10 真実のお話
翌朝、アリーはぼんやりと目の前の教科書に目を落としたまま、昨日のできごとを思いかえしていました。
町はずれの森が消えたことはたちまち人々の間で噂になり、かつて森があった場所には住民が殺到しました。今日だって、学校の中はその話でもちきりでした。さらに、森の向こうには古びた謎の建物が見つかったということで、これまた騒ぎになりました。いまに研究者たちがこぞってやってくるのではないかと、大人たちは言っていました。
「それじゃあ今日は、ここからね。アリー、読んでくれる?」
先生の声に、アリーはハッとして立ちあがりました。しかし、何ページのどこを読めばいいのかわかりません。先生の話なんて、まるで聞いていなかったのです。怯えた目で先生を見あげると、先生は呆れたように頭をふりました。
「授業中に空想はやめなさい。もういいわ。スーザン、同じところを読んで」
その日、学校が終わると、アリーはおばさんの家ではなく、まっすぐ両親のいる家へと急ぎました。そして、裏口へは回らず、お店の入り口から入ると、偶然目に入ったママのところへ行きました。ママはアリーの姿を捉えると、一瞬眉をひそめ、何かを言いたそうな顔をしましたが、すぐに表情を和らげると、アリーが口をひらく前に低くささやきました。
「レイなら部屋よ。今日だけ特別に行ってもいいわ」
彼女の部屋は建物の二階の東の奥にありましたが、訪ねるのはこれが初めてでした。廊下のつきあたりに開けられた窓から、やわらかな光が差しこみ、塗装が剥げかかった小さな部屋の扉を照らしていました。アリーが軽くノックをすると、よろよろと扉が開きました。目の前には誰もいません。が、少し目線を下に落とすと、そこには小さな黒髪の女の子がいました。相変わらず、彼女は小さいままでした。
やはり、昨日の出来事は現実だったのです。アリーは見慣れない彼女の姿に、思わず固まってしまいました。かける言葉はたくさん用意してきたはずなのに、全て胸でつっかえて、喉から先へ出てこようとしません。
「学校は終わったの?」
レイは特に驚いた様子もなく尋ねました。アリーは頷き、やっとのことでこれだけ言いました。
「ここに来る許可ももらったの」
するとレイは、黙って2、3歩下がりました。きっと、入ってよいということなのでしょう。
部屋の大きさは、アリーの寝室と同じくらいでした。大きな窓がひとつと、小さなベッドがひとつ、そして小さな棚に机と椅子がひとつずつあるだけの、簡素な部屋でした。そしてなぜか、ベッドの上にはいくつかのぬいぐるみと、大量の衣類、それから大量の本が積みあげられていました。レイが椅子を引いてこちらに向けたので、アリーは促されるまま、そこに座りました。
「これは、あの塔から持ってきたの」
誰に言うともなく、レイはぽつぽつと語りだしました。
「私の部屋は元のままだった。家具も、物の配置も。だけど、きちんと15年の時が経っていたわ。どれもこれも、埃まみれになっていた」
ベッドの一番上には、小さな灰色のうさぎのぬいぐるみが置かれていました。レイは黙ってそれを拾いあげ、そのぬいぐるみに視線を落としたまま、アリーの方に身体を向けました。
「何年か前に私があの場所を訪ねたときは、どうやっても部屋の扉が開かなかった。でも、今回はあっさりと入ることができた。驚いたし、嬉しかったわ。きっと、部屋の中は昔のまま、何も変わっていないだろうと思った。でも」
そこで言葉を切ると、レイはうさぎの背に指をあて、すーっと横に滑らしました。すると、うさぎの背だけが綺麗な白になり、代わりにレイの指には大量の埃が絡まっていました。
「そうではなかった。長い時間が経って、何もかもが古びていたわ。そこでやっと気がついたの。私はあの場所に幻想を抱いていたんだって。あの場所はただの場所なのに、そこに過去の幸せが眠っていると思いこんでいたの」
そして、ぎゅっと背だけが白くなったうさぎを握りしめました。
「私は『現在いま』を大切にすべきだった。そして未来を見るべきだった。そんな簡単なことが、お父様に言われるまでわからなかった。私を見てくれる人を、私を気にかけてくれた人を、私はずっと無視していたの。だからこれは、私への罰なのよ」
「違うわ! だって、元はといえば私が……」
「いいえ、あなたはきっかけを作っただけ。アリーがいなければ、きっと私は気づかないままだったわ。そして、両親に再会することもなかった。私、あなたには感謝しているの。だからもう、何も言わないで」
何も言わないで、と言われたので、アリーは一旦口を閉じました。しかし、どうしても伝えたいことが、まだありました。
「私、町が消えて、パパとママがいなくなったって聞いて、ハルもバートもいなくなって……最後はひとりきりになって、心が壊れそうだった。あとからレイの家族の話を聞いて、思ったわ。レイも、ずっと苦しかったんだろうって。今まで、何も知らずに勝手なことを言ってごめんなさい。それと……」
レイは何も言いません。黙って、ただ目をまるくしてこちらを見あげています。アリーはスカートの裾をぎゅっと掴みました。
「つらいと思うことがあったら、私を頼ってほしいの。私子供だし、あんまり大きなことはできないけど、でも、ひとりきりでいるよりは何かできると思うの。もちろん図々しいのはわかっているけれど、でも、これ以上、レイが悲しい思いをするのは嫌だから、その……」
言いたいことは確かにあるのに、うまく言葉で言いあらわせません。どうしようもなく小声でモゴモゴと続けていると、レイはやがてふっと笑って、アリーの手をとりました。
「ありがとう」
その顔は穏やかでした。いつも冷たい目で見下ろしていたときとは別人のようです。アリーはホッとして、ようやく笑顔になりました。
そのとき、ふいに、扉がノックされました。
「レイ、少しいい? お客様が来ているんだけど」
それはママの声でした。レイが扉を開けると、ママのすぐ後ろには、見慣れたふたつの顔がありました。
「バート! それからノアも!」
「やあ、レイチェル。アリーもいたのか」
バートはいつも通りのひょうきんな笑顔で、軽くふたりに挨拶をしました。ノアはどこかぎこちない笑顔で、ふたりに笑いかけてみせました。
「バート、どうしてここに?」
「なに、ほんの挨拶に来ただけさ。明日にはここを発つんでね」
バートはなんでもなさそうに笑って肩をすくめました。
「発つってバート、どこへ行くの?」
「さあ、どこだろうな。だが、少なくともここにいる必要はなくなった。呪いも消えたことだし、死ぬまでは世界の景色を見て回るとするよ」
それから、レイの衣類の山を一瞥しました。
「こいつは今朝、俺が運んだ分だな」
「はい。お手伝いいただきありがとうございました」
「結局、扉が開いたのは、君の部屋だけだったのか?」
「いえ。あとから試してみたら、他の部屋も扉は開きました。でも、中が空っぽだったんです」
「なんだって、泥棒でも入ったのか? まいったな」
「違うと思います。床も壁も、全面が埃だらけでしたから」
「はて、そいつは妙だな。誰の仕業だろう」
バートはしばし考える仕草をしましたが、ふと思い出したように、ノアの背中を押しました。
「そうだ、こんなことをしている場合じゃない。挨拶をしに来たのは俺だけじゃなかったんだ」
バートに促され、ノアが一歩前へ出ました。ノアは俯いたまま、しばらく目を泳がせていましたが、やがてレイの前にやってくると、沈んだ声で話しかけました。
「身体は大丈夫か?」
「ええ。目線が低いのにも、ようやく慣れてきたわ」
「そうか」
ノアの目は明らかになにか言いたげでしたが、彼はなにも言わず、ふいとレイから目をそらしてしまいました。
「これから、どうするんだ?」
「え?」
ノアはレイではなく、部屋の窓を見つめたまま続けました。
「そんな身体で、仕事を続けるのは難しいだろう?」
「旦那様と奥様は、ここにいていいと言ってくださったわ。どうせ、私は裏方だもの。周囲には、病気で身体が小さくなったとでも言っておくわ」
「だけど、これまで通りにはいかないだろ。そのうち、変な噂が立たないとも限らない。それに、そんな小さな子供の姿じゃ、ひとりで外を歩くのだって危険じゃないか」
「でも……」
「なあ、レイ」
ノアは膝を折ってレイと目線を合わせ、彼女の手をとると、いつになく真剣な目をして言いました。
「一緒に来ないか。身体がもとに戻るまで、うちにいればいい。無理をして外国にいる必要はない。あの扉があるうちに、俺とデルンガンに帰ろう」
「え……?」
レイは右手をノアに握られたまま、あっけにとられていました。バートが後ろから続けました。
「実は、あの扉なんだが、今日限り閉鎖しようと思っているんだ」
「えっ!」
今度はアリーが驚く番でした。
「あの扉、なくなっちゃうの? どうして!」
「王国や俺の問題も片付いたし、区切りをつけようと思ってな。今は交通も便利になったし、俺はもうあの屋敷にはいない。どのみち、俺の魔力が尽きて俺が死ねば、あの扉はただの扉に戻っちまう。変に悪用される前に、余計なものは始末しておくことにしたんだ」
レイはどうしてよいかわからない様子で、ノアの顔をまじまじと見つめていました。
「ノア、本気で言っているの?」
「本気さ。俺も親父に大きな仕事を任されるようになったし、この国にだって簡単には来られなくなる。うちは広いし、事情を話せば家の人間だってうるさくは言ってこないさ」
「ノア……」
長い沈黙が流れました。
アリーは急に寂しくなりました。レイが海の向こうのデルンガンに行き、扉が封鎖されれば、再会することは難しいでしょう。
しかし、レイは悲しげに目を伏せて、首を横に振りました。
「ありがとう、ノア。今まで本当にありがとう。でも、行けない。あの町に戻っても、私の帰るべき家はもうないんだもの」
すると、ノアはみるみるうちに顔を曇らせ、そして激しい口調で怒鳴りました。
「家くらい、どうとでもしてやるさ! 遠慮なんかいらない。俺が言えばたいていのことはどうにかできるんだ。それに、おまえがこの国にいたら、次に会えるのはいつになるか……」
「ありがとう。ずっと心配してくれていたことも、アリーから聞いたわ。私のことを忘れないでいてくれて、すごく嬉しい。でも私、ここにいたいの。私は、私を必要としてくれる場所にいたい」
「そんなの、俺だって……!」
ノアは強くレイの手を握りしめ、まだなにかを言おうとしました。けれど、相変わらず頑なな表情のレイを見て、静かにその手を離しました。
「……わかった。無理にとは言わない。けど、その気になったらいつでも連絡してくれよ」
ノアはそれきり、後ろを向いてしまいました。レイは申し訳なさそうに、だけど、少し安堵した表情で微笑みました。
「ごめんなさい。でも、ありがとう、ノア。また今度、手紙を送るわ」
「じゃあ、まあ、そういうことで。俺は彼を送るついでに、今から扉を閉じに行くよ」
バートはノアの肩を叩くと、部屋の外へと足を向けました。
「じゃあな、おふたりさん。俺は明日、朝一の汽車で旅立つよ」
「はい。ノア、どうか元気で」
レイは満足げにノアの背に向かって手を振りました。アリーは少し考えて、扉が閉まったあと、わざと遅れてふたりを追いかけました。
「ノア」
ふたりが建物の外へ出たのを見計らって、アリーはノアに声をかけました。ノアは無言でこちらを振りかえりましたが、その表情は暗く、沈んでいました。
「おっと、まだ言い残したことがあったのか。じゃ、俺は先に行くとしよう」
バートは何かを察したように、ささっとふたりから距離をとると、先に行ってしまいました。ノアはけわしい顔でアリーを睨みつけました。
「なんだよ」
「ねえ。私がこんなこと聞くのはおかしいかもしれないけれど……もしかしてノア、レイのことが好きなの?」
ノアは、アリーから目線をそらして、地面を見つめました。
「どうして、そう思った?」
「だって……ずっと探していたんでしょう? 写真だって大切にとってあったし、それに、うまく言えないけど、さっきのノアはノアらしくなかった」
するとノアは、地面に視線を落としたまま、ふっと微笑みました。
「なるほどな。けど、仮にそうだとしたら、どうするんだ?」
「あのね……レイも、ノアのことは嫌いじゃないと思うの。だから、きちんと伝えれば、もしかしたら来てくれるかもしれないと思って」
「それじゃ、本末転倒じゃないか」
ノアはぽすんとアリーの頭に手を乗せました。
「レイはやっと自由になれたんだ。やっと、過去に縛られずに生きることができるようになった。それなのに、俺が余計なことを言ったら、また足かせが増えてしまう。俺は、あいつが幸せならそれでいいさ」
「でも……」
すると、ノアは屈んでアリーに視線を合わせ、まっすぐにアリーの目を見て訴えかけました。
「アリー、レイは繊細なんだ。俺が余計なことを考えていると知ったら、きっと自分より俺のことを優先してしまう。それじゃ、駄目なんだ。どうかレイには何も言わないでくれ。それが、レイのためなんだ。頼む」
静かだけれど迫力のある科白に、アリーはただ、頷くことしかできませんでした。そんなアリーを見たノアは、ほっとした様子で立ちあがりました。
「ありがとな、アリー。ああ、それと、レイに伝えておいてくれ。『あの場所のことは任せてくれ』って」
「え?」
アリーはノアの言葉の意味がわからずにノアを見上げました。が、ノアはそれ以上は何も言わず、いたずらっぽく笑ってウインクしました。その表情は、やっぱりバートにそっくりでした。
「じゃあ、アリー。元気でな」
少し寂しげな彼の背中が遠ざかっていくのを、アリーは立ちつくしたまま、いつまでも、いつまでも見送っていました。
翌朝、まだ夜が明けきらぬうちに、アリーはパパに連れられて、隣町の駅まで行きました。
昨日の一件で、別れの挨拶はもうすんだことになっていたのですが、アリーはどうしてもバートにひとめ会いたくて、パパに無理を言って連れてきてもらったのでした。
まだ薄暗い駅にはすでに、ギルたち家族とバートがいました。彼らはすでに挨拶をすませている様子でした。アリーはバートの姿を見つけると、パパの手をほどいて彼のもとに駆けよりました。
「バート!」
その身なりは、以前の浮浪者のような格好とはずいぶん違いました。髭を剃り、髪を整え、きちんとしたスーツに身を固め、手には革製の立派な鞄を下げていました。
「驚いたろ。俺は自分の服で十分だと言ったんだが、君の父上がこれを着ろといって聞かなかったのでね。ありがたく買わせていただいたよ」
「よくお似合いですよ。そっちの方が、ずっとハンサムに見える」
パパが、軽く笑ってみせました。いつもお客さんに見せる営業スマイルとは違います。本当に感心しているようでした。
「本当に行っちゃうの?」
どうにも別れが名残惜しく、アリーはバートの足にすがりつきました。バートは目を細めて、アリーと、すぐ隣にいたギルを交互に見つめました。
「ああ。色々と世話になったな。アリーにも、ギルにも」
「残念だなあ。別にここにいたっていいじゃないか」
ギルは、つまらなさそうに口を尖らせました。きっと、ギルもアリーと同じことを考えているのでしょう。
「ありがとよ。だが、俺は残された時間を有効活用したいんだ。おまえも大きくなれば、いずれわかるさ」
バートはそう言って、両手でふたりを抱きよせました。
「たしかに、少し寂しいなあ。こんな気持ちになったのは、久しぶりだよ」
それから、大人たちと握手し、最後にハルと握手しました。ハルは寂しそうな、だけど晴れやかな笑みをこぼしました。
「君も達者でな」
「はい。また遊びに来てください」
「そいつはどうも。ま、気が向いたらまた来るよ」
やがて、遠くのほうから汽笛が聞こえ、汽車の車輪の音も近づいてきました。
バートは改札を抜けると、もう一度だけ振り返り、これまでとは違う、爽やかな笑顔をこちらに向け、大きく手を振りました。
「行っちゃったな」
汽車が去り、その煙すらも見えなくなった頃、ふいに隣にいたギルが、アリーにしか聞こえない小さな声でつぶやきました。
「ええ」
アリーも、同じくらい小さな声で、ひとりごとのように答えました。
それきり、ふたりとも、もうなにも言いませんでした。
不気味で、怖くて、だけどなぜか楽しさもあった、森のむこうの物語は、こうして終わりを告げたのです。
その日、学校に行くと、おしゃべり好きのキャリーが、なにやら大きな声でみんなを集めて騒ぎたてていました。
「実は、あの森のことを大人たちが噂していたのを聞いたのよ。なんでもあの森は悪霊が見せていた幻影で、悪魔払いによって悪霊が消えたから森も消えたんですって!」
「いい加減にしろよ、キャリー」
そばにいた子供たちはみな、鬱陶しそうに顔を背けました。
「そんな話、信じられるわけないだろ」
「そうよ。あの森が消えたのは、夜中に誰かが伐採したからでしょ。うちのパパはそう言っていたわ」
こう言ったのは、いつも成績優秀なスーザンです。すると、周りの子供たちも口々にキャリーに文句をつけはじめました。
「そうだよ、今は機械があるんだから、森ひとつくらい、どうとでもできる」
「そうだそうだ。そんなばかげたことがあるもんか」
子供たちはみんな、スーザンに賛同しました。アリーは自分の教科書と文房具を取りだして、すべて揃っているか確認しながら、団子のように固まっている一同に向かって言いはなちました。
「決めつけることはないでしょう。真実は誰にもわからないものよ」
「ええ! アリーまさか、これを信じるの?」
子供たち、とりわけ女の子たちは仰天して、一斉にアリーを見ました。無理もありません。というのも、普段のアリーは、率先してこういうくだらない話を否定するタイプの人間なのです。
「別に。ただ、どんなことも『ありえない』とは限らないというだけ」
「アリーらしくない……」
女の子たちは困惑したように、目配せしあいました。男の子たちはこの話に飽きたのか、スーザンに構うのをやめて、部屋中に散っていきました。
その日も、アリーはいつものおばさんの家ではなく、両親やレイのいる、お店のほうへと行きました。パパとママが入るのを許可してくれるかはわかりません。ただ、アリーはどうしても、小さくなったレイのことが気がかりだったのです。
ちょうどアリーがお店へと来たとき、お店の入り口にレイが立っていました。そして、そのすぐ近くにはあのサンダース夫人と、ほかにふたり、知らない大人が立っていました。ひとりは女性、ひとりは少し年をとった男性です。
「アリー!」
レイが、こちらに気づいて呼びかけました。ほかの大人たちもいっせいに振りむきます。こうなっては仕方がありません。アリーはおずおずとレイのほうへと歩いていきました。サンダース夫人が目を丸くしました。
「あら、平日はこちらに来てはいけないんじゃなかったの?」
騒ぎを聞きつけて、パパが店からでてきました。
「なんだアリー、今日はここには来ちゃいけないぞ。おばさんの家に帰りなさい」
しかし、レイはアリーの手を握って、アリーのパパに懇願しました。
「今日だけは許してください。いずれ、アリーにも父たちを紹介しようと思っていたんです。お願いします」
アリーはレイに手をとられたまま、サンダース夫人と、知らない大人たちと一緒に応接室に通されました。
年とった男性はアーノルドといって、レイの「お父さん」なのだそうです。そして女性はステイシーといって、レイの「お姉さん」なのだそうです。
「でもレイ、レイのお父さんってたしか……」
そう、アリーはすでにレイの両親には会っていました。そして、ふたりはレイに別れを告げ、時計塔から旅立ってしまいました。もちろん、レイのパパは、ここにいる男性とは似ても似つかない別人です。
「この方も、私の『お父さん』なの。血は繋がっていないけれど、間違いなくお父さんなのよ」
アリーはびっくりしました。レイにもうひとりパパがいたなんて、今の今まで知りませんでした。だって、サンダース夫人だって、事あるごとにレイのことを「ひとりぼっち」だと言っていたのです。
「ま、父親にしちゃ薄情よね。この7年間、会いにきたこともなけりゃ、電話もかけず、手紙は数年に1通だけ。ひどいもんだわ」
サンダース夫人が、冷たい声でレイの「お父さん」を批難しました。夫人はレイの「お父さん」をあまり好きではないようです。
「すまなかった……俺は字も書けないし、贅沢な旅費も持っていない。電話だって職場にひとつしかなくて、料金は高いしプライバシーがない。忙しい知り合いに頼みこんで代筆の手紙を送ってもらうのがやっとだったんだ」
「もちろん、知っているわ。そんなことは気にしないで」
レイが優しい口調で答えました。
「でも、驚いたわ。お姉さんまで来てくれるなんて」
「まあ、かわいい妹が大変だって聞いたからね。それに、ちょうどいいタイミングだったのよ」
この人も、レイとは血が繋がっていない「お姉さん」なのだそうです。たしかに、姉妹というには年が離れすぎているような気がしました。このステイシーという人は、そこに座っているだけでも眩しいほどに明るく、元気な人でした。声も凛としていて、鬱陶しいくらいにはきはきとした口調で話します。レイとは対照的でした。
「レイ、あたしがパパと仲直りしたって話はしたでしょ?」
「ええ、この前の手紙で」
「そうそう。ちょうどパパもようやく仕事ぶりが認められてね。パパの今の仕事、知ってるでしょ?」
「ええ、7年前に昔と同じ調理の仕事をはじめたことと、3年前に昔の知り合いの店に移ったことなら」
「あれ、そんなとこで止まってるの? パパ、半年前に独立して、自分の店を持ったのよ。ここからは遠いけど、同じセミラ国の町にあるの。今、あたしもそこに住んでるのよ」
大人たちの話は難解で、アリーにはいまひとつ理解しきれませんでした。ただ、ステイシーがとても嬉しそうに喋っていることだけは理解できました。
「だから、パパと話しあって、レイのことも誘うことにしたの。知らない場所でひとりぼっちじゃ、可哀想だもん。もちろん、レイが嫌なら無理にとは言わないつもりだったわ。けど……」
そこでステイシーは言葉を切り、ソファーから足が浮いた状態の小さなレイをまじまじと観察しました。
「こんなに小さくなったんじゃあ、ここの人にも嫌がられるんじゃないかな。ねえレイ、あたしたちのところにおいでよ。パパだって、昔のだめなパパじゃないのよ。気兼ねしないで。特にパパはレイのことを気にしていてね。これまで一緒にいられなかった分、できるだけのことはしてあげたいって」
嫌がってなんかない、とアリーは言い返しそうになりましたが、ぐっと堪えました。こういう、大人たちがいる席では、子供は余計な口を挟まないのが暗黙のルールなのです。
すると、応接室の扉がノックされ、アリーのママが現れました。いくつかのカップを盆にのせています。ママはカップを配り終えると、アリーをつついて、部屋からでるように促しました。アリーは話の続きが気になりましたが、わがままを言うわけにもいきません。黙って、おとなしく従うよりありませんでした。
そのあと、レイたちは長い間、部屋からでてきませんでした。アリーはどうしてもおばさんの家に帰る気になれず、こちらの家にある自室でぼんやりと外の景色を眺めていました。
やがて、下の階が騒がしくなりました。客人たちが帰るのです。アリーは部屋を飛びだし、ママに叱られないように、階段をそうっと降りました。
レイはちょうど、自分の部屋に戻ろうとしているところでした。レイはアリーの足音に気づいて、こちらを振りかえりました。
「どうしたの?」
「ううん、別に。ただ……」
アリーはなんでもない風を装おうとしましたが、やっぱりだめでした。だって、気になって仕方がないのです。
「あの……あのね、レイ、このお店やめちゃうの?」
すると、レイは目を伏せました。
「ええ。私はここで働くのは好きだったんだけれど……お姉さんと話していると、やっぱり、ここにいるのは迷惑な気がしてきたの」
「そんな、迷惑なんかじゃないわ!」
アリーは声を荒げました。しかし、レイの表情は沈んだままでした。
「ここは託児所じゃないもの。お裁縫は好きだし、ずっと勤めていたかったけれど、やっぱり無理をいうのはよくないわ。私はアリーと違って、この家の家族ではないもの」
「おや、レイ。そんな風に思っていたのかい?」
はっとアリーが振りかえると、そこにはアリーのパパとママがいました。
「あなたが自分の家族と暮らすことを望むのなら、と思って、あえて引きとめなかったのだけれど……」
「私たちは、君のことをこの7年間、ずっと家族のように思って過ごしてきた。この通り、アリーだって君のことを気にかけている。私たちのことを思って辞めるというのなら、私たちは全力で引きとめさせてもらうよ」
「あなたがここへ来たとき、あなたはまだ13歳だったでしょう。あの頃はまだ、住みこみで働いてくれる人はあなただけだった。私たち、よく話していたのよ。『もうひとり娘ができたみたい』だって」
「でも……」
それでも、レイの表情は変わりませんでした。
「私、おふたりに何もしていません。親切にしていただくばかりで、何もお返しできていません。いつも自分のことばかり考えていましたから」
すると、パパとママは顔を見あわせました。
「そんなことはない。君はいつも、私たちのことを一番に考えていてくれたじゃないか」
ママが、にこりと微笑んでレイに歩みより、そっと頰を撫でました。
「私が仕事ばかりしていることを咎められたとき、かばってくれたことがあったでしょう? 私、あの頃は自分を責めてばかりいたの。そのとき、『後悔しない道を選べばいい』って言ってくれたわよね。私、感謝しているのよ」
パパも、柔らかい笑みをレイに向けました。
「私が町で泥棒の疑いをかけられたときも、証拠がない中でもずっと信じていてくれただろう。孤立無援の中で、どれほど心強かったか。そのときに思ったよ。この子はもう、私の家族なんだとね」
「そんな……私はただ、お世話になっていますから、当然のことをしたまでです」
「それでいいんだよ。それで十分なんだ。もちろん、君がどの選択をしようと、私たちは君を応援する。だが、私たちはとっくに、君のことを家族だと思っているんだよ。これだけは忘れないでくれ」
「はい……」
レイは、今にも泣きだしそうな目を細めて、嬉しそうに顔をほころばせました。
数日後、アリーはパパを通じて、レイがこの家に残る決断をしたことを知らされました。
「へえ、たまげたね!」
あくる朝、アリーがねぼけまなこで朝食のテーブルにつくと、向かいで新聞を読んでいたおばあさんが大きな声をあげました。
「どうかしたの?」
「ほら、町はずれに森があっただろう? 何ヶ月か前に、一晩で綺麗に刈りとられちまったけれど。あの土地をデルンガンの大企業が工場だかを作るとかいって買いとる手はずになっていたらしい。ところが昨日、担当者が現場を調査したら、奥のほうで古い遺跡を発見したらしい。なんでも、クロックとかいう幻の国の建物らしいんだってさ。で、政府と交渉した結果、きちんと調査することになったんだって」
「大企業?」
アリーはフォークを持った右手を宙に浮かせたまま、ぼんやりと考えました。おばあさんはそんなアリーをよそにペラペラと喋りつづけました。
「調査費用もある程度企業側が持つってことで話がまとまったようだよ。お金があって結構なことだね。まあ、ペンバートンくらいの会社なら、これもひとつの宣伝になると考えているのかもしれないねえ」
ふっと、ノアが別れ際に見せたあの笑顔が、アリーの脳裏によみがえりました。
──あの場所のことは任せてくれ。
アリーは持っていたフォークをお皿に置きました。きっと、あの場所が見つかったのも、壊されずに調査をすることになったのも、偶然ではありません。
「ノアだ……」
今になってようやく、アリーは彼のウインクの意味がわかりました。
「クロック王国が実在したなんて、今世紀最大のスキャンダルよ! ずっと伝説上にしかない幻の国って言われていたんだから!」
学校では、又してもキャリーが騒いでいました。手にはいくつもの雑誌と新聞紙を握っています。その中には、今朝おばあさんが読んでいた新聞と同じものもありました。
「やっぱり、あの場所にはなにかあるのよ。ちょっと調べてみたんだけど、ここを見て。今から15年前にあの森で何十人もの兵士が突然行方不明になったそうよ。しかもなぜか全員、三日後の正午に、ここから遠く離れた海辺の町で発見されたそうなの。全員、森に入った記憶すらなかったんですって。なんだかワクワクしてこない? 面白そうだわ」
しかし、誰一人として彼女の話に耳を傾ける者はありませんでした。
「あーあ、またキャリーが騒いでるよ」
「あれってオカルト雑誌じゃない? あんなもの学校に持ってきて、見つかったらどうするんだろ」
するとキャリーは怒って教壇に上がり、両手でバンバンと教卓を叩きました。
「ちょっとは聞いてよ! すごく不思議で面白いと思わない?」
「ああ、うるさいなあ」
「空想するのは勝手だけど、あんまり俺らを巻きこむなよ。行こうぜ」
ほかの子供たちが次々に逃げだす中、アリーはひとりキャリーに近づき、彼女が机に放りだしていたボロボロの雑誌を読んでみました。そこには、15年前にあの森で、43人もの兵士が突然3日間消息を絶ったということが書いてありました。
「これって……」
アリーは、おぼろげな時計塔の記憶を思いおこしました。いつの間にか消えてしまったあの蝋人形のように固まった兵士たち。そういえば彼らは、どこに行ってしまったのでしょう。
放課後、学校を出たアリーは、ふらふらと「あの場所」へと足を向けました。どうしてそこへ行こうと思ったのかは、アリー自身にもわかりませんでした。
その場所──かつて森で囲まれていたはずの草原は、今ではただの荒地になっていました。不揃いで種類もばらばらの草が好き放題に伸び、あの不気味な芝生の草原だった頃とはまるで様子が違います。そして現在、荒地は森ではなく背の高い柵で囲まれ、鉄条網がはりめぐらされていました。
本当に、ここには森があったのでしょうか。アリーはだんだん、自分の記憶がどこまでたしかなのか、自信がなくなってきていました。もしかすると、アリー自身、夢でもみていたのかもしれません。だって、今になって思いだすと、何もかもが非現実的で、おとぎ話のようなのですから。でも、レイは……
「そうだ、レイのところに行かなきゃ!」
アリーはくるりと鉄条網に背を向け、両親のいる店へと走りだしました。
最近のアリーは、平日でも両親のもとに行ってもよいことになっていました。というより、平日であっても行かなければいけないのでした。パパ曰く、レイはほかの誰よりも、アリーといるときが一番楽しそうなのだそうです。
パパの意向で、レイの仕事は夕方前には終わっていました。そして、アリーが訪れたときはたいてい編み物をしているか、階段あたりの掃除をしているのでした。
「あら、アリー。そろそろ来る頃だと思っていたわ」
今日の彼女は居間の椅子に腰かけて読書をしていました。そして、テーブルの真ん中には布をかけられた丸い何かが置かれていました。
レイは本を閉じて傍に置くと、その丸い何かを指して言いました。
「さっき、あなたのお母様がアップルパイを持ってきてくださったの。お客様からいただいたそうよ」
「本当に? 私の分も残してある?」
「もちろん。アリーが帰ってきてからいただくつもりだったもの」
「わあ、さすがレイ!」
アリーは大急ぎで手を洗ってくると、わくわくしながらお皿とフォークを2つずつ取りだしました。
「だってお客様ってスミスおばさんでしょ? あの人いつもお菓子をつくって持ってくるもの。それに私、アップルパイが大好きなのよ!」
「もちろん知ってるわ、あなた昔からそうだったもの。待ってて、すぐ紅茶を淹れるわ」
レイはそう言って、軽やかに椅子からおりました。その背丈は、ほとんどアリーと同じになっていました。
「それにしてもレイ、最近また大きくなったわね」
「そうなのよ」
レイはキッチンで水の入ったやかんを火にかけながら、ため息をつきました。
「そろそろアリーの身長に追いつきそうよ。おかげでもらったお洋服がすぐにきつくなるの。どうなっているのかしら」
レイはこの数カ月でぐんぐん大きくなっていました。はじめの頃のレイは本当に小さく、アリーが首を曲げて見下ろさなければならなかったのですが、あるときを境に少しずつ背丈が伸びはじめ、今ではアリーと対等な大きさになっていました。
「よかった。このままいけば、きっと元に戻れるわ」
するとレイは戸棚を開ける手を止めて、少し不満げにつぶやきました。
「そんなにすぐに戻らなくてもいいのに」
「どうして?」
戸棚からティーセットを取りだし、空のカップをテーブルに並べながら、レイは苦笑しました。
「せっかく今の姿に慣れてきたところなんだもの。それに、こっちの方がアリーとも話しやすいでしょう?」
「私はどちらでも話しやすいわよ?」
「ううん。うまく言えないのだけれど、前と違って対等に話せるの。それに私、アリーくらいの歳のときは、ひとりぼっちだったから。特に、同じ歳のお友達なんて全然いなかったの。ノアはほかにもお友達がいたし、はじめから私とは違う世界の人だった。学校でも、私はそれまで同年代の子を知らなかったから、うまく打ちとけられなかった。だから私、今が一番楽しいの。不謹慎かもしれないけど、本当はもう少しこのままでいたいの」
その声は寂しげでした。アリーが答えに窮していると、レイはぶんぶんと頭を振りました。
「あんまりこういうことを言うものではないわね。ずっとこのままじゃ迷惑をかけてしまうもの」
「私、レイが小さいままでも、もとに戻っても、ずっと友達でいるわ。友達になるのに歳なんて関係ないでしょう?」
アリーはお皿をテーブルに置くと、パイにかかっていた布をとりました。とたんに、パイのいい香りがふわりと顔にかかります。アリーはお皿の脇に用意されていたナイフを使ってパイを大きく切り分けると、それをお皿にのせ、ずいっとレイの目の前に差しだしました。
「だから、心配なんてしなくていいの。今を楽しめばそれでいいのよ」
レイは目をぱちくりさせてお皿のパイを見ていましたが、やがてぷっとおかしそうに吹きだしました。
「そうね、アリーの言うとおりだわ。余計なことは考えないようにする」
「そうよ。そういえば、今朝のニュース知ってる?」
「ええ……」
ちょうどお湯が沸いたので、レイは一旦席をはずし、熱くなったやかんを持って戻ってきました。
「きっと彼は私を助けてくれたのね。誰かがあの場所に立ち入って時計塔を壊したりしないように、保護してくれたんだわ」
「レイ、本当にノアと行かなくてよかったの?」
湯をポットに注ぎながら、レイはやわらかく微笑みました。
「彼はいい人よ。でも、必要以上にお世話になるのは気が引けるわ。ここなら今まで通り働かせてもらえるし、かける迷惑も少なくてすむから」
「けど……」
アリーは思わず、ノアがどうしてレイを誘ったのかを口走りそうになりました。が、別れ際の彼の言葉を思いだし、ぐっと口を閉じました。
「どうしたの?」
「ううん……」
「私なら大丈夫。今、ここにいて幸せだから」
そのとき、居間の扉が開きました。
「おや、アリー。帰っていたのか」
そこにいたのは、満面の笑みをたたえたアリーのパパでした。
「パパ!」
「さっきスミスさんがアップルパイを持ってきただろう。店を閉めたからパパももらおうと思ってね」
「でしたら、カップをもう一つ持ってきます。ちょうど紅茶を淹れるところでしたから」
「おお、悪いね」
レイがすぐに追加のカップとお皿、フォークを取ってきました。アリーはぷっと頰を膨らませました。
「パパったらタイミングが悪いわ! せっかくふたりで全部食べられると思っていたのに」
「そんなに食べて夕食はどうするんだ? おまえは食い意地を張りすぎだ」
そんなふたりのやりとりを見て、レイはひとり笑っていました。
紅茶がちょうどいい色になると、レイは3つのカップに丁寧に注ぎ、アリーの前にもひとつ置いてくれました。パパが言いました。
「しかし、不思議なこともあるんだなあ。急に小さくなったと思ったら、まただんだん大きくなるなんて。私もそれなりに長く生きてきたが、こんな出来事に遭遇するのは初めてだ」
アリーは手元にカップを引きよせました。カップはすっかり熱くなっていて、とても口をつけられそうにありませんでした。
「パパ、私、今でも夢を見ているような気がするの。だって、レイが突然小さくなるなんて、ありえないもの。これは本当に現実なのかしら。まるでおとぎ話だわ」
「ははは、なるほど。『おとぎ話』か」
パパは軽く笑って、紅茶を一口啜りました。
「実をいうと、おとぎ話というのは、必ずしも作り話とは限らない。もとは事実だったものが、語りつがれるうちに少しずつ変化して絵空事のようになってしまうこともあるんだ。それに、事実は小説よりも奇なりと言うだろう。世の中では、嘘のような本当の話というものは、珍しくない。空想のような現実もあれば、現実のように見えて実は絵空事だったなんてこともある。人生とは不思議なことの連続だよ」
「本当にそうですね。私も今になって、そう思います」
レイは感心していましたが、アリーにはパパの言葉の意味が、いまひとつよくわかりませんでした。
「えっと、つまり……不思議なことはよくあるってこと?」
「まあ、そういうことだ。まったく、この世というのは不思議なことに満ちている。だからこそ面白いのさ」
パパはそう言うとアップルパイを一口食べて、目を輝かせました。
「うん、うまい! さすがはスミスさんだ」
アリーはハッとしてパパの取り皿に目を向けました。そこには、とんでもなく大きなパイの塊がのっていました。
「パパ、ずるい! そんなにたくさん取っちゃうなんて」
「パパは身体が大きいからいいんだよ」
「だめよ! レイがせっかく取っておいてくれたのに!」
アリーは助け舟を求めてレイのほうを振りかえりました。レイはお腹を抱えて爆笑していました。
「ちょっと、どうしてそんなに笑うのよ!」
「だって、そっくりなんだもの。やっぱり親子なんだなと思って……」
そう言いながら、レイはなおも笑いつづけました。それは、以前の彼女からは考えられない、嘘偽りのない本当の笑顔でした。
ある日、アリーは久しぶりにギルの家を訪ねました。でも、本当にこの家に呼ばれているのはアリーではなく、レイでした。アリーはもう、自分の好奇心ばかりを優先すべきでないということをよくわかっていたので、大人しく留守番をしているつもりでした。しかし、レイがアリーの同行を強く求めたので、アリーは身支度をして、彼女についていくことにしました。
はじめのうち、ふたりは無言のまま歩いていました。ただ、少し緊張気味のアリーに対して、レイはとても落ちついて見えました。
あれだけの葉を生い茂らせていた木々も、今はすっかり葉を枯らし、剥き出しの枝にかろうじて数枚残っているだけになりました。日が暮れるのも早くなり、本格的に冬が近づいているのがわかります。気のせいか、駅に向かう人々も以前より早足になっていました。
レイはときどき、通りがかったお店のショーウィンドウをじっと見ていました。それはたいてい、洋服や布地を取り扱っている店でした。もしかしたら、なにか欲しいものがあるのかもしれません。
そこでアリーはあえて何も聞かず、レイが立ちどまるたび、一緒に足を止めてレイが満足するまで待ってあげました。でも、彼女は何も買おうとはしませんでした。
「やっぱり紅が好きなのね」
彼女は突然、窓を見るのをやめて、こちらを向きました。
「え」
アリーはびっくりして、右隣にいるレイの方を振りかえりました。あんまり勢いよく振りかえったせいで、着ていたケープが大きく左右にひるがえり、ゆらゆらと揺れてからおとなしくなりました。肌寒くなってきたので、アリーはお気に入りの、上品なワインレッドのケープコートをまとっていました。
「いつも紅い服を着てるでしょう」
「ええ……どうしてか、昔からこういう色が好きなの」
「やっぱりそうなのね。とても似合っているわ」
レイは目を細めて、どこかいとおしげにアリーのことを見つめました。アリーには、レイの考えていることがさっぱりわかりませんでした。
ギルの家は、前に来たときとちっとも変わっていませんでした。でも、今日ばかりは敷居の高い、見知らぬ家に見えました。
「私もついてきてよかったの?」
「もちろんよ」
呼び鈴を鳴らしたあと、レイは安堵したようにため息をつきました。
「またここに来られてよかった。以前ここに来たときは、ひどい別れ方をしてしまったから」
やがて、おばさんがふたりを出迎えてくれました。
「来てくれてありがとう。またあなたと、こうしてお話できるなんて嬉しいわ」
「こちらこそ、お招きありがとうございます。すみません、ここのところずっと忙しくて。本当はもっと早くに来るべきでした」
「まあ、そんな固いこと言わないで。来てくれただけで嬉しいんだから。あらアリー、どうしたの? そんなにかしこまっちゃって」
「い、いえ」
アリーはレイのあとに続いて、おずおずと中に入りました。てっきり、ギルたちも中にいるものだと思っていましたが、居間には人がおらず、がらんとしています。
なんだ、留守なんだ──と思った、そのときでした。
「やっと来た! 待ってたんだよ、大変なんだ」
ドタドタと階段を駆けおりる音がしたかと思うと、バン!と奥の扉が開き、ギルが勢いよくこちらに走ってきました。
「まあ、どうしたの。家の中を走らないで!」
「それどころじゃないんだよ。いいから、いいからちょっと来て!」
「ギル!」
「母さん、ちょっと待ってて。あとで降りてくるから!」
おばさんが止めるのも聞かず、ギルは右手でレイの、左手でアリーの腕を掴むと、階段の上へ引っ張っていきました。
上の部屋では、ハルが椅子に腰かけて、何かを見ていました。そしてアリーたちが来ると立ちあがり、見ていたその「何か」を閉じました。
「来てくれたんだ。アリー、姉さん」
あれから、ハルはレイを「姉さん」と呼び、ときどき会いにもきてくれていました。背の高いハルが、小さなレイを見下ろして姉さんと呼ぶのは、いつ見ても奇妙な光景でした。
「いったい、どうしたの?」
「急にごめんね。ほらギル、ふたりの腕を離してあげて」
「連れてこいって言ったのは兄さんじゃないか」
「だからって、こんな乱暴に連れてくることないだろう! ふたりとも、驚かせてごめん。実は、これを見てほしいんだ」
彼が取りだしたのは、なんと、あの銀の懐中時計でした。あのとき黒く焦げていたのが嘘のように、ピカピカと輝いています。
そしてその蓋を開けると──なんということでしょう、その文字盤は輝き、中から誰かがゆっくりと出てくるではありませんか!
「ああっ!」
それは小さな女の子でした。そして、アリーはその女の子に見覚えがありました。
「あなたは、時の精霊!」
「うん。久しぶりだね、アリー」
精霊は以前と違う、年相応の無邪気な笑顔をこちらに向けました。その声は麗らかで透きとおっていて、あの不気味なしゃがれ声とはまるで別物でした。
「どうしたの? まるで別人みたい」
「アリー、これが『フロー』だよ。前に話したろ? もう少し話しやすいやつだったって」
ギルが得意げに腕を組みました。そういえば、ギルはもともと、この「フロー」という少女に頼まれて森に行くことにしたのだと言っていました。おそらく、ここにいる子こそが、その「フロー」なのでしょう。
「じゃあ、時の精霊とは別人なの?」
「同じだよ。同じだけど、ちょっと違うの。私は私、精霊は精霊。でも私は時の精霊だし、時の精霊は私。そんな感じ」
「はあ」
彼女の説明は意味不明でしたが、アリーは特に何も言いませんでした。そもそも、時計からでてきている時点で、彼女はアリーたちとは違う存在なのです。理解しようというほうが無茶なのかもしれません。
「フロー、あなたはちっとも変わっていないのね」
レイが笑みを浮かべて、フローに話しかけました。その口ぶりからして、レイは彼女を知っているようでした。
「うん。そういえば、前に会ったときはちゃんとお話できなかったね」
フローは頭のてっぺんから足先までレイを観察して、大げさに首を捻りました。
「レイ、なんだか変わった? 前に見たときはもっと大きかったよ。今は身体と心の大きさが同じになっているみたいだね」
「身体と心……?」
「うん。前のレイは、心の時間は止まっているのに、身体の時間だけが進んでて不自然だった。今のほうがいいね!」
「心の時間……そういうことだったのね」
レイは自分の胸に手をあてました。アリーはすかさずフローに尋ねました。
「じゃあ、いつかはもとに戻る?」
「うん。レイが心から戻りたいと思えるようになればね。でも、それはまだまだみたい」
「やっぱり、そうなのね……」
レイは胸に手をあてたまま考えこんでいましたが、ふと顔をあげてフローのほうを見ました。
「ところで、どうしてフローがこんなところに? あの国はもう消えてしまったのに」
すると、ハルがポケットから一通の手紙をだして見せました。
「これ、ついさっき届いたんだ。バートから」
レイはその手紙を受けとると、封筒から中身をだして広げました。アリーも横から首を伸ばして覗きこみました。そこには、バートの性格からは考えられないくらい綺麗な字で、こう綴られていました。
──この手紙が届くより先に彼女が現れたら申し訳ない。実は、ついさっき俺の時計からフローが現れた。俺はてっきり、精霊は王国滅亡と同時に消えたと思いこんでいたのだが、どうやら王国の時間はまだ完全には止まっていないらしい。なぜなら、「俺が生きている」からだ。今頃とっくにくたばっているはずの俺が生きていられるのは、俺にかかった魔法がまだ解けきっていないかららしい。だが、四六時中こんな子供にまとわりつかれては、俺も迷惑だ。そういうわけで、フローには君のもとへ行ってもらうことにしたよ。銀の懐中時計さえあれば、フローはいつでも君に会える。ついでに俺の負担も減る。ちなみに、レイチェルの腕時計に移ることも可能らしいから、彼女にもそう伝えてくれ。
「私の時計も……?」
レイは腕をまくり、手首につけていた金色の腕輪──彼女曰く「腕時計」というそうです──の文字盤を上に向けました。すると、フローはすっと懐中時計の中に引っこみ、そして、彼女の腕時計からにゅっと顔を出しました。
「きゃあ!」
アリーとレイは驚いてのけぞりました。フローはにししっと歯を見せて笑いました。
「心配しなくていいよ。呼ばれない限り、勝手にはでてこないから。でも、あんまり放置されると私も退屈しちゃうんだよね。たまには遊んでよ」
「もちろんよ。また、あなたに会えるなんて思いもしなかった」
レイは嬉しそうに顔をほころばせました。一方のフローは、「そうだ!」と言ってすぽっと時計を抜けだし、くるりと一回転してから、床に着地しました。
「あのね、塔の中の物なんだけど、あれ、前の国王様が兵隊を連れていくついでに、場所を移動させちゃったんだよ。私、そのことも伝えておかなきゃと思って」
「兵隊?」
「うん。15年前にいっぱい、よその兵隊が入ってきたでしょ? 前の国王様と王妃様は、国を去るとき、ついでにあの兵隊も連れていって、全然違う時空に置いてきたの。『このまま家族と会えずじまいじゃ可哀想だから』って」
「あっ。じゃあ、兵士が3日間消息不明だったっていうのは、まさか……!」
アリーはキャリーが持ってきていた雑誌の記事を思いだしました。ということは、あの人形の兵士たちは皆、3日後に自分の家に帰っていたのです。
「よかった。じゃあ、全部解決していたのね」
「『人』はね。あとは物なんだ」
ハルが困ったように眉をよせました。
「フロー、もう一度だけ『全部』出してみてくれる?」
「いいよ」
フローは笑顔で指をぱちんと鳴らしました。すると、一瞬にしてアリーたちの周りにがらくたの山ができあがりました。ベッド、机、椅子などの家具のほか、洋服やアクセサリー、そのほか何に使うかわからないものがどっさりと積みあがっています。
やがて、部屋全体がミシミシと軋みはじめました。ギルが慌てて言いました。
「もういいよ! 早く戻して、床が抜けちゃうよ」
「はあい」
フローがそう答えた瞬間、がらくたはすぐに消えました。
「これはなんなの?」
レイが不思議そうに尋ねると、フローはすまして言いました。
「時計塔にあった国王様と王妃様の持ち物だよ。ふたりとも、一切合切私に押しつけて行っちゃったの。これ、どうする? あんまり長くは預かれないよ」
「そう、さっきもこう言われたんだよ」
ハルががっくりと肩を落として言いました。
「大切なものだから置いておきたいんだけど、残念ながら、僕にはどれが何なのかもわからなくって。姉さんなら、どう処理すべきかわかるかなと思ったんだけど……」
「時計塔の部屋が空っぽだったのは、そういうことだったのね」
レイは呆れたようにため息をつきました。
「あとでゆっくり見せてもらうわ。できれば家の外でね。まずはお待たせしているおば様のところへ戻りましょう」
おばさんとレイとハルは、長い間話をしていました。途中でおじさん、つまりギルのお父さんが帰ってきたのもあって、さらに話は長くなりました。暇になったアリーとギルは外に出て、ぼんやりと空を眺めていました。
「森へ行ったか?」
両手をポケットに入れ、外壁に背を預けていたギルがぽつりと言いました。
「ええ」
「どうだった?」
「つまらない場所になっていたわ。ただの、立ち入り禁止の荒地よ」
「そうかあ」
ギルはそれだけ言い、ふたりの間には沈黙が流れました。
「俺たちがいた場所のことを話しても、信じてくれる人は少ないだろうな」
「あなたのパパとママは信じてくれたじゃない」
「まあ、母さんはフローのこと知ってたしな。お前の家は?」
「『ふたりの言うことなら嘘だとは思わない』って」
「ふうん」
ギルは身体を起こして壁に背をつけるのをやめました。
「まあ、変なことばっかりだったもんな」
「うん。でも、無駄じゃなかったわ」
「俺もそう思う。けど、数年ぶりにアレックスに会ったら、こんなことになるなんてな」
それから、急いでつけくわえました。
「もちろん、今はアリーだっていうのはわかってるぜ」
それから、ちょっと笑って言いました。
「正直、兄さんがおかしくなったときは、俺、あの懐中時計のこと恨めしく思ったんだ。でも、今はあの時計を気に入ってる。あれのおかげで兄さんの本音が聞けた。兄さんも、これまでは自分のことほとんど話してくれなかったけど、最近はたくさん話をしてくれるんだ。今じゃフローにも会えるし、世界にひとつしかない最高の時計だよ」
「そうね」
アリーもギルを見て微笑みました。アリーも、あの帽子のことをとても気に入っていました。でも、アリーの帽子はレイの手元で消えてしまいました。不思議で不気味でかわいらしい赤帽子は、もう返ってはこないのです。
やがて月日は流れ、念願のクリスマスが近づいてきました。お店の人はひとり、またひとりと自分の故郷へと帰ってしまいました。そして今日、レイが旅立ってしまう日がきました。
「どうするか迷っていたんだけれど、今年はやっぱり父と姉のもとへ行くことにするわ。せっかく家族が仲直りしたのだもの。向こうの家族も私には大切な家族なの」
出発の日の朝、アリーはレイに呼ばれて、彼女の部屋を訪ねました。レイはすでに上着を着ていて、足元には大きな鞄を置いていました。
「これ、クリスマスには少し早いけど渡しておこうと思って。私は今日からいなくなってしまうから」
手渡されたのは、綺麗に包装ラッピングされた小さな箱でした。
アリーは慌てました。レイがクリスマスに家にいないと聞いていたので、レイに渡すプレゼントはレイが帰ってきてからにしようと部屋に置きっぱなしにしていたのです。取りに行こうとしましたが、レイは首を振りました。
「せっかくだから、帰ってきてからのお楽しみにするわ。先にこれを開けてみて」
そこでアリーは箱のリボンをほどき、蓋をとってみました。
箱の中を見た瞬間、アリーはびっくりして言葉を失いました。だってそこには、あるはずのないものが入っていたのです。
「どうして……!?」
入っていたのはなんと、赤いフェルト地のベレー帽でした。色も形も、あの帽子と完全に同じです。アリーは思わず裏側を確認しましたが、そこにはただ、白い裏地があるだけでした。
「これ、どうしたの? だって、前のはもう……」
そう、アリーがずっとかぶっていたレイの帽子は、レイの手の中で砂となって消えてしまったはずなのです。
「作ったの。あの帽子、アリーが気に入っていたみたいだったから」
レイは頰を赤くして言いました。
「はじめは買おうと思ってお店をあちこち回ったけれど、いい帽子は見つからなかったの。それで、あなたのお父様にお願いして、片っ端から赤い生地を見せてもらったの。それでもピンとくるものがなかったから、とうとう問屋さんにお願いして探してもらって、ようやくあの帽子とよく似た生地を見つけたの。記憶だけを頼りに作ったから完全に同じようにはできなかったけれど、どうかしら」
「すごい、すごいわ。レイ、ありがとう!」
アリーは喜びいさんで、レイの両手をとりました。実をいうと、アリーはあの帽子のことが惜しくて仕方がなかったのです。赤帽子がなくなってしまってからというもの、アリーはあのお気に入りの服を着ても楽しい気分になれず、クローゼットにしまいっぱなしになっていました。
「喜んでくれてよかった。いつか、あなたにはお礼がしたかったの」
レイはそっとベレー帽をアリーの頭に載せ、口元をほころばせました。
「似合ってる。やっぱり、あなたにはこの色が一番似合うわ。これが、本物の帽子だったらもっとよかったのだけれど」
「いいえ、前のよりずっといいわ」
この帽子は、レイがアリーのためだけに作ってくれたのです。長い間、口すら聞いてくれなかったレイが、アリーを友達と認め、こんな素敵なプレゼントまでくれたのです。
「私、この帽子をずっと大切にするわ。世界で一番素敵な、私だけの帽子だもの」
こうして、不思議な物語のきっかけとなった赤帽子は、かけがえのない思い出のつまった素晴らしい帽子となったのでした。
(おわり)
ここまでお読みいただきありがとうございました!
レイの過去については「レイと故郷の時計」(https://ncode.syosetu.com/n6638fb/)という小説で詳しく書いてありますので、よろしければこちらもどうぞ。
もしお気に召しましたら、感想等いただけますと嬉しいです。
とても長い小説にもかかわらず、お付き合いいただきありがとうございました(*^^*)
藤阪つづみ
(twitter : @TsuzumiFujisaka)




