1-1 オータムホリデー(6)
夕方のバイトを終えて、アナベルはようやく帰路に着いた。ルーディアとアルベルトのことが気になってはいたが、バイト自体は普段通りにそつなくこなせた、と思う。アルベルト宅の駐車場には、ナイトハルトの車と、ドクター・ヘインズのミニバイクがあり、家には明かりがともっていた。
(…よかった、みんな帰ってる)
ほっとしながら、バイト先からレンタルしているミニバイクを、駐輪スペースに置くと、家の中へ入った。
「ただいまー」
と、言いながらアナベルはリビングへ入る。その声に、室内にいたリースとナイトハルトは視線を向ける。途端、二人は、仰天したように目を見開いた。
「あああ」
と、叫びながら、リースはソファから、転げるように逃れ、絨毯に尻餅をつく。
ナイトハルトは
「アナベル!」
と、鋭い叫び声を上げた。
いくらなんでも大袈裟な。一体、何なんだと思いつつ
「なんだよ」
と切り返すと、リースが絨毯にへたり込んだまま、彼女に指を突きつけ
「後ろだよ、後ろ!」
と、叫んだ。反射的に振り返ると、目の前に白い足が浮かんでいた。
目の前の光景に、アナベルは一瞬、後退った。
そのまま見上げると、足の主はルーディアだった。見慣れない飾り気のないワンピースを着て、眠ったまま宙に浮かんでいる。いつもより小さく見えた。
ルーディアが一瞬で移動出来たり、頭の中に直接話しかけたり出来るのは、アナベルも知っている。が、眠ったままで宙に浮くことができるとは知らなかった。
(…泣いてる?)
宙に浮いているのでよく見えないが、ルーディアは泣いているように見えた。そう、思ったらアナベルは何も考えず、目の前の白いワンピースに包まれたルーディアの足に手を伸ばし、つかんで、引き下げようとした。
「おまっ!!何…」
ナイトハルトの意味を成さない叫びが聞こえた、と思った瞬間、アナベルは見えない力で体を弾き飛ばされた。
ガチャン!と派手な音を立て、気がついたらリビングのガラステーブルにぶつけられていた。テーブルの上で酒瓶が倒れ、グラスとぶつかり合う。肩甲骨の上のあたりをしこたま打ったが、不思議と痛みは感じない。アナベルは肩を抑えて立ち上がると、ガラステーブルの上に飛び乗った。そして、そのまま、先ほどよりも高く飛んでいるルーディアに向かって、再び飛び上がる。アナベルに蹴られた反動で、ガラステーブルの上の酒瓶とグラスが、絨毯の上に転がり落ちた。強いアルコールの匂いが、一瞬で広がる。
ルーディアは目を開けると、自分に向かって跳んでくるアナベルの体を、再び弾き飛ばした。今度はソファの背中に叩きつけられ、アナベルの体はそのまま床へと、ころがり落ちた。
今やルーディアは、はっきりと目覚めていた。
「何よ!!…何よ!何よ!何よ!!」
ルーディアは、意味を成さない悲鳴を上げながら、両手で頭を押さえ、膝を丸めたまま上へ下へと飛び回る。
「こんにゃろ…」
言いながらアナベルは体を起こすと迅速に立ち上がり、悲鳴を上げながら逃げ回るルーディアを、捕まえるため、尚も飛び上がろうとした。その瞬間、背後から痛めた肩を強烈な力で引かれ、バランスを崩す。
「何っ!!?」
と、自分の肩をつかむ手を、振り払おうと肩を回すが、掴んだ人物はお構い無しだ。アナベルの体を反転させると、そのまま左頬を平手で強く叩いた。意外なほど、音が響いた。
「お前、バカか!!!」
見ると、ナイトハルトが激怒している。こんなに怒ったナイトハルトを見るのは初めてだった。というより、彼が怒っているのを見たこと自体が初めてだ。
打たれた頬を無意識のうちに手で覆い、呆然とアナベルは、怒るナイトハルトを見ていた。
音に驚いたのか、アナベルが殴られたことに驚いたのか、ルーディアも動き回るのをやめ、呆然と下界を見下ろしている。そして、そのままふいに意識を失って、床にへたり込んでいたリースの上へと落下した。
「うわああああ」
ルーディアは上手い具合にリースの上に着地して、リースは妙な具合に下敷きになった。
リースの上で、うつぶせに熟睡しているルーディアの横顔を見ながら、ナイトハルトは
「まったく、どこが『眠り姫』なんだか。聞いてた話と全然違うじゃねぇか。『じゃじゃ馬』通り越して『暴れ馬』だぜ、こいつ」
と、あきれたように毒づいた。
「話はいいから、たすけ…」
言いながらリースが、ルーディアの下から逃れ出ようと手を伸ばす。
「なんだよ、リース。役得だな」
頬を押さえたまま、アナベルはつまらなそうに呟いた。
その言葉にあきれたように
「お前ね…」
と、ナイトハルトが嘆息した。
***
リパウルとアルベルトがリビングに駆け込んだ時には、事態は収拾していた。
アナベルは絨毯に落ちた酒瓶とグラスを拾うと、キッチンへと行こうと入り口に向かい、そこに突っ立っている二人の姿に気がついた。
「あれ、そういえば、どこにいたの?」
と、言いつつも、返事を聞く気がないのか、そのままキッチンへと姿を消した。
ナイトハルトはルーディアの下敷きになっているリースに手を貸している。アナベルの声に反応してか、肩越しに振り返ると、入り口に立っている二人を一瞥する。
リパウルとアルベルトはルーディアが意識を失っているのを見てとると、急いで室内に駆け入った。アルベルトが当然のごとく、ルーディアを抱きかかえようとするのを、ナイトハルトは腕で制して
「俺が連れて下りる」
と、無表情に告げた。
とまどうアルベルトを無視して、ナイトハルトはルーディアを抱き上げると
「おい、リース。ちょっと地下まで案内しろ。お前、大体わかんだろ」
と、言った。それから、リパウルの方に向き直ると
「お前、ちょっとアナベルを診てやれ」
「え?」
「肩打ってんぞ」
それだけ言うと、リースを伴い地下へと消えた。入れ違いでアナベルが掃除用のタオルを手に戻ってくる。
「アナベル」
リパウルは、後ろめたさからやや遠慮がちにアナベルに声をかけると
「ん?」
と、屈託のない表情でアナベルは首をかしげた。
「その、何があったの?あなた、肩を打ったって…」
リパウルの言葉に、ああ、と短く返事をすると
「たいしたことないでしょ。別に痛くないし」
そういうアナベルの左頬が、うっすらと腫れている。
「アナベル、あなた、顔、どうしたの?」
顔もどこか打ったのだろうか。自分が地下でアルベルトに絡んでいる間に…リパウルは、自分の馬鹿さ加減がつくづく嫌になった。
「いや、これはナイトハルトにやられた」
と、こともなげに言う。
「ナイトハルトが?」
リビングに入ってソファやテーブルの位置を戻していたアルベルトも、動きを止めてアナベルの方を見る。
「いや、違うんだよ。私がむちゃ、やっちゃってたから」
と苦笑いすると、酒瓶を倒したあたりに行き、タオルでぬぐい始める。
「ドクター・ヘインズ、ルーディアのこと気になってるんだろ。私はいいから、行ってきなよ」
と、アナベルが言った。どうしようか、と思ったが、気になっていたのは確かだったので
「ありがとう、ごめんね」
と、お礼を告げるとリパウルは地下へと戻った。アナベルは、タオルを一旦、絨毯の上に置くと、アルベルトを手伝ってテーブルの位置を戻した。
「一体、何があったんだ?」
というアルベルトの問いに
「今、私も同じこと言おうとしてた…」
と、困ったようにアナベルは答えた。
***
地下に下りると、リースの指示で、ルーディアは無事にスリープポットに戻されていた。ナイトハルトは下りてきたリパウルを一瞥するが何も言わない。リースは気遣わしげな視線を向けたが、ルーディアのバイタルチェックをしている。言われなくてもやってくれているのがありがたい。
リパウルは空白の数分、ルーディアに何があったのか、記録用カメラの録画データを巻き戻す。データは映像のみで音は入らない。なので、安心して眠っているルーディアに、時々愚痴をこぼしたりしてしまうわけだが…。
(そうだ、さっきのあれ…)
考えると頭に血が上る。自分はどんな顔をしていたのだろうか。あのやりとりが、どんな風に映されていることやら…。
あの時は頭に血が上って、録画されているということは、意識からとんでいた。というより、正直、自分でも不可解なほど感情的になっていて、今思い返してみると、穴があったら入りたいほどである。
ほんの数分前の筈なのに、画面はモノクロの砂嵐が流れるばかりで、一向に室内の様子らしき場面に辿りつかない。いつのまにか背後からナイトハルトが覗き込んでいる。ナイトハルトは、画面を注視するリパウルの背中に向かって
「で、お前ら、一体何をやっていたわけ?」
と、冷たく尋ねる。
どういう言い方をされても反論できる立場ではなかったので、リパウルも冷然と
「ただのケンカよ」
と、告げる。ふーん、と聞き流しながら、リパウルの上気した首筋に視線を流す。
「どんなケンカをしてたんだか…」
その呟きに反応するように、リパウルはナイトハルトを睨みつけた。ナイトハルトは、睨みつけてくるリパウルを、馬鹿にしたように見下ろすと
「それ、何も映ってないんじゃね?おれ、上の様子見てくるわ」
と、言い捨てると、仮設研究室から出て行った。
ナイトハルトの言う通り、画面はずっとモノクロの砂嵐を映し続けていた。
***
リビングに戻ると、アナベルの姿もアルベルトの姿もなかった。
キッチンの方から声が聞こえる。夕食の話や、こぼしたお酒の話をしているのが聞こえ、なんとなくナイトハルトは脱力する。
「おい」
と、アナベルの後姿に声をかける。
「あ、ナイトハルト、ルーディアどう?」
アナベルはナイトハルトの方を向くと、そう尋ねた。見るとアナベルの左頬は、うっすらとあかく腫れていた。明日になったらもっと目立つかもしれない。
ナイトハルトは目をそらした。
「悪かった…」
「何が?」
「いや、そんなに腫れるほど殴るつもりじゃなかった。すまん…」
「いや、いいけど、えっ?腫れてんの?」
「…お前、肩もテーブルにぶつけてたけど、リパウルにちゃんと診せたのか?」
「ああ、なんでもないでしょ、こんなの」
言いながら、腕を回してみせる。
ナイトハルトは無言で、アナベルの痛めた方の肩を軽く叩いた。アナベルは声にならない悲鳴を上げる。
「ほらみろ」
少し苛ついたようにナイトハルトが舌打ちした。
「だから、リパウルに診ろって言ったんだ、使えない女だな」
その態度に、アルベルトが顔をしかめたが、反応したのはアナベルの方が早かった。
「おい、私がドクター・ヘインズにルーディアの様子をみてきたら、って言ったんだ。ドクター・ヘインズの立場からしたら当然だろ。私を引き合いにしてそんな言い方すんなよ」
と、アナベルは真顔でそういった。
思わぬ反論に、ナイトハルトは目を丸くした。車中でのリパウルの言葉を思い出す。
(なるほど、どっちもどっちだな)
…相思相愛で、うらやましいことだ。
「アルベルト。お前この、アナベルの毅然とした態度を少しは見習えよ」
言われたアルベルトは、肩をすくめてみせる。
「いや、だから、一々人を引き合いにださないでほしいんだけど…」
アナベルの方が、憮然となった。
「ほめてるんだぞ?」
「ほめられてる気がしないから言ってるんだ。でも、まあ確かに、アルベルトがもう少し毅然としてたら、今日は普段通りの休日を過ごせてたんだろうなぁとは思う」
「違いない」
ナイトハルトは手を打って爆笑した。アルベルトは苦い顔をするしかなかった。
***
結局、録画映像には何も映っていなかった。
リパウルはリースと共に、地下に残って記録データをチェックした。ある程度まで巻き戻して、早送りで見ると、意味のある映像が早回しで映し出された。それを追って見ていくと、リースが現れ、バイタルチェックをし始める。そこまでは映っていた。が、リパウルが現れ、リースが姿を消したあたりから映像が砂嵐になってしまう。
リースが現れる以前に巻き戻し、映像を選択拡大していくと、空だったポットに一瞬でルーディアの姿が現れる。トリック映像のようだ。記録の時間を調べると、サービスエリアでルーディアが姿を消した時間と、概ね合致する。そのまま見続けるが、やはり研究室にリパウル一人になると、同じように画面が砂嵐になった。
「だめだわ。なんだろう…」
言いながらも、少し安堵している自分がいる。
「ルーディアの暴走の影響でしょうか」
リースがゆっくりと言った。
「そうかもしれないけど…」
リースが何か言いたそうにリパウルを盗み見している…ことに、リパウルは気がついてはいたが、気が付かないフリをして
「とりあえず、この件は明日に持ち越し。今日はもう、やめましょう」
と、告げると、モニター前の椅子から立ち上がる。
***
「ごめんなさい、そういうわけで、映像用の記録データには何も映ってなくて…」
ナイトハルトが、そろそろ退散時だと、地下までリパウルを呼びに来て、そのまま二人で玄関に向かったところを、アルベルトが見送りにとかけつけた。
「そうか…」
というアルベルトは、がっかりしているのか、ほっとしているのか、よくわからない。そのまま一瞬沈黙が落ちる。
「あの…」
と言ったのは、二人同時だった。
「あ、先に…」
「いや、そっちこそ先に」
と譲り合って譲らない。端で聞いていたナイトハルトが
「いや、もうどっちでもいいだろう!」
と、大きな声を上げる。
「あー、その…、今日はありがとう。その、迷惑をかけたけど…本当に助かった。君とルーディアと…ナイトハルトと…」
「今、言うの忘れてただろう。てか、付け加えたろう?」
と、揶揄するナイトハルトのわき腹をリパウルは肘で小突いた。
「ううん、そんなことないと思う」
「え?」
「その…あなたと、あの人が話をしているのを見て…きっと、私たちが来なくても、アルベルトはあの人ときちんと話して、わかってもらえたんだろうなぁって。結局、私たちは騒がせただけで何もしなかった、って…」
「いや、そんなこともないけど…」
アルベルトの言葉をさえぎるようにリパウルは
「地下で…」
と切り出す。
「うん…」
「私、あの人のことで、ひどいことを言ったわ。ごめんなさい」
「リパウル…」
「帰りの車で少しだけナイトハルトにラ・クルスのことを聞いたの。あんな風に言う資格、私にはなかったのに、どうかしてた。ごめんなさい」
言いながら、リパウルは頭を下げた。アルベルトはほっとした。この彼女は、自分がよく知るリパウルだ。
「いや、俺も結構酷いことを言ってた気がするし…気にしないでもらえると、助かる」
と、答える。リパウルは無言で頷いた。
「じゃ、そろそろ帰るね」
「うん、ナイトハルトも…」
「はいはい、また明日」
二人が姿を消すまで見送っていたかったが、そうしない方がいいような気がして、アルベルトはそのまま扉を閉じた。アルベルトが閉じられたドアの向こうに姿を消すと、ナイトハルトはリパウルに向かって
「えらかったじゃないか」
と言った。リパウルは気分を害した風もなく
「なに、それ、えらそう」
と切り返す。
「ご褒美に、夕食を、ご馳走してやろうか?」
とう誘いに、リパウルは複雑な笑みを浮かべて首をかしげると
「うーん、やめとくわ。ミニバイクで来てるし」
と、断った。
「そうか、じゃあな」
と、特にこだわった風でもなく、手を上げリパウルに背を向けると、ナイトハルトは自分の車へと向かった。
ナイトハルトに誘われるのは、相当に久しぶりだと気がつく。丁度一年前の十一月に会って以来、彼はリパウルを誘わなくなった。自分たちのことを恋人同士だと思っている知人もいまだにいるようだったが、随分前から、いや、最初から自分たちがそんな風になれないことを、他ならぬリパウルとナイトハルトの二人が、一番よく分かっていた。
…さて、帰ってご飯を作るか、何か頼むか、買って帰るか。
思いながら、ミニバイクに手をかけると、背後から
「あ、よかった、まだ帰ってなかった」
というあわただしい声が聞こえる。アルベルトだ。
「どうしたの?」
と、リパウルが応じる。ナイトハルトも運転席の取っ手に手をかけたまま、振り返る。
「いや、アナベルに怒られて…よかったら、うちで夕食を食べていかないかな、と思って」
「え、だって…いいの?」
「アナベルが今、作ってくれてる。もちろん、君たちがよかったら…だけど」
いつのまにかナイトハルトが戻ってきている。
「おい」
「なんだ?」
「さっきはお前らがお先に合戦してるから、言えなかったんだが…」
「??」
「ルーディアの担当者とアナベルの下宿先の家主、お前らのとこのガキが駄目にした俺の酒を、お前ら俺に弁償しろよ、あれは高かった!!んだ」
と、脅した。
一瞬、何を言われているのか分からなかったが、そういえばやけにリビングがお酒臭いと思ったら、ルーディアがしでかしたのか、と青くなり
「ごめんなさい。ちゃんと埋め合わせする」
と、リパウルは手を合わせた。
リビングでの出来事に関して、アナベルからあらまし聞いていたアルベルトは、リパウルよりは事情を知っていた。苦笑いしながら
「今度、旨い酒が手に入ったらお前んちに持って行くよ」
と、請合った。
「よし、じゃ、せっかくのアナベルのご招待だ、うけますか」
と、言いながら、ナイトハルトは一人先に入る。リパウルとアルベルトはなんとなく顔を見合わせ、お互い同時に笑った。
「今度、ナイトハルトの好きな銘柄教えてよ」
「あいつ、基本、うまけりゃ何でもオッケーだけどな」
「その“うまい”の基準がわからないんじゃないの」
こんな風に話すのは、いつ以来だろう?
…本当はもうずっと、こんな風に彼と話しがしたかったのだと、笑いながらリパウルは思った。
【オータムホリデー;完】




