部屋の中の生き物
その部屋は薄暗く、嫌な匂いがした。
そこらじゅうにティッシュやインスタント食品の空箱が転がっている。
部屋の押し入れの中からに生き物がぬっと顔を出した。身体は汚れきっており、胴に巻きつけられていた紙が異臭を放っていた。
生き物は押し入れの外の眩しさに顔をしかめた。暗い部屋だったが、それでも押し入れの中に比べればずっと明るかった。
ベージュ色のひだの向こうから、かすかに明るさが入ってくる。この馬鹿でかいひだを捲ればもっと明るく出来るのだということは、今の生き物の頭では考えもつかない。
彼は押し入れからすんなり出られたことで緊張していた。普段なら、すぐあの「よく動く大きいもの」がやってくる。生き物の住む世界の中で、動くものはあれだけだった。あれがやってくると、嫌な甲高い音と、痛い感覚が頭上から大量に降ってきて、また押し入れに押し込められる。しかし、時たま、その甲高い音と痛い感覚…と共に、胴を縛り付ける気持ち悪いものから解放され、先程よりも幾分ましなさっぱり快適なものに縛り直される時もあった。気持ち悪いものが体から外される感覚が、生き物は好きだった。その気持ち良さは、人間ならば、窮屈な靴下を脱いだ時に同じように感じるようなものだ。
でも、ヘンだ。生き物は思う。このように出て行ってあのうるさい音が聞こえなかったことはただの一度もないのに…。
生き物は恐る恐る外へと這っていった。這うよりも効率の良い移動手段があったが、ものすごく疲れるので今それを使う気力はない。生き物はとにかく疲れていた。そして、必要なものがあった。
とにかく部屋の中を這って回る。こんな風に押し入れの外にいるのが見つかったら、きっと「よく動く大きいもの」と、胸が悪くなるような匂いが近づき、頭ががくんと強制的にゆらされるのと共に、痛い感覚が降ってくる。見つかる前に、早く戻ってしまわなくては。
生き物は焦りに突き動かされ、必死で動き続けた。
三十分たっぷりかけて、部屋中を見て回った。そして途方にくれた。
生き物が欲しているものは無かった。この部屋のどこにも無かった。
生き物はまだ「よく動く大きいもの」と痛い感覚を恐れていた。
生き物は体を這わせて、押し入れに戻った。暗闇の中で、彼は少しだけ安心した。ここで大人しくしていれば全て安全だという固い信念が、長年の経験から彼の中に根強く居座っていた。
しかし、生き物は同時に言いようのない不安を感じていた。今回ばかりは事情が違う。何かが違っている。
甲高い音、あの匂い、良い匂いかと思って近づくと鼻を直接殴られるような強烈な悪臭に変化するあの匂いが、いつまでもやって来ない。痛い感覚も。いつまでたってもやって来ない。
生き物は少しうとうとした後、目を覚ました。かぎ慣れた、湿った匂いがする。胴を締め付けるものは濡れていて、いまだに気持ち悪い。いつまで経っても必要なものがやってこない。
生き物は今度こそ、痛い感覚が全身を襲うことを覚悟で泣いた。思い切り泣いた。声が枯れるまで泣いた。頬をつたって口の中に入ってくるものに、少しだけ心が慰められる。
生き物は泣き疲れ、もはやもう口を開かなくなった。今までだって泣いて得られたのは痛い感覚だけ。今は痛い感覚についてくる少々の利点がない分、もっと悪いのだ。
生き物は、もはや誰も自分を助けないことを悟った。
生き物はふらふらと押し入れの中から這い出した。もう痛い感覚を恐れる必要はないのかもしれない。
それよりも、もっと悪い事態が生き物の生命に近づいてきていた。生き物は未発達な心で危険を感じ取っていた。
怪物のように太くて背の高い茶色の障害物に何度か邪魔されながら、最も匂いが強い一角へと這っていった。そこに自分の欲するものがあるかもしれないと本能が告げていたのだ。
生き物はそこで、ひときわ白く輝くものを見つけた。
生き物の体の半分ぐらいの大きさで、つやつやと神々しいまでの光を放っている。生き物はこれを見かける度にいつかこれに触ってやろうと思っていたことを思い出した。これを見られる時は稀だった。最後に見たのは一体いつのことだろうか。これが存在していたことを、すっかり忘れてしまうところだった。もう今を逃せば、この「白いつやつや」に触れる日は二度と来ないかもしれないと思った。
生き物は一瞬のあいだ本来の目的を忘れ、純粋な好奇心から、「白いつやつや」に触った。つるつるとしている。そして心がほっとするような温かさ。
生き物の目に輝きが浮かんだ。やっとこれに触ることが出来た。面白い感覚だ
しかし、生き物はこの「白いつやつや」の本当の目的は触られることではないと見抜いていた。もっと何か新しいことが起こるはずなのだ。前に見たことがあるはずなのだ。あの痛い感覚を運ぶ「よく動く大きいもの」がこれで何かをしていたのを。
……生き物は「白いつやつや」を闇雲にいじくり回した。
十数分の格闘の末、生き物はついに目的を果たした。そして同時に、「はじめての感覚」の洗礼を受けた。
それは「白いつやつや」の上にあった。押せば動く箇所があり、生き物は自分の体重のすべてをかけて、そこを押したのだ。
そして、生き物の身体に、「はじめての感覚」がやってきた。やってきたというよりは、支配されたというのがもっと近かった。
それは今ついさっきまで生き物の心と体と心を支配していた全ての感覚――とてつもなく何かが必要だという感覚・胴についたものの気持ち悪い感覚・また過去に生き物が経験した全ての良い感覚――痛い感覚の後にたまによせられる温かい感覚・頭に何かをすりつけられる優しい感覚を、あざ笑うかのように、いとも簡単に薙ぎ払い、虐殺し、存在自体を震わせるような圧倒的な力で生き物の胸を支配した。
それは痛い感覚によく似ていた。しかし、これは痛い感覚とは違う。全然違うものだ。これは、何だ。これは何だ。
その感覚の、あまりに長く続く支配に耐えかねて、生き物は自分でも生まれて初めて聞くような激しい音を立てた。痛い感覚がひっきりなしに襲った時だって、こんな音を出したことはない。そんなことをしたら痛い感覚がさらに降ってくるだけだから。
生き物は甲高く、切羽詰まった、悲痛な音を立てた。生き物は床に倒れこみ、のたうちまわった。胸を押さえてひっきりなしに叫んだ。叫んだ。しかしやはり、助けは来なかった。
地獄のような数分間が過ぎた。生き物は息すら出来なかった。口を開けば悲鳴がもれるので、呼吸すらままならないのだ。
呻きながら、生き物はふと、自分の寝転がる床にさっきまで自分が求めていたものがあることに気が付いた。それはキラキラと輝いていた。触ると手に一部が吸い付き、くっついたままだった。何度も手にのせると、ぴちゃぴちゃと音がした。
生き物はそれを舐めた。のどの奥に甘いような感覚が広がる。
一瞬、生き物は胸の痛みを忘れた。床の上の「ぴちゃぴちゃしたもの」を生き物は全て吸い尽くした。その後も飽き足らず、「ぴちゃぴちゃ」を載せていた冷たい固いものを舐め続けた。
生き物は少し元気が出て、あるいは胸のこの感覚を取り除いてほしいと切羽詰まって、部屋の中を這いずりまわった。その泣き声は、はるか遠くまで響くほど大きかった。
カタン…と部屋の隅から小さな音がした。生き物は即座にそちらに目を向ける。部屋の両片隅にある、触り心地の悪いベージュの薄いひだのところから聞こえた。
生き物は触りたいと思っていた「白いつやつや」に触ったこと、自力で「ぴちゃぴちゃしたもの」を得たことで度胸がついたのか(その代償である「はじめての感覚」は最悪だったけれども)、そちらに近づいて行った。
良く見ると、ひだの裏から、茶色く固い角のようなものが見えている。生き物はひだをめくった。
それは、さらに大きな四角の一角だった。生き物の大きさと変わらない、大きな大きな四角。その中に、薄茶色のものが入っていた。それが生き物の目を引いたのは、それが動いていたことだ。小刻みに震えている。これも「動くもの」だ。
生き物は、首を傾げ、まじまじとそれを見た。よく見ると、小さな輝く黒い光が二つついていた。
その光を見た時、生き物は本能的に、薄茶色のそれが自分と同じ存在であると悟った。
生き物が恐る恐る薄茶色のものに触れると、柔らかい感覚がした。ふわふわとしている。生き物はすぐにこの感覚が気に入り、つねったり叩いたり撫でたりした。
しかし、「薄茶色のふわふわ」はあまり動かなかった。ただ黒い光で見つめてくるだけだった。生き物はどうしていいか分からなかった。「薄茶色のふわふわ」の方も、もし自分と同じなら、触り返すべきなのにそうしなかった。
ひょっとすると、これは、厳密には自分と同じではないのかもしれない。でも、同じの部分があるのだと、生き物はそう思った。
「薄茶色」が生き物の手に湿った感触を与えた時、生き物は、輝かしい、生まれてはじめての知的ひらめきの瞬間を得た。
それはもし生き物の生かされ方がごくまともだったならば、幼児用パズルで遊んでいる時に得たであろうものと同じ種類のひらめきだった。
(これは自分と同じ。だから、自分と同じものを欲しているのだ。「ぴちゃぴちゃ」を欲しているのだ)
生き物は、「薄茶色のふわふわ」をなんとか四角から出すと、先程の「白いつやつや」のところへ行った。
「白いつやつや」を目にすると、生き物の口から出る音が大きく激しくなった。あの「はじめての感覚」には耐えられない。
でも、この「薄茶色」と自分が生きる為には、やらなくてはならない。薄茶色の目の輝きに見つめられると、今までに感じたことのない勇気に満たされるのを生き物は感じた。
生き物は恐ろしさで目をつぶりながら、慎重に距離をとって上の部分を押す。
あの感覚はまた生き物を襲った。…しかし、先程のように胸に大きく降ってくるのではなくて、こまごまと腕、顔、足…と体中に降ってくるといった感じだった。距離をとっているからだった。
これなら、普段生き物が受けている痛い感覚と大差ない。
先程生き物がそうしたように、薄茶色のふわふわは、すぐによろよろと「ぴちゃぴちゃ」にしゃぶりついた。自分の仮説が正しかったのだと生き物は確信した。生き物も同じように、それを舐めた。
生き物の心の中に優しい満足感が生まれた。胸の上の強烈な痛い感覚が消えたわけではなかったが、そのさらに奥が満たされた。
生き物は白いものから十分な距離を取って何度も押した。その度に二つの生き物の命の渇きは満たされた。薄茶色の生き物の存在が、肌色の生き物の心を強くした。
……そして、「白いつるつる」から、どんなに押しても叩いても欲しいものが出なくなった。
肌色の生き物は疲れて座り込み、薄茶色の生き物を優しく撫ぜた。薄茶色の生き物も、親しげに手に身を寄せてくる。
これ以外にも、まだ必要なものがある。それを自分たちに与えなくてはいけない。肌色の生き物の胸には使命感が芽生えていた。生き物は一体どうしたらよいかと考えた。
あの存在だ。押し入れを開ける存在。「よく動く大きいもの」。嫌な匂いのする、痛い感覚を与える存在。
肌色の生き物にはない、黒く不気味な長いものがついていた。それが時たま見える黒い二つの光を―生命の光を覆い隠していた。好奇心にかられて「黒く長いもの」を触ってみると、不気味な見た目とは裏腹にとても気持ち良かった。さらさらとしていた――その後、いつもの痛い感覚が飛んできた。
あの存在。「よく動く大きいもの」。自分や「薄茶色」とは同じようで違うあの存在がここに現れると、押し入れの外が明るくなっている。
……あの眩しさ。二つの生き物たちに必要なのはあの眩しさだった。
生き物は、立ち上がり、あの存在が通る道を歩いていった。
どういう仕組みなのか、ここに立つとあれが消えるふしぎな場所へ行かなくては。あの存在が消えると、匂いも、甲高い音も消え、部屋には静寂が訪れる。平和が訪れる。
しかし今生き物が欲しいものはつかの間の平和の中にはなかった。
生き物は目的地に向かい、部屋の他の場所とは異なる、冷たい感触を足の裏に感じた時、妙な段差を感じた時、自分が禁忌を犯している恐怖におののいた。
自分は本来なら押し入れから一歩も出てはいけないはずだ。それがいまや、そこから一番遠い場所に来ている。あの存在がいつも消えていく場所――生き物が生きる世界の“最果て”――に自分が立つなんて。自分がここから消えることを望むなんて。あの存在に頼ることなしに、光を望むなんて。
しかし、生き物には薄茶色の仲間がいた。生まれて初めて自分と同じ存在を見つけたのだ。あの存在がもう何も与えてくれないのなら、自分で手に入れなくてはいけないのだ。
肌色の生き物は、あの存在が消えていく壁に体当たりをした。薄茶色の生き物はその様子を不思議そうに見ている。肌色の生き物は体当たりをした。体をぶつけると胸が痛む。「はじめての感覚」は「痛い感覚」と違ってなかなかひかない。しかし、止まるわけにはいかなかった。
何度目かの挑戦で、その壁は前触れもなく動いた。生き物は勢いあまって前につんのめる。
光が部屋の中に差し込む。そこには、見たことのないものがいた。
あの存在―「よく動く大きいもの」に似ているは違う。二つの黒い玉は、「薄茶色のふわふわ」と同じく、肌色の生き物をまっすぐに見つめた。「よく動く大きいもの」にも黒い二つの玉はついていたが、そこに光はなく、一度も生き物をまっすぐ見ようとはしなかった。
「タイヘン」
「…オクサン、イナインデスカ」
「ヒドイケガ…コレハナニ?ヤケドジャナイ」
理解の出来ない言葉が聞こえる。肌色の生き物は抱きしめられたのを感じた。目の前の「よく動く新しいもの」は「薄茶色」にも目を向けた。そのことを確認してから、ようやく肌色の生き物は体の力を抜き、自分を包む温かさに身を任せた。
勝利の感覚が生き物を満たした。
光だった。…生まれて初めて自分の力で得た光を目に焼き付けながら、幼児はゆっくり目を閉じた。
終