1-8 少女がうちにやって来た(6)
ルーディアの脱走劇が四度目を数えた日の夜、重篤な仕事病を患っている一部を除き、ほとんどの人が帰宅した生命技術総合研究所内で、エナ・クリックは地下へと降りるエレベーターに乗り込んだ。地下室に着くと、ルーディアの眠るポットへと近づく。
「ルーディア」
起きなければあきらめようと、エナは思っていた。ルーディアはエナの呼びかけに反応して瞼を開く。エナは無言でスイッチを押すと、ポットの蓋を開いた。ルーディアはゆっくりと体を起こした。
「こんにちは、エナ。久しぶりね」
「あなたはいつでも、こんにちはね」
「…あなたは、まだ、苦しんでいるのね」
エナの言葉には答えず、ルーディアは見えたままを言った。
「そう、まだ見えるのね。相変わらず昏いの?」
ルーディアは答えない。ただ、黙って悲しげな顔をした。
「こういう傷は消えることがないそうよ。忘れている時間があったり、薄くなることはあってもね」
ルーディアは無言で頷いた。
「ルーディア、あなたはここを出たいの?」
「わからない」
「本来あなたは、どこへ行こうと自由なの。私たちが勝手に、あなたはここで眠ることを選んだんだと、思っているだけで」
ルーディアは首を振った。
「リパウル、あの子、気にしてるでしょう。担当を外してくれって言ってない?」
「言ってるわね」
「あなたはあの子のことを、どれくらい知っているの?」
「知らないわ、何も」
「そうよね。あの子はとても可愛い子なの。そしてとても苦しんでいる。ねぇ、エナ。私、ずっとここで眠っていたけど、それに不満を感じたことはないけど、今頃になって、もう少し何かしたいって思うようになったの。何かを残したいって」
エナは黙って聞いていた。
「あなた達は私のためにたくさんのデータを残してくれている。でも、私は私で何かを成し遂げたいの。大それたことって思う?」
「大それたことをしたいわけじゃないでしょう」
「あなたの質問の答えになった?」
エナはため息をついた。
「文学的表現は苦手なの。あなたはここを出たいの?いたいの?」
「出ることは出来るのに、戻ることは出来ない。これが答えよ。私自身、どうにも出来ないの」
ルーディアも、また、ため息をついた。
「そう、わかったわ」
エナは短く応じた。
***
翌朝、エナはリパウルを執務室に呼んだ。リパウルは見るも無残なほど憔悴していた。
挨拶もそこそこに
「ルーディアのことですか?」
と、訊いてくる。
「そうよ」
「やはり私じゃ駄目なんです。カーチャに戻ってもらった方が…」
「ドクター・ヘインズ、まずこれを見て」
エナは有無を言わさず、壁がけのディスプレイに注意を向けるよう促した。
画面にはヒトの染色体の映像が幾つか並んでおり、テロメアの部分に染色が施してあった。画面に並ぶその画像を仔細に見つめ、リパウルは息を飲んだ。
「これは…」
「ルーディアのものです」
リパウルは咄嗟に返事が出来ない。
「当り前のことだけど、成長しない…外見が変わらないからと言って、細胞も老化しない…というわけではないのね」
やや、シニカルにエナが呟いた。
「カーチャにもこれを見せたの」
リパウルは反射的にエナの顔を見てしまう。
「ドクター・スタヴェビッチは弱いの。これを見せて以来、ルーディアと普通に接することが出来なくなってしまった」
…弱い、そうだろうか。リパウルは、カーチャの意外な情の深さに動転していた。いや、意外な、というのは自分の一方的な印象だ。おそらく、本来の彼女は、情の深い女性なのだろう。
「何故これを私に?」
「ルーディアはあなたを気に入っています。それでもあなたは、カーチャと同じ道を選択しますか?それに、ルーディアはこんなものに頼らずとも、私たちの頭の中を覗かなくても、自分のことをわかっている。私はそう思っています。…リパウル…」
ふいに、エナはリパウルの方を向くと
「人は皆、いつかは死ぬのよ」
と、はっきりと言った。
エナの口調は、リパウルを、又はエナ自身を納得させるためというより、むしろその事実に怒りを抱いているという印象を、聞いてたリパウルに与えた。
応える言葉を見つけることが出来ず、リパウルは俯く。エナは彼女の動揺には構わず
「アルベルト・シュライナー氏と連絡をとって。一度こちらに来ていただけないか、問い合わせて、日時は、氏の都合にあわせます。以上よ」
そういうと、エナはリパウルに背を向けた。退室の合図だ。
***
エナとアルベルトの面談は、結局、土曜日のことになった。その日通された応接室は、今まで通されていた応接室より、格段に広くて、置いてある調度類も実用性よりは、品格を重んじているような類のものばかりだった。アルベルトは扱いの違いに、密かに苦笑していた。
「初めまして、アルベルト・シュライナーさん。私はここの所長のエナ・クリックです。わざわざお越しいただいて申し訳ありません」
技研の所長は噂にたがわぬ美貌の持ち主だった。といっても、リパウルやナイトハルトを見慣れているアルベルトにとって、それほど強烈なインパクトはない。
「初めまして。アルベルト・シュライナーです」
…いつもお世話になっております、では妙だろうなと、内心で密かに呟く。
「これまでの非礼と、ご迷惑をおかけしたことも謝罪させていただきます」
と、謝罪の言葉を口にすると、エナはアルベルトに着座を勧める。
「率直に申し上げます。ルーディアは初期につくられた、開発型バイオロイドです。当時は特殊能力を持った人間を開発することを目的に作られていました。ルーディアはその最後の一体です」
「開発型?ですか」
バイオロイドの正確な歴史を知っているとはいえないが、それなら、自分の祖父母…は言い過ぎにしても、父母の世代の話なのでは?ルーディアはどうみても十二、三歳だ。
エナはそれには答えず
「恥ずかしい話ですが、彼女についてはその能力も含め、殆どわかっていませんし、我々の方でコントロールも出来ていません。今では彼女自身が自分をコントロールできていないようです。実を言えば、今まではそれほど活動的でもなかったのです」
コントロールできていないのだということは、アルベルトが一番よくわかっているかもしれない。
「原因は不明ですが、彼女はあなたの家の地下室に固執しています。何かマーカーのようなものがあるのかもしれません。彼女の能力自体、指向性が高いのが特徴の一つです」
「指向性ですか?」
「そうです、好き嫌いがある、といえばよいでしょうか」
「それはつまり」
「言いにくいのですが、再度同じことが起こらないと言い切れません」
この話がどこに向かうのか、アルベルトには検討もつかない。
「あの家をあきらめた方がいいということですか?」
「もしくは地下を技研に貸していただけないでしょうか?」
突拍子もない申し出だった。
「それは、どうでしょう。彼女の存在は公にしたくない…出来ない類なのでしょう。私の家の地下では技研のようには隠しきれません」
「無理は承知です」
「あの家ごと、技研で買い取るというのは?」
アルベルトの提案にエナは薄く微笑んだ。
「我々が購入することを、お望みですか?」
こちらは不動産販売者ではない。そう切り返されると考えてしまう。あの家はアルベルトにとっても、ようやく見つけた好物件だ。せいぜい技研に高く吹っかけて、もう少しよい物件を探すという手も使えなくはないが、自分にはそんな器量はないだろう。アルベルトは困ったようにため息をついた。
「いえ、そちらがどういう考えなのか、聞きたいだけです。譲りたいわけではありません」
「そう、困っているのはお互い様です。我々が言えた立場でないことは、承知しておりますが」
「仮に、地下をお貸しするとして、具体的にはどのようなプランを検討しておられるのですか?私は日中は不在です。彼女の様子を常時観察することは出来ません」
「シュライナー氏の許可が頂けるのであれば、うちの所員を一人つけます。無論そちらに常駐させるというわけではありません。日に最低一回は、様子を見に行かせる、くらいでしょうか?」
「そのくらいでいいのですか?」
「先ほども申し上げましたが、本来彼女はそれほど活動的ではないのです。技研では長期療養の必要な入院患者…それも、罹患していない患者、のような位置づけでした」
アルベルトには意外だった。アルベルトの知るルーディアは人間離れした能力を持ち、かつ、先ほどのクリック所長の話に嘘がないのであれば、年を取らない少女なのだ。そんな位置づけでよいのだろうか?
「無論、地下をお借りする分の対価はお支払いいたしますし、派遣する所員も、十分信頼できる人物を選定いたします。こちらの選定した人物が、シュライナーさんの意に沿わない者である場合には、交代させることも可能です。家を一部なりとも開放していただくのですから」
「それは…」
「この場で返答を頂きたいわけはありません、そちらにもご都合がおありでしょう」
「いえ、その…」
先ほどまで落ち着いて要領よく応対していたアルベルトだったが、ここにきて妙に歯切れが悪くなってしまう。
「そうですね、その、私は行きがかり上事情を知っています。今、こうして説明も頂けました。ですが、仮に私以外の第三者が、あの家に寄宿するとして、それは可能でしょうか?」
「どなたか、そういう人がおありで?」
考えてみればありそうな話だ。エナは密かにリパウルに同情し、自分が同情したことに驚いた。
「そうですね。まだ、確定ではありませんが」
「口の堅い人物でしょうか?」
「言うなといわれている事を守れないほど分別がない人物ではない、としか、私の判断ですが」
アルベルトの言葉にエナは少し首を傾げると
「女性ですか?」
と、意外なことを訊いてくる。
彼女がアルベルトのプライベートに関心を持つとも思われない。美貌の所長は、女性の方が、口が軽いと見做しているのだろうか?苦笑と共に
「いえ、男性です。大学四年生になります。郷里の、知人の息子さんなのですが、今期、寮の抽選から外されてしまって、宿を貸せないかと考えております」
と答えると、エナは納得した風に頷いた。
「口の堅い人物ならば、問題ありません」
と、応じた。アルベルトは驚いた。どうやら生命技研の所長は、無理を承知で、本気であの地下をルーディアのために借りたいらしい。
エナとアルベルトが面談中、リパウルは地下でルーディアと過ごしていた。リパウルは、自分たちはまるで、大人の話し合いの結果を待つ子供たちの様だと、自嘲する。
エナの考えを最初に聞いた時には、あまりの突拍子のなさに驚いた。アルベルトが承知するとも思われない。彼は仕事のためにあの家を買ったのだ。賃貸経営をするつもりはないだろう。ルーディアは大笑いして喜んだが、リパウルは二の句が告げなかった。しかし、エナの提案以来、ルーディアの様子は落ち着いている。
ルーディアのポットの横で、しゃがみこみ、両手を頬に当てたまま、リパウルは何度目かのため息をついた。
「無理よ…アルベルトが承知するわけないわ」
「承知して欲しくなんでしょう?」
「そんなこと…ないわよ」
本当はそうなのかもしれない。自分でもよくわからなかった。
「あなたが引き受けなければ、別の誰かがやるだけよ」
ルーディアが見透かすようにささやいた。リパウルは頭に血が上るの感じた。もし、アルベルトが引き受けて、自分が担当から外されたら…考えたくもなかった。
「あ…あなたは、それでいいの?」
確か、よく見える人物以外は嫌だといっていたのはルーディアではなかったか。
「まあそうね。あなたがやってくれれば一番いいわね」
あっさりと認める。
「もう!」
「リパウル、私だって恐いの。寒いなと思って目を開くとあの地下室にいるのよ。いつもアルベルトが近くにいるとは限らないし、私の声が届くとも思えない」
「ルーディア…」
「一体なんなのかしら?ここには跳べないのに」
ルーディアはポットの中で膝を抱える。そうしていると、見た目のままの少女に見えた。
「外に、出たいの?」
「エナと同じ事を聞くのね。出たいと思ったことはないの、今までは。でも、今は少し興味があるのかも…」
「あなたにもわからないことがあるのね」
「あら、私、わからないことだらけよ。例えばどうしていつまでもこのままの姿なのかしら?なんで寝てばっかり?とか」
「本当に?」
「半分は本当で、半分は嘘ね」
ルーディアは穏やかに微笑んだ。リパウルは、その言葉の意味を訊きたかったが、笑顔で制された。
***
意外なことに、アルベルトはエナの提案を受け入れた。彼も、繰り返される不可解な体験から免れる唯一の確実な方法が、地下をルーディアに提供することだと、エナに説得されたのかもしれない。
アルベルトが引越しをする前に、地下の工事が技研によって行われた。地下に作業場を設けるはずだった彼のささやかなプランは、こうして潰えたわけだが、二階にもまだ、部屋はあったので、そちらで代用することにする。
おかしなことになったが、ルーディアと出会って…というより、彼女と遭遇してからというもの、奇妙な事が続いているので、幾分感覚がおかしくなっているのかもしれない。それに、アルベルトにとって、役得がないわけでもなかった。
アルベルトはその日、めずらしく仕事を定時に終えて、作業の状況を見に、新しい家へと足を運んだ。それほど住宅が密集した地域でもない。ルーディアのための計器が今日当たり設置されている筈だった。うちについてみると、今日の工事は終了しているようだったが、何名か作業員が残って残務をこなしていた。その中に白衣のドクター・ヘインズの姿を認めると、アルベルトは背後から声をかけた。
「リパウル」
呼ばれたリパウルは集中していたのか、びくりと肩を震わせて、恐る恐るといった態で、振り返った。
「お疲れ様、作業はどう?」
と、尋ねる。リパウルは頬にかかった髪を耳にかけながら
「あなたも、お疲れ様です。作業の方は、順調です。その、今日は、早いのね…」
直視を避けた眼鏡の向こうの上目遣いが、妙に可愛い。意識してやっているのではないだろうが、アルベルトはリパウルを抱きしめたくなった。が、そんな自分の妄想に、自分で苦笑する。
「工事の様子が気になったからね、それと…」
と、言いながらカバンから鍵を取り出し
「はい」
と、リパウルに差し出した。リパウルは首をかしげながら一旦受け取るが、渡された物の正体に気がつくと、アルベルトの手に押し返した。
「な、何?受け取れないわよ!」
リパウルの対応にアルベルトの方が困惑する。クリック所長との話で伝わっているはずだが?
「君、担当だろ?これは必要ない?」
恐る恐る問うてみる。リパウルは赤い顔をしたまま、合点がいったという表情で二、三度頷く。
「そ、そうね。ごめんなさい。どうかしてたわ」
言いながら、慌てて鍵を受け取った。
ここで笑ったら怒られるんだろうな、と思いながら、アルベルトはつい微笑んでしまう。
「何よ?!馬鹿だなって、思ってるんでしょ」
と、予想通り、やはり怒られてしまう。
「いや…」
可愛いなと思って…、という言葉をアルベルトはかろうじて飲み込んだ。
今はまだ、そう言っていい間柄ではない。が、いつか伝えられたら…と、そう思った。
【少女がうちにやってきた;完】




