビングにはおばあさんとサンダース夫人がいました。サンダース夫人は遠い町に住んでいるのですが、昔からおばあさんと仲がよく、たまに[#ruby=家_うち#]に来ておばあさんとお茶を飲みながらお喋りをするのです。

「あら、アレックスじゃないの。久しぶりね」

「サンダースのおばさん、こんにちは。何度も言うけど、私はアレックスじゃなくてアリーです」

「まあ、そうだったかしら」

 おばさんはそれだけ言うと、またおばあさんとのお喋りに戻ってしまいました。

「今日はレイチェルに会ってきたの。あの子もういい年なのに、友達も恋人もいないみたい。仕事ばっかりしているのよ。今でこそ仕事をする女の子も珍しくないけれど、あのままじゃ、やっぱりちょっと心配よね。写真を持っていって何人か紹介してみたけれど、突っ返されてしまったわ。本当に、何を考えているのかしら」

「おばさん、レイを知っているの?」

 アリーは思わず夫人に駆け寄りました。

「ええ。知っているも何も、あの子をあの店に紹介したのは私よ。だから時々、様子を見にいくの」

「レイの帽子のことは知ってる?」

「帽子?」

 夫人はお茶を飲みながら怪訝な顔をしました。

「知らないわね。帽子を被っているところなんて見たことないわ。あの子、服を作る仕事をしているくせに、自分の服には頓着しないそうよ」



 その夜、アリーはどうやってレイに会おうか考えました。もちろん本当は、パパやジョディおばさんの言いつけを破りたくはありません。実際、今日、約束を破って森に行ったばかりに、アリーはバートの芝居によってパパを心配させ、酷い目にあわせてしまったのです。本人が覚えていなくても、アリーはちゃんと覚えています。

 しかし、レイに帽子のことを言わずに放っておくことは、どうしてもできませんでした。だってこの帽子はレイがくれたのです。やはり、日曜日の出来事は報告しておくべきでしょう。

 それに、早くしないと次の日曜日がやってきてしまいます。実をいうとアリーは、次の日曜日、レイにバートと会ってもらいたいと思っていました。そうすればレイもきっと、アリーが真剣に帽子のことを調べていることをわかってくれると考えたのです。

 つまり、そのためには今週中にレイと会って話をしなければいけません。

「そうだわ。明日お店にこっそり行って、レイと話をしてこよう。パパに見つからなければ、言いつけを破ったことにはならないもの」

 普通、こういうときはもう少しいろいろな方法を思案してみるものですが、アリーはそうではありませんでした。アリーはいつだって、迷わず行動するタイプなのです。確かに、これだけの事件の後にまたパパを裏切るのは気持ちのいいものではありません。しかし、善は急げともいいます。アリーは即決し、明日、レイのもとを訪ねてみることにしました。



 翌日、アリーは学校から帰るなり、ジョディおばさんにこう言いました。

「友達と遊ぶ約束をしているから、行ってくるわ」

 趣味の水彩画を描いていたジョディおばさんは、目を丸くしてどたばたとやってきたアリーに言いました。

「随分いきなりなのね。遊ぶのはいいけれど、またお母さんたちに会いに行ってはだめよ。この間だって叱られたばかりでしょう。あんまり続くと、私が監督責任を問われてしまうんだから、やめてちょうだいね」

「はーい」

 そう素っ気なく返事をしたものの、アリーの心臓はどきどきと早鐘を打っていました。何を隠そう、アリーは今からお母さんのいる店に行く気満々だったからです。

「お待ち、アリー。ちょっとこれをご覧」

 そう言ってアリーを呼びとめたのは、おばあさんでした。おばあさんは、持っていた新聞紙をひっくり返してこちらに向けました。

「ほら、デルンガン王国の王女様が、今度うちの国に来るんだってさ。それも、この町を通るらしい。これは大騒ぎになるだろうね」

「へえ、そう」

「面倒なことになるだろうねえ。私はもう、買い物の途中でいかつい兵隊さんに会うのは嫌なんだけどねえ」

 おばあさんは、いつもこうです。アリーがどんなに急いでいようと、話したいことを話し終えるまでは、決して解放してくれないのです。

「まったく、ろくなもんじゃないよ。お隣さんなんかは目の色を変えて喜んでいたけれど、よその王女の何がそんなにいいのかねえ」

 アリーは鞄を下ろすと、部屋の出口でそわそわと行ったり来たりしました。ジョディおばさんに余計なことを勘づかれる前に、家を出てしまわなければなりません。おばさんは勘がいいので、アリーが何を隠しているかなんて、あっという間に見抜いてしまうのです。

「だいたい、最近の政府ってのはねえ……」

「おばあちゃん、悪いけれど今はそんな話、どうでもいいわ。私、急いでるの」

「おや、そんなに急いで、どこへ行くんだい」

「ちょっとそこまで。行ってきます」

 アリーは言うが早いかおばさんの家を飛び出すと、そのまま一目散に逃げました。



 そして、あれほど行くなと言われていた店の裏口まで辿り着くと、まずは3センチほどドアを開け、内側に誰もいないことを確認してから、金具が音をたてないように、そうっと中に入りました。これは、アリーが店に潜りこむときの常套手段でした。



 店の方からは、お父さんとお母さん、それから販売員の声が聞こえていました。アリーはそれだけ確認すると、抜き足差し足で店の裏側を通り過ぎ、従業員の自室のある建物の東側へと移り、さらにその先、1階の最奥の部屋へと向かいました。この部屋こそが、レイたち服職人見習いが仕事をしている作業部屋でした。

 扉の前まで来ると、アリーはまず、扉に耳を押し当てて、中の様子を探りました。中には何人か従業員がいるようで、聞き覚えのある話し声がしています。

「ねえ、知ってる? 隣の国の王女様がこの町を通るって話!」

 この甲高い声は、エミリーでしょう。きっと、アリーのおばあさんと同じ新聞を読んでいたに違いありません。ミーハーな彼女らしい反応です。

「移動には汽車を使うそうだから、もしかしたら少しは見られるかもしれないね」

 この落ち着いた低音は、ビルです。この人はいつだって穏やかで冷静なので、興奮しがちなエミリーとはウマがあうらしく、よく2人で話していることが多いのです。

「いいなあ。写真で見たけど、デルンガンの王女様ってすごく綺麗なのよ! 私も王女様に生まれたかったな」

「でも、大変なんじゃない? お行儀とかきちんとしていないといけないし、ずっと笑顔でいないといけないし」

 この声の主は、しっかり者のグリニスでしょう。

「ねえレイチェル、あなたも見に行かない?」

 エミリーがそう尋ねると、間髪入れずに返事が聞こえました。

「私は結構です」

 あの低くて抑揚のない暗い声は、レイに違いありません。やはり彼女はここにいたのです。

「エミリー、レイチェルはそういうのに興味を持たない人なんだよ」

 ビルがたしなめると、グリニスが続けて言いました。

「そうよ。外に出かけのは、あんまり好きじゃないそうなの。でも、気が向いたらいつでも声をかけてね、レイチェル」

 アリーは被っていた赤帽子を脱ぎ、くるりとひっくり返してみました。相変わらず、この帽子の時刻は正確でした。あと5分もすれば、彼らは休憩に入るはずです。アリーは側の階段に隠れて待つことにしました。この家には階段が2つあるのです。

 しばらく息を殺していると、ゆっくりと部屋の扉が開き、ビルたち3人が談笑しながら出てきました。アリーは彼らが通り過ぎるのを待って、さっと作業部屋に入りました。予想通り、部屋にはレイだけが座っていました。

「レイ!」

 アリーが話しかけると、レイはぱっと顔を上げました。

「あなたは……」

 そこまで言うと、レイはちょっと口の動きを止めました。口の形からして、うっかり「アレックス」と言いかけたのをやめたようでした。

「アリーね」

「そうよ。私、あなたに会いにきたの」

「そう。最近、よく会うわね」

 この言葉にアリーはびっくりしました。確かに、帽子を貰ってからは頻繁に会っているかもしれません。しかし、今回、彼女に会ったのは、およそ2週間ぶりです。2週間というのは「よく」なのでしょうか。毎日同じ友達に会い、週に1度は他の従業員と喋るアリーにとって、レイの発言は信じられないことでした。

「最近でも『よく』でもないわ。久しぶりよ。そんなに普段、誰とも合わないの?」

「お店の人にしか会わないわ」

「どうして? そんなの寂しいじゃない」

「私は寂しくないもの」

 レイは持っていた本に目を落としました。休憩時間になると、彼女はいつも読書をするのです。本の方を見たまま、レイは静かに言いました。

「今日は日曜日じゃないでしょう。ご両親の許可はとったの?」

「ううん、勝手に来たの。私、あなたに会いに来たのよ。だって、この帽子すごく不思議なんだもの。ねえ、本当に何も知らないの?」

「何の話かしら」

「私、森へ行ったの」

 アリーがそう切りだすと、レイは本のページをめくる手を止めました。

「この帽子、森の中で光って、私たちを案内してくれたの。それに従って行ったら、時計塔のある草原に出たの」

「何ですって?」

 レイは本から顔を上げました。明らかに動揺しています。やはり、何かを隠しているようです。アリーはすぐに畳みかけました。

「その場所の時間は止まっているのだと教えて貰ったわ。一体、この帽子は何なのかしら? これに出会ってから、不思議なことばかりだわ。私、気になってずっと調べているのよ。ねえレイ、もしかして、何か隠していたりしない?」

 レイはきゅっと唇を噛みしめました。質問には答えてくれません。アリーはさらに、尋ねました。

「それに、この帽子の持ち主はアレクサンドラさんっていうんでしょう。なのにどうして……」

 するとレイが勢いよく立ち上がりました。膝に置かれていた本は椅子から転がり落ち、大きな音を立てて床に叩きつけられました。

「帰って」

「え?」

「今すぐにここから出ていきなさい。あなたとは話したくない」

 いつの間にか、レイは恐ろしい表情でこちらを睨みつけていました。声色こそいつも通りでしたが、その目は血走っていました。両手で握られた拳は震えています。彼女がこれほどに怒りを表しているのを見るのは初めてでした。

 そのとき、背後の扉が軽くノックされたかと思うと、勢いよく開きました。

「レイ、来てくれ。さっき言っていたお客さんが来た」

 そこにいたのはパパでした。パパは、部屋にいたアリーに気がつくと、みるみるうちに鬼の形相になりました。

「何をやっているんだ、あれほど昨日言い聞かせただろう! 仕事の邪魔をするんじゃない。こうなったら、当分の間は外出禁止だ。すぐにおばさんの家に帰れ!」

「違うの、私はただ、レイに訊きたいことがあるだけなの!」

 アリーは弁解しようとしましたが、問答無用で首根っこを掴まれ、部屋の外に引きずりだされました。いつもなら大人しく帰るところですが、今日はそうはいきません。何としても、この帽子のことを聞き出す必要があるのです。

「離して!」

 じたばたと抵抗していると、突然、妙に聞きなれた声がしました。

「アリー、ここにいたのか!」

「え?」

「おや、うちの子をご存知なんですか?」

 パパはその言葉に驚いたのか、アリーを拘束していた手を離してしまいました。アリーはやっとのことでパパの腕から抜けだすと、声の主の顔を見て仰天しました。

「バート! どうして、あなたがここに?」

 それから、バートの隣にいる人にも気がつきました。

「もしかして、ハル?」

「そうだよアレックス、久しぶり。ああ、今はアリーと呼ばなきゃいけないんだったね。ギルに聞いたよ」

 そこにいたのは、以前会ったときよりも幾分背の高くなった、ギルのお兄さんのハルでした。



 バートたちは、レイと共に別室へと入っていきました。アリーは言いつけを破った罰として自室に入れられ、パパが来るまでは絶対にそこから出ないように命じられました。しかし、そんな命令程度ではアリーの好奇心と、それによる凄まじい行動力は押さえきれませんでした。アリーはパパが去るとすぐ、バートがいる部屋へと行きました。すると、偶然その扉は閉まりきっておらず、残り数センチのところで引っかかって止まっていました。中にいるバートたちは、そのことに気がついていないようです。アリーはあたりを見回し、危険がないことを確認してから、その隙間に顔を近づけ、中を覗きこみました。

 隙間からは、バートとハルの後ろ姿と、メジャーを持ったレイが見えました。バートはパリッとした清潔なシャツに、これまたアイロンのかかった綺麗なズボン、そしてピカピカに磨かれた革靴を履いていました。髪もきちんととかされています。喋ればバートの声がするのですが、見た目、特に後ろ姿はまるで別人のようでした。

 バートったら、いつの間にあんなに綺麗になったのかしら? と、アリーは訝しげに心の中で呟きました。もちろん、バートが綺麗になったのは、ギルの家で身体を洗い、ギルの父親の服を着ているからなのですが、この時のアリーはそんなことを知るよしもありませんでした。

 レイは、珍しく不快感を露わにした表情で言いました。

「どういうことですか? お客様が採寸を希望されていると聞いたから、私はここに来たのですが。それに、お客様は女性だと」

「嘘をついて申し訳ない、それは口実なんだよ。私はあなたにに会いに来たんです、レイチェルさん」

 こう答えたのはバートです。アリーは目を輝かせました。わざわざアリーが頼むまでもなく、バートは自分からレイに会いにきてくれたのです。なんという幸運でしょう。

 けれども、レイの表情は固いままでした。

「わかりました、あなたは採寸を希望されているお客様ではないのですね。でしたら、私がすることは何もありません。仕事に戻らせていただきます」

「待ってくれ、それなら、採寸をしてもらおう。その間、俺は少し独り言を喋るかもしれないが、所詮は独り言だ。無視してくれたまえ」

 レイは一瞬むっとしましたが、すぐにいつもの機械的な表情に戻ると、ひざまづいてメジャーをバートに押しあてはじめました。バートはそんな状況でも、なんてことない様子で気さくにレイに話しかけはじめました。

「悪いね、こんな真似をして。だが、俺はどうしても君に会う必要があったんだよ。ところで、君には弟がいるね」

 レイはしばらく手を止めて考えこみ、氷のような声で答えました。

「いいえ」

 そしてまた、作業の続きに戻りました。バートは苦笑のような声を漏らしました。

「家族のことを考えたくないのはわかる。だが、いつまでも問題を先送りにする訳にはいかないんだ。君には両親と弟がいるね。そして長い間、君は彼らに会うことなく生きてきた」

 アリーは仰天しました。レイに弟がいたなんて初めて知りました。サンダース夫人がよく、レイのことを「孤独な子」と言っていたので、てっきり兄弟はいないものと思いこんでいました。それにしても、「会うことなく生きてきた」とは、一体どういう意味なのでしょう。アリーはドキドキしながらレイの返事を待ちましたが、レイは何も言いませんでした。

 バートはすっとハルのほうに手を向けました。

「ところで、ここにいる彼のことなんだがね」

「付き添いの方には応接室でお待ちいただくように案内したはずですが」

「そうじゃない。誰だと思う?」

「知りません」

 レイは手帳に採寸の結果を記録すると、すっと立ちあがり、バートの胸あたりにメジャーを当てようとしました。が、バートはそのタイミングでレイの両手を掴み、すっと下ろさせました。

「何ですか?」

「すまない、少しだけ手を止めてくれ」

 そして、ハルの肩を抱くと、レイの前まで連れてきました。ここでようやく、アリーの見ている方角から、3人の顔がはっきりと見えました。バートは相変わらず、気味が悪いくらいにニコニコしていました。

「紹介するよ。ハロルド・ワイズくんだ。彼とはつい昨日知り合った」





 突然、ドサッという鈍い音が床に響きました。レイが、手帳とメジャーを取り落とした音でした。レイは両手をだらんと下に伸ばしたまま、穴があくほどハルの顔を見つめました。

「あなたが……」

 ハルはどうしていいかわからない様子で、無言のまま、困ったようにレイとバートの顔を交互に見ていました。

「ハル……あなたがハルなの……」

 レイは、ひどく動揺した様子でした。アリーが森の話をしたとき以上です。レイは何か恐ろしいものでも見たかのように、顔を真っ青にして後ずさりました。その様は、動揺というよりも怯えに近いものがありました。

「いかがです。これでもまだ、シラを切りますか?」

 今にも倒れそうなレイを前にしても、バートはいつもの調子でした。さすが、パパをナイフで脅していただけのことはあります。

 それにしても、一体なぜ、レイはハルに対してこんな顔をしているのでしょう。アリーにはわけがわかりませんでした。レイとハルは知り合いだったのでしょうか。それにしては、随分とよそよそしいような気もします。

 レイは苦虫を噛みつぶしたような顔で、静かに目を閉じました。何か、大きなことへの覚悟を決めたかのような、えも言われぬ恐ろしい表情でした。そして、声を震わせながら、搾り出すように言いました。

「わかりました……認めましょう。あなたが仰っていることは事実です。けれど、それは過去の話にすぎません。部外者のあなたに蒸し返される覚えはありませんわ」

「どうして俺が部外者だと断定できる?」

「私はあなたのことを知りませんから」

「そうかい。じゃ、これでどうだろう。この子に見覚えはないか?」

 バートは、どこからか小さな懐中時計を取り出しました。よく見ると、それは昨日ギルが持っていた時計でした。そして、バートが時計の蓋を開けると、不気味なことに、中から女の子の首が出てきました。アリーは思わず悲鳴をあげそうになりましたが、ぐっと堪えました。

 その女の子を見た瞬間、レイの顔からは、ますます血の気が引きました。そしてとうとう立っていられなくなったのか、ふらふらと床に崩れ落ちてしまいました。

「フロー……」

 もはや呻きにも近い声で、レイは時計の女の子を見上げました。

「どうしてここにいるの?」

 女の子はもじゃもじゃの髪をバートの手にわさわさ当てながら、目を閉じて首を捻りました。

「うーん。ええと、あなたはレイなの? 本当に私の知っているレイ?」

「私よ……池で遊んだり、城の中でかくれんぼしたり、時計たちの村に遊びに行ったりしたでしょう。15年も経ってしまったけれど、私はレイチェルよ。ねえお願い、私のことを覚えていると言って」

「そっか、レイなんだ! 15年も経つと、こんなに変わっちゃうんだね」

 フローと呼ばれた生首少女は、ぱあっと笑いました。レイは少しだけ、安堵の表情を見せました。

「よかった。会えるとは思わなかったわ……今まで、どこにいたの?」

「王国の時間が止まってからは、強制的に眠らされてたの。で、王子様が国王の証を受け継いでからは、この時計の中にいたの」

「どうして私とは会えなかったの?」

「だって、私の力を発動できるのは王様の時計だけだもん」

「お父様の時計なら、私が持っているわ」

「ダメダメ。前の王様は時が止まってしまったでしょ? で、国王の証は王子様に受け継がれたの。だから、今の王様はこのハロルドなの。王子様……ハロルドが持っていたのはこの懐中時計で、国王の証もこっちの時計についてるでしょ?」

 フローはそう言うと、きゅっと首を引っ込めてしまいました。バートは懐中時計の文字盤をレイに見せました。アリーの目からは見えませんが、きっと「国王の証」なるものがそこにあるのでしょう。アリーはだんだん、話についていけなくなってきました。今の少女の話が正しければ、ハルはあの森の向こうの国の王子様ということになります。そんなことがあるのでしょうか。だって、ハルはギルのお兄さんなのです。アリーが知る限り、ギルの家に暮らす、普通の少年だったはずなのです。それがどうして、王子様になってしまうのでしょう。おとぎ話よりもめちゃくちゃです。

 しばらくすると、少女はまた、懐中時計から首を出しました。

「ね、証があるでしょう。だからあたしは、こっちの時計からしか出てこれなかったの。なのにハロルドったら、私を気味悪がって会おうとしてくれないし……」

「そのことについては謝るよ」

 ハルが気まずそうに言うと、フローはすまして答えました。

「ダメよ。もうしばらくは根に持たせてもらうから」

「う……」

「なんてね。冗談よ」

「なんだ、よかった」

 バートたち3人は、おかしそうに笑いました。しかし、レイは笑っていませんでした。バートはそんなレイの様子に気づいていないのか、相変わらずの笑顔でこう言いました。

「フローの存在は、代々クロック王国の時を司る国王によって保たれていたんだ。つまり、フローがどうなるかは、ハロルドくん次第なのさ」

 レイは床に座って下を向いたまま、しかし、はっきりと言いました。

「私には関係がないということですか?」

 その声には、明らかに怒りがこもっていました。バートはようやくレイが怒っていることに気づいたのか、笑うのをやめて真剣な表情になり、屈んでレイの肩に手を置きました。

「ああ。残酷なようだが、その通りだ。怒りたい気持ちもわかる。だが実際、王女が国王の証を受け継いだためしはない。というより、これまであの国に、王女なんていなかったんだ。クロック王国の王女は、後にも先にも君しかいないんだよ、レイチェル。だからこそ、話を……」

「王女?!」

 アリーは思わず叫んでしまいました。部屋にいた、レイ以外の3人は、一斉にこちらを振り返りました。

「アリー!」

 とうとう、アリーがいることがバレてしまいました。こうなっては仕方がありません。アリーは思いきりドアを開け、レイのもとに駆け寄りました。

「レイ、王女様だったの?凄いわ、王女様なんて外国にしかいないと思っていたのに。こんなに凄いことを、どうして話してくれなかったの?」

 けれども、レイは下を向いたままでした。

「レイ?」

「どうして……」

 レイは床に座りこんだまま、両手に拳を握っていました。それも、相当な力で握っているらしく、拳は両方とも小刻みに震えていました。

 アリーはハッとしました。つい先程、レイに帽子の話をしようとしたとき、レイはとてつもなく怒っていました。理由はわかりませんが、おそらくレイにとって、帽子や森の向こうに関する話は地雷だったに違いありません。パパとのいざこざのせいで、うっかり忘れていました。

「あ、あの、ごめんなさい」

 けれども、アリーの声はレイには届いていないようでした。レイは床を凝視したまま、ギリギリ聞き取れるくらいの声でぶつぶつと呟き始めました。

「どうして、どうしてハルばかりなの。どうして、他人ばかりなの。どうして、どうして、どうして。どうして私には何もないの」

「レイ……?」

 アリーは背筋が凍りました。なぜこれほどの恐怖を感じるのか、自分でもわかりませんでした。ただ、とてつもなく恐ろしいことが起こっているのだということだけは、かろうじてわかりました。

 やがて、アリーの帽子と、バートが持っていた懐中時計、そして部屋の隅に無造作に置かれていたバートのものであろう麻袋から、煙が出はじめました。それもただの煙ではなく、微量の光が伴った、キラキラと輝く金色の煙でした。それらはまっすぐにレイの方へとのびてゆき、あっという間にレイの周りを取り囲んでしまいました。

「まずい!」

 バートは懐中時計をハルに押しつけ、ついで麻袋を掴みとりました。そして、いつかの赤い目覚まし時計を取り出し、アリーの手首を握ってハルを呼びました。

「ハロルドくん、こっちだ!」

 その間にも、レイの呟く声はどんどん大きくなっていきました。

「そうだわ、フローもお父様も私がいらないのね。所詮は王女だから。本当はいらないから。本当に大切なのはハルだから!」

 そこまで言うと、レイは大きく息を吸い込み、そして、これまで聞いたことのない、恐ろしい、断末魔のような声で絶叫しました。

 刹那、レイの身体が光り輝きました。グラグラと地面が揺れ、天井からバキバキと何かが崩れる音がしました。ハッと上を見上げると、崩れた屋根や天井が一気に降ってくるのがわかりました。

「うわあああああ!」

「ふたりとも、ここを動くなよ!」

 バートは赤い目覚まし時計を天に掲げました。すると、薄い金色のバリアが出て、落ちてきた柱や屋根を弾いてくれました。

 コトンと、アリーの目の前に何かが落ちてきました。それは、懐中時計でした。揺れの中でハルが取り落としてしまったのでしょう。衝撃で、中にいた少女も転がり出てきました。時計の中には、ちゃんと身体があったようで、ちゃんと手も足もありました。

 しかし、彼女の全身を見ることができたのは、ほんの一瞬でした。彼女の身体はみるみるうちに金色の煙に取り囲まれてしまいました。

「あ……ああ……」

 声を出すまでもなく、少女はそのまま、煙と同時に消えてしまいました。

「レイ!」

 アリーは凄まじい粉塵の中で、レイの姿を探しました。が、彼女の姿はどこにも見当たりませんでした。



 しばらく待つと、ようやく砂埃も薄まり、周囲の様子が見えてきました。バートが時計を下ろしたので、アリーは立ち上がってレイを探しましたが、レイはどこにもいません。代わりに、辺りには上から降ってきた瓦礫が山のように積み重なっていました。天井には大きな穴があき、灰色の空が見えています。いつの間にか、夕方になっていたようです。辺りはぞっとするほど、しいんと静まり返っていました。

 薄暗い中、バートが珍しく戸惑った表情で頭を抱えました。

「あああ、やっちまった。あまりにも王女の口が固いんで、少し強めに揺さぶりをかけてみたんだが、加減を間違えたらしい。まさか、こんなことになるとは……」

「一体、何が起こったんですか?」

 呆然とした様子でハルが尋ねると、バートは頭を抱えたまま、ポツリとこう答えました。

「分裂現象だ」

 ハルはすぐに何かを察したようで、バッと辺りを見渡しました。

「そんな……これも、僕のときと同じ現象だっていうんですか?」

「君のよりも遥かに強烈だ。見ろ、この家は老朽化に耐えきれずに崩壊しちまった。相当な時のエネルギーが爆発してしまったに違いない」

 ふたりが何の話をしているのか、アリーにはさっぱりわかりませんでした。ただ、バートの表情から、何かとてつもない事件が起こっているのだということだけは、わかりました。

「ねえ、レイは? パパたちはどうなったの?!」

 その瞬間、遠くの方からまた、轟音が聞こえました。バートはハッとして顔を上げました。

「そうだ、このままじゃまずい。ふたりとも、時計はあるな?」

「えっと……」

 アリーが頭に手をやると、帽子はそこにはありませんでした。慌てて探すと、帽子は風にでも飛ばされたのか、3メートルも先の瓦礫の上にのっていました。アリーがそれを指さすと、バートは瓦礫を登り、帽子を回収してきてくれました。ハルも、落ちていた懐中時計を拾いました。

「よし。いいか、このまま日が落ちると、身動きがとれなくなる。時計の力もいつまで持つかわからない。ひとまず、あの国へ退くぞ。急げ!」

 アリーはわけもわからぬまま、バートに急き立てられて、家から追いだされました。でもアリーは家の様子が気になって仕方がなかったので、一瞬、家の方を振り返ってしまいました。

「な、何よこれ!」

 それは家ではなく、森でした。大量の木が家の周りに生えていて、一部は家の中に侵入し、もはや家なのか森なのかわからない状態になっています。窓ガラスは失せており、石で造られた柱は腐食し、壁の色は煤すすけた汚い色に変色していました。

「よせ、見るんじゃない」

 バートはグイッとアリーの手を引いて走りだしました。石が敷かれていたはずの道は、びっしりと落ち葉に覆われており、踏むと柔らかい土の感触がしました。よく見ると、辺り一面に太い木が生えていて、町そのものが森と化しています。かろうじて木の間から見える家々を頼りに、3人はあの森を目指しました。もはや、どこまでがいつもの景色で、どこからがあの森なのかもわからない状況でしたが、バートは道を正確に暗記していたようで、日が落ちてほとんど真っ暗になってしまっても、迷うことなく進み続けました。



 やがて、ぱあっと目の前に明るい光景が広がりました。それは、いつか見た、あのクロック王国の景色でした。しかし、全速力で足場の悪い中を走ってきたアリーたちにはもう、それに対する感想を言う体力は残っておらず、3人とも森を抜けた瞬間にへたりこんでしまいました。

 ようやく口が聞けるようになると、バートがぼそりと言いました。

「ひとまずは助かったな。だが、ここもいつまで持つかわからない」

 それを聞いて、そばの木にもたれていたアリーは、慌ててよろよろと上半身を起こしました。本当はもっと機敏に動きたかったのですが、大人のバートに引きずられるようにして走ってきたアリーの身体は、まだ回復しきっていませんでした。

「それ、どういう意味? さっきから、本当に何がどうなっているの?」

 そう弱々しく訊くと、バートは目を伏せました。

「すまなかった。これは全て……簡単に言えば、俺のミスなんだ」

 そしてバートは立ち上がり、ハルに向かって言いました。

「色々と本当に申し訳ない。君もまだ疲れているかもしれないが、いかんせん時間がない。とりあえず、今から時計塔に行こう。俺は歩きながら少し策を練ってみるから、代わりに昨日のことをアリーに教えてやってくれ」

「それは構いませんけど、どうして時計塔に?」

「俺にもわからん。だが、何か解決策を探すとしたら、あの場所くらいしかないだろう」

 こうして3人は、再びあの白い時計塔へ向かうことになりました。時計塔への道中、バートはひとり、腕を組んでブツブツと何か独り言を呟いていました。あのバートがこれほど狼狽えているなんて、今度という今度は本当にまずい事態なのでしょう。

 ハルはその間に、昨日の夕方から今朝までに起こった出来事を、過去の話も交えつつ話してくれました。アリーはまるで夢でも見ているような心地で、その話を聞いていました。

「それじゃハルは、ギルのお兄さんじゃなかったってことなの?!」

「そういうことだね。僕も最近まで、ちっとも知らなかった」

「レイは本当のお姉さんなの? あんまりハルとは似ていない気がするわ」

「まあ、確かにね。でもあの人、実の母親には似ているような気がしたよ。むしろ、変わっているのは僕のほうかな。僕は、実の母親とも、今の母さんとも似ていないんだ」

 ハルは、自分の金色の髪を軽く持ちあげて見せました。

「うちの家族は、実の母親も含めてみんな黒髪なんだ。金色なのは僕だけ。だから、昔からちょっと不思議だったんだよ。でも、聞くところによると、僕の父親は同じ髪をしていたんだってさ」

 そんな話をしていると、前方にいたバートが足を止めました。時計塔に着いたのです。

 しかし、バートは動きません。まだ何か、考えこんでいるみたいです。

「あの、バート?」

 アリーが話しかけると、バートはようやくこちらを向いてくれました。

「これから私たち、どうするの?」

「ああ、そうだな……」

 バートは目を泳がせながら、たどたどしく言いました。

「なんでもいい。とにかく、この塔を隅々まで調べるんだ。ここは代々王家が住んでいた建物だ。片っ端から探せばきっと、何かしらの資料が出てくるだろう」

 これまでのバートからは考えられない、頼りない返事でした。それでも、何もせずにいるわけにはいきません。アリーたちはとりあえず扉を開けて、時計塔への中へと侵入しました。



 時計塔の入口には、相変わらず兵士たちが並んでいました。アリーはてっきり螺旋階段を上っていくのだとばかり思っていたのですが、バートは階段を無視し、まっすぐに壁際へと向かいました。そして、さっと屈みこんだかと思うと、床に描かれた模様の一部をトントンと指で押しはじめました。

「何をしているの?」

「地下への扉を開くのさ」

 そう言ってバートが一番端の模様を押すと、突然ガン! と塔全体が大きく揺れました。そして、バートがいる位置を中心に四角く床がくり抜かれたかと思うと、エレベーターのように、少しずつ下に沈みこみはじめました。バートは手をあげてハルを呼びました。

「おうい、こっちだ! 早くしないと置いていかれるぞ」

 入口で呆然と固まっている兵士を凝視していたハルは、その言葉に弾かれたようにこちらに駆けてきました。

 床はそのまま動き続け、とうとう3メートルほど沈みこみ、ようやく大きな音を立てて止まりました。

 沈んだ床の先には、人ひとりがやっと通れる程度の空間がありました。そして、その空間の向こうには下りの階段らしきものが見えました。

「この先が地下室だ」

 バートは迷うことなく床を降りると、そのまま階段を降りはじめました。まるで、ここに階段が存在していることも、その先に何があるのかも知っているかのようでした。

 階段の先には、小さな部屋がありました。あるものは、デスクとベッドが一つずつと、部屋を取り囲むようにして設けられた、やたら背の高い本棚だけでした。本棚の上には懐中時計、砂時計、目覚まし時計などが飾られていました。その上の壁には、たくさんの肖像画がかけてありました。

「古風な部屋ね」

アリーは、その古めかしい部屋をきょろきょろと観察しました。本棚の中の本は相当古そうです。寝室というよりは、倉庫か研究室に近いような気がします。

「この部屋はなんですか?」と、ハルが尋ねました。

 バートはすぐには答えず、腕を組んで部屋をぐるりと見回し、デスクの引き出しを次々に開け、フーッと息をついて言いました。

「うん、なるほど。間違いない。例の手紙が書かれた部屋はここだろうな」

「手紙って?」

 アリーが訊くと、ハルがすかさず言いました。

「もしかして、僕に送られたあの手紙ですか?」

 バートは深く頷きました。

「あの手紙はアールという人間が書き残していた。曰く、国家機密やそれに関わる資料はこの部屋に避難させているということだ。てっきり改築して広い部屋に造り変えているものだと思っていたが、まさかそのままだとはな。家具の配置まで、何も変わっちゃいない」

 どうやら、バートとハルは誰かからの手紙を読んでいたようです。いつものアリーなら、話の流れを切ってでも質問するのですが、今はとてもできませんでした。それくらい、今のバートの表情や口調には迫力がありました。

 バートは腕を組みなおし、真剣な顔でふたりに言いました。

「よし、この部屋にある、あらゆる物を調べるぞ。とりあえず、書物や書類から調べていこう。もし、『王女』や『分裂現象』に関する記述を見つけたら、ぜひ教えてくれ。すまないが、時間はあまり残されていないから、なるべく急いでくれるとありがたい」



 こうしてアリーたちは、この狭い部屋にある古書を片っ端からめくっていく羽目になりました。しかし、慣れない内容の本を何冊も何冊も調べるというのは、想像以上に厳しい作業でした。13冊目の本を調べ終わったところで、アリーはとうとう限界を感じ、必死の形相で書類らしき紙の束と格闘しているバートには申し訳ないと思いつつも、少し休憩することにしました。

 本棚の上には、相変わらず、厳しい顔の肖像画が並んでいました。ほとんどの肖像画の下には、小さく「シーザー◯世」と書かれていました。アリーはなんとなく、その肖像画を見上げながら、ぺたんと床に腰を下ろしました。

 そのとき、ある肖像画の裏側が、きらりと光りました。アリーはびっくりして、そのまま頭を下げ、這いつくばるようにして肖像画の裏側を覗きこんでみました。

「ねえ、ハル。あれを見て」

 アリーは咄嗟に、側にいたハルに声をかけました。ハルは本から顔を上げ、アリーの指が示す方を見ました。

「肖像画がどうかしたのかい」

「裏側に何かあるみたいなの。ほら」

 ハルはしばらく疑わしげに目を凝らしていましたが、やがて何かに気づいたような顔をしました。

「本当だ。角度によっては、何か光っているように見えるね。でも、額を留めるための金具じゃないかな」

「けど、他の絵の裏には何もないのよ」

 するとバートが、ふたりの様子に気づいてこちらを振り返りました。

「何か見つけたのか?」

「バート、あの絵の裏側、何かおかしいと思わない?」

「絵だって? 今はそんな話をしている場合じゃ……」

 バートはそう言いつつ、じっと肖像画を観察しはじめました。

「確かにこの肖像画だけ、妙だな。他と比べて、妙に額が分厚いぞ」

 バートはデスクの椅子を引っ張ってくると、伸びあがって肖像画を外してみました。

 すると、肖像画の奥から、何か四角いものがごとりと落ちてきました。バートは驚いた様子でそれを拾いあげました。

「これは……日記帳か? 大きな鍵がついているな」

 すると、日記帳はガチャンという音をたてて、勝手に開いてしまいました。バートは椅子に乗ったまま、パラパラとページをめくり、首を傾げました。

「これは、王家の規則集だな。なんでこんなものが鍵付きで保管されていたんだ? 薄いし、たいしたことは書いていなさそうだ」

 バートはその本をぽいとベッドへ放り投げ、さっさと肖像画と椅子を戻しました。

「さあ、これで疑問は解決した。続きをやろう」

 バートはまた、紙の束とにらめっこを始めてしまいました。ハルも、言われた通りに作業に戻ってしまいました。アリーは仕方なく、14冊目の分厚い古書を開いてみましたが、どうしてもさっきの薄い本が気になって集中できません。そこでこっそり、ベッドでひっくり返っている、その日記帳のような本を手に取り、表紙をめくってみました。すると、本の1ページ目にはこう書かれていました。



 ──これを解錠し、開くことができるのは、王族の血を引く者だけである。本書は、我が国の王族だけに適用される特殊な法、および規則を書き記したものである。もしもこの国が滅び、過去の文献を消失し、その上で王族の魔力に関する緊急事態が起こった際は、本書を参考に行動されたし。 シーザー七世



 なんとも面白そうな書きだしです。アリーは俄然、この本に興味が湧いてきました。そこで、ほんの少しだけ読み進めてみることにしました。

 ところが、この本は見た目の割に相当古いらしく、全て古典語で書かれており、アリーにはほとんど読み解くことができませんでした。仕方がないので、わかる単語だけ拾って読んでいると、不意に「王女」という文字が目に飛びこんできました。

「バート!」

 アリーは咄嗟に顔を上げて、バートを呼びました。

「ここ、王女って書いていないかしら」

 バートは無言でやってきてアリーから本を受け取ると、中を読んで目を丸くしました。

「なんだって……! そうか、そうだったのか。俺はてっきり……」

 そして、アリーの頭から乱暴に帽子を奪いとり、裏返しました。

「この帽子の今の持ち主は『アレクサンドラ』のままだな」

「ええ。偶然……私と同じ名前だったの」

 余裕のない、切羽詰まった様子のバートに怯えつつ、アリーは答えました。

「本当の持ち主は、ギルの伯母さんだって聞いたわ」

「ということは、この帽子には持ち主がいない状態が続いていたわけだ。くそ、もう少し早くそのことを知っていれば……」

 バートはギリッと歯を食いしばって悔しそうな顔をしました。アリーは恐る恐る尋ねました。

「バート、その本にはなんて書いてあるの?」

 するとバートは、はっと我に返り、帽子を両手で持ち直すと、そっとアリーの頭に載せました。

「取り乱して悪かった。よくこのページを見つけてくれたな、アリー。おかげで、少し事態が進展しそうだ」

 そして、念を押すように言いました。

「この帽子はレイチェルに貰ったんだな?」

「ど、どうしてそれを?」

「ギルの家に行ったとき、彼の母親に聞いたんだ。レイチェルから譲り受けたんだな?」

 アリーはびっくりしました。いつの間にバートがギルの家に行ったのか、どうしてバートがギルの家を知っていたのか、アリーにはよくわかりませんでした。しかし、今はそれを訊く時ではないような気がしたので、アリーは大人しく頷きました。

「その通りよ」

 すると、バートは続けて言いました。

「その帽子について、説明はあったか?」

「いいえ……なんど訊いても、教えてくれなかったわ。だから私、自分で調べることにしたの。それで、ギルと森へ行ったの」

 そうか、とバートは肩を落としました。アリーはすぐさま聞き返しました。

「もしかして、この帽子はなんなのか書いてあったの? この帽子はなんだったの?」

 ハルは、ふたりの会話が気になったのか、本を数冊持ったままこちらにやってきました。

「何か、わかったんですか?」

 バートは黙って、アリーとハルの顔を順に見ました。

「新しい発見は、確かにあった。アリーがかぶっている帽子についてだ」



「アリーの?」

 ハルが意外そうにこちらを見たので、アリーは急いで帽子を脱ぎました。

「これ……レイに貰ったの。ギルのママも、レイがいらないというのなら構わないって言うから……」

 ハルはアリーの帽子を手に取り、不思議そうに眺めました。

「この帽子は知っています。アレクサンドラ……実母がいつも身につけていましたから。でも、これが、この国に関係しているんですか?」

「ああ。これについては俺も、長い間誤解していた。ずっと、この帽子は王妃の証だと思っていたんだ」

「王妃?」

 アリーが聞き返すと、バートは頷きました。

「国王の妻のことさ。これまで、その帽子は外部から嫁いできた王妃に与えられていたんだ。そして王太子が次期国王として即位する際、この帽子もかつての王妃から次の王妃へと受け継がれていたんだ」

 アリーは首を捻りながら、その難解な説明を飲みこみました。

「ええと、なんだか難しいけど……つまりこれは、歴代の王妃様の持ち物だったってこと?」

「ああ。少なくとも俺は、そう誤解していた」

 その説明に、アリーはまたわけがわからなくなりました。

「じゃあ違うの?」

「そうだ。違ったんだ。ほら、アリーが見つけたこのページ、ここを見てくれ」

 バートは持っていた本をこちらに向けて見せてくれました。難しい単語についてはバートがひとつずつ解説をしてくれました。

 アリーが開いていたページは、ちょうど赤帽子について記載されている部分だったようで、そこには、こう書いてありました。



 ──この王冠は、元は将来生まれる王女、もしくは将来の女王に捧げる物としてつくられた。しかし長年、王家に王女が誕生しなかったことから、この王冠の持ち主の条件は「王女」から「王家の女性」に緩められ、王女が存在しない間、例外的に王妃へと与えられた。のちにシーザー4世の妻が、重く不便な王冠を嫌ったことから、王冠の魔力と紋章は布製の帽子に移され、便宜上これを王冠として儀式に用いるようになった。この帽子は、王冠と同じ効力を持ち、持ち主が正式に王族と認められた者であることを保証する。また、国内に王女が誕生した場合、王妃は、王女の7歳の誕生祭にて帽子を王女に受け継ぐ義務を負う。



「わかるかい。つまり、この帽子は……」

「王女様の王冠ってことね?」

「そうだ。そして、もう一つ。ここを読んでくれ」

 バートは隣のページの下の方を指さしました。



 ──国王の証と王女の証は、いずれも必ず正当な持ち主が所持していなければならない。万一、現在の持ち主が死去、勘当、または時間を操作されるなどして、その地位にとどまる権利を失った場合は、すみやかにその位とそれに準ずる証を次の者に受け継ぐ必要がある。これを怠った場合、本来の持ち主、特に長子が持つ魔力が制御できず、分裂現象等のトラブルを起こした際、国家の破滅を招く可能性がある。なお、第二王子および王女についてはこの限りではない。



「第二王子および王女は……ということは、長男長女以外は大丈夫ということですか?」

「ああ。ざっくり言うと、王族の魔力は生まれた順に強い傾向にあるんだ。つまり、弟より兄の力のほうが強力なのさ。だから、いたずらに力を暴走させないように、長男を国王にして、長男にだけ国王の証を受け継ぐんだ。だが、まさか同じ法則が王女にも適用されるとは知らなかった」

 そして、少し笑ってこう付け足しました。

「ちなみに、いくら長男でも、勘当されて王族で無くなると、力は急激に弱くなっちまう。この国はよそと違って、少し気味の悪いことが多いんだ」

 それから、いつものバートらしく、リラックスした表情で、どさっとベッドに腰掛けました。

「よかった、光が見えてきたぞ。これから彼女に、レイチェルにこの帽子を渡そう。そうすれば、きっと時の暴走は収まるはずだ」

「でも、どうするの? レイは帽子のことを嫌っているみたいだったわ」

「ああ。王妃の……いや、王女の証ってのは、国王の証と違って本人の意思と国王の許可がないと持ち主を変えることができないんだ。ハロルドくんはここにいるから、あとはレイチェル王女次第だな。まあ、説得すればなんとかなるだろう」

 バートはニッと勝気な笑みを浮かべ、ベッドから立ちあがりました。

「決まりだ。森の外は危険だが、俺の時計があれば、ギリギリ元の場所にたどり着けるかもしれない」

 ハルはそれを聞いて安堵の表情を浮かべました。アリーもほっとしました。この調子なら、無事に解決できそうです。

 ところが、そのとき、突然地下室の扉が、バン! と勢いよく開きました。一同は一斉に扉の方を振り返り、そして、絶句しました。

「おい、嘘だろ。あれは、まさか……!」

「レイ?!」

 そこにいたのは、瓦礫の中で見失ったはずの、レイでした。

「レイ、どうしてここに?」

 アリーはレイの目を見て話しかけましたが、灰色のセーターを着たレイは、それにまるで気づいていない様子で、スタスタと近くにいたハルに歩みよりました。

「ハル、あなたは幸せね。ずっと母親と一緒で、母親に記憶されていて、お父様の証を受け継ぐことが許されているのだもの」

 ハルは床に膝をついたまま、ぴくりとも動かずに、驚愕の表情でレイを見上げていました。バートが叫びました。

「そいつに近づくな。逃げろ!」

 しかし、その警告は遅すぎました。レイがハルの頭部に手をかざした瞬間、ハルはどさりと床に倒れこんでしまいました。

「くそっ!」

 バートは袋から時計をひとつ取り出し、レイに向かって勢いよく投げつけました。すると、飛んできた時計の勢いに煽られるかのように、レイの身体はグニャリと歪み、一瞬にして煙のように消えてしまいました。レイの姿が完全になくなると、バートはハルに駆けより、うつ伏せになっているハルを助け起こしました。

「大丈夫か!」

 しかし、ハルは答えませんでした。意識を失っているらしく、首も腕もだらんとしています。アリーも急いでバートの側に行き、ハルの手を取りました。

 すると、その手はみるみるうちにしぼんでシワだらけになりました。そして、茶色く硬くなり、最後には、その茶色いものがボロボロと剥がれ落ちて、白い骨だけになりました。アリーはあらん限りの悲鳴をあげ、ハルの手を話しました。

「何……何よこれ。バート、どうしよう。ハルが、ハルが……!」

「なんてこった。この国の中でも、彼女の魔力は健在なのか」

 バートは悲痛な顔で、そっとハルの身体を床に戻しました。ものの数秒で、ハルの身体は着ている洋服を残し、すべて骨になってしまいました。アリーはガタガタと震えながら、バートにすがりつきました。

「ああ、どうしよう、どうしよう。ハル、どうしちゃったの? どうしてレイがこんなことを? 私、どうしたらいいの?」

 バートは黙ってアリーの帽子をぐいと引っ張り、深くかぶせました。そして、もはや原型を留めていないハルの身体から、懐中時計を取りだしました。懐中時計は真っ黒になって、ひび割れていました。

「こいつは、ただ事じゃないな……」

 バートはひとり呟くと、懐中時計をしまって、傍にあった自分の麻袋を掴み、反対の手でアリーの手首をぐっと握りました。

「いいか、あれは本物のレイチェルじゃない。本物から分裂した、レイチェルの精神体のひとつだ。この場所には入れないものと思いこんでいたんだが……ひとまず、逃げるぞ」

「待って、ハルはどうするの?」

「どうしようもない。気の毒だが、やむを得ん」

 こうしてバートとアリーは地下を脱出し、時計塔を出て走りだしました。しかし、バートは国の出口である森ではなく、なぜか全く反対の方向にアリーを連れていこうとしました。

「ちょっと、どこへ行くの? 森を抜けて逃げなきゃ!」

「森を抜けてどうする。むざむざ自分から危険地帯へ行くのか? 森の外へ出てみろ、すぐに分離体に遭遇してハロルドのようになるぞ!」

 アリーはそれを聞き、ぞっとして立ち止まりました。

「森の外の方が危険なの? それじゃあ、パパたちも、まさか……」

 バートは一瞬、しまったという顔をしました。そして、さっと横を向きました。

「そういうことは、考えるんじゃない」

 アリーは真っ青になりました。バートの表情から察するに、パパやママも、ハルのようになっている可能性が高そうです。

 バートに手を引かれて走りながら、アリーはただ、ぼんやりと崩壊した店や、大量の木と落ち葉に埋め尽くされた町のことを思いだしていました。



 ──これは、夢だわ。私は今、悪い夢を見ているんだわ。



 アリーは無意識に、心の中で自分にそう言い聞かせていました。



 やがて、草原の中に、ポツポツと小さな家が見えてきました。小さな、といっても、人間が住めるような小ささではありません。まるで模型かおもちゃのような、アリーの腰くらいまでしかない、本当に小さな家ばかりが、ずらりとあちこちに建てられているのです。

 一体これはなんなのだろう、とアリーは不思議に思いました。でも、もう、そんなことを訪ねる気力は微塵もありませんでした。

 すると、不意にアリーの身体が、ガクンと動かなくなりました。バートがそれに驚いて手を離したので、アリーはそのまま、顔から地面に倒れこんでしまいました。なんとか起き上がり、振り返ると、背後にはまた、レイがいました。ただ、さっきとは服装が違います。おそらく、さっきまで、アリーたちと一緒にいたレイです。

 レイは、しっかりとアリーの目を見て言いました。

「私の過去を調べてどうするの? あなたはいつもそう。人のことを知りたがって、余計なことばかりするわね。あんな帽子、捨ててしまえばよかった」

 レイは、ゆっくりとこちらに近づいてきます。アリーは恐怖を感じて逃げだそうとしましたが、身体が思うように動きません。足先が地面に貼りついて取れないのです。

「アリー!」

 バートがやってきて、レイに向かって赤い目覚まし時計を投げました。レイはまた、煙となって消えてしまいました。けれども、アリーの足は治りませんでした。バートは大急ぎでアリーの足を調べはじめました。その間にも、アリーの身体は動かなくなっていきました。先程は足先だったのに、足首、膝と来て、今は腰から下の感覚がなくなってしまいました。これほどの恐怖を感じたのは初めてでした。

「ねえ、バート。私も……ハルみたいになるの?」

 努めて冷静に言ったつもりでしたが、その声は酷く震えていました。バートは黙って目覚まし時計を拾い、アリーに手渡しました。そして、アリーの足に触れ、聞いたことのない言語で、何かをつぶやきはじめました。その姿は、まるで魔法使いが魔法の呪文を唱えているようでした。

 実際、それは魔法だったのかもしれません。アリーの足は、ものの数秒で軽くなり、いつも通りに動くようになりました。しかし、その瞬間、バートはアリーの足に触れていたときと同じ姿勢のまま、どさりと地面に伏してしまいました。アリーはびっくりしてバートを揺さぶりました。

「バート? どうしたの?!」

 見ると、バートの顔は、上手く筋肉が動かないのか、こわばっていました。それでも彼は、無理くり笑顔を作って言いました。

「安心しろ、アリーにかかった魔法を俺が引き受けただけだ。だがもう、これ以上先に進むのは無理だろうな」

「引き受けた、ですって? それじゃあ……」

 バートはアリーを庇ってくれたのでしょうか。あのつぶやきは、やはり呪文だったのでしょうか。やはり彼は、魔法使いだったのでしょうか。けれども、もはや、それを問う時間はなさそうでした。バートは苦しげな顔をして、弱々しく腕を伸ばし、こちらに拳を突きだして何かをアリーに手渡そうとしてきました。アリーがバートの掌を開いてみると、そこには小さな鍵がありました。バートが、途切れ途切れに言いました。

「いいか、この鍵と時計を持って、この道を行った先にある小屋へ行け。小屋の中には人間が入れる大きさの扉がある。この鍵で開けられるはずだ。森での彼女の気配は薄いから、扉の向こうなら、きっとレイチェルの魔力も及ばないに違いない。新しい幻影が現れる前に、急ぐんだ」

「何を言っているの? 私ひとりで行くの? バートはどうするの? そんな、そんなの……」

 言いながらアリーは、何かが自分の頬をつたいはじめていることに気がつきました。男の子にホウキで叩かれても、お父さんに本気で叱られても、泣いたことなんてなかったのに。泣くことは恥ずかしいことだと思っていたのに。けれども、駄目でした。アリーは必死に言葉を紡ごうとしましたが、すべて嗚咽に変わってしまいました。

 バートは目を細め、優しく言いました。

「大丈夫だ。アリーは、誰よりも強い心を持っているし、行動力もある。いざというとき逃げてばかりの俺なんかより、ずっと頼れる人間だ。だから、どうか今だけは俺の言葉に従ってくれ。このままふたりとも駄目になってしまったら、15年前の二の舞だ。俺は、アリーの時間をこんなところで終わらせたくないんだよ」

 なんてことを言うのでしょう。まるでこの世の終わりのようです。アリーはもう、座りこんで泣くことしかできませんでした。そんな彼女を見て、バートは弱々しく首を動かして項垂れました。

「すまなかった。俺が自分の目的を優先したばかりに、こんなことに巻きこんでしまって……全ては俺の責任だ。恨んでくれて構わない」

 きっと項垂れたのは、頭を下げて謝罪をしようとしていたのでしょう。そして、こう続けました。

「頑張れよ、アリー。正直、小屋の扉の向こう側がどうなっているかは、俺もはっきりとは知らない。だが、屋敷の中に繋がっているのは確実だ。扉を抜けたら、歩きまわらずに、じっと隠れて様子を伺うんだ。それでも万が一、誰かに捕まったら、こう言うんだぞ。『私はアルバート・ペンバートンに導かれて、この場所にたどり着きました』とな」

「え……?」

 突然出てきた聞きなれない名前を、アリーは声を絞りだして復唱しました。

「アルバート……ペンバートン……? まさか、それがあなたの本名なの……?」

 しかしバートは、それには答えてはくれませんでした。彼の顔を覗きこむと、すでにその顔は、固く茶色い皺だらけの物体と化していました。

 アリーはバートの身に何が起こったのかを理解し、ぎゅうっと手に持った鍵を握りしめました。



 もう、誰もいません。



 この先は、ひとりで進むしかないのです。



 アリーは袖で顔を拭き、立ちあがると、一度だけバートの方を振りかえりました。そして、彼に背を向け、全てを振りきるかのように、全力で地面を蹴って走りだしました。



 アリーの心臓は破裂寸前でした。空気の味もわからなくなり、腹部はキリキリと痛みました。全身のありとあらゆる部分が、もう限界だと悲鳴をあげているのがわかりましたが、アリーは足を止めませんでした。

 いえ、正確には止められなかったのです。止めてしまったが最後、きっともう二度と立ちあがれなくなる気がしていました。頭がくらくらして、目の前の景色は霞んでいましたが、それでもアリーは走りつづけました。



 こうして、どこまでも続く小さな家たちの間を抜けていくと、突然、人間が入れる大きさのかわいらしい小屋が現れました。バートが言っていた通りです。他に、人間が入れそうな建物はありません。アリーは鍵をポケットにしまうと、目覚まし時計を手に持ったまま、ヨロヨロとその小屋に近づいていきました。

「イザドラ……」

 ドアノブに手をかけたとき、突として、小さな声が聞こえました。アリーは血の気が引きました。ゆっくりと振り返ると、そこにはアリーよりも遥かに小さな、見知らぬ黒髪の子供がいました。けれども、その顔立ちには、どこか見覚えがありました。

「レイ、なの……?」

 しかし、返事はありませんでした。少し丈の長い、白襟の青いワンピースドレスを着たその子は、少し不満そうにこちらに向かって言いました。

「お父様は、お母様は? ハルはどうしているの?」

「えっ?」

 そのときでした。身体中にピリッと静電気のような痛みが走りました。そして、足が異常に重くなり、動きにくくなりました。間違いありません、ここにいるのはレイです。

「あ……あああ……!」

 アリーは無我夢中で足を引きずって小屋に入り、内側の鍵をかけました。そして、近くにあった椅子を扉に立てかけました。幸い、足は思うように動かないものの、自力で歩くことはできました。

 小屋の奥の壁には、とってつけたようなドアノブがありました。扉いうよりは、ノブがついた壁という感じです。まるで騙し絵のようでしたが、この小屋で入口の他に「扉」と呼べそうなのは、ここくらいでしょう。他には窓くらいしかありません。

 きっとこれだわ、とアリーは確信し、鍵を取りだし、鍵穴に差しこみました。しかし、鍵は回りません。何度試してもだめでした。鍵と鍵穴が合っていないようです。アリーは大急ぎで小屋中を調べてみましたが、他に扉らしきものはありません。



「ここは見張り小屋なの? 小屋というわりに大きいのね……」

「どうして、私はここにいなければならないのかしら……」



 外からは時折幼い声が聞こえてきました。そして、その度に、小屋は大きな音を立てて揺れました。天井や壁からはミシミシと木材が軋む音がしました。

「どうして、どうして鍵が合わないの?! ねえ、バート……!」

 その間にも、小屋の外からは謎の声が聞こえ、小屋は大きく揺れました。それどころか、声は段々と大きくなってきています。アリーはもう、パニックでした。小屋の外に出れば、先程のバートのようになってしまうでしょう。けれど、扉は開きません。どういうことなのでしょう。どこで間違えたのでしょうか。

「どうしよう、どうしよう……!」

 とうとう、ドアノブがガチャガチャと音を立てはじめました。レイが扉を開けようとしているのでしょうか。開けられたら、どうなるのでしょうか。

 ──そもそも、どうして私はレイに怯えているのだろう。どうして、こんなことになってしまったんだろう? 

 ふっと、そんな疑問が頭をよぎりました。レイがうちに来たときから、パパとママはレイのことを気に入っていました。アリーだって、レイのことは嫌いではありませんでしたし、レイだって、時々はアリーの話相手をしてくれました。なのに今、レイによって町は変貌し、ハルとバートはいなくなってしまいました。

 ──誰のせい? バートのせい? 違う……

 アリーは、そこで初めて、恐ろしいことに気がつきました。

「私だわ……私が帽子について知りたいと思ったから……森なんかに行ったから……」

 全身の力が抜けました。そうです、元はといえば、アリーがレイの帽子に興味を示したことからはじまったのです。

 帽子のことなんか話さなければ。せめて、帽子を受けとらなければ。受けとったとしても、森に行かなければ。ギルの誘いを断っていれば。余計なことをしなければ……

 ぐっと、喉から何かがせりあがってきました。バートと別れる前に、さんざん泣き尽くしたはずなのに。アリーは悔しくてたまりませんでした。今の今まで、アリーは何も考えず、自分の好奇心にだけ従って行動してきました。そのくせ、ハルを助けることもできず、バートを身代わりにして逃げだし、今は小屋の中でレイに怯えて泣いているのです。こんなに情けない話はありません。

 全ては、自分が撒いた種なのです。

 このまま、諦めるという選択肢もあります。元はアリーのせいなのですから、アリーだけが逃げのびたって仕方がありません。

 だけど、バートたちはどうなるのでしょう。バートはアリーに「頑張れよ」と言っていました。このまま頑張らずに力尽きたら、バートたちを助ける人はいなくなってしまいます。パパたちだって、どうなるかわかりません。今は、頑張らなければいけないのです。

「扉を開けなきゃ……逃げて、バートたちを助けなきゃ……!」

 アリーは顔をあげました。こうなったらやけです。アリーは入口を塞いでいた椅子を取りあげると、大声をあげて、めちゃくちゃに奥の扉を叩きはじめました。椅子を使って叩けば、扉をぶち破れるかもしれません。もちろん、アリーのような小さな少女の力なんてたかがしれていますから、成功する保証は全くありません。それでも、やるしかないのです。

 そうやって、何十回扉を叩いたでしょうか。突然、ピクリともしなかった扉が、ギイっと向こう側に動きました。椅子を振りあげていたアリーはそのまま、勢い余って扉に突進してしまいました。

「きゃあーっ!」

「うわあ!?」

 扉を挟んだ向こう側には誰かがいたようで、扉越しに尻もちをつく音が聞こえました。アリーは椅子と一緒に扉の向こう側に転がりでると、ハッと起きあがり、急いで扉を閉めました。

 ふと見上げると、上の方に小さな窓と斜めの天井が見えました。扉の向こうは、屋根裏部屋だったようです。

「痛ってえ……」

 誰かが、腰をさすりながら起きあがりました。きっと、扉の向こうにいた人でしょう。かなりの勢いで突っ込んでしまったので、相手のダメージも相当なものでしょう。アリーも扉にぶつけてしまった肘や頭がズキズキと痛みました。

「ご、ごめんなさい! 悪気はなかったんです」

 すると、相手は驚いたようにこちらを見ました。暗いのでよく見えませんが、スーツを着た男性のようでした。

「お兄様、ネズミはどうなりましたの? いい加減に降りてきてくださいな」

 床の下から、女の人の声がしました。男性は訝しげにアリーの全身を観察した後、こう尋ねました。

「お前の名前は?」

「わ、私はアリー……です」

「ふーん。まあいいや」

 男性は、そばに置いていたロウソクを持ち、床に空いていた穴の方へと行くと、こちらに向かって手招きしました。

「とりあえず降りるぞ。話は後で聞く」

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