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5 兄の真実

 その日、帰宅したギルは部屋に戻り、何度も懐中時計のゼンマイを巻いてみましたが、手を離しても時計が動きだすばかりで、フローの姿はおろか、声すらも聞こえてきませんでした。

 やっぱり、あの夜の出来事は夢だったのでしょうか。しかし、森の奥にあった不気味な時計塔やアリーの帽子、そしてあのバートが使った不思議な術のことを考えると、とてもそうは思えません。

 そういえば、とギルは顔を上げました。そもそも、この時計をギルに譲ってくれたのは、兄のハルでした。ハルに聞けば、何か教えてくれるかもしれません。

 ギルはすぐさま席を立つと、駆け足で隣の部屋へ向かいました。



「妖精?」

 ベッドに腰掛けて読書をしていたハルは、本に視線を落としたまま、訝しげに聞き返してきました。

「そうなんだよ。フローっていう、変な頭した妖精が出てきて、王子がどうとか、森に来てほしいとか……」

「森だって?」

 ハルは眉をひそめると、本を閉じてギルを見上げました。

「まさか、隣町の森かい? あそこへ行ったのか」

 ギルはぎくりとして固まりました。こういうとき、とっさにうまく立ち回れないのが、ギルの悪いところでした。図星であることを見抜くと、ハルは怒ってベッドから立ち上がりました。

「あれほど止められていたのに、また行ったのか! だからローレンスさんの家にいたんだな。どういうつもりなんだ」

「ご、ごめんなさい。だけど俺、行かなきゃいけなかったんだ」

 ギルは慌てて謝りました。そして、懐中時計を取りだして、ハルに見せました。どうせ叱られるなら、今日あったことを全て聞いてもらってからにしようと思ったのです。

「聞いてよ、あの森に行くと、不思議なことがたくさん起こったんだ。突然時計が光ったり、針が回りだしたり。それから……」

「やめろ、それ以上言うんじゃない」

 ハルがぴしゃりと言いました。普段なら絶対に見せない、冷たい表情でした。

「森には行くな。関わるんじゃない。余計なことを知る必要はない」

「でも、フローが来てほしいって言ったんだ。助けてほしいって、俺に言ったんだ」

「あんな奴らの言うことを聞くな! 僕はもう、くだらない奴らに関わるのはたくさんなんだ。これ以上、僕を惑わさないでくれ!」

 その凄まじい剣幕に、ギルは言葉を失いました。とても何かを言い返せる状況ではありません。しかし、ハルの言葉には違和感を感じました。まるで、今日までのギルの体験を知っているかのような言い方です。

「何を言い争っているの、やめなさい!」

 騒ぎを聞きつけたお母さんが部屋の扉を開けて入ってきました。お母さんはとっさに扉のそばにいたギルの肩を抱くと、不安げにハルの方を見ました。

「ハル、どうしたの。そんなに大声を出したりして。まるでギルみたいよ」

 すると、ハルはお母さんに向かってこう吐き捨てました。

「そうだよ、僕は大声を出して喧嘩をしたりしない。勉強だってさぼらないし、誰かを怪我させたりもしない。僕はそういう子供だった。そういう子供でいないと、誰にも育ててもらえないんだ。だって僕は母さんたちの家族じゃないからね!」

 そうして、近くの机に置いてあった封筒と財布だけを取ると、そのままお母さんを押しのけて、出ていってしまいました。

 ギルは何が起こったのかが理解できず、その場から一歩も動けませんでした。お母さんも呆然とその場に立ちつしていましたが、しばらくすると、ふっと糸が切れたように、その場に座りこんでしまいした。

「母さん!?」

 ギルが慌てて立ち上がらせようとすると、お母さんは俯いたまま、呻くように呟きました。

「どうして……? 私は、ずっとあの子を可愛がってきたはずなのに……」



 それから、10分が経過しましたが、ハルは帰って来ず、お母さんは床に座りこんだままでした。ギルはいても立ってもいられず、ハルを探しに行こうと玄関の扉を開けました。すると、ちょうど誰かが扉の向こうに立っていました。それは、ギルのお父さんでした。

「やあギル、ただいま。どこかへ行くのか? もう日が暮れているぞ」

「父さん、大変なんだ。兄さんがどこかに行っちゃったんだよ」

「なんだ、そんなこと。あのハルが夜遊びをするはずはないし、大丈夫だろう。じきに帰ってくるさ」

「違うんだよ。俺にもよくわかんないけど、大変なんだよ」

 どんなにギルが説明しても、お父さんは冗談でも聞いているかのように笑い飛ばすばかりでした。ところが、ギルの後ろから目を真っ赤にして憔悴しきったお母さんがやってきたのを見て、ようやくただ事ではないことに気がついたようでした。

「おい、おい。一体どうしたんだ」

「知らないよ。とにかく、俺、兄さんを探してくるから」

 ギルは、お父さんたちが何か言う前に、家を飛び出し、全速力で走りました。



 ハルは、拍子抜けするほど簡単に見つかりました。家の近くの駅の薄明かりの下、人混みに紛れてぼんやりと汽車を眺めていました。ギルはすぐさま駆けよって声をかけました。

「こんなところで何やってるのさ」

 ハルは答えませんでした。代わりに、ため息まじりに薄く笑ってみせました。

「参ったなあ、やっちゃったよ。これでもう、僕は家には帰れない」

「何、めちゃくちゃなことを言っているんだよ。家なんかすぐそこじゃないか。帰ろうよ」

 ギルはハルの腕を引っ張りましたが、びくともしませんでした。普段のハルなら、何回かお願いすればすぐに折れてくれていたのですが、今日に限っては随分と頑固でした。

「ギル、9年前のことを覚えてる?」

 不意に、ハルが尋ねました。視線は相変わらず、改札やプラットフォームの方を向いていました。ギルは驚きつつも、答えました。

「9年前じゃ、俺はまだ2歳だよ。何にも覚えてないや」

「そうだ。そして僕は7歳だった。9年前に、僕らはローレンスさんに招待されて、隣町に家族で遊びに行った。大人たちは楽しそうに話していたけれど、僕はつまらなかった」

 ハルはずっと、改札の方を向いたままです。ギルに話しかけているのか、独り言を言っているのか、ギルにはよくわかりませんでした。

「しばらくして、大人たちはギルがいなくなっていることに気がついた。僕はひとりで窓の外を眺めていたから、ギルのことなんか見ていなかった。家中探したけれど、ギルは見つからなかった。それで、大騒ぎになったんだ」

 そして、おもむろに駅の窓口に近づくと、窓の隙間から現金を差しだしました。

「コードルクまで。2枚ください」

 コードルクというのは隣町の名前です。ギルは仰天しました。辺りはすっかり暗くなっているのに、こんな時間に隣町へ何をしに行くのでしょう。

「どういうつもりだよ、兄さん」

 すると、ハルは口元に穏やかな笑みを浮かべて振り返りました。

「いい子でいるのは、今日限りもうやめたよ。それよりもギル、あの森について知りたいんだろ? 知りたいのなら、黙ってついてくればいい」

 その有無を言わさぬ気迫に、ギルはただ頷くしかありませんでした。



 この時間はちょうど帰宅ラッシュで、急行はどれもひどく混雑していました。一方で、ふたりが乗った各駅停車は人が比較的少なく、座席もいくつか空いていました。

 乗客を乗せると、列車は速やかに発車しました。汽車では隣町までは一駅です。せいぜい5分もあれば着いてしまいます。

「さっきの話の続きだけどね」

 クロスシートの窓際に座ったハルは口元だけに笑みを浮かべ、ギルではなく窓の方を向いて話しはじめました。

「あの日、ギルがいなくなったことに気づいてすぐ、大人たちは出ていってしまった」

 その瞳はギルを見るわけでもなければ、窓の外を見ているわけでもなさそうでした。ギルはハルの据わりきった目に怯えてしまい、口を挟むことすらできませんでした。

「おおかたギルを探しに行ったか、警察に届けに行ったのだろうね。誰も僕のことは気にとめていなかった。だから、僕はひとりでギルを探しに行ったんだ。ギルが心配だったのもあるし、何よりも退屈だったからね」





 7歳のハルは、ひとりぼっちで土地勘のない隣町をでたらめに歩き、ギルを探しました。そのうちに、やがて人気のない、やけに静かな野原へとたどり着きました。ハルは気味が悪くなって帰ろうとしましたが、野原の向こうにギルがいるのを見つけました。

 ギルはこちらに気がついておらず、野原の端にある大木たちの中、つまりあの人喰い森と呼ばれる森の中へと入っていきましたので、慌ててハルは、彼の後を追いました。

 やっとのことで追いつくと、ギルは薄暗い森の中が怖くなったのか、怯えて泣きだしてしまいました。ハルはすぐに、ギルを連れて外へ出ようとしました。そのときでした。

「そこにいるのは、誰かね?」

 しゃがれた低い声が聞こえました。振り返ると、ランタンを手にもったおじいさんが、ぎろりとこちらを睨みつけていました。

「ここは遊びで来るような場所じゃない。帰りな」

「ご、ごめんなさい」

 叱られるのは嫌だったので、ハルは急いで森から出ようとしました。ところが、その瞬間、ハルのポケットがおじいさんのランタンをかき消してしまうほど強く光り輝きました。

 ハルは仰天しました。ギルもびっくりしたのか、泣くのをやめてしまいました。しかし、最も驚いていたのはおじいさんでした。おじいさんは、ハルのポケットを指さしました。

「それはなんだ、何を持っているんだ?」

 ハルはポケットを探ってみました。出てきたのは、ハルの7歳の誕生日にお父さんがくれた、銀の懐中時計でした。しかし、おかしなことに、それまで何もなかったはずの時計の文字盤に綺麗な王冠が刻み込まれていました。おじいさんは、ずいとその文字盤を覗きこむと、訝しげに尋ねました。

「これは、お前の時計かね?」

「うん。父さんが僕にくれたんだ」

 かっこいいデザインの時計に惹かれていたのもありますが、それ以上にハルは、普段ギルばかり可愛がるお父さんが自分のことを見ていてくれたことが嬉しくて仕方ありませんでした。それからというもの、ハルはどこに行くときも懐中時計を必ずポケットに入れ、肌身離さず持ち歩くようになったのでした。

「名前は?」

「僕? 僕はハロルド・ワイズ」

 すると、おじいさんはかっと目を見開きました。

「ハロルドだって! まさか、それじゃあ……あなたは王子様なのでは? あなたのお母様はきっと、アレクサンドラという名前でしょう」

「えっと、アレクサンドラという伯母さんならいるけど……」

「ああ、やっぱり王子様だ! だったら、この不思議な現象にも説明がつく。よくぞ立派になられました。さあさあ、わしについてきてください」

 おじいさんは、勝手に何かに納得すると、さっきまでと打って変わって明るい声になり、意気揚々とハルの手をとって、どこかに連れていこうとしました。ハルにはわけがわかりませんでしたが、おじいさんが自分を森の奥に連れていこうとしていることだけは理解できました。

「離してよ、僕たち早く家に帰らなくちゃいけないんだ」

「家ならほんの数時間で着きますよ。さあ、いらっしゃい」

「おじいさんの家のことじゃないよ。僕、ギルを連れて帰らないといけないんだ」

 こうしてハルとおじいさんが言い争っていると、放っておかれて退屈になったのか、またギルがぐずりはじめました。

「ほら、おじいさんのせいで、またギルの機嫌が悪くなっちゃった。ギルは気分屋だから、あんまり放っておけないんだよ」

 怒ったハルが責め立てると、おじいさんはしょんぼりとしてハルの手を離してくれました。

「わかりました。それでは、森の外までお送りしましょう。どうせ、今から郵便を送る手続きをしないといけないのでね」

 こうして、3人はまた、町外れの野原まで戻ってきました。ハルがほっとしていると、おじいさんはしみじみと語りました。

「まさか、こんなに早く王子様と再会できるとは思いませんでした。しかし、こんなことがあるとは驚きです。本当は困っていたのですよ。形見の時計は王の意向で王女様がお持ちですし、どうやって王子様に国王の証をお渡しすればいいのかわからなくてね。ですが、今になってようやくわかりました。証を受け継ぐための器は何でも良かったということなのでしょう。これでわしの使命の半分は終わったということになります」

 ひとりでぐだぐだとお喋りを続けるおじいさんを見て、ハルはだんだん怖くなってきました。

 おじいさんはハルに、家族のことや住所を訊いてきました。仕方がないので、ハルは適当にはぐらかして、隣町に住んでいることだけを伝えました。とにかく、ギルのためにもこのおじいさんから離れて、一刻も早く家に帰らなければなりません。

「わしは国を留守にするわけにはいきませんから、ここでお別れです。次にあなたがいらっしゃるときに備えて、色々と準備をしておきましょう。次にここへいらっしゃるときも、必ずその時計をお持ちくださいね。それがあれば、わしとは違ってほんの数十分で森を抜けることができます」

「わかりました、また来ます」

 当然、もう一度来るつもりなどさらさらありませんでした。ハルは場を収めるためにそう口走ったにすぎません。けれども、おじいさんはそれを聞いて安堵したようでした。

「きっとですよ」

「はい。それじゃあ、さようなら」

 ハルは、地面の雑草をむしって遊んでいるギルの手を引くと、一目散にその場を後にしました。

 森から伸びる一本道を辿っていくと、やがて見覚えのある大通りに出ることができたので、ふたりは無事にローレンス家に戻ることができました。ふたりが帰りつくと、ちょうど大人たちも戻ってきており、驚きながらも大喜びで迎え入れてくれました。

 ハルが森でギルを見つけたことを話すと、お父さんはハルに注意しました。

「ギルを連れて帰ってきたのは立派だが、あの森は危険だ。二度と行くんじゃないぞ。ギルが大きくなったら、厳しく言い聞かせないとな」

 また、森で出会ったおじいさんのことを話すと、お母さんがこう言いました。

「その人はちょっとおかしな人だったのよ。きっと人違いをしていたんだわ。忘れてしまいなさい」

 こういうわけで、ハルは森での出来事を忘れ、ギルにも話さずにいることにしました。ただ、時計の文字盤に刻まれた王冠だけは、消えることがありませんでした。のちにお父さんに王冠の模様について尋ねられたとき、ハルはこう言ってごまかしました。

「僕が分解してナイフで削ったんだ。こうすればお洒落に見えると思ったんだ」

 お父さんは少し呆れた顔をしましたが、ハルを叱ることはしませんでした。

「珍しく勝手なことをしたんだな。だが、悪くはない。この時計はお前のものなんだからな。好きにすればいいさ」

 それ以来、銀の懐中時計には王冠がついたままになりました。





 そこまでハルが話し終えたとき、独特のブレーキ音と汽笛が鳴り、客車ががたりと大きく揺れました。はっとギルが窓を見やると、汽車はすでにプラットフォームの隣に停まっていました。

「降りるよ」

 ハルにそう促され、ギルは慌てて席から立ち上がりました。



 駅の外では、帰りを急ぐ人々に混じって顔を赤くした男性がちらほらと歩いていました。仕事終わりに飲みに行った帰りでしょう。普段、こんなに遅くなるまで外出することのないギルは、その珍しい光景にしばらく目を奪われていました。

「兄さん、今からどこに行くの?」

「森さ」

 ハルはぽつりと答えました。ギルは仰天しました。

「こんな夜に行くの?冗談じゃないよ」

「夜なら人がいなくて好都合じゃないか。帰る場所もないし、久しぶりに行ってみようと思ってね」

「何を言ってるんだよ。やっぱり今日の兄さん、なんだかおかしいよ」

「そうかな。逆かもしれないよ。おかしいのは昨日までの僕だったんじゃないかな。きっとそう。僕は、ずっと自分自身に嘘をついていたのかもしれない」

 相変わらず、ハルの瞳は虚空を見つめていました。本当に、ついさっきまでとは別人のようです。ギルは逃げだしたくなりました。しかし、こんな状態のハルを置いていくわけにもいきません。

「よう、坊ちゃんじゃないか! こんな所でどうしたんだ」

 背後から飛んできた聞き覚えのある声に、ギルはばっと振りかえ理ました。

 そこにはバートがいました。着ている服も、不潔な髪の毛の具合も、脂ぎった顔も、何もかも昼間と同じでした。

「バート!」

 藁にもすがる思いで、ギルはバートに手を振りました。ハルが怪訝な顔をしました。

「よしな、ギル。浮浪者なんかに手を振るんじゃないよ」

「兄さん、違うよ。この人は俺の知り合いなんだ」

「こいつは意外だな。あれだけ俺のことを嫌っていたくせに。いつの間に知り合いに昇格してくれたんだい」

 バートは面白そうな顔をして、こちらに近寄ってきました。

「どうも、こんばんは。いやあ、まさか晩飯の帰りに君と再会するとは思わなかったよ。こっちの青年は君の友達かい」

「兄さんだよ。ハルっていうんだ」

 すると、ハルが低い声で言いました。

「いいえ、僕は兄ではありません。従兄弟いとこです」

 あまりにも唐突な発言だったために、はじめのうち、ギルはハルの言っていることが理解できませんでした。

「え? な、何を言ってるんだよ、兄さん」

「僕は彼の母方の従兄弟です。僕の実家は、人喰い森の向こうにあります」

 ハルはまばたきひとつせずに、淡々とそう告げました。ギルは慌てて取りつくろいました。

「違う、違うんだよバート。兄さんは俺の実の兄さんなんだ」

「ギル、僕たちは騙されていたんだ。僕たち、兄弟じゃなかったんだよ。僕はサンディおばさんの息子で、父親は森の奥で眠っているらしいんだ」

 バートは目を丸くしてふたりの顔を代わる代わる見ていましたが、険悪な雰囲気を感じとったのか、大袈裟な仕草で頭に手をやると、大笑いをしてみせました。

「ははは! こりゃ、とんでもない現場に居合わせちまったようだな、面白い。その話、この俺にも聞かせてくれ。どうせ、俺は森の側で野宿する予定だしな。時間ならたっぷりとある」

「お断りします。僕、あなたみたいな不潔な人は嫌いなんです」

 ハルは冷たく突き放しました。ところが、バートはひるむどころか、さらに大口を開けて笑ってみせました。

「まあまあ、そう言うなよ。俺は昼間、そこにいるギルくんを助けてやったんだ。大変だったんだぞ? せっかくだから、ここでその借りを返してもらおうじゃないか」

「そう、そうなんだよ。バートはすごく親切な人なんだ。信頼できるよ。だから一緒にいてもいいだろ?」

 ギルはとにかく、ハルとふたりきりになるのだけは嫌でした。バートのことは信用できませんでしたが、悪人でないことだけは知っています。バートがいれば、ハルの態度も和らぐかもしれません。ギルはいつになく必死でした。

「ねえ、兄さん。お願いだよ」

 ハルはしばらく渋い顔をしていましたが、やがて大きくため息をつくと、いいよ、と小さく言いました。

「別にどうでもいいや。誰がついてきたって、気にしないよ」



 3人は、森へと続く寂しい小道を連れだって歩きました。ただでさえ人気のない道です。街灯などあるはずもなく、バートが持っているランタンの灯りだけが頼りでした。

 ギルは黙ってバートの陰に隠れるようにして歩きました。数分歩き続けて完全に周囲から人の気配が消えた頃、おもむろにバートが口を開きました。

「ところで、ええと、君はハロルドくんだったな。どうしてまた、人喰い森なんかに行くんだ? 俺はともかく、君みたいな若者が夜にこんな場所に来ちゃ、危ないじゃないか」

「帰ろうと思うんです」

 ハルはぽつりと呟きました。

「育ての両親を罵倒してしまって、帰るところがなくなったんです。だから、森へ行くんです。森の向こうには僕の実家があるらしいので」

「なるほどな。実家というのは」

 バートはそこで一呼吸おくと、疑わしげに尋ねました。

「クロック王国のことかい」

「僕、戸籍上はハロルド・ワイズという名前なんです。でも、聞くところによると、本当の名前はハロルド・シーザー・アワーズというそうなんです。ついでにクロノス・オブ・クロックという称号が付くんだとか」

 すると、それまで陽気に喋っていたバートが、ぴたりと足を止めました。急に止まったので、ギルは危うくバートの臀部にぶつかりそうになりました。

「アワーズ……? クロノスだと!? それは本当かい。どこで誰に聞いたんだ。今までいったいどうやって暮らしていたんだ。その名前は誰に教えられたんだ!?」

「母親のことは、母が危篤状態になったとき、叔母から教えられました。母は長年精神病で、自分の息子のことがわからなくなっていました。結局、死ぬまで僕が息子であるとは知らないままでした。その後、実の姉を名乗る人物から手紙が届きました。本名や実家のことは、そこで初めて知りました」

「姉……その話が本当なら、王女も存在するということか」

 バートは、これまで見たことがないくらい気難しい顔をして考えこんでしまいました。ギルは思わず叫びました。

「なんだよそれ。俺、そんな話、今初めて知ったよ!」

「今まで黙っていたからね。ギルに隠そうと提案したのは、『君の』母さんだ。僕はただ、それに従っていただけさ。覚えているかい、ギル。君の伯母アレクサンドラ・ブラウンは、何度注意しても、君のことを『ハル』と呼んでいたね」

「う、うん」

 そう、サンディおばさんこと、アレクサンドラは昔からおかしな人で、決まってギルのことを「ハル」と呼んで可愛がり、本物のハルにはまるで興味のないそぶりを見せていました。ギルもハルも、再三注意したのですが、結局おばさんは死ぬまでギルのことを「ハル」と呼んでいたのでした。

 ハルは憎々しげに言い放ちました。

「おばさんは僕が1歳のとき、原因不明の高熱を出して、それから精神的にもおかしくなってしまった。その後しばらく入院していて、退院して帰ってきたとき、既に僕は5歳だった。そして、家には生まれたばかりのギルもいた。『赤ん坊のハル』しか知らないアレクサンドラは、そこにいた赤ん坊こそが息子のハルだと勘違いした。で、そのまま自分の息子である『ハル』を可愛がり続けていたというわけさ」

「そんな。それじゃあ……」

「真実を知って、すべて合点がいった。アレクサンドラは僕と勘違いしてギルを可愛がっていた。そして、君の父さんであるアーロンは、自分の実子であるギルにしか興味がなかった。君の父さんが僕に冷たいのは、気のせいじゃなかったんだ。ろくに働くこともできない穀潰しの義姉の息子なんかを養っていただけでも立派だよ。何も知らない僕が愚かだったんだ」

「父さんは、兄さんに冷たくなんかしていないよ。俺なんかより兄さんの方がいい子だって、いつも言っていたよ」

「いい子じゃない僕には興味がないってことさ。父さんが可愛がっていたのは、僕の成績と外面のよさだけだ。僕そのものが大切なんじゃない。父さんは、よくも悪くも正直な人だ。口に出さなくたって、態度に出る。ギルにはわからなくても、僕にはわかる!」

 ギルはもう、何も言えませんでした。

 いつも穏やかで、年不相応に落ちついていて、大人に褒められるハルはいつだって羨望の的でした。ギルはいつもハルを羨ましく思っていました。いつもギルは叱られているのに、ハルはいつだって褒められてばかりでしたから、ハルほど幸福な人はいないと思っていました。

 しかし、目の前にいる彼は、表情にこそ出さないものの、全身から憎しみを放っていました。それはあまりにも凄まじく、ギルひとりがどうにかできるような代物ではないということが、今のギルには嫌というほどわかりました。

「今の話で、大体のことはわかったよ」

 バートが、静かに言いました。

「森へ行こう。そこに、君の目的があるんだろう」

「ええ、そうですね。急ぎましょう」

 冷たく透き通った声で、ハルが答えました。



 無言のまま、3人は森の入り口である草原にやってきました。いえ、正確にはバートが「ここだ」というので、かろうじて今いる場所が草原なのだと認識することができていました。この場所には本当に何もなく、ランタンの光は3人の足元を照らすのがやっとでしたから、まるでギルたちは闇の中を歩いているようでした。

「本当なら、俺はここらで寝るつもりだったんだが、せっかくだから森を抜けよう。あの時計は持っているよな?」

「うん」

 ギルは懐中時計を握りしめ、バートに導かれるまま、森へと足を踏みいれました。頭上に少しばかり見えていた星たちは何かに遮られて見えなくなり、それまで平らだった地面は木の根で凹凸だらけになりました。

「あれ?」

 ギルは、眉を潜めました。

「時計の光が弱くなってるぞ。おかしいな」

 昼間と同じく、時計の文字盤は発光していました。しかし、妙に弱々しいのです。まるで、消えかけのランプのように、ぼうっとした光になっていました。おまけに、ずっと光ってはいられないのか、時々チカチカと消えいりそうに瞬いています。

「うん? こりゃ、時計の魔力が限界に近づいているのかもしれないな」

 バートがギルの時計を取り上げて、じろじろと文字盤を観察しはじめました。

「こいつは……君の私物じゃないな」

「うん。兄さんのだよ」

 ギルは、隣にいたハルが何か言いかけたのを察知して、すかさずこう付け加えました。

「兄さんが何と言おうと、兄さんは俺の兄さんだよ」

 それを聞いて、ハルは口を挟むのをやめたようでした。バートが、納得したように息を吐きました。

「そうか、そういうことか。これでやっとわかったよ」

「何がさ?」

「君の時計の謎さ。いいか、ここに刻まれている王冠は、クロックの国王の証を示すものだ。だが、懐中時計に変わっていたとは知らなかった。俺の知る限り、国王の証というのは金の腕時計と共に受け継がれているはずなんだがな」

「コクオウノアカシ?」

「そうだ。この証は代々、クロノスの称号を持つ第一王子にのみ受け継がれるものだ。どうやら、今の国王は君のようだな、ハロルドくん」

「王子!? 兄さんが?」

 仰天して声を荒げるギルをよそに、ハルはあくまでも冷静に答えました。

「さあ。僕は何も聞かされていないので、答えられません」

「少し、この時計を持ってみてくれ。この時計は、君の魔力によって動いていたんだ。君が持てば、時計は息を吹き返す」

「魔力? そんなもの、僕には……」

 そう言いつつも、ハルは時計を受け取りました。すると、時計はみるみるうちに輝きを取り戻し、バートのランタンを凌ぐほどの強い光を放ちました。おかげで、3人はお互いの顔をしっかりと確認することができました。

「ほうら、成功だ。やっぱり、その時計は君が持つべきだよ」

「そんな、まさか。僕は何も知らないのに」

「君が王家の血を引いていている以上、君には時を操る力が備わっている。君に自覚がなかっただけだ。この時計は、今まで君の魔力を吸って蓄えていたというわけさ」

 ハルは、信じられないといった様子で懐中時計を見つめました。バートがぽんとハルの肩を叩きました。

「さあ、先を急ごう。詳しい話は向こうでした方が早そうだ」



 やがて、遠くの方からうっすらと、こちらに光が差しているのが見えました。近づいていくと、そこは草原でした。空は青く、太陽が真上から照らしています。

「嘘だろ、もう夜が明けたのか」

「いいや、違う。俺たちはクロックへと辿り着いたのさ」

 時計塔へと向かう途中、バートはハルにこの国の説明をしました。ハルはただただ目を見張り、この不思議な場所を隅々まで観察していました。

「これが、『クロック』。これが、手紙に書いてあった国……」

 時計塔の前まで来ると、ハルはポケットから、皺だらけになった封筒を取り出しました。中からは、小さな本が作れるのではないかというくらいの便箋が、これまたしわくちゃになって詰めこまれていました。

 ――敬愛なるクロノス・オブ・クロックに宛てて

 1枚目の便箋には、そう書かれていました。

「これ、何?」

「さあね。アレクサンドラの葬儀の後、突然届いたんだ。レイチェルとかいう人からだった。レイチェルというのは僕の姉らしい。気味が悪いから捨てようかとも思ったんだけれど、君の母さんが言うには、この手紙に書いている王子というのは僕のことなんだってさ。詳しいことは、僕も知らない」

 ギルは便箋を覗きこみました。中に書かれている文章は癖のある筆記体で書かれており、かなり読むのに時間がかかりそうでした。おまけに難しい言葉や堅苦しい言い回しが多く、まるで古典や歴史の教科書に載っている資料のようでした。

「これ全部を読むのは無理だなあ」

「へえ、どんな手紙なんだい」

 バートがギルの後ろから覗いてきました。そして、最初の数行を読むや否や、さっと顔色を変えて、便箋を奪い取りました。

「なんてこった! こいつは驚いた……すまんがこの手紙、しばらく俺に貸してくれないか。こいつを読めば、俺が探していた情報は、全て手に入るかもしれない」

「ご自由にどうぞ。僕は少し散策してきます」

 ハルはギルに時計を返すと、さっさとどこかへ行ってしまいました。ギルは、手持ち無沙汰になってしまいました。

「暇だから、俺もその辺を見てくるよ」

「ああ」

 バートは視線を便箋に落としたまま答えました。許可が出たので、ギルは時計塔の裏手へ行ってみることにしました。

 時計塔の裏は、草が生えているだけの地味な場所でした。ただ、奇妙なことに二箇所、土を掘り返したような跡があり、枝を組んで作った十字架がふたつ突き刺さっていました。

 ギルは反射的に後ずさりました。誰がどう見たって、これは誰かのお墓です。

「ずいぶんと雑なお墓だな」

 ギルはひとり呟きました。答える人はいないはずでした。

「きっと、アールの墓だよ。よそ者が時計塔の周りをうろついているのに、アールが出てこないなんておかしいもん。多分、魔法が解けて死んじゃったんだ」

 いつの間にか、ギルの真後ろに、小さな少女が立っていました。黒い衣をまとった少女がいました。ギルより少し年上でしょうか。きついパーマのかかった髪、時計の針のような不思議な髪飾り、ほんの少しピンクが混じった黒い服……その姿に、ギルは見覚えがありました。

「フロー!?」

「来てくれてありがとう」

 ギルより頭ふたつ分は小さい少女は、困ったようにギルを見上げていました。その身体は相変わらず透き通っていて、すぐ後ろの草や木がくっきりと見えました。

「フローってこんなに小さかったのか。それにしても、どうしてここにいるんだ。なんで今まで出てきてくれなかったんだよ?」

「時計を通じて通信すると、時計の魔力を一気に食ってしまうの。だから、しばらくは出てこられなかったんだ。でも、王子様を連れてきてくれたでしょ? おかげで時計の魔力が回復したから、私は出てこられたの」

「じゃあ、王子様っていうのは、まさか」

 ギルは、先程のバートとハルの会話を思い出しました。

「兄さんのことだったんだ……」

 フローはきょとんとして首を傾げました。

「そうなの?じゃあ、あなたは王子様を知っていたというわけだね」

「なんだよ、俺たちの話を聞いていなかったのかよ?」

「さあ、知らない。私はずっと眠らされていたから、あなたと話をしたことまでしか覚えていないかな」

「なんだよ……」

 ギルはがっくりと肩を落としました。フローはすましてこう付け加えました。

「でも、私の魔法、効いたでしょ。その証拠にあなたは今こうしてクロックの時計塔にいるじゃない」

「魔法って?」

「あなたがあなたの協力者に出会えるように、ほんの少し、あなたの時の流れを変えたの。うまくいったみたいでよかった」

 そういえば、かつてフローはギルにこう告げていました。「あなたを助けてくれそうな人のところへ、あなたを導いてあげる」と。

「お前、結局なんなんだよ。時の妖精とか言ってたけど、魔法使いなのか?」

「惜しいかな。『時の妖精』だったのは昔の話なの。今は国の時間が停止しているから、『時の精霊』のほうが近いと思う」

「はあ……?」

 ギルにはフローの言葉の意味が理解できませんでした。

 ちょうどそのとき、後ろから草を踏みしめる音と、聞き覚えのある声が飛んできました。

「ギル、ここにいたのか」

 ギルは何も考えずにぱっと振り返りました。そして、少し視線を下に落とし、そのまま硬直しました。

「あれ、兄さん……?」

「ただいま。塔の向こうにも行ってみたんだけど、少し歩くだけですぐに行き止まりになってしまったよ。反対側も森になっているらしい。この国、想像以上に小さいみたいだ」

 それから、ふと不思議そうにギルの全身を観察しました。

「ギル、なんだかおかしくないか? 身長が伸びている気がする」

「おかしいのは兄さんだよ。俺より小さいし、昔の声になってる!」

 言われてはじめて、ハルは自身の変化に気づいたようで、まず自分のつま先を見、ゆっくりと両手を広げて見、そして慌てたように、またギルを見ました。

「着てる服が変わってる。ギルが大きくなってる!」

 紡ぎだされたその声は、いつもの低い声ではなく、少女のような幼い声でした。それは、過去にギルがずっと聞いてきた懐かしい声でした。

「兄さんが縮んでるんだよ。それに今兄さんが着てるのは俺の服だよ。兄さんのお下がりで、今は俺も着なくなった昔のやつだ!」

「ええ?」

「落ち着いて!」

 混乱するハルに、フローが駆けより、ハルの手首を掴みました。

「やっぱり。あなた、どこかで相当な魔力を使ったようね。さては一度『分裂現象』を起こしてるんじゃない?」

 ハルは、足元に来た自分より小さな亡霊のような少女を見てぎょっとしました。

「うわ、なんなんだよこの子は!?」

「フローだよ。兄さんの時計から出てきたんだ」

 フローはまじまじとハルの顔を見つめました。フローが先に口を開きました。

「初めまして、私はフロー」

 フローはそこまで言って、もう一度ハルをじっと見ました。

「でも、なんだか、あなたとは初めて会う気がしないな。私に見覚えはない?」

「君に?」

 小さくなったハルは首をひねりました。

「さあ、知らないな。とりあえず初めまして。僕の名前はハロルド」

 するとフローは怒り顔でむうっとふくれました。

「ハロルド? 嘘、まさか! だったらどうしてそんなに私によそよそしいわけ? 私とは何度も会ってるのに」

「知らないよ、こんな幽霊みたいな子」

「私、あなたが生まれたときから時が止まるまで、ずっと傍にいたでしょ?それから、7歳のあなたにも会った」

「7歳?」

 ハルはしばらく眉をよせて考え込んでいましたが、ようやく何かに思いあたったのか手を打って叫びました。

「ああ!あの夢の中で時計から出てきた気色悪い幽霊か!」

「ひどい! 夢じゃないし、幽霊なんかじゃないよ!」

 その後、ハルとフローは小一時間大声で問答をした挙句、次のような結論を導きだしました。

「ようやくわかったよ、フロー。僕が夢だと思っていたあの出来事は、現実だったんだね」

「そうだよ、王子様。あなた、私と会ったあと、時計を箱にしまって引き出しに入れて放置していたでしょ。おかげでちっとも話ができなくなっちゃった」

「ごめん。毎晩出てくるものだから、気味が悪くてつい」

「別にいいよ。終わったことは気にしないから」

 目を白黒させてふたりのやりとりを見守っていたギルは、ここでようやく口を挟むことができました。

「なんだかわからないけど、解決したならよかった。ところで、フロー。兄さんはどうしてこんなに小さくなっちゃったのさ」

「ああ、それは……」

 フローが喋りかけたとき、向こうからバートの声が飛んできました。

「おーい。ギルにハロルドくん。手紙が解読できたよ。これで俺のやるべきことは全てわかった!」

 息を切らせて走ってきたバートは、まずハルを見て飛びのきました。

「ええっ! なんだ、もう一人兄弟がいたのか?」

 それから、隣にいたフローを指さしました。

「お前は……フローじゃないか!」

 フローは目を見開いてバートを見つめました。

「その顔……その凄まじい魔力……あなた、シーザーね!?」

「シーザー?」

 ギルとハルは同時に言いました。

「バートじゃなくて?」

「シーザーって誰だよ?」

「本来ならば、クロックの王になるはずだった、8代目のシーザーだよ。それが突然蒸発しちゃって、先代の王様に勘当されて、どっかに行っちゃったの。まさか会えるとは思わなかった!」

 ふたりはバートの方を振り返りました。バートは観念したようにあぐらをかいて座りこむと、頭をぼりぼりと掻きました。

「悪い子供だな、許可も取らずに人の名前を呼んじまうとは」

「おいバート、どういうことだよ。王ってなんだよ。あんた、何者だよ!?」

 ギルが詰めよると、バートは軽く両手を上げました。

「フローが言ったとおりだ。俺は元々、この国に住んでいたんだ。15のとき、この国のいろんなことが嫌になって家出した。で、親に勘当された。そして今に至る。これだけだ」

 フローはスタスタとバートに歩みより、喋るバートの顔を覗きこみました。

「あなた、老けたわね」

「当たり前だ。あれから何年経ったと思う。俺の計算が狂っていなければ、俺が国を出てからもう228年になるぞ」

「はあ!?」

 ギルとハルは、また同時に叫びました。バートは両手を下ろし、少し寂しげに言いました。

「呪いだよ。俺は死ねない身体なんだ」

 そして、そびえ立つ時計塔を見上げました。

「崖から落ちようが何ヶ月飯を食わずにいようが、絶対に生き返っちまうようになっているんだ。不思議に思って調べてみたら、この呪いはクロック王国のせいだということがわかった。この国を裏切った罰みたいなもんさ。俺は楽天家だから、はじめのうちは事の深刻さに気がつかなかった。しかし、これだけ生きていれば、嫌でもわかる。長く生きるなんて、ろくなもんじゃない。家族も友人もとっくに死んじまったのに、俺だけが延々と生きながらえている。いい加減に楽になりたくて、呪いを解く方法を探していたんだ」

「呪いを解く方法は見つかったのか?」

「ああ」

 ギルが尋ねると、バートは先程の便箋を掲げて見せました。

「おかげさまで、材料はこれでほぼ揃った。あとはアリーの帽子と金の腕時計があれば終わる」

「金の、腕……なんだって?」

 聞きなれない言葉に、ギルは首を捻りました。ハルが静かに言いました。

「そういえば、最近父さんが言ってたよ。腕につける時計が発売されたって」

 それから、ハッとして俯き、小さくつけ加えました。

「いや、まあ、父さんじゃないんだけどさ」

 バートは便箋をハルに返すと、ぐっと膝に力を入れて立ち上がりました。

「クロックには古くから受け継がれてきた腕時計があるんだよ。歴代の国王だけが身につけていた、金色の腕時計だ」

 そして、ぐるりと周囲を見渡しました。

「今でこそこんな有様だが、昔この国は技術大国だったんだよ。時計を発明したのも、時計の語源になったのもこの国だ。ここには、はるか昔からいろんな時計があって、腕につける時計も200年前の時点で既にあった。もっとも、その技術は門外不出だったがな。家出をするときに作り方を学んでおけばよかったと後悔したよ」

「そんな話、初めて聞いたよ。歴史の教科書には載っていなかった」

 ハルが不服そうに反論すると、バートはふっと鼻で笑いました。

「存在ごと抹消されたのさ。不都合な文献は焼いてしまえば済むからな。今では都市伝説呼ばわりされてるよ。歴史というのはそういうもんだ」

 それから、いつもの調子でにっと歯を見せて笑い、ふたりの肩をパンパンと叩きました。

「ま、そんなことはどうでもいい。今はとにかく、金の腕時計を手に入れないとな」

「そんなもの、どこにあるんだよ」

「この手紙の内容が正しければ、時計は王女が所有しているはずだ。つまり、君の姉さんに会えばいい。手紙が送られてくるくらいだ、居場所くらいはわかるだろう?」

「ええ。でも僕、この人に会ったことはないんです」

 ハルは困った様子で手紙を見つめました。

「僕たちに会うことを拒否しているみたいで、この手紙も僕ではなく義母宛に届いたんです。死んだ母親のことも毛嫌いしているとか」

「だったら、俺が言って頼んでみよう。俺のことは拒否していないだろう?いったいどこに住んでいるんだ」

「コードルクで働いています。商店街にある、ローレンスさんの店で」

 バートとギルは顔を見合わせました。

「おい、冗談だろ? ローレンスの店ってのはつまり……」

「アリーの父さんの店じゃないか!」

 バートは膝を打って笑いました。

「なんだい、そうだったのか。灯台もと暗しとはまさにこのことだな。よし、早速行ってみようじゃないか」

 そして、麻袋から時計をひとつ取りだし、時刻を確認しました。

「うん、そろそろ夜明けだな。ちょうどいい、ひとまず森を出よう」



 森の向こうでは、すでに空が白みはじめており、ぼんやりとした薄暗い光が森の中まで差しこんできていました。

「うわあ、本当に夜が明けてる」

 ハルが興奮気味に森の外へ走り出ました。ギルは不思議に思って首を捻りました。

「嘘だろ? そんなに時間が経っているはずがない。だって、家を出たときは夕方だったんだぞ」

 すると、後から来たバートが尋ねました。

「へえ、家を出たのは何時頃だい」

「えっと……」

 ハルはぴたりと走るのをやめ、空を仰ぎました。昨日の記憶を辿っているのでしょう。ギルは先に答えを言ってしまおうと思いましたが、せっかくなのでハルが答えるのを待つことにしました。

「家にいたとき、最後に時計を見たのが5時だったはずだ。そのあと、読書に集中していて……レネクス=ゴニット駅に着いたとき、時計は11時くらいをさしていたような気がする」

 これを聞いて、ギルは仰天しました。ハルの説明が、ギルの記憶と全く異なっていたからです。

「ちょっと待ってよ、兄さん。家を出たのは5時半だぜ? 兄さんを追いかける前に時計を見たから、正しいはずだ。きっと、駅にいたのは6時くらいだよ」

 すると、今度はハルが驚いた様子で反論しました。

「違うよ! 僕は駅で時計も時刻表も見たんだ。僕たちが乗った汽車は11時15分発だったんだ。間違いない」

「でも!」

「ふたりとも、よく聞いてくれ」

 それまで黙っていたバートが、口を開きました。

「俺は昨日、晩飯の後に何杯か飲んじまってな。その後居酒屋を何件かハシゴした。最後の店を出たあとに眠くなって、路地裏でしばらく寝ちまって、起きたら11時だったんだ。路地裏なんかにいて変な奴に絡まれるのも嫌だから、森へ行こうとしていたら、君らに会ったんだよ」

 ギルはびっくりしました。だって、ギルは家を出る寸前に、きちんと時計を確認していたのです。ギルは声を荒げました。

「てことは、兄さんが正しいってことかよ? でも俺、本当に見たんだよ。家を出たときは、確かに5時半だったんだ」

「そうか」

 バートはふうと息を吐いて、空を見上げました。

「なら、君たちの話はどちらも正しいんだ。さっきハロルドくんが縮んだ件と合わせて考えれば、簡単に説明がつく」

 そして、おもむろにハルを指さしました。

「君は無意識に時間を進めてしまっていたんだよ、ハロルドくん」

 ハルは理解できない、と言いたげに顔をしかめました。

「どういうことですか?」

「それはだな……あっ、待て!」

 バートが急いで、ギルとハルの肩を強く引き、耳元で囁きました。

「誰かが、森の外にいるようだ。念のために様子を見よう」



 森の木陰からそっと外を伺うと、バートの言った通り、男女の人影が座りこんでいるのが見えました。

「うん?」

 ギルは、その人影に見覚えがありました。それは、ハルも同じだったようでした。

「あれは……」

 ハルが、何かに取り憑かれたように立ち上がりました。そして、バートが止めるのも聞かずに、森の外へと走りだしました。

「父さん、母さん。どうして……」

 すると、ハルに気づいた男女が驚いた様子でこちらを振り返りました。

「ハル!?」

「ハル!ここにいたのね!」

 それは、間違いなくギルのお父さんとお母さんでした。二人とも、なんだか昨日よりひどくやつれて見えました。お父さんとお母さんは、ふらふらとハルに駆けより、その身体をぎゅっと抱きしめました。

「よかった、無事で……!」

 ギルは、急いで自分も出ていこうとしました。が、両親の側に妙なものを見つけたので、慌ててバートの裾を引きました。

「なあ、バート。あれ、何なんだよ?」

 おかしなことに、両親の側にはハルがふたりいるのです。もうひとりのハルは、ハルと同じ服を着、同じ髪型をしていて、フローのように透き通っていました。

 もうひとりのハルは、しばらく両親とハルの再会を真顔で見つめていましたが、やがて煙のようにふっと消えてしまいました。

 ハルはそれには気づいていないようで、ぼんやりと両親にされるがままになっていました。

「ああ、あれか」

 バートは半笑いでギルの背中を叩きました。

「まあ、後でじっくり教えてやるよ。まずは、ご両親を安心させてやるといい」

 そうは言われても、今はとてもギルが出ていけるような状況ではありませんでした。仕方がないので、ギルはバートの隣で3人のやりとりを見守ることにしました。



 ハルは、両親の顔を代わる代わる見つめ、不思議そうに呟きました。

「どうして、こんなところに?」

 すると、お母さんがゆっくりと話しはじめました。

「昨日の夜中、家の中に、まだ小さかったハルが見えたの。すごく寂しそうにしていてね……ギルの名前を呼びながら外へ駆けて行ってしまったの。どこからともなくハルの声だけが聞こえて、その声を頼りに追いかけていたら、いつの間にかこの場所に辿りついたの」

 お父さんが、後を引き継ぐように言いました。

「そうしたらまた、森の奥からお前の声が聞こえた。『僕の家はここだ、どうせ僕は余所者なんだろう』ってね。それから今までのことを語ってくれた。お前がそんなことを考えていたなんて、ちっとも知らなかった。苦しかったろう。気づいてやれなくてすまなかった」

 お母さんが、ハルに回していた腕に力をこめました。

「私たちは、ずっとあなたを自分の子だと思って暮らしてきたわ。これだけは本当よ」

 お父さんが、嗚咽を交えながら言いました。

「お前が何をしようと、どうなろうとも親として責任をとるつもりで育ててきた。父さんたちの理想通りでないからといって、捨てたりするようなことなどあるものか」

 ハルは、両親に埋もれるようにして泣き崩れました。その姿は、いつもより幼いこともあって、普段ギルが見ているハルとは別人のようでした。

「ごめんなさい……僕、ひどいこと言って、心配かけちゃった」

「いいのよ。あなたは私たちの子供なんだから。言いたいことは素直に言っていいのよ」

 お母さんはそう言うと、すっと顔をこちらに向けました。

「ギル、いらっしゃい。そこにいるんでしょう」

 突然名前を呼ばれて、ギルはびっくりしてしまいました。

「気づいてたの?」

「もちろんよ。あなたも無事で良かったわ。ふたりで森の向こうに行っていたのね?」

 ギルは渋々、出ていきました。

「そうだよ、森の向こうに行っていたんだ」

 ギルが出ていくと、両親はぽかんとして、ギルではなく、ギルの後ろから出てきた痩せこけて背の高い不潔な男を見つめました。

「ギル……誰なの、その人は」

 ギルは、にっと笑って彼を紹介しました。

「バートだよ。俺たちの道案内をしてくれたんだ」

 バートはうやうやしくお辞儀をして、右手を差しだしました。

「いやいや、初めまして。あなた方がギルくんのご両親ですか」

 いきなり現れた汚い男に、両親は瞬きを繰り返しました。

「えっと……あなたは、うちの子とお知り合いなんですか?」

「バートは凄いんだ。兄さんのことも、森のことも何でも知ってるんだよ。俺たちにも色々教えてくれたんだ!」

 ギルはバートの腕を引いて、両親の前に連れてきました。バートは照れたように寝癖だらけの頭をかきました。

「はは。まあ、そんなところです」

「そうですか……」

 お父さんは、困惑しつつも立ち上がって、バートと握手をしました。

「子供たちを助けていただいて、ありがとうございます。できれば謝礼をしたいところなのですが、あいにく、着のみ着のままで出てきてしまいまして」

 すると、バートはちょっと考えて答えました。

「いえ、謝礼は結構です。その代わり、少しお話を伺いたいのですが」

 バートがそう言った瞬間、ピンと空気が張りつめたのがわかりました。お父さんは怪訝な顔で、お母さんの方を振り返りました。お母さんが言いました。

「お話というのは?」

「あなたの息子さんのことですよ。夜のうちに色々と聞きました。これほど特殊な生い立ちの彼を実子として育てていたということは、よほど特別な事情があるのでしょう?」

 お母さんはそれを聞くと、さっとバートから顔を背け、冷たく言い放ちました。

「子供たちがお世話になったお礼はいたします。けれど、これは家族の問題です。あなたのような人には……」

「そうですか、残念だなあ。それじゃ、あなたのお子さんは永遠に小さい姿のままだ」

 すると、お父さんとお母さんは同時にハルを見て、同時に声を上げました。今の今まで、ハルの身に起きた変化に気づいていなかったようです。

「ハル! そういえば、ギルよりも背が低いわ。どうして」

 するとバートは腰に手をあて、笑みを浮かべて偉そうにこう言いました。

「私わたくしは、この現象のことをよく知っています。もちろん、解決方法もね。さあ、どうします?」

 お母さんは黙ってうなだれてしまいました。長い沈黙のあと、お父さんが代わりに答えました。

「よし。その話が本当なら、まずは息子の問題を先に解決してみてくれ。うまくいけば、そちらの要求についても考えよう」

「そうですか。なら、私はお宅の家まで行く必要がありますねえ」

 バートはいやらしい笑みを浮かべました。なんだか、随分と楽しそうです。そういえば以前、ギルとアリーに取引を迫ってきたときもこんな顔をしていました。

 お父さんはギルの腕を掴んでバートから引き離すと、そのまま後ずさり、お母さんとハルを庇うようにしてこう答えました。

「いいだろう。子供たちを助けてもらった恩もあるし、今回だけはあんたに従うよ」



 この森は町はずれの奥まったところにあるので、人通りはありません。一同はしばらく話しあったあと、まずは駅前に移動することにしました。

「始発列車こそまだだが、この時間なら駅でタクシーが拾える。まずは家に帰ろう。今日は仕事を休むよ」

 お父さんがこう言いましたので、ギルたちは揃ってぼろぼろの小道を歩いて駅を目指すことになりました。お父さんはよっぽどバートを警戒しているのか、ギルたちを先に歩かせ、後ろから来るバートの方を頻繁に振り返っていました。

「父さん、バートは悪い人じゃないよ」

「ギル、お前はまだ小さいからそう思うんだろうな。だが、社会では疑うことも大事なんだぞ」

 お父さんは眉間に皺しわをよせてそう言うと、またバートの方を振り返りました。バートはニヤッと笑って片手を上げて見せました。

 駅に着く頃には、朝日も完全に顔を出しており、ちらほらと人が家から出てきていました。タクシーもすぐに見つかり、一同はそのまま自宅を目指すことにしました。

「料金は、俺が払いましょうか」

 バートがにこにこと持ちかけましたが、お父さんは真顔で一蹴しました。

「結構だ。あんたみたいな人に奢ってもらうほど落ちぶれてはいないのでね」



 ほどなくして、家が見えてきました。ところが、何かがおかしいのです。家を一目見たお父さんは身を乗りだして叫びました。

「なんだこれは。一体、何があったんだ!?」

 家のつくりは、昨日までと全く変わっていませんでした。しかし、鮮やかだったはずの壁のレンガは色が落ちていて、今にも崩れ落ちそうなほどボロボロになっていました。おまけに、家の外壁という外壁にはびっしりとツタのような植物が絡みついています。庭の花は枯れていて、ぼうぼうに伸びた雑草に覆い隠されていました。まるで、何十年、何百年もの間放置された廃墟のようです。

「うわあ、家がお化け屋敷みたいになってる!」

「やっぱりな。そんなことだろうと思った」

 パニック状態のハルの隣で、バートがひとり納得したように笑いました。ギルが驚いて言いました。

「バートはこのことを知ってたのか?」

「知らないさ。ただ、予想しただけだ。自宅で揉め事を起こして分裂現象を起こしたと聞いていたから、きっと被害はその家に出ているだろうと考えたんだ」

「さっきからなんなんだよ、分裂分裂って」

 タクシーが止まると、まず、お父さんが財布を取りに行きました。そして、泣きそうな顔で帰ってきました。お母さんが言いました。

「泥棒に荒らされでもしていたの?」

「わからない……だが、金品は無事だ。財布もちゃんとあった。俺にも何が何だかよくわからん。とにかく見てみてくれ」

 そこで、ギルたちは家の扉を開けてみました。

「うわあ!」

 お父さんが言っていた通り、家の中は「元のまま」でした。家具や調度品、備品に至るまで、すべて昨日までと同じ場所にありました。

 けれども、それらは全て、手入れをせずに放置されていたかのように、埃まみれになっていました。床は腐ってゴムのように曲がり、今にも抜け落ちそうです。リビングのテーブルに置いておいた野菜や果物は消えていて、代わりにテーブルの中央がズクズクに腐って変色していました。天井には大きな蜘蛛の巣ができています。窓は割れて、破片が床に散らばっていました。

「これは……」

「ひでえ……」

 ギルとハルは絶句しました。

「窓が割れているということは、やっぱり強盗かな」

「けど、強盗がわざわざ埃なんか撒くかよ?」

 バートは面白そうに家の中を観察していましたが、やがて合点がいったように、ひとり頷きました。

「いったい、どうなっているの……」

 お母さんはそう言ってへなへなと座りこんでしまいました。バートはそれに気づくと、すぐさま手を貸して立ち上がらせました。

「たいした事ではありませんよ。この家の時間だけが急速に操作されているだけの話です。泥棒の仕業ではありません」

「時間を操作?」

「泥棒じゃないの?」

 ギルとハルは同時に尋ねました。バートは側にあった椅子の埃を袖で払い、そこにお母さんを座らせました。椅子はギイギイと危なっかしい音をたてましたが、バートは気にとめず、「たとえば」と言って割れた窓を指さしました。

「このガラスは、劣化してひとりでに割れたんだ。他の家具もそう。この家だけが、一晩で何十年分も歳をとってしまったんだ。だから、何十年も放置された空き家みたいになっているんだよ」

「どうして、そんなことに?」

「君の仕業だよ、ハロルドくん」

「え?」

 そのとき、お父さんが玄関からやってきました。バートが言いました。

「さて、昨日喧嘩をしていたという場所に連れて行ってくれ。そうすれば、この家も元に戻るはずだ」

 そこで、ギルとハルは話し合い、ハルの部屋にバートを案内しました。ハルの部屋はリビングよりも酷い有様でした。床には丸く焼け焦げた跡があり、その中央にはあの、懐中時計と同じ王冠の印が金色に光っていました。バートはハルの背中を押しました。

「君の問題は解決している。その王冠に懐中時計を重ねるといい。それで、全てが解決する」

 後ろからついてきたお父さんとお母さんが、不思議そうに尋ねました。

「懐中時計?」

「それって、お父さんに貰ったというあの時計?」

 ハルは言われるがまま、ギルから時計を受け取ると、屈みこんで王冠の印の上にそれを置きました。

 すると、床の焦げ跡は、いとも簡単に消えてしまいました。同時に、ハルの背がすうっと伸び、元の16歳のハルに戻りました。

「兄さん!」

「えっ? あれ……」

 ハルは慌てて立ち上がり、そしてギルを見て目をパチクリさせました。

「ギルが小さくなってる……」

「違うよ、兄さんが大きくなったんだよ。すごい、元に戻ったんだ!」

 バートが続けて言いました。

「戻ったのはハロルドくんだけじゃないさ。家の中を確認してみるといい」

 そこで、ギルたちはリビングに戻ってみました。

「窓ガラスが戻ってる!」

「他の家具も元どおりだわ。埃もなくなっている……」

 お父さんは駆け足で外へと出ていき、戻ってくるなり大声で叫びました。

「家の外観も戻っている。一体全体、これはどういうことなんだ!?」

 バートはすまして言いました。

「お宅の時間が戻っただけのことですよ。さて、今度こそお話してもらいましょうか」



 一同はリビングに戻り、席につきました。普段は4つしか椅子がないのですが、今日はバートがいるので隣の部屋からひとつ別の椅子を持ってきました。

「バート、結局その兄さんが起こした『分裂現象』っていうのは何だったんだよ」

 すると、ハルが持っていた時計の蓋がぱかりと開き、フローがにゅっと顔を出しました。

「昔の自分が、現在の自分から分離してしまうことをそう言うの。王家の子って、たまにこうなるんだよ。時間を操る魔法って、精神状態によって強さが左右されがちなんだよね」

「フロー、なんだよ急に。お前、しばらく寝るから起こすなって言ってたじゃないか」

 そう、さっきまで一切姿を見せていなかったフローは、実は疲れたと言ってギルたちが森を出る前に時計に戻り、しばらく眠っていたのでした。ギルが咎めると、フローはすまして言いました。

「もう充分だもん。これまでと違って時計にエネルギーが満ちているから、たいして回復に時間はかからないの。時計から出なければいくらでも話していられると思う」

「へえ」

 ギルとハルは素直に感心しました。一方、お父さんは真っ青になって怒鳴りました。

「な、なんなんだこの少女は!」

 お母さんは、フローの顔をまじまじと見つめました。

「あなたは……姉の結婚式に出席していた子ね」

 ギルはひどく驚いて尋ねました。

「母さん、フローを知っているの!?」

「あまりにも奇抜な子だったから、よく覚えているわ……そうなのね、あなたは森の向こうの子なのね。みんな、森の向こうのことは知っているのね」

 お母さんは肩を落としてため息をつきました。

「わかったわ。どんな質問にも答えましょう。でも、その前に教えて。どうしてハルは小さくなったの? どうして家うちがこんな目にあっていたの?」

「さっきフローが……ああ失礼、この子はフローと言いましてね、私の知り合いなんですが、まあ、彼女がさっき説明した通りですよ」

 バートは手短にフローを紹介しました。これまで散々不思議な出来事につきあわされたせいか、お父さんももう、この時計から出てきた半透明の少女には何も言いませんでした。

 バートは少しの間、目を閉じて唸りました。おそらくは、話す内容を考えているのでしょう。そして目を開けると、軽く咳払いをしてから、ようやく「分裂現象」なるものについて話してくれました。

「ひとつ言えることは、こういうことはクロックの国内では日常茶飯事なんだということですね。特に、王家の者にとっては別に珍しくもなんともありません。とりあえず、アワーズ王家の歴史からお話ししましょうか」



 今から二百年前、まだクロックという国が森に囲まれていなかった頃から、既にこの国の王族には不思議な力が宿っていました。いったいどうしてこの力が生まれたのかは不明ですが、とにかく、初代の王様から末代に至るまで、王家であるアワーズ家の血を引く者は、皆自分の意思で、周囲の物の「時間」を操ることができました。壊れた物はその時間を巻き戻して修理をし、また逆に時間を早回しにして腐敗させ、あるときは時間を止めてその場に固定することもできるのです。

 しかし、その力は非常に不安定で、使う者の精神状態によってはうまく働かないこともありました。失敗するのはまだいい方で、酷い場合には暴走を起こすこともありました。そのため、歴代の王様は自分に子供が生まれると、7歳までは外の世界に出さず、強固な精神を持てるよう徹底的に教育し、次の王にふさわしい人間に育てるようになりました。

 分裂現象というのは、まだ幼い王家の子女に起こりやすい現象で、内側に抱えていた不満が爆発して、周囲および自分自身の「時間」を狂わせてしまうことをいいます。大抵の場合、「現在」の自分とは別に、不満の根源である「過去」の自分を召喚してしまうことから「分裂現象」と呼ばれるようになりました。一旦こうなってしまうと誰にも手がつけられなくなり、暴走した本人が周囲を巻きこんでタイムワープしてしまったり、エネルギーを放出させすぎて、周辺の環境の時間を早回しして建物や畑を荒廃させてしまったり、エネルギーを使いすぎて自分自身の時間が巻き戻ってしまったりします。

 今回、ハルの身に起こったのも「分裂現象」で、おそらくは家の中での喧嘩が原因で、家全体の時間が進んでしまい、部屋中が荒れ果ててしまったのだとバートは言いました。

 話の隙間を狙って、ハルが尋ねました。

「じゃあ、あの王冠は? どうして時計を置いたら戻ったの?」

「分裂現象というのは、所詮は心の問題だ。単純にトラブルの根源が解決すれば、暴走は収まる。君は森を出てから両親に再会して、問題が解決しただろう。だから、あとは暴走を起こした地点に自分の魔力の依り代である時計を置けば、すぐに周囲は正常化するというわけだ」

「そうなんだ……」

 ハルは時計をじっと見ながら、納得したように息をつきました。ギルは話についていけず、目を白黒させながら、バートとハルを交互に見ました。

「えええ、兄さんは理解できたのかよ? 難しすぎて、俺にはよくわかんないや」

「ははは、別にそこまで難しい話じゃないさ。まあ、つまるところ、あんまりストレスは溜めるなよってことだ」

 バートはぼすんとハルの背中を叩きました。ハルは大きく頷きました。

「ありがとうございます」

「さて、これで俺の話は終わりだ」

 バートはぐっと、テーブルに身を乗りだしました。

「では、そろそろ教えてもらいましょうかね。ギルくんのご両親が、何をどうしてクロックの王子を引き取ることになったのかを」

 お母さんはバートを見、ギルを見、それからハルの顔を見てから、言葉を選びつつ、ゆっくりと話しはじめました。



「夫と結婚する前、私は隣町のコードルクで、両親と姉と共に暮らしていました。姉は良くも悪くも奔放な人で、少し気が向いたら外国だろうと立ち入り禁止区域だろうと、平気で出掛けていくような人でした。ですから、私たち家族は姉がどこで何をしているのかは、あまりよく知りませんでした。ところがある日、姉は帰ってくるなりこう言ったのです。『森の向こうで王子様にプロポーズされた』と」



 ギルのお母さんの名前はシンシアといいました。そしてシンシアには、3つ年上のアレクサンドラというお姉さんがいました。

 このお姉さんは「サンディ」と呼ばれていて、とても風変わりな人でした。気になることがあれば、どんなに遠い国だろうとひとりで旅に行ってしまうし、どんなに危険そうな人間にでも気さくに話しかけてしまう人でした。

 妹のシンシアは用心深くて現実的な人間でしたから、しょっちゅう姉のトラブルに巻きこまれては、姉のことを迷惑に思っていました。



 そんなサンディはある日、夜中に帰ってくるなり、「王子様にプロポーズされた」と言いました。この付近に国境はなく、そもそも海を渡らなければ王国なんてあるはずがないのですが、彼女曰く、町のそばにある深い森の奥に、小さな王国があるのだというのです。

 シンシアたち家族は、戸惑いました。森の向こうに王国があるだなんて、にわかには信じがたい話でした。地図上ではあの森はとてつもなく大きくて、反対側の湖に抜けるまで木が生えているだけのはずです。シンシアと両親は、しばらくはその話を本気にはしませんでした。

 ところが、数日後、町外れのシンシアの家に、ガチャガチャと目覚まし時計がいくつかやってきました。彼らは皆、手や足を生やしており、口をきくことができました。そして、彼らの案内に従って森を進むと、森の中にある不思議な国に出ることができたのです。シンシアの両親は困惑しつつも、この国に住むナサニエル王子とサンディの結婚を許可しました。

 もともと、浮世離れしているサンディは親戚や近所でもあまりよく思われていませんでしたから、彼女には婚約者はおろか友人すらほとんどいませんでした。ですから両親は、とにかくこの自由すぎる娘の行く末を心配していました。相手の出自や住居こそ怪しいと思いつつも、この結婚話は願ってもないチャンスだと思ったのです。

 結婚式に出席したのは、両親とシンシア、それから動く時計たち、イザドラという名前のおばあさんに、アールというぶすくれたおじいさん、それから変わった格好をした少女フローと、年老いた王子の父親だけでした。

 疑り深いシンシアは、姉を心配していました。こんなよくわからない不気味な場所で、うまくやっていけるはずがないと。

 けれども、サンディは楽しそうでした。そして、頻繁に森の向こうから帰ってきて、森の近所にあるシンシアたちの家に顔をだし、自分が王妃とされていることや、生まれた子供のこと、夫がもつ変わった力の話などをしてくれました。

 結婚後数年は、そんな風にして平和に過ごしていました。



 雲行きが怪しくなってきたのは、シンシアの両親が相次いで亡くなったあとでした。突然、森の付近を警察や背広を着た外部の人間がうろつくようになったのです。このことについては、町でも噂になっていました。

 そもそも、あの森はあまりにも広く、おまけに暗くて迷いやすいので、きちんと立ち入って中を調べたことがある人はいませんでした。特に動物が住んでいるわけでもなければ、薬草が採れるわけでもないこの森を、町の人はずっと疎んじていたのです。そのため、この森を切り開いて道を造る工事をしようという話が頻繁にされていたのですが、いざ着工すると、絶対にうまくいかずに頓挫するため、皆この森を恐れて放置していたのです。

「きっと、政府は今度こそ真剣に開発を目論んでいるんだよ」

「せっかく鉄道も通ったというのに、あの森のおかげで、この町はいまだに不便だからね」

 人々は口々に森への不満を言い、この事態を喜ばしく思っていましたが、シンシアは不安でなりませんでした。

「姉さん、気をつけた方がいいわよ。あの森は、近いうちに切り開かれるかもしれないそうよ。今のうちに引っ越したら?」

 しかし、サンディは笑って言いました。

「あの場所は、私たちの国であり故郷なのよ? それに、王族である子供たちをあの場所から連れだすわけにはいかないわ」

 その頃ちょうど、シンシアは結婚し、夫と共に隣町に引っ越すことになっていました。すると、それを知ったサンディはひどく寂しがり、毎日のようにシンシアに会いにきました。しかし、同じ頃、森周辺の警備は一層厳しくなっていました。

「姉さん、もうここへは来ない方がいいわ」

 シンシアは再三注意しましたが、サンディは聞く耳を持ちませんでした。

「でも、この家もシンシアも、もうすぐいなくなってしまうんでしょう。会えるのは今だけだわ」



 そして15年前のあの日、事件が起こりました。

 この小さなコードルクの町に、突然見たこともない大軍がやってきたのです。町は大騒ぎになりました。軍隊はまっすぐに森へと向かっていき、森の周辺は立ち入りが禁じられてしまいました。シンシアはなんとかして姉に会おうとしましたが、当然ながら、森に近づくことさえ許されませんでした。

 それきり、シンシアはサンディとは会えなくなってしまいました。

 ところが数日後、シンシアの元に仰々しい封筒に入った手紙が届きました。つい数日前にサンディを逮捕して抑留していたが、釈放することになったので、迎えに来てほしいという内容でした。

 再会したサンディはやつれていました。腕にはまだ小さな赤子を抱えていました。聞けば、自分のせいで森の奥の国の正体がばれてしまい、家族と引き裂かれて、留置場に連れてこられたのだといいます。

 警察の方も、赤ん坊を抱えている上に、何も知らないと言い張るサンディを執拗に取り調べる気はなかったらしく、あっさりと解放してくれました。

「旦那さんはどうなったの? 子供はふたりいるんじゃなかったの?」

 シンシアがそう尋ねても、サンディは泣きながら首を横に振るばかりでした。シンシアは仕方なく、姉を隣町の自宅に連れて帰りましたが、家についた瞬間、サンディは倒れてしまいました。原因不明の高熱が何日も続いたため、しまいには病院に入院することになりました。やがて熱はひき、身体は健康になりましたが、今度は精神的におかしくなってしまいました。過去の家族のことを一切話さなくなったばかりか、子供のような要領を得ない喋り方になり、放っておくと他所の家に無断侵入しようとしたり、奇声を上げて笑いだしたりするようになりました。こんな状態では、とても彼女をひとりにしておけないということで、シンシアと夫はサンディを精神病院に入院させることにしました。

 当然ながら、残された子供には行き場がありません。シンシアは仕方なく、この子供を孤児院に入れることを提案しました。ところが、夫のアーロン・ワイズはそれを聞いてひどく怒りました。生まれてすぐに両親を亡くし、祖父母に育てられていたアーロンは、それがどんなに残酷な判断であるかをシンシアに説き、子供を──ハルを自分の子として育てたいと言いました。

 こうして、ハルはこの夫妻の子となりました。



 それから5年後、ギルが生まれた頃、サンディはある程度回復して働けるようにもなったので、家に帰されました。

 ハルとギルの区別がつかなかったり、妙な言動をしたりと不安な点もありましたが、以前とはうって変わってまともになり、元の明るさを取り戻していました。家事の傍ら飲食店でも働き、少しずつ昔のサンディに戻りつつありました。

 少なくとも、シンシアはそう思っていました。



 やがて、今から3年前のクリスマスに、夫のアーロンが、ひとりの娘を連れてきました。名前はレイチェルといいました。シンシアは、その名を聞いたことがありました。それは、かつてサンディが自慢げに話していた、彼女の娘の名前でした。

 レイチェルが話す家族の話は、サンディが語っていた家族の話と完全に同じでした。彼女の母親の名前も、サンディの名前そのままでした。彼女の顔立ちは、サンディとそっくりで、シンシアはこの少女がサンディの娘であると確信しました。

 ところが、帰ってきたサンディは不思議そうな顔でこう告げました。

「でも、私に娘はいないのよ」

 サンディは、夫のことも娘のことも、何も知らない、覚えていないと言い張りました。レイチェルはその言葉にショックを受けたらしく、そのまま家を出ていき、二度と訪ねてくることはありませんでした。

 その翌日から、サンディはまた、体調を崩しはじめました。これまた原因不明の病気で、医者にもどうすることもできず、3年間の闘病を経て、サンディは亡くなりました。



「姉が亡くなってから、私は後悔しました。あの家族は、最期まで再会することがないまま、終わってしまったんです。ハルもそうだけれど、特にあのレイチェルが不憫です。義理の家族も亡くして、孤独に生きてきたそうですから……彼女は今、ローレンスさんの店で働いていますが、姉のことを相当根に持っているようで、私たちに会おうとしてくれません。彼女とハルは、たったひとりの肉親なのに……」

 シンシアは──お母さんはそこまで言うと、耐えきれなかったのか、ポケットからハンカチを出して目頭をぬぐいました。



「お話はわかりました」

 バートは腕組みをし、神妙な顔で言いました。

「いつか、こういうことが起こるような気がしていたんですよ。残念ながら、来るのが遅すぎたようですがね。とにかく、あの国は面倒な存在なんですよ。放っておけば、また新たな悲劇が生まれかねない。なんとかして、レイチェルさんに会わせてもらえませんか」

「そうは言っても……」

 お母さんはそこで言葉を切り、お父さんの方を見ました。お父さんが続けました。

「私の友人ジェームズ・ローレンスが、レイチェルの雇用主なので、彼を通じて頼むことはできるかもしれません。しかし、難しいですよ。レイチェルは人と会うのを嫌がるそうなんです。実際、私にすら会ってくれませんから」

 するとバートは、麻袋からずっしりと中身の詰まった小さな布袋を取り出し、そこから金貨を数枚取り出して言いました。

「そこをお願いします。こいつで、どうにか取り次いでもらえませんか」

 お父さんはその金貨を見て、バートの顔を見、それから布袋の中を覗きこんで椅子から立ち上がり、叫びました。

「あんた、なんでそんな大金を持っているのにそんなに汚い格好をしてるんだ!」

 バートはきょとんとしました。

「汚い? 俺が?」

「よし、とりあえず風呂に入りなさい。これでジェームズを訪ねる口実はできた。着替えはひとまず私の服を貸してあげるから、向こうで新しい服を買うといい」

 お父さんは、バートを風呂場に連行し、次いで、こう言いました。

「おまえたちは一旦休みなさい。夜通し外にいて、疲れただろう。今日は学校に行かなくてもいい。あとのことは任せなさい」

 そう言われた瞬間、ギルは目の前の景色が妙にぼんやりとしていることに気がつきました。考えてみれば、昨日の午前中からずっと動きどおしでした。ギルは力なくあくびをひとつすると、お母さんに連れられて、ベッドへと向かいました。



 次にギルが目を開けたとき、既に日は沈みかけていました。慌てて跳ね起き、階段を下りていくと、お父さんが何か話しているのが聞こえてきました。

「話がついたよ。だが、正式に約束を取り付けたわけじゃない。あんたというお客の相手をするように頼んだだけだ。あとのことは自分でやってくれ、だとさ」

「感謝します、色々とお世話になりました」

 これは、バートの声でしょう。ギルは急いでリビングのドアを開けました。

「おや、やっと起きたのか」

 お父さんを含め、リビングにいた全員が、意外そうにギルの方を振り返りました。どうやら、今の今まで眠っていたのはギルひとりだったようです。

「みんな起きてたのかよ。なんで、俺だけ放っておくんだよ」

 ギルが憤怒すると、お母さんが困ったように答えました。

「あまりにもよく眠っていたから、悪いと思ったの」

「まあ、最後に一目会えてよかったよ」

 いつの間にか随分と綺麗になったバートが、軽く敬礼の真似事をして見せました。

「それじゃ、俺はこれで」

「待てよバート、どこ行くんだよ」

「ちょっと隣町の服屋さんにね。大丈夫、すぐに済むさ」

 バートはギルをすり抜けて戸口の方へと向かいました。それから、ハルがやってきて、ギルに時計を掲げて見せました。

「申し訳ないけれど、この時計、しばらく借りていくよ」

「別に、それは兄さんの物だからいいけど……兄さんもどこかに行くの?」

「うん、僕も行ってくる。やっぱり、このまま放っておくわけにはいかないと思うんだ。レイチェルさんと、きちんと会って話してくる」

 そう言って、今にも玄関から出ていきそうなハルを、ギルは大急ぎで引き止めました。

「待ってよ、俺も行く!」

「やめなさい、ギル」

 後ろからお母さんがやってきて、ハルからギルを引き剥がしました。

「あなたが行ったって邪魔なだけよ。それに、食事もまだでしょう」

 言われてみれば、そうです。なんだか胃のあたりが痛いのは気のせいではなさそうです。そういえば、もうかなり長い間、何も食べていないような気がします。

 戸口にいたバートは、片膝をついて屈むと、ギルの両肩に手をのせ、寂しげに笑いました。

「今までありがとう。君を巻きこんで悪かったな。今日はもう、家でゆっくりしているといい。全部片付いたら、またここを訪ねるよ」

 ここまで言われてしまっては仕方がありません。ギルは、おとなしく引きさがりました。



 ギルたちは、玄関の外に出て、ふたりを見送ることにしました。

 壁にもたれて、大人たちが別れの挨拶を終えるのを待っていると、おずおずとハルがこちらにやってきて、申し訳なさそうにこう言いました。

「昨日からのことだけど……ごめんね。昨夜のギルは何も悪くなかったよ」

 この意外すぎる言葉に、ギルはびっくりしました。この騒動の引き金をひいたのはギルでしたから、叱られこそすれ、謝られることなんてあるはずがないと思っていたからです。

「別にいいよ。勝手に森に行ったのは俺だし、謝るのは俺のほうだよ。兄さんについていったのは、心配だったってだけだしさ。それに実は、兄さんのおかげで学校も休めて、ちょっと喜んでるんだ。ちっとも怒ってなんかいないよ」

 するとハルは、ほっとしたように顔をほころばせました。

「そっか。ありがとう」

 やがて、挨拶を終えたバートがやってきて、せかすようにハルの肩を叩きました。

「さあ、夜にならないうちに行こう」

「はい。じゃあ、行ってきます」

 こうして、ふたりは隣町へと旅立ってしまいました。お父さんたちは、ふたりがこちらに背を向けたのを確認すると、不安げに顔を見合わせました。

「ハル、ちゃんと帰ってくるかしら」

「確かにあの人は怪しいが、これだけのことが起こった以上、俺たちにはどうしようもない。今は信じてみるしかないさ。大丈夫、あの子だってもう16なんだから」

「そうね……」

「さあ、家に戻ろう。いつまでも外にいたって仕方がない」

 お母さんとお父さんは玄関の扉を開けて中に入ると、外に突っ立っているギルに呼びかけました。

「ギル、早く入りなさい」

「うん」

 ギルは力なく返事をすると、夕日が差しこむ中、だんだんと小さくなっていくふたりの姿をぼんやりと眺めました。両親とは違い、ギルはバートのことは信用していましたが、それとは別に、ハルのことが心配でたまりませんでした。

 理由はわかりませんが、なんだか胸騒ぎがするのです。

「大丈夫かなあ……」

 誰にも聞こえないくらいの小さな声で、ギルはひとり呟きました。

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