2 ギルと懐中時計
ギルにとって、今日ほど気分の悪い日はありませんでした。しかし、本当に気分が悪いのはギルでなくお母さんのほうでしょう。ギルの成績表を見た瞬間のお母さんの顔といったら! これまでに読んだ、どんなおとぎ話の悪魔よりも恐ろしかったのですから。おかげでギルは、そのあと部屋から一歩も出られませんでした。どうして成績なんてものがあるのだろう、とギルは学校を恨みました。
「ギル」
突然、扉をノックする音が聞こえました。ギルが返事をする前に、扉は勝手に開きました。現れたのは、5つ年上のお兄さんのハルでした。
「そろそろ夕食だから下りておいで」
「嫌だよ」
空っぽのお腹が苦しそうに呻くのも無視して、ギルは顔を背けました。今行ったら、食べている間中お母さんの小言を聞く羽目になるに違いありません。
「大丈夫さ、母さんも怒り疲れて落ち着いているから。つけられてしまった評価はどうしようもない。これから頑張ればいいじゃないか」
「兄さんは優等生だから、そんなことが言えるんだ」
なおも抵抗を続けると、ハルはやれやれと頭を振って、ギル肩を叩きました。
「いいから、来るんだよ。もし来たら、いいものをあげる」
それだけ言うとハルは、ギルの返事も聞かずにさっさと出て行ってしまいました。
ギルはしばらく迷いましたが、お腹はぐうぐうとうるさいし、「いいもの」が何なのか気になって仕方がありませんでしたので、恐る恐る階段を下りてリビングに足を運びました。
「ギル、早くなさい」
お母さんは、相変わらず機嫌が悪そうでした。ギルは慌てて手を洗いに行きました。
しかし、食事中、お母さんは押し黙ったままで、特に成績の話はしてきませんでした。不思議に思ってハルのほうを見ると、彼はいたずらっぽく笑ってみせました。どうやら、これはハルの差し金のようでした。ギルは、恥ずかしくなって、下を向きました。そんなギルを見て、お父さんが呟きました。
「ばかに今日は静かだな、おまえたち。まあ、食事の時間は静かなほうがいいか」
ギルは答えませんでした。代わりに、ハルがくすくす笑っているのが見えました。
食事がすむと、ギルはハルに詰め寄りました。
「で、いいものってなんなのさ。まさか、嘘をついていたの?」
「せっかく母さんをなだめておいたのに、ひどいなあ。まあいいや、これだよ」
ハルが見せてくれたのは、少し錆びて、塗装がはげかけた、銀の懐中時計でした。ギルはそれをよく知っていました。
「なあんだ、それ、兄さんが父さんに貰ったものじゃないか。今更欲しくないよ」
「昔あんなに羨ましがっていたくせに。いらないなら捨てるか、売るしかないね」
「なんだって?」
ギルはびっくりしました。こんなにいい時計を捨てるだなんて、どういうことでしょう。
「僕は、これを手放したいんだ。だから、ギルがいらないと言うのなら仕方がない」
「わかった、貰う、貰うよ」
慌てて叫ぶと、ハルはほっとした表情をしました。
「よかった。それがいい。だって、この時計は元々おまえの父さんのものなのだから」
ハルは笑って、部屋に引き上げていきました。
こうして、ギルは懐中時計を受け取りました。
その夜のことでした。
肩を強く揺さぶられたような感覚がして、ギルは目を覚ましました。わけもわからず、ぼうっとしていると、頭の上のほうから甲高い声が降ってきました。
「起きて、起きて、王子様」
むくりと上半身を起こしてあたりを見回してみましたが、人の気配は感じられません。気のせいだと思ったギルは、もう一度布団を被って眠ろうとしました。しかし、妙な声は消えるどころか、さらに大きくなったのです。
「起きて、起きて、起きて!」
「もう、誰だよ」
こうも騒がしいと、寝ることもできません。頭にきたギルは布団と枕を跳ね飛ばして起き上がり、枕元のランプをつけました。
「私、私よ! 私はここよ!」
眩しい中を、寝ぼけ眼で探っていくと、机の上に行き当たりました。そこには、夕食後にハルから譲り受けた懐中時計が無造作に置かれていました。どうやら、声の主はこれのようでした。ギルは気味悪く思いながらも、そっと蓋を開けてみました。
「わあ!」
蓋をずらした瞬間、強い光が目に突き刺さりました。まるで、写真撮影のフラッシュを間近で浴びせられたかのようです。ギルは思わず時計を放り出して両目を押さえました。
ガン! と懐中時計が床に打ち付ける音が聞こえました。それと同時に、さっきの声も聞こえました。
「ちょっと、気をつけて!」
気をつけるも何も、時計が光ったりするからいけないのです。ギルは文句を言おうとして目を開け、そして絶句しました。
転がった時計の傍らには、黒い衣をまとった少女がいました。ギルより少し年上でしょうか。もっさりとした髪を無理やり二つにまとめあげたかのような髪型と、時計の針のような不思議な髪飾りも、そうとう奇抜でしたが、とにかくギルは、彼女の全身が透き通り、光り輝いていることに驚かざるを得ませんでした。彼女の透き通るような白い肌は本当に透き通っていて、後ろにある家具や壁が、はっきりと見えるのです。
「お久しぶり。私のことは覚えてないでしょうね」
恐怖で腰が抜けているギルをよそに、少女はぺらぺらと好き勝手に喋りはじめました。
「私はフロー、時の精霊よ。あなたが時計のねじを巻いたから、こうして出てこられたの」
はじめ、ギルは目を白黒させながら話を聞いていましたが、だんだん頭も冴えてきて、こんな少女一人に怯えているのが馬鹿らしくなってきました。そこで言いました。
「何の話かわからないし、俺は王子様じゃない。人違いだろ。俺は幽霊と喋る気はない」
すると少女はむっとしました。
「幽霊じゃないわ。精霊。それに、この時計は私の故郷、『クロック王国』の王子様の時計。だからあなたが王子様なの」
そんなことを言われても、この時計は元々ギルのではありません。お父さんが買ってきて、それをハルがくれたのです。
「これは俺のじゃなくて、兄さんのだよ。でも、父さんや兄さんが王子様だなんてこと、あるもんか」
ギルがこう言い返しますと、少女フローは困ったような顔で黙ってしまいました。
しばらく沈黙が続いたのち、フローは言いました。
「だったら、王子様じゃなくてもいいわ。あなた、名前は」
「ギルバート。ギルって呼ばれてる」
「じゃあ、ギルバート、あなたにお願いするわ。人食い森に来て。私と王様を助けて欲しい。」
「人食い森って、隣町の森かい。だめだよ、あそこは危険だから行くなって、学校の先生が言っていたんだ」
これは本当です。隣町のはずれにある深い森はとても大きく、入ったが最後、帰ってこなくなる人が後を絶ちませんでした。ですから、大人たちは皆その森を「人食い森」と呼んで恐れていました。学校の先生も、ことあるごとに「森に近づくな」とギルたちに注意するのでした。
しかし、フローは引き下がりませんでした。
「そんなこと言われたって、困るわ。頼めるのはあなただけなのに」
「だって俺、森から迷わずに帰ってくる自身がないよ。他に頼める人はいないの?」
それを聞くと、フローは暫く考えこみました。
「わかったわ、あなたを助けてくれそうな人のところへ、あなたを導いてあげる」
「どんな人?」
「我がクロック王国に代々受け継がれてきた聖なる時計は三つあるの。それを持っている人よ。きっと協力してくれるわ」
話しているうちに、もともと薄かったフローの身体は、さらに薄く透き通り、だんだん見えなくなっていきました。
「ごめんなさい、そろそろお城に戻されてしまうみたい。じゃあ、時計のぜんまいをちゃんと巻いてね。待っているから」
早口でしゃべり終えると、フローは念を押すように、にこりと笑ってみせました。そして音もなくすうっと消えてしまいました。
フローがいなくなると、部屋は真っ暗になってしまいました。ギルは立ち尽くしたまま、しばらく動けませんでした。
その後、どのようにして眠りについたのかは定かではありませんが、朝、目がさめると、ギルはベッドの中にいました。床に転がされた懐中時計はそのままでした。